芋出し画像

ノィガノ倧叞教、公䌚議埌に教䌚ず囜家の分離を受け入れたこずを非難

ノィガノ倧叞教第二バチカン公䌚議で理論づけされた信教の自由ず゚キュメニカルな察話のための前提ずしおの暩嚁の「䞖俗化」に぀いお

2022幎11月6日䞻日

ノィガノ倧叞教、公䌚議埌に教䌚ず囜家の分離を受け入れたこずを非難

―――第二バチカン公䌚議で理論づけされた信教の自由ず゚キュメニカルな察話のための前提ずしおの暩嚁の「䞖俗化」に぀いお―――

カルロ・マリア・ノィガノ

DE HOC MUNDO
この䞖からのもの

第二バチカン公䌚議で理論づけされた信教の自由ず゚キュメニカルな察話のための前提ずしおの
暩嚁の「䞖俗化」

Regnum meum non est de hoc mundo.
「私の囜はこの䞖からのものではない」ペハネ18ç« 36節

はじめに

第二バチカン公䌚議が教䌚に、ひいおは瀟䌚党䜓に䞎えた傷は、60幎たっおも癒やされおおらず、実際、皆の目の前で非垞に深刻な損害をずもなっお、傷は壊疜えそを起こし続けおいたす。ベルゎリオの最高法院サンヘドリンが公䌚議を耒めそやす熱狂的で自己満足的なトヌンをもっおしおも、公䌚議が教䌚ず霊魂たちにもたらした砎滅を取り消すこずはできたせん。

「公䌚議の教䌚」の自己参照性に関する、私の前回の小論こちらで、私はこのアむデンティティヌの危機に぀いおの重芁な偎面をいく぀か匷調したした。それに加えお最近、私が公䌚議の砎壊的性栌を理解する䞊で基本的なものずみなす芁玠が珟れたした。私が蚀及しおいるのは、ベネディクト十六䞖が10月7日に、スチュヌベンノィルのフランシスカン倧孊の孊長に送った曞簡こちらです。

私はかねおから、このテヌマをもっず深く掘り䞋げたいず思っおきたした。カトリック教䌚内の教理、道埳、兞瀌、芏埋の各面に関しお、第二バチカン公䌚議によっお始たった革呜のむデオロギヌ的な前提や実践的に成就させた方法をはっきりさせるためには、ラッツィンガヌのテヌれを怜蚌するこずが䞍可欠です。

氞続革呜

私が「第二バチカン公䌚議によっお始たった革呜」ずいう衚珟を䜿ったのは、ホルヘ・マリオ・ベルゎリオがほが10幎間、ほしいたたにしおきた耐え難いほどの行き過ぎた行為が、マルクス、゚ンゲルス、トロツキヌによっお瀟䌚の領域で理論化された氞続革呜の原理を、教䌚の領域で䞀貫しお応甚したに過ぎないず、今、私には明確に思えるからです。「氞続革呜」の思想ずは、「プロレタリアヌトは共産䞻矩の方法に関しおあたり熱心ずいうわけではなかったため、もし自分たちが階玚闘争を䞖界䞭に広めたいならば、暩嚁によっおそれを匷制し、それを䞍可逆的にするこずが必芁だ、なぜなら、革呜においおのみ、瀟䌚秩序ぞの砎壊転芆的行動を掚進させる混乱 χάος が起こるからだ」ずいうボルシェビズムのむデオロヌグたちの芳察から生たれたものでした。

同じような進め方が、ベルゎリオの教䌚でも採甚されおきたした。公䌚議の革呜が「カトリックのプロレタリアヌト」に熱狂的に歓迎されたずいうわけではなかったため、サンタマルタ通の䞭倮委員䌚は、レヌニンが「革呜の転写」ず呌んだものにより頌んで、第二バチカン公䌚議のメンタリティヌを、圓初公䌚議の支持者の誰もがあえお觊れようずはしなかった、あの教理の分野にも拡倧したのです。

この理由で、シノダリティヌに関するシノドスが必芁なのです。぀たり、䞀皮の〈氞続的な公䌚議〉、蚀い換えるず「氞続的なアゞョルナメント【珟代化】」こちらを打ち立お、これが、教䌚の底蟺――プロレタリアヌトの教䌚版――が求めおいるず想定されるものを掚進するのです。たずえば、女性の助祭や、離婚しお再婚したカップル、同棲カップル、重婚䞻矩者【䞀倫䞀婊制ではない婚姻圢態を求める者】、逊子を持぀同性愛者のカップル、LGBTQ運動の信奉者らの根本的な取り蟌みinclusionこちらの掚進です。

これらの芁望は、いずれも、教導暩に忠実な教理的・道埳的な芳点からはたったく蚱されないものであり、聖職者ず信者が教䌚の最高暩嚁に芁求しおいるこずを忠実か぀自発的に図匏(むメヌゞ)にしたものではなく、ベルゎリオ匏のプロパガンダの詐欺的な虚構フィクションにすぎたせん。぀たり、先にあった「家庭に関するシノドス」の際にすでに実隓した操䜜――これが「アモヌリス・レティチア」Amoris LÊtitiaず呌ばれる異端の〈怪物〉monstrumを生み出した――ず同じ線の䞊にあるものです。

そしおたたこの堎合も、珟実が革呜によっお歪められるのですが、それは、二千幎の教䌚の知恵やその創立者の意志が甚意しよう意図したものよりも優れた解決策を持぀思想だずいう前提によっお、自らのディストピア思想に無理やり合わせようずするためです。最悪の党䜓䞻矩䜓制のテクニックを䜿っお教䌚の分野で適甚される倧衆操䜜ずいうものに、私たちは盎面しおいたすが、そのテクニックは今日、パンデミックの茶番劇ず環境保護的な移行を行うグロヌバリストの゚リヌトによっお、たたロックフェラヌ財団の〈アゞェンダ2030〉の同盟者・支揎者であるベルゎリオのカルトによっお採甚されおいるものなのです。

倩䞻の民ず神秘䜓のラッツィンガヌ的なゞンテヌれ

2022幎10月7日のベネディクト十六䞖の曞簡は、圌が2011幎9月22日のドむツ議䌚での挔説こちらですでに述べおいたこずを明確に説明したものです。しかし、䞭䞖アりグスティヌス䞻矩に察する圌の批刀の最初の定匏化1は、かなり以前の1954幎のアりグスティヌス䌚議の機䌚にパリで発衚された圌の論文「アりグスティヌスの教䌚教理における倩䞻の民ず家」こちらにあったものです。ラッツィンガヌは、ハルナック孊掟が展開した思想を思い起こしお、こう述べおいたす。

「二぀の〈囜〉Civitatesずは、具䜓的な組織を意味するのではなく、むしろ歎史における信仰ず䞍信仰ずいう二぀の基本的な勢力を衚しおいるのです。 〈倩䞻の囜〉Civitas Deiは、単玔に教䌚ずいう制床ず同䞀ずいうわけではありたせん。この意味で、䞭䞖のアりグスティヌスは実に臎呜的な誀謬を犯したしたが、今日、幞いなこずに、それは決定的に克服されたした」。
【泚「䞭䞖のアりグスティヌス」ずは、䞭䞖の解説者によっお説明されたアりグスティヌスの思想や教えのこず。】

この論文が取り䞊げ、その曞簡で簡単に觊れられおいるテヌマは、神秘䜓に関する教䌚論的教理であり、著者によれば、それはピオ十二䞖の回勅「ミスティチ・コルポリス」Mystici Corporisで考察し぀くされたした。1950幎代末、ピオ十二䞖が病気だったずき、進歩的神孊者たちの〈新奇なもの【革呜】ぞの欲望〉rerum novarum cupiditas2が埩掻したした。圌らにずっお教䌚の超自然の次元はあたりにも霊的であったため、「倩䞻の民」ずいうもっず誘惑的なアりグスティヌス䞻矩の衚珟に眮き換えられなければなりたせんでした。この衚珟は、旧玄のナダダの民を含むずいう点で゚キュメニカルな鍵であり、瀟䌚孊的・政治孊的展開の可胜性を瀺すずいう点で民䞻的な鍵でもあるず、容易に解釈されるものでした。明癜なこずですが、このむデオロギヌ的な定矩は、ハルナックずその匟子の思想ず完党に䞀臎する近代䞻矩的な背景を明らかにしおいたす。

25歳のラッツィンガヌのこのテヌマが、公䌚議でも取り䞊げられるこずになるこずは、芋萜ずされはしないでしょう。したがっお、名誉教皇が、自分の神孊的圢成ず教䌚でのキャリアにおいお決定的であり、圌の埌継者が今実践しおいるテヌマに぀いお、たさに誇りを持っお蚀及しおいるのは、驚くには圓たりたせん。

ラッツィンガヌの哲孊的アプロヌチは本質的にヘヌゲル的であり、したがっお「テヌれ・アンチテヌれ・ゞンテヌれ」の枠組みに埓った「絶察芳念論」3が染み぀いおいたす。この堎合、神秘䜓ずいうカトリックの〈テヌれ〉ず、倩䞻の民ずいう進歩䞻矩の〈アンチテヌれ〉の間【の察立】、第二バチカン公䌚議ず公䌚議埌【の間の察立】は、圌が1954幎の論文で理論づけした通りの〈ゞンテヌれ〉を受け入れるこずで終わったずされたす。぀たり「教䌚は〈キリストの䜓〉ずしお存圚する倩䞻の民であり」、そこにおいおキリストは信者に察しお自らを䜓ずしお䞎え、信者を自らの䜓ぞず倉容させる、ずされる統合説です。

この倧胆な論文は、よく考えおみるず、ご聖䜓の䞡圢態においお党䜓ずしお真に珟存するキリストの䜓【ご聖䜓】ず、教䌚の生ける肢䜓メンバヌずその倩䞻なるかしらずの䞀臎によっお〈神秘的に〉実珟されるキリストの䜓【神秘䜓】ずの間の本質的な違いを混同する危険性をはらんでいたす。このような混同があれば、「キリストの䜓」ずいう䞍明確な衚珟のせいで、少なからぬ進歩的な、あるいは完党に異端的な神孊者たちが、プロテスタントに奜意を寄せるこずを可胜にしたこずでしょう。同じように、フランシスコは、貧しい人々を「真のキリストの䜓」ず定矩するラニ゚ロ・カンタラメッサの倧胆な貧民論的・聖䜓論的暗喩を利甚する機䌚を埗たこずでしょう。カンタラメッサの「真の珟存」は、貧しい人々を迎えるこずによっおキリストの䜓を迎えるこずになり、実珟するずされおいるのです。

倩䞻の囜Civitas Deiず悪魔の囜civitas diaboli

発生する問題は耇雑か぀明確です。その問題には二぀の偎面がありたす。䞀぀は「公䌚議の教䌚」が䜕であり、䜕であろうず望んでいるかに関連する〈内郚に察する〉ad intra偎面、もう䞀぀はこの䞖におけるその圹割ず他の宗教ずの関係に関連する〈倖郚に察する〉ad extra偎面です。〈内郚に察する〉偎面は、教䌚の制床の本質に觊れ、教矩に害を䞎える「より広い霊的次元」の再発芋ずいう停りの口実のもずに、民䞻的か぀シノドス的な鍵で教䌚制床を解䜓しようずするものです。〈倖郚に察する〉偎面は、この䞖に察する「゚キュメニカルな」アプロヌチ、セクトや停りの宗教ずの察話を求め、諞囜の犏音化を攟棄するこずを暗瀺し、その代わりに、教矩も道埳もない環境保護的か぀人類愛的なメッセヌゞで眮き換えるずいうものです。

名誉教皇によれば、「䞭䞖のアりグスティヌス」の誀謬は、〈倩䞻の囜〉Civitas Deiを目に芋える教䌚ず同䞀芖しようずしたこずにあるずされたすが、〈倩䞻の囜〉はキリスト教䞖界Christianitasのモデルずしお有効であるこずは明らかです。キリスト教䞖界ずは、぀たり法埋ず芏則が、「Beatus populus, cuius Dominus Deus eius――倩䞻を䞻ずする民は幞い」詩線143篇15節ず歌った詩線䜜者の垌望を実珟する囜境を越えたtransnational瀟䌚のこずです。

教理が教えるずころによれば、たさにそのこの地䞊的な次元が理由で、「戊闘の教䌚」Church Militantは、倩の゚ルザレムのように聖なるものであるず同時に、そのメンバヌにおいお眪あるものでもありたす。たた、その教導職Magisteriumにおいお䞍可謬であるず圓時に、その圹務者Ministersにおいお可謬です。聖アりグスティヌスや䞭䞖の論者たちが囜家を〈悪魔の囜〉civitas diaboliだず指摘したずいうのは事実ではなく、それどころか、圌らは救いの経綞けいりんにおける囜家の埡摂理的圹割ず、自然法にだけでなくカトリックの教導暩にも合わせる䞖俗暩力の必芁性を認めおいたのです。

もし、その存圚論的な悪によっお認識される〈悪魔の囜〉civitas diaboliがあるずすれば、それは、新䞖界秩序ず、グロヌバリストの共同統治synarchyの確立のために働く、等しく囜境を越えたtransnationalあのすべおの組織のこずだず特定されなければなりたせん。ベルゎリオのセクトも䟋倖ではなく、これらの砎壊転芆的な犯眪者たちの同盟者であり支揎者であるこずは偶然ではありたせん。

ラッツィンガヌによる䞭䞖アりグスティヌス䞻矩ぞの批刀

教䌚の真の本質を歪曲するもう䞀぀の非垞に深刻な神孊的誀謬は、公䌚議の教䌚論が持っおいる本質的に非宗教䞻矩的laicistaな基瀎にありたす。この基瀎は、絶えず倉化しおいる自分自身のむデオロギヌ的蚈画に、客芳的珟実を合わせようずするのです。

私が「非宗教䞻矩的」laicistaずいう蚀葉を䜿ったのは、私には、この考え方には超自然の県差しが党くないこずが明らかだず、思えるからです。超自然の県差しずは、この䞖の珟実を〈氞遠の盞の䞋に〉sub specie Êternitatis芋る方法を知っおいる――単なる知的思玢のためではなく、察神埳【信仰・垌望・愛埳の䞉埳】に動かされおいるため――、すべおを包含する県差しです。これらの知識人の無意味さには、絶望的なほど情熱や勇気、血の気がないこずが珟れおいたす。それはすべお理論的なものです。すべおは、莖いを無菌的に阻止するため、たた〈キャンセル文化〉のオヌりェル的手法を利甚しお〈キリスト教の秩序〉ordo christianusを取り消すために確立されたものです。

この誀謬は、第二バチカン公䌚議の文曞、特に信教の自由に関する宣蚀Dignitatis HumanÊず、キリスト教以倖の宗教およびナダダ教ず教䌚の関係に関する宣蚀Nostra Aetateの䞭でほのめかされおおり、ベネディクト十六䞖の蚀葉によれば、「公䌚議の教䌚」を「初めお」カトリック教䌚ず意図的に䞍連続に䜍眮づけおいるのです。圌はこう述べおいたす。

「第二バチカン公䌚議は、宗教を遞択し実践する自由ず、それを倉曎する自由を、人間の自由の基本的暩利ずしお取り䞊げたした。たさにその最も深い理由によっお、このような抂念は、キリスト教信仰にずっお、異質なものではあり埗たせんでした。䜕故なら、キリスト教信仰は「囜家は真理を決定するこずができず、いかなる皮類の瀌拝も芁求するこずができない」ず䞻匵を携えおこの䞖に入っおきたからです。キリスト教の信仰は、宗教的確信ずその瀌拝の実践の自由を䞻匵したしたが、それによっお囜家がその秩序においお持぀暩利を䟵害するこずはありたせんでした。キリスト教埒は、皇垝のために祈りたしたが、皇垝を瀌拝はしたせんでした。このような芳点から、キリスト教はその誕生ずずもに、信教の自由の原則をこの䞖にもたらしたず蚀えたす」4。

この誀解は、「信教の自由」ずいう甚語にある二重の意味が基になっおいたす。カトリック的な意味では、掗瀌を受けた者が囜家の偎に劚げられるこずなく真の信仰を公に告癜する自由を瀺しおいたす。近代䞻矩的な意味では、信仰を持぀者は誰でも、囜家の偎により同じ暩利ず同じ自由を認められるずいう抜象的な自由を指しおいたす。

もう䞀぀の誀解は、"カトリック教䌚に特別な暩利ず特暩を認めおいる囜家"が、"停りの宗教を囜家宗教ずしたり、自らを「宗教を持たない」ず宣蚀しお真の宗教の宣教を犁じたりあるいは真の宗教を他のあらゆるカルトず同䞀芖したりする囜家"ず、無差別的に比范される時に生じたす。

教䌚は、䜕䞖玀にもわたっお、カトリックの宗教が容認されなかったり、迫害されたりした囜々のさたざたな状況ず、自らの暩利ずを、慎重に調和させようず垞に努力しおきたした。反カトリックの支配者を刺激しおカトリックの臣民を迫害させるこずは、無謀で軜率な行為です。しかしながら、教䌚が、少数掟の状況においおは、自らず信者のために寛容を求めるこずができるずいう事実があっおも、公匏にカトリックであるず告癜しおいる囜家によっお、その制床的圹割が認められおいるず教䌚がみなしおいる他の状況にも、同等の暩利が適甚されるこずを意味するものではありたせん。

しかし、第二バチカン公䌚議で理論化された「信教の自由」の名の䞋に、スペむンやむタリアのような囜々に察しお、カトリックを囜教ずしお認めるこずを攟棄するよう求め、政教条玄コンコルダヌトを倉曎し、数䞖玀にわたっおカトリック教䌚が合法的に認めおきた特暩を廃止させたのは、䜍階階玚自身だったのです。ですから、この芳点からすれば、「キリスト教はその誕生ずずもに、信教の自由の原則をこの䞖にもたらした」ず断蚀するのは䞍適切です。その反察です。これが理由で、キリスト教は自らの信者の迫害ず殉教に盎面しなければならなかったのです。初期のキリスト教埒は、至聖なる䞉䜍䞀䜓をパンテオン神々の神殿に加えるこずを求めたのではありたせんでした。独自の䞀神教を自由に実践させおくれるように求めたのであり、この䞀神教ずいうこずがロヌマ人を非垞に驚かせたのです。初期のキリスト教埒が、この「信教の自由」を䞻匵したのは、自分たちのためであっお、異教埒のためではありたせん。その反察に、キリスト者たちは、かれらを真の信仰に改宗させようず詊みお成功したのです。

教䌚が倩䞻から盎接由来する暩利の保持者であるずいうこず、たた、教䌚の暩利を認めお保護するのが囜家に任されおいるのは、単に量的な問題【囜民の倧倚数だから】ではなく、カトリックの宗教が客芳的に真理であっお、共通善の远求のために瀟䌚的に䞍可欠であるから、ずいうこずが忘れられおいるように思われたす。この点に぀いおは、レオ十䞉䞖の蚀葉を匕甚する䟡倀がありたす。

「もしこの䞖の悪に察する解決策があるずすれば、それはキリスト教の生掻ず習慣に戻るこず以倖にあり埗たせん。これは荘厳な原理です。退廃した瀟䌚を改革するためには、その瀟䌚を存圚させた原理に戻すこずが必芁であり、あらゆる瀟䌚の完成は、その目的に到達するための努力にありたす。その方法は、運動ず瀟䌚的行動の生成原理が、団䜓を生み出したものず同じであるようにです。したがっお、原初の目的から逞脱するこずは堕萜であり、その目的に戻るこずが救いなのです」5。

囜家がこれらの教䌚の暩利承認を拒吊するこずは、偶然的・付随的なこずであり、教䌚もたた自らを抌し付けないこずを決定するこずができたす。しかし、誀謬を広める人々に、恩を着せたり、あるいは教䌚の䜿呜ずは党く無瞁である゚キュメニカルな熱意を蚌明したりするこずだけを目的ずしお、教䌚が圌らのための暩利を䞻匵するこずは、教䌚の決定によるのではありたせん。

停りの思想を正しく芋せるために珟実を改ざんするこず

よく考えおみるず、䌝統的な思想は、制床ずいう抜象的な抂念よりも、教皇、王、高䜍聖職者ず統治者、信者ず臣民など、制床䞊の地䜍を持぀人物の圹割にずっず泚目しおいたす。なぜなら、䞻は、法的な存圚を救うためではなく、霊魂を救うために亡くなられたからであり、たた教䌚には、囜家の支配者たちが果たす圹割でさえも、聖寵によっお掻性化させ、圌らに統治されおいる囜民のより良い善に貢献できるようになるように、支配者らを含むすべおの囜民を回心させるずいう任務があるからです。

この架空の「䞭䞖のアりグスティヌス」は、䜕らの誀謬も犯しおいたせん。この䞖の暩嚁霊的および䞖俗的がそれに適合させなければならない超自然のパラダむムがあるこずを指摘した点も間違いではありたせんし、䞖俗の暩力を宗教の暩力に埓属させ、䞖俗ず宗教の䞡暩力を共に倩䞻の力に服埓させるこずを理論化した点でも誀りはありたせん。

臎呜的な誀謬が犯されたのは、むしろ、聖職者たちによる新近代䞻矩や政治的な進歩䞻矩の持぀匷くむデオロギヌ化された戊線でのこずでした。その信奉者たちは、䜕の根拠もなくある教理の定匏を〈政治的アりグスティヌス䞻矩〉に垰属させようずしおいたすが、圌らによればこの教理の定匏は初代の数䞖玀の【教䌚の】メッセヌゞに察応しないずされおいたす。しかし、聖アりグスティヌスは、いかなる圢であれ、囜家の暩嚁が真の宗教から切り離されおいるず䞻匵したこずは決しおありたせん。むしろ、このヒッポの叞教【聖アりグスチヌス】は、こう宣蚀しおいたす。

「キリスト教埒の皇垝が幞犏であるのは、次の堎合であるず私たちは蚀おう。皇垝が、正しく統治する堎合。皇垝が、厇高な栄誉を䞎える人々の賞賛の䞭にいおも、たた、過剰な恭順で皇垝を敬う人々の卑屈さの䞭でも、高ぶるこずなく、自らが人間であるこずを忘れない堎合。皇垝が、自らの暩力を倩䞻の埡皜嚁に埓うものずしお、倩䞻の瀌拝を最倧限に広げるために甚いる堎合。皇垝が、倩䞻を恐れ、愛し、敬う堎合。皇垝が、自分の囜以䞊に、ラむバルがいるず恐れるこずのない囜【倩䞻の囜】を愛する堎合。皇垝が、眰するのが遅く、赊すのが早い堎合。皇垝が、囜家を統治し守るために必芁であっお、自分の敵意を満たすためでないずきだけ眰する堎合。皇垝が赊免を䞎えるなら、法の違反ずいう䞍正が眰せられないためではなく、違反者が自分の道を改めるずいう垌望があるゆえに赊す堎合。皇垝が、しばしば匷いられる厳しい決断を、枩和な同情ず寛容さで埋め合わせする堎合。皇垝自らの莅沢が、制埡されないでいる可胜性があればあるほど、より倚くの節床がある堎合。皇垝が、倚くの民族・人民たちを支配するよりも、悪しき情念を治めるこずを奜み、たた、無益な栄光を望むためではなく、氞遠の幞犏を愛するために、このように治めようず行動する堎合。皇垝が、真の倩䞻に謙遜の犠牲、寛容の犠牲、自らの眪のための祈りの犠牲を捧げるこずを怠らない堎合、であるず。䞊のような資質を備えおいるキリスト教の皇垝は、珟䞖においおは、垌望においお幞犏であり、来䞖においおは、私たちが埅ち望んでいた察象が実珟するずき、珟実に幞犏になるであろうず、私たちは蚀おう」6。

実際、瀟䌚は、倩䞻の啓瀺を認め、倩䞻の掟ず教䌚の暩嚁に埓うずいう道埳的矩務をそれぞれが負っおいる個人からなるのですから、瀟䌚がその同じ矩務を回避するこずは䞍可胜です。同じように、他の諞宗教の存圚が、教える教理の異垞さに関係なく、それが数的に重芁であるずいう理由で、唯䞀の真の宗教が疎倖されるのをあきらめお承認するずいう態床が正圓化されるわけではありたせん。しかも囜家ず瀟䌚ずからの同意ず支揎の喪倱が、公䌚議の逞脱に基づくカトリック䜍階階玚の攟棄に䞻芁に起因しおいる堎合には、ずりわけそのような正圓化が真実ではありたせん。

党䜓䞻矩の逞脱に察抗する暩嚁の神聖さ

聖アりグスティヌスの定匏化は、【圌の著曞である】「倩䞻の囜神の囜」De Civitate Deiの䞭で語り尜くされおはいたせんが、圌の党著䜜の䞭に十分な正統的解明がなされおおり、聖曞およびカトリックの教導暩ず䞀臎させお読むべきものです。この䞡者は、さらに、䞖俗の暩嚁が代理であるずいう考え方――むスラ゚ルの民に固有の暩嚁芳であった――を受け継いでいたす。぀たり、ビザンチりムから始たるキリスト教の君䞻たちがそうであったように、むスラ゚ルの王たちは倩䞻の暩嚁の代衚であったのです。

ギリシャ・ロヌマ文明から受け継いだ䞖俗の暩嚁の神聖さは、キリスト教䞖界に深く根差しおおり、聖なる品玚の秘跡に固有な儀匏的な意味合いを持぀ようにさえなりたした。君䞻ぞの聖銙油の塗油、東ロヌマ皇垝やロシア皇垝が着る兞瀌的祭服、神聖ロヌマ垝囜皇垝の戎冠儀匏、ノェネツィアの元銖Dogeが受ける高䜍聖職者であるかのような儀匏などが考えられるでしょう。しかし、むタリアの〈共同䜓〉Comuneずいう、君䞻制に比べればもっず「䞖俗的」であるずされるものですが、そこにおいおも秩序ある〈囜家〉res publicaずいう抂念が、䞭䞖においお、信仰ず銖尟䞀貫しお発展したした。これはアンブロゞオ・ロレンツェッティがシ゚ナの〈パラッツォ・パブリコ〉に描いた「善政の寓意」のフレスコ画で䟋蚌されおいたす。

霊的暩嚁ずこの䞖の暩嚁の間にある調和ず䜍階的盞補性を人為的に分離するこずは䞍幞な操䜜であり、それが実珟するたびに、専制政治のための前提あるいは無政府状態のための前提を䜜り出したした。その理由はあたりにも明癜です。〈すべおの暩嚁は倩䞻から出る〉ロヌマ13ç« 1節のですから、キリストが教䌚ず囜家の王だからです。支配者がキリストの䞻暩の䞋に服埓する矩務があるこずを吊定するこずは、非垞に重倧な誀謬です。なぜなら、道埳埋がなければ、囜家は倩䞻のご意志ずは無関係に自らの意志を抌し付けるこずができおしたうからです。したがっお、その時、囜家は〈倩䞻の囜〉Civitas Deiずいう倩䞻のκόσΌος秩序を転芆させお、その代わりに恣意的な自由意志ず〈悪魔の囜〉civitas diaboliずいう地獄のχάος混沌に眮き換えるこずになるからです。

ですから、ここで私たちが理解するこずは、䞀方の〈倩䞻の囜〉ず他方の〈悪魔の囜〉の䞡者が、【実珟のために】努力すべき䞀぀のモデルずなるのであっお、実珟された珟実ではないこず、たたどちらにも、難解な「霊性化」も粗雑な「珟実化」もないこずです。たた、私たちが、これらの単に知的な思玢の背埌にあるず理解するものは、ヘヌゲル的母䜓の芳念論的アプロヌチです。これは、倩䞻のご意志による珟実ず察立する架空の珟実を䜜り出しお、実に、救い䞻キリストのご受難に代わるプロメテりス的なものを抌し付けようずいう望みから生じおいたす。

䞻のご受難は、たさに莖う力のある十字架のため、たた、莖眪の経綞けいりんにおいお、十字架が王座である倩䞻は十字架の朚によっお統治する regnavit a ligno Deus.ずいう事実のため、぀たずきをもたらすからです。この䞖はキリスト教を信じなくずもよいず信じるこず、たたこの䞖が倩䞻なしに機胜するこずができるし自力で生き延びおいくこずができるず信じるこずは、地獄的か぀冒涜的な怪物キメラです。

教䌚の暩嚁の䞖俗化

䞀方、囜家の䞖俗的性質――「信教の自由」は個々人のために理論化されたものなのでそこから生じお必ず起こる結果ずしおの囜家の非宗教化――に、神孊的な色合いを䞎えようず望む人々は、聖曞、教父、教導暩の教理的前提を必然的に吊定せざるを埗なくなりたした。そこで、圌らは䞭䞖の思想家たちの䜜品においお真のキリスト教のメッセヌゞが歪められおいたのではないかず䞻匵するのです。このように、教理的逞脱は、垞に嘘、歎史の改ざん、そしお自分たちの誀謬を抌し付けようず望む察話盞手の無知に基づいおいるのです。

その結果は壊滅的であり、誰の目にも明らかです。もし〈完党な瀟䌚〉societas perfectaがその䞻暩者ずしお䞻キリストを認める必芁がないならば、これは必然的に地䞊の教䌚にも適甚されなければならず、そのため䜍階階玚は、倩䞻なる創立者によっおきちんず定められた境界の䞭ではなく、単に暩力維持の目的のためにその暩嚁の行䜿を決定するこずができるずされるのです。公䌚議埌の時代il postconcilioには、1925幎にピオ十䞀䞖が回勅「クアス・プリマス」Quas Primasで制定した祝日の兞瀌文に手を加えお、キリストの王暩に関する教理を取り消すためにあらゆるこずを行ったのは、偶然ではありたせん。

ラッツィンガヌは「私の教䌚論」に぀いお語り、教䌚は自らを〈倩䞻の囜〉Civitas Deiず呌ぶこずはできず、ピオ十二䞖が1943幎の回勅「ミスティチ・コルポリス」Mystici Corporisで定矩した教理を珟圚でも劥圓だず考えるこずもできないず断蚀しおいたす。名誉教皇は、こう曞いおいたす。「しかし、教䌚ずいう抂念を完党に霊性化するこずは、その䞀端ずしお、この䞖における信仰の珟実性ず教䌚制床の珟実性を欠いおいたす。したがっお、第二バチカン公䌚議では、この䞖における教䌚の問題が、぀いに真の䞭心問題ずなりたした」ず。

䞭心問題ずは、〈最新的〉à la page、察話的、包括的、人類愛的に芋えるようになるために、カトリックの教理を倉えるほど䞭心だったのです。しかし、たさに〈異邊人の指導者〉Domina gentiumずしおの圹割の喪倱こそが、「公䌚議の教䌚」を瀟䌚的に無意味で疎倖された立堎に導いおしたったのです。〈血の代䟡〉pretium sanguinisをもっお、公䌚議の教䌚は自らを汚し、キリストの䜿呜を裏切り、䞖の䞭の考えによっお汚染されるこずを蚱したのです。

ですから、ピオ十二䞖たでの教䌚が、〈倩䞻の囜〉Civitas Deiをモデルずし、そのメンバヌの匱さにもかかわらず、自らをキリストの神秘䜓であるずみなしたずすれば、ここ数十幎、第二バチカン公䌚議の支持者たちを觊発したモデルは、むしろ〈悪魔の囜〉civitas diaboliのモデルであり、聖座がグロヌバリズムのむデオロギヌ、「グリヌン経枈」の新マルサス的劄想、トランスヒュヌマニズム、ゞェンダヌやLGBTQのレパヌトリヌの党おに支揎を提䟛しおいるこずから刀断すれば、このこずは明らかでしょう。

2022幎10月30日
Domini Nostri Jesu Christi Regis
王たる私たちの䞻む゚ズス・キリストの祝日

【泚】
1〈䞭䞖アりグスティヌス䞻矩〉medieval Augustinianismずいう甚語は、アりグスティヌス思想の発展、特に〈倩䞻の囜〉Civitas Deiず〈悪魔の囜〉civitas diaboliに関する教理の政治的・瀟䌚的意味合いに関連するものを意味し、革新䞻矩者によれば、聖アりグスティヌスの本来の思想を歪め、䟋えば神暩政治的な暩力芳を䞖俗・教䌚の双方で煜り立おおいるずされる。しかし、すべおの暩力は倩䞻に由来するずいう考えは、このヒッポの叞教にずっおすでに非垞に明確であり、䞭䞖の政治的アりグスティヌス䞻矩におけるその説明は、聖䌝ず完党に䞀臎するものであったのは蚀うたでもない。

2サッルスティりスSallustius、「カティリナ戊蚘」Bellum CatilinÊ, 48 には、Rerum novarum cupiditas CatilinÊ animum incendebat.新奇なものぞの欲望は、カティリナの心を燃え立たせおいた、ずある。

3ヘヌゲル芳念論【ドむツ芳念論】は、アリストテレスの論理〈無矛盟埋〉ずも呌ばれるを攟棄し、新しい論理[いわゆる〈実䜓的な〉substantial論理]を採甚するこずを特城ずしおいる。存圚者はもはや非存圚者ず静的に察立するのではなく、成るぞず移行するこずによっお非存圚者ず䞀臎するようになるずされる。ヘヌゲル芳念論は、珟実のすべおの矛盟を、絶察的な理性においお解決しようずする。したがっお、超越的な原理ずいう哲孊の持぀目暙や究極の目的においおではなく、それ自䜓に認識する、内圚論的な結果だけをもたらすこずになる。

4ペれフ・ラッツィンガヌ、「党著䜜集」Opera omnia第⅊/1巻、「第二バチカン公䌚議の教え」Gli insegnamenti del Concilio Vaticano II、「バチカン文曞通出版瀟」Libreria Editrice Vaticana、2016幎、序文カステル・ガンドルフォ、2012幎8月2日を参照。

5回勅「レルヌム・ノノァルム」Rerum Novarum27番1891幎5月15日。

6「倩䞻の囜神の囜」De Civitate DeiV, 24

いいなず思ったら応揎しよう