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『薄毛に困っている人への手順書』 記録No.001




「毎晩、この子の髪をとかしてください。
それだけで、あなたの髪は守られます」



薄毛に困っている人へ。

まず最初に言っておく。

生活習慣は関係ない。

睡眠。
ストレス。
食生活。
運動。

そんなものを改善したところで、抜ける時は抜ける。

夜の排水溝に張りついた髪の束を見たことがある人間だけが、この絶望を知っている。

僕は二十九歳の営業職だった。

朝、鏡を見る。

濡れた前髪の隙間から、白い地肌が覗いている。

ドライヤーで誤魔化す。
ワックスで立ち上げる。
角度を研究する。

でも会社のトイレの鏡は残酷だった。

蛍光灯は、隠していたものを全部暴く。

「あれ、最近ちょっと薄くなった?」

後輩に冗談っぽく言われたその日、僕は帰宅途中のドラッグストアで育毛剤を三本買った。

効果はなかった。

当然だ。

もう始まっていたから。



当時の僕の部屋は、ひどいものだった。

湿気臭いワンルーム。

閉め切ったカーテン。

床にはコンビニ弁当の容器。

洗っていない食器。

脱ぎ散らかしたスーツ。

風呂場の排水溝には、毎日抜け落ちた髪が絡みついていた。

帰宅する。

シャワーを浴びる。

髪が抜ける。

それを見る。

落ち込む。

寝る。

毎日その繰り返しだった。



人形をもらったのは、そんな頃だった。

駅前の喫煙所。

雨上がりの夜。

知らない男が、僕の隣に立っていた。

黒いコート。

年齢の分からない顔。

妙に穏やかな声だった。

「困っていますね」

僕は反射的に前髪を押さえた。

男は笑わなかった。

代わりに、小さな紙袋を差し出した。

「毎晩、この子の髪をとかしてください」

中には人形が入っていた。

少女の人形だった。

ただ、よくある可愛らしいものではない。

静かな顔をしていた。

生活感のない、妙に整った顔。

そして髪だけが異様に綺麗だった。

「それだけで、あなたは薄毛から解放されます」

「……宗教ですか?」

「いいえ」

男は静かに笑った。

「手順です」

その言葉だけを残して、男は去っていった。



正直、気味が悪かった。

でも捨てる気にもなれなかった。

僕は人形を棚に置いた。

その日はひどく疲れていた。

シャワーも浴びず、ベッドへ倒れ込む。

眠る直前。

暗い部屋の中で、人形の髪だけが妙に白く浮かんで見えた。



翌朝。

シャワーを浴びたあと、僕は排水溝を見て違和感を覚えた。

少ない。

抜け毛が。

いつもなら排水溝に絡みついているはずの髪が、今日はほとんど見当たらなかった。

気のせいかと思った。

でも翌日も、その翌日も、抜け毛は減っていった。

明らかに。

僕は毎晩、人形の髪をとかした。

ゆっくり。

丁寧に。

サラサラ、と櫛が通る音だけが部屋に響く。

不思議と、その時間だけは安心できた。

まるで、自分の髪が戻っていくみたいだった。



一ヶ月後。

営業成績は上がった。

人の目を見て話せるようになったからだ。

以前の僕は、会話中ずっと相手の視線を気にしていた。

頭頂部を見られている気がしていた。

でも今は違う。

堂々と歩ける。

笑える。

飲み会にも行ける。

そして彼女ができた。

「最近、雰囲気変わったよね」

そう言われた時、僕は本当に救われた気がした。

全部、人形のおかげだった。



営業成績は社内トップになった。

歩合も増えた。

僕は駅近のマンションへ引っ越した。

白い壁。

広いリビング。

間接照明。

ガラスのローテーブル。

以前の部屋とは何もかも違った。

床に落ちた髪を見つけて絶望することもない。

排水溝を見るのも怖くない。

人生は、ようやく普通になった。

寝室の棚には、あの人形が座っている。

今日も僕は、その髪をとかした。

サラサラ。

サラサラ。

まるで、本物の髪みたいだった。



ただ、一つだけ奇妙なことがあった。

彼女が、絶対に部屋へ来たがらないのだ。

「ごめん、今日はやめとく」

「なんか……また今度ね」

理由を聞いても曖昧だった。

けれど僕は深く考えなかった。

もう、悩みは消えていたから。

幸せだった。

人生がようやく始まった気がしていた。



その夜。

ベッドに入ったあと、ふと違和感がよぎった。

……あれ?

僕、いつ引っ越したんだっけ。

思い出そうとしても、記憶が妙に曖昧だった。

契約は?

荷造りは?

家具はいつ買った?

彼女とは、どこで出会った?

頭の奥に、ぬるい不安が広がっていく。

僕は起き上がり、人形を見た。

暗い部屋の中。

人形だけが、じっとこちらを見ている。

その髪は、妙に艶めいていた。

まるで今しがた、誰かの脂を吸ったみたいに。

そして、気づく。

そういえば。

最初の夜。

僕は人形をもらったあと、何をした?

記憶が曖昧だった。

シャワーを浴びた?

髪をとかした?

いや。

違う。

僕はそのまま寝たんじゃないか?

その瞬間。

棚の上で。

人形の口が、ゆっくり動いた気がした。



瞬間。

世界が剥がれ落ちた。

白い壁が消える。

間接照明が消える。

広い部屋が消える。

現れたのは、元のワンルームだった。

閉め切ったカーテン。

淀んだ空気。

コンビニ弁当の容器。

洗っていない食器。

脱ぎ散らかしたスーツ。

風呂場の排水溝に絡みつく大量の髪。

何も変わっていなかった。

最初から、ずっと。

僕は引っ越してなんかいない。

成功もしていない。

彼女もいない。

全部、人形が見せていた夢だった。

抜け毛が減ったんじゃない。

抜け落ちた髪が、消えていただけだ。

僕が幸福な夢を見ている間に。

棚の上の人形を見る。

暗闇の中で、じっとこちらを見ていた。

その口元から、黒い髪が数本だけ垂れている。

濡れたみたいに。

ゆっくり噛み潰されたみたいに。

僕は鏡を見た。

そこには、髪をほとんど失った僕がいた。

青白い頭皮。

痩せた頬。

濁った目。

時間を見る。

午前六時十二分。

人形をもらった翌朝だった。

たった一晩。

その一晩の夢の中で、僕は何ヶ月も幸福に生きていた。

営業で成功し。

愛され。

笑い。

未来を信じていた。

全部、夢だった。



そして最後に、僕は思い出す。

男は確かに言ったのだ。

「毎晩、この子の髪をとかしてください」

でも僕は。

最初の夜、その手順を怠った。

たった、それだけだった。


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白壁(shirokabe)|void404 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 こういう話を書き続けるには、 静かな時間が結構必要です。 もし、 この空気感をまた読みたいと思っていただけたら、 チップで支えてもらえると助かります。 次の話を書くために使わせてもらいます。