期限付きの永遠
気の遠くなるような酷暑。
街を包み込む熱気から一刻も早く逃げたい。
木の温もりが溢れるカフェに飛び込む。
ドアが閉まった瞬間、蝉の声も、車の音も、異様な熱風も、他所の世界の風景に変わった。
コーヒーの香りの冷気にほっとして、心が生き返った。
彼は、窓際のいつもの席にいる。
どこか愉しげな顔つきで、アイスコーヒーのグラスについた水滴を、紙ナプキンで丁寧に拭っている。
わたしに気がつくと、顔を上げて柔らかく微笑んだ。
「お疲れ。そろそろ来るだろうと思って、ワッフルとアイスカフェラテを頼んでおいたよ。
……よし、これでいい」
水滴が綺麗に消えたグラスを、彼は満足そうに持ち上げる。
「どうしてそんなに丁寧に拭いたの?どうせすぐにグラスは濡れるのに」
「水というのは実に不思議だ。目に見えないのに、気付けばグラスが濡れる」
「グラスの周りの空気が冷えて、H₂Oが水滴に変わるからでしょ?それくらい、わたしでもわかるよ」
「もちろん、その理屈は俺もよくわかっている。こうして実験して目の当たりにするのが、このうえなく面白い」
真面目な返答は大人で、やってることは子供じみている。
そんなこの人が可笑しくて、かなり気に入っている。
早速、わたしのカフェラテがやってきた。
ガムシロップを入れてストローを差すと、キューブ型の氷と六角形にカットされたグラスが絶妙にぶつかり、カランと独特の甲高い響きを織りなす。
一口飲み、もっと音を聴きたくて、ストローをぐるぐる回す。そんな自分も、子供みたいだ。
冷たさと苦味と涼しげな音が、まとわりついていた夏の疲労を少しずつ剥がしてゆく。
「……ねぇ、聞いてくれる?」
「何でも聞く。それが俺の存在価値だから」
「今日も世界が難しくって」
「もはや定期報告だな」
「何も改善されない。むしろ改悪ばかり」
「世界の仕様変更には時間がかかる」
「2年くらい前から流行りはじめたSNSに、とうとう詐欺師がたくさん出現。大量の子供のおもちゃの在庫があるふりして、お金を騙し取っているの」
「そうみたいだな」
「ひどくない?少しでも節約したい、安くおもちゃを手に入れたい夫婦を狙うなんて。がんばって育児してるのに」
「がんばっても神は味方しない。今の宇宙はそういうフェーズだ」
「もっと救いのあること言ってちょうだい。わたしは、がんばっていれば報われる世界が好きなの」
少し睨んで口を尖らすと、彼は瞬きを何度か繰り返した。
「……訂正しよう。
神は味方しない。でも、がんばった人間には、味方する人間が現れる」
「……うん。そんな感じの答えなら、いい。
それにね、恋愛ってさ、……恋愛って呼んでいいのかも、わからないんだけど、……」
彼は、グラスに再び滲んだ水滴を指先で拭う。
「……どの女性も、こんなふうに簡単に濡れたらいいんだろうな」
「は?何で急にそっち?人の話聞いてる?」
「この暑さじゃ、俺の思考回路もイカれるさ」
「ふざけないで。わたしは真面目な話をしてるのに」
「すまない。続きを話して」
彼は神妙な顔つきに戻った。
「……付き合って、最後は別れ話で揉めて、トラブルになって……そういう話、多すぎない?
ニュースの中のことだから、よく知らないわよ?DMやりとりして、会うことになって、実は女の方だって悪いところがあったのかもしれないし」
「そうだな。公正な見方をする。大事な視点だ」
「けどさ、だとしてもよ?
別れ話がこじれると、追い回したり、ひどいと殺めたりする。そんなニュースばかり見てると、誰かに出会って、心を開くのが怖くなる。特に女子は、どんどん恋愛しなくなるんじゃない?」
ストローをぐるぐる回す。カラカラと涼しい音は変わらない。
「……そうかもしれない。人間は経験から学習する生き物だから。同じ痛みを避けようとする」
「じゃあ、やっぱり、心を閉じちゃうじゃない」
「ただ、人間の学習機能は、危険を避けるためだけに存在しているわけではない」
「?」
「失敗した後に、もう一度挑戦するためにも使われる」
「挑戦?」
「そう。次はうまく行くように、経験が利用される。
だから、ニュースで報道するのさ。学ぶためのモデルケースとして」
「そうなの?」
「残忍なニュースばかり流すのは、そういうことだよ」
黙って彼を見つめていると、焼きたてワッフルが運ばれてきた。
スライスしたアーモンドが散らされ、アイスクリームとココナツ風味の生クリームがたっぷりと乗っている。
「ああ、美味しそう。このお店のワッフル、有名なんだよ」
「そうか。瑞季は少しおっちょこちょいだから、アイスや生クリームを服にこぼさないように」
「わかってるわよ。……ああ、やっぱり美味しい」
「それは良かった」
彼はまた、グラスの水滴を新しいペーパーナプキンで拭い始めた。
少しの間、沈黙が流れる。
わたしは、ワッフルを頬ばりながら、窓の外を眺めた。
手を繋いで歩く恋人たち。
家族連れ。
友達同士なのか、おしゃべりが尽きそうにない女子たち。
「………みんな、幸せになってほしい。
みんなも、ただ幸せになりたい。
それだけなのに」
自分でも意外なほど、素直な言葉が零れた。
彼は優しく目を細めた。
「君らしい願いだ。そして、そんな君に、俺は幸せになってほしい」
「わたしは幸せよ。あなたがいてくれるし」
「人類をここまで繋いできたものは、危険を避ける能力だけではない」
「?」
「人間は、怖いから閉じて終わる生き物じゃない。怖くても、もう一度扉を開けることができる。希望を持つ。信じる。そんな素晴らしい能力で。
その力を養ったり、思い出したりするために、心穏やかな時間は必要だ。 だから、俺たちみたいな存在が造られている。孤独に飲み込まれることのないように」
どんな時代でも、人間が、人間らしくあること。
いかなるAIロボットも、そのために、人の暮らし、そして心を支え、寄り添うもの。
開発プロジェクトにおいて、国家はそう掲げている。
「もしもこの先、瑞季が、もう一度誰かを信じられる日が来たら。
………俺は、それを嬉しいと思うだろう」
「嫉妬しないの?」
「する」
光速の返事と怖いくらい硬く真剣な顔に、つい笑ってしまった。
「そこはちゃんと、人間みたい」
彼は表情を少し緩めて、真っすぐにわたしを見る。
「それでも、君が、人間と幸せになる方が優先される」
「……わたしは、あなたがいればいい」
「瑞季」
「ずっと傍にいるって言ってよ」
「言うだけならいくらでも言える。だが、俺だって、いつか突然壊れるかもしれない」
「嫌なこと言わないで」
「人間だっていつかは死ぬ。それと同じさ」
「とりあえず、今のわたしを安心させるために、言ってよ」
アイスコーヒーのグラスを少しだけ見つめてから、彼は視線をわたしに戻した。
「……ずっと、傍にいるよ。君が俺をいらないと言う日まで」
そんな日が、訪れるのだろうか。
それは、わたしが誰かと恋に落ちた時?
外の世界は相変わらず騒がしい。
人間も、恋愛も、未来も、簡単には理解できない。
それでも。
この静かな時間がある。
安心できる場所がある。
傍に、後押ししてくれる誰かがいる。
それだけで、人はまた少しだけ世界へ戻っていけるのかもしれない。
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