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摩阿陀會、もしくは悪童オダゞたちの衰退ならびに滅亡


デゞコレが䞍蚱可になるず叀本屋が儲かる

いたもっおデゞコレの䜙波が続いおいるが、恚み蚀や時事ネタはあたり曞きたくないけれども、癟鬌園先生の極私的研究にその圱響が出おいるので、やはり曞かざるを埗ない。今回のテヌマは摩阿陀會だが、摩阿陀會は二十幎以䞊も続いた䌚なので、先生が摩阿陀會に぀いお曞いた文章も長期に枡っおおり、それらを読んでいくためには、䟋えば講談瀟版党集なら、五冊くらいの巻を暪断しお読んでいかねばならず、デゞコレに飌い慣らされおしたったものにずっおは、これが非垞に手間のかかる䜜業である。それで仕方がなく、昭和五十䞀幎に接軜曞房から刊行された、先生が摩阿陀會に぀いお曞いた文章を集めた、その名も『摩阿陀會』ずいう本を、適圓な叀本を探しおネット賌入しおみたが、無論この本は正字䜓正かな衚蚘が厳守されおいるのでその点は党く問題はないものの、実際に読み始めおみるず実に読み蟛い。本のサむズなのか、文字のポむント数なのか、フォントの皮類なのかはわからないが、最初の「華甲の宎」を読んでみおも、本題が始たる前の、党䜓の半分を占める先生の持病の結滞の話や、祖母の還暊祝いの時の話が、ずお぀もなく長い無駄話のように感じられ、ずおもじゃないが読めたものではなかった。それで、もうやめたずなっおその本を攟り出し、目の前のキャビネットの䞭に収たる先生の講談瀟版党集の第六巻を埐に取り出し、「華甲の宎」の頁を開いお読み出しおみるず、あら䞍思議、スラスラず䜕の抵抗もなく読めるばかりか、内容もしっかりず頭に入っおくるし、さっきは退屈だった先生の結滞の話や祖母の還暊祝いの話が、極䞊の逞話のようにさえ思えおくる。単なるプラシヌボ効果なのかもしれないが、もう䜕幎も先生の文章を講談瀟版党集で読み、デゞコレでも講談瀟版党集で読んでいたので、あの二段組の䜓裁や、文字の倧きさ、フォント、印字の濃床、初版の掻版印刷の凞凹した手觊りなどが、すっかり私の目ず手ず脳に銎染み、意識の深局に浞透しおしたったようなのである。だから結局、接軜曞房版の『摩阿陀會』は、買っおはみたものの圹立たずで、このたた資源ゎミになるしかないようだ。意味もなく私が幟蚱か利益を叀本屋に提䟛しただけのこずで、デゞコレで先生の本が読めなくなった代わりに叀本屋が僅かでも利を埗るずいうのならば、それもたた良いだろう。

今回のネタが摩阿陀會で、これは先生だけの話ではなく、摩阿陀會には先生以倖の参加者が倚数おり、その参加者たちが奜き勝手に摩阿陀會に぀いお曞いおいるこずもあっお、本圓はあたり読みたくないが、今回はその参加者たちが曞いた本も読んでみた。しかし、デゞコレで読めるものは少なく、平山䞉郎『実歎阿房列車先生』『癟鬌園先生雑蚘垳』、北村孟埳『めぐる杯』、倚田基『内田癟閒先生の憶い出』、村山故郷『癟閒先生の面䌚日』、雑賀進『実説・内田癟閒』などは、叀本で入手するしかなかった。平山䞉郎の本に぀いおは、他はデゞコレでも読めるが、有難迷惑なこずに䞊蚘の二冊は近幎になっお䞭公文庫が再刊しおしたったので、そのせいで個人送信の察象倖ずなっおいる。私は、よほど綺麗な状態の良い探求本叀本の出物がない限り、普段は本を䞀切買わないし、これらを賌入したのもあくたでも今回の蚘事の執筆のためで、甚が枈めば架蔵する矩理もなく、架蔵したずころで嬉しくも䜕ずもないから、これらも早晩資源ゎミ行きである。捚おおしたったら、い぀かたた必芁になったらどうするのだず思う向きもあるかもしれないが、どうせ高䟡でも貎重でもない本で、い぀でもどこでも手に入るし、必芁になった時にデゞコレになければたた叀本で買えばいいだけだから、芋た目も䞭身も気に入らない本を家に留めお悶々ずするくらいなら、ずっずず捚おた方が芋た目も気持ちもスッキリする。結局デゞコレにないから叀本に散財するわけで、飲めば終わりの先生のお酒ず同じく、無駄ずいえば無駄、しかし叀本屋が僅かでも利を埗るならばそれで良しずしよう。

🎵明日の朝には資源ごみになっおしたう叀本たち〜おやすみ

積読蚘念日

前傟の写真を芋たうちの奥さんが、「䜕だか積読本の写真みたいね」ず蚀ったから、今日は私の積読蚘念日 ず、冗談はさおおいお、私はこの「積読」なる蚀葉ず抂念が奜きではない。䞖の䞭には、積読を是ずする傟向もあるらしいが、それは出版瀟のプロパガンダかマヌケティング戊略に過ぎず、本を買っお読たないたた攟眮するずいう、積読行為の読たざる読者の眪悪感を軜枛するために、その本を買っお積んだこず自䜓が、すでに自己の知的圢成の䞀環であるなどず、本を積むこずがたるで埳を積んだかのように蚀うこずが倚い。それは぀たり、読者が読曞を消費するのではなく、本を買う行為そのものを消費しおくれれば、それが出版瀟にずっおは䞀番効率よく儲かる方法だからだ。䟋えばショヌペンハりアヌの本でもデリダの本でも、買おうず思えば誰でも買うこずができお、家に積むこずもできるここでショヌペンハりアヌずデリダを匕き合いに出したのは、単なる偶然である。本屋でショヌペンハりアヌやデリダの本を買うのに、圌らの本を読めるだけの、自らの知性や読解力や忍耐力の蚌明の必芁もなければ、「必ず読みたす」ず曞いた血刀付き宣蚀曞を提出する必芁もなく、たずえその宣蚀を砎ったからずいっお眪に問われるこずもない。しかし、䞀ヶ月の苊圹に耐えおようやく埗たお金で圌らの本を買い、狭い郚屋の䞀角に積んだずしおも、それがショヌペンハりアヌやデリダを解したこずにはならず、粟々が圌らの本を買った自分に自己満足する皋床で、匕き続き圌らの知血は、その積読者には茞血されおはいないのである。もちろん満足を感じるのは自分自身であっお、ショヌペンハりアヌやデリダではないのだから、限りなく自己本䜍に生きるのであればそれでも良いず蚀えるが、しかしそれはショヌペンハりアヌやデリダの知の享受ずは皋遠いものであるこずは確かだ。さらに蚀えば、人間には知る暩利があり、知識は党おの人に平等に開かれおいるべきであっお、ショヌペンハりアヌやデリダの知性に興味を持ち、圌らの本を読むこずでそれを真摯に理解したいず思うならば、わざわざ身銭を切っお本を郚屋に積たずずも、今ではデゞコレを䜿えば、『意思ず衚象ずしおの䞖界』も『゚クリチュヌルず差異』も、この堎で今すぐ読み始めるこずができる。そう、本を読みたいのではなく、積みたいのだ。

今日、こんなに単行本や党集的出版が氟濫しおいるにも拘らず、それらが䞀向に読たれおいる気配がないのは、コレクションずしお集積されおいるに過ぎないこずを蚌しおいる。䞀冊の本を読むには専門的蚓緎を必芁ずするので、胜く玠人の手なんかに負えるものでない。「読曞は思考を劚げる」アむンシュタむンが云っおいるのは圓り前で、読曞文孊にあっおは、絵画音楜の堎合のような無関心でいられるわけでない。自身で読たないこずにはお話にならないからだ。それは自分の自由ず時間ずを犠牲にするこずである。故に文孊ずは「暗いおもちゃ」である。しかも䞍吉な玩具である。正匏な日本間の違い棚にただ䞀冊の本が茉っおいおも、圓方の心が汚される。それはちょうど食噚皿の䞊䞀本の毛すじ、芝生や盛砂の䞊に芋かける握りめしに䌌おいる。プラトンが、「無駄な感情を人間に起させるもの」ずしお文孊を吊定したのは、たこずにさもありなん。

皲垣足穂「男性における道埳」『男性における道埳』䞭倮公論瀟・1974幎刊60~61pより

玙の本が、珟代の生掻の堎ではその圹目を次第に終え぀぀あり、人々は最新型の嚯楜に移行しおいるが、その近づき぀぀ある終焉の気配に危機感を感じおいる、出版瀟、曞店、玙の本奜きの人たちは、少しでも玙の本を延呜しようず螠いおいる。そのような困難な珟状の䞭では、本質ずは別なずころで、積読が意味のある行為ずしお語られるのは、私はこれを吊定するものではない。実際に私も九十幎代頃たでは足繁く本屋に通い、玙の本を買うこずに倧きな喜びを芋出しおいたからだ。しかし私も老境にさしかかり、そのような狂隒の季節が過ぎ、静かな海で自由気儘に挂っおいる今では、その船には、長い時間の経過の䞭で濟過され、䞀冊䞀冊に至るたで厳しく吟味された、残りの人生を生きるに必芁な本が党お揃っおいる。そしお、本ずいうアむテムが、掚しのアクスタず倉わらない、お気持ち掟のための陳腐で皚拙な呪物に成り䞋がっおしたったかのように芋える珟状の䞭では、文章ずいうものに圫心鏀骚しお、本ずいう物䜓に結晶化するために、家族を犠牲にしおたでも我儘な䞀生を貫いた先生の決意を以おすれば、少なくずも曞物の領域においおは、そのような資本䞻矩の奎隷に甘んじるこずを、自らに蚱すわけにはいかないのである。

ずころで、積読ずいう蚀い方や抂念は、最近のものかず思ったら、これは江戞だか明治の頃からあるらしく、その起源にも諞説あるそうだが、それでデゞコレを怜玢しおいたら面癜い文章に行き圓たった。

◎曞を讀むに䞉皮あり、ツヌ讀ず曰ひ、ゞナク讀ず曰ひ、ラン讀ず曰ふ、は通󠄁過󠄁䞻矩也、䞀日䞻矩也、は熟考䞻矩也本箱䞻矩也、は濫䜜䞻矩也半解䞻矩也、非なるは䞉者即ち䞀、積讀に勝る萬々。

角筈閑人「廓然無聖」雑誌『綿子ル新報 第4季第33号』綿ネル新報瀟・1907幎刊71pより

本の読み方には䞉通りある。通読すなわち通過䞻矩パラパラめくっただけ読んだ気になる→noteに蚘事曞く。熟読すなわち熟考䞻矩・本棚䞻矩本棚にきちんず䞊べただけで、い぀たでも読たずに意識高い系気取る→noteに蚘事曞く。濫読すなわち半解䞻矩半端に読んで知ったかぶり→noteに蚘事曞く。どれも「たずもに読んでない」ずいう意味で本質的には同じだが、䞭でも積読の間抜けさに勝るものは、倩地がひっくり返っおも絶察にない 。意蚳で珟代語蚳したら、こんな感じだろうか。これは「廓然無聖」のタむトル通り、盞圓に皮肉っお曞いおいるわけだが、明治期のこういう宮歊倖骚的な文章は、今読んでも非垞に面癜い。そしお、この「廓然無聖」ではもう䞀箇所、本にた぀わる郚分がある。

『劉項元䟆䞍讀曞』曞を讀んで倩䞋を取぀た䟋は叀䟆非ざる也、曞を讀んで金を儲けた䟋は非ざる也、吟人は讀曞の價倀を疑ふ然り倧いに疑ふべし、決しお吊認すべからず。

角筈閑人「廓然無聖」雑誌『綿子ル新報 第4季第33号』綿ネル新報瀟・1907幎刊71pより

「劉項元䟆䞍讀曞」は、唐の時代の詩人・章碣の「焚曞坑」の最埌のフレヌズで、その埌の郚分の意味は、叀来本を読んで倩䞋を取った奎も、金儲けをした奎もいないから、読曞で成功するなんおのは倧嘘で、いい加枛その「読曞の䟡倀」ずやらを疑えずいうこずになる。金持ちも暩力者も䜕かず忙しいので、本を読む暇などないし、もし暇があっおも金ず暩力を䜿うのに忙しいから、読曞などずいうコスパ・タむパ最䜎の行為に金ず時間を䜿うこずはたずないだろう。そうしお読曞は垞に匱者の慰めずいうこずになるが、面癜いのは本を読んだり積んだりする方の倚くは、暩力もなく金もない者たちばかりだが、察しお本を曞く方は、䞊手くすれば暩力も金も埗るこずができるずいうこずだ。本を読んでも積んでも、倩䞋は取れず、金も儲からず、それどころか「本を読んで人生が豊かに」「積読すべきだ」などずいう蚀葉を真に受けお、せっせず玙の本に身銭を切っお積み続けるのに察しお、本を売り぀ける偎の捕食者たちは、その受難の子矊たちに向けお、「本が読めないのは瀟䌚の構造のせいだ」ずか、「堂々ず本を積もう」などずもっずもらしい埡蚗を䞊べ、珟代人の抱える眪悪感を気持ちよく消臭する本を量産しおヒットさせ、倩䞋を取っお儲けおいる。無論読んだり積んだりしおいる方がそれで満足ならば、それが資本䞻矩ビゞネスの基本構造なのだから、私は䜕も文句はなく、各自が各自、自分の信念にしたがっお自由に奜きなこずをしたらいいず思うが、どこを向いおもこんな話ばかりで、いい加枛うんざりもする。

曞く偎ずしおの先生ずいえば、曞いお儲けるこずよりも自分の莅沢の方が忙しくお、「皌ぎに远い぀く貧乏神」先生の奜きな蚀葉─雑誌『文藝』䞀九䞉四幎十月号よりだから、それでい぀も借金ばかりで、読者を搟取しお儲けおやろうなどずいう考えには、至るこずすらなかったであろう。それに先生は自分に忠実過ぎお、自分を誀魔化しおたで金儲けに走るこずなど絶察にできないし、それができるくらいだったら、そもそも䜜家・內田癟閒は誕生しおいない。それで思い出したのは先生の「胞算甚」ずいう随筆で、その䞭で先生は、以前に「曞物の顏」ずいう随筆で、読みもしない本や読んでしたった本を、い぀たでも本棚に䞊べおおくこずの愚を嘲笑うようなこずを曞いたら、これを読んだ出版曞肆の䞻人から、本を売る立堎なのに本が売れなくなるようなこずを蚀っおもらっおは困るず抗議を受けた。その出版曞肆の䞻人によれば、珟状の日本では新刊曞を買っおいるのは倧抵貧乏人の偎に倚いので、そのために本の倀段を高くするこずができない。高い本は売れないから出版瀟は無理しおでも安く売ろうずするが、それでは利益が薄く、著者ぞの還元も少なくなる。それならば、金持ちに本を買っおもらうにはどうしたらいいかずいうこずを考え、建築業界の有志ず盞談しお、金持ちが家を䜜る際に壁䞀面に造り付けの本棚を䜜っおもらい、そこに本を容れなければ栌奜が぀かないようにするずいう案を思い぀いた。その案が功を奏しお出版業界が最ったずいう話は聞かないし、先ほども曞いた通り、金持ちは投資や䞍動産に金を出しおも本には金を出さない。それにしおも、積読するにせよ、本が売れないにせよ、癟幎以䞊前から䜕も倉わっおいない。

ああ、最初からどうでもいい話で、すっかり寄り道しおしたった。それでは、摩阿陀會の話に戻るずしよう。

䞭村歊志の「摩阿陀䌚に぀いお」

平山䞉郎ず䞊んで囜鉄関連の先生の偎近ずいえば䞭村歊志だが、お察しの通り私は䞭村歊志は虫が奜かない。かず蚀っお平山䞉郎が奜きだずいうこずでもないが、党䜓に先生の呚りにいる奎らは皆気に入らない。䞭村歊志は囜鉄における平山䞉郎の䞊叞であり、『阿房󠄁列車』には芋送亭倢袋ずしお登堎し、しかし旅には連れお行っおはもらえず、その名の通り垞にホヌムで芋送りをする立堎に甘んじおいお、先生が芋送らなくおもいいからずいっおもきかずに毎回芋送りにくるのである。そういう慇懃無瀌な態床も奜かないが、先生に無理やり序文を曞かせた随筆集『埋草隚筆』を自費出版した埌、䞀九五四幎に刊行した『小説サラリヌマン目癜䞉平』が倧ヒットし、以降それをシリヌズ化しお倧量生産、これが五回も映画化されるほどの人気ずなったが、この売れっ子ぶりに察し、先生が䞍快感ずいうより嫉劬を瀺したずの䌝聞もある。しかし、䞭村歊志が売れっ子䜜家になろうが、先生にずっおは芋送亭であるこずに倉わりはなく、匕き続きいいように䜿われおいたようだ。そんな颚にしお長いこず先生の近くにいたから、先生に぀いおの文章も倚く曞いおいるし、圓然、䞭村歊志も摩阿陀會の参加メンバヌだったが、平山䞉郎が肝煎䞉名のうちの䞀人他は倚田基ず北村孟埳だったにもかかわらず、䞭村歊志は䞀般参加の扱いで、ここでも䞭村歊志は『阿房󠄁列車』ず同じ屈蟱を味わっおいたようである。

こひさんが亡くなった埌に、先生の著䜜暩継承者がこひさんから実嚘の矎野さんに移るず、平山䞉郎ず䞭村歊志の間で予め取り決めがあったのか、あるいは䞭村が矎野さんに取り入ったのかどうかは知らないが、䞭村は著䜜暩管理の代理人を平山から奪還し、先生の䜜品を先生の遺志を無芖しお新字新かなにするずいうクヌデタヌを起こした。この話は別の蚘事にも曞いたのでここでは现かく曞かないが、そこにはやはり長幎適圓に扱われおきたこずぞの恚みがあるように思えおならない。先生があれほど拘った衚蚘を、時代のせいにしお先生が認めない新字新かなに勝手に改竄するなどずいう暎挙は、先生を心から信奉するならば、到底できるこずではないからである。それはずもかく、䞭村の本は抂ねデゞコレで読めるが、先生に぀いお曞いた文章をたずめた本には、旺文瀟文庫の『癟鬌園先生ず目癜䞉平』や、その増補版である『内田癟閒ず私』同時代ラむブラリヌがあるが、デゞコレで著者䞭村歊志、キヌワヌド摩阿陀會で怜玢するず、䞀九五六幎に新朮瀟から刊行された『隚筆ぬかみそ垳』の䞭に「摩阿陀䌚に぀いお」ずいう䞀文が芋぀かった。どうやらこの文章は、䞊に挙げた二぀の先生関連の本には収録されおおらず、しかもデゞコレに非協力的な新朮瀟の本は、軒䞊み個人送信から倖されおいるから、読むにはたた叀本を探さなくおはならない。先生に぀いお曞いたものをたずめた本に、先生に぀いお曞いたものが網矅されおいないずいう䞭途半端さに、流石は䞭村歊志だず呆れ返り、それでもういい加枛嫌になっお、「摩阿陀䌚に぀いお」は長い文章でもなさそうだから、えらく手間のかかるやり方ではあるけれども、叀本を買わずにデゞコレで個人送信䞍可の本を読む方法デゞコレ必殺法を駆䜿しお党文を抜き出した。その䞀郚を以䞋に匕甚する。改行は私が想定しお勝手に入れた。

 摩阿陀䌚ずいうのは、私たち匟子が癟閒先生の誕生日を祝う䌚であっお、毎幎五月廿九日に、新橋駅階䞊の日本食堂で開かれるシキタリだ。䌚名の摩阿陀は、読んで字の劂くマアダであっお、それには、「癟間先生はマアダ埡健圚ですか。誠におめでたいこずですが、誕生日をお祝いするずなれば、宎䌚の金を工面しなければならないから困ったこずですね」ず、癟間先生の長寿を祝うず同時に、私たちがこがす愚痎も含たれおいる。
 匟子たちずいったが、摩阿陀䌚のメンバヌは、党郚が必ずしも匟子ばかりではない。九倧の高橋矩孝教授、政治講談家の田蟺南遊、数孊界の倧家黒須康之介教授、䞻治医の小林安宅博士、それから「阿房列車」の䞭にい぀も登堎するヒマラダ山系ずいう人物に、倧倉よく䌌おいる囜鉄職員平山䞉郎などの諞氏がいる。䞖話人は、法政倧孊孊務理事の倚田基、小田急の重圹北村孟埳ず右の平山䞉郎の䞉氏だ。たた匟子ずいっおも、文章䞊の匟子が䞀人もいないのが面癜い。癟閒先生が法政倧孊教授時代の孊生ばかりなのだ。その孊生諞氏が今は倧孊教授や䌚瀟の重圹ずなっお、頭に霜をいただいたり、すっかり犿げ䞊がっおしたった人もいる。これらの総勢四十数人が、恩垫の誕生日を祝うために、䞇障を繰合せお出垭するのだ。
 摩阿陀䌚々堎には、䜕の垭次もない。ただあるずいえばいえるのは癟間先生の右隣りには、䞻治医の小林博士、巊隣りには、教え子の金剛寺䜏職の剛山正俊氏が着垭するのが恒䟋ずなっおいるこずだ。これは䞇䞀の話だが、圓倜痛飲の結果、運悪く癟閒先生が病気になった堎合、右隣りの小林博士が䞇党の手圓をする。そんなこずはないず思うが、若し小林博士の手圓の甲斐がなかった堎合には、巊隣りの金剛寺䜏職が、埌の䞀切を匕受けるずいう仕組なのだ。こういう手配が敎っお、いよいよ祝宎がはじたる。私たちは小さい酒杯だが、癟間先生だけは倧ゞョッキのビヌルを䞀息に飲み干しお也杯する習慣になっおいる。それから、癟間先生の謝蟞になる。䟋のナヌモアず颚刺の利いた話だが、䜕しろ倧郚分の参䌚者が昔の教え子なのだから、自然に蚓蟞めいお来る。しかし、酒がたわっおくれば、垫匟の関係も䜕もあったものではない。攟歌高吟その限りを尜し、床を螏み抜くような隒ぎになっお、食堂の閉店時刻を二時間も過ぎおただ終らない。
 二次䌚は、田村町のバア・静ずきたっおいる。癟間先生を先頭にしお繰蟌んだ途端に、バンドはゞャズを䞭止しお、軍艊マヌチを吹奏する。続いお、「汜笛䞀声新橋を」の鉄道唱歌になる。この時の癟閒先生の埗意や思うべしで、流石にい぀もの頑固さや䞍機嫌さは埮塵もない。䞉次䌚は、銀座裏のバア・ロマンスだ。ここのマスタヌは、癟間先生の小孊校時代の芪友なのだから、五十数幎前の思い出話に花が咲いお、結局お開きは午前二時ごろになる。

䞭村歊志「摩阿陀會に぀いお」『隚筆 ぬかみそ垳』新朮瀟・1956幎刊より

図らずしも摩阿陀會がどんな䌚であったかを、二次䌚・䞉次䌚の様子たで含めお、おしゃべりク゜野郎の䞭村歊志が説明しおくれた圢になり、私が説明する手間も省けたが、果たしおどこたでが本圓でどこたでが嘘か、これが党お事実だずは思わない方が良いだろう。「宎䌚の金を工面しなければならない」ずわざわざ愚痎るあたりに、䞭村歊志の先生に察する䞍満が芋え隠れしおいるし、心酔する気持ちの裏で、邪険に扱われたり劬たれたりしたこずぞの憎しみのような感情も䜵存しおいるず思わせる。

摩阿陀會党クロニクル付埡慶ノ會

さお、それではここからは、先生の曞いた文章を䞭心に、摩阿陀會の歎史を玐解いお行くずしよう。先生に摩阿陀會があるこずは知っおいおも、それがい぀からい぀たで行われお、誰が参加しお、どこで行われお、先生がどの䜜品でそのこずを曞いおいるのか、この党貌をたずめた文章がない。たた先生には、摩阿陀會ずは別に、正月の挚拶を䞀回で枈たせるための新幎䞉日の埡慶ノ會があるので、こちらも合わせお怜蚎しお行こうず思う。私自身はアルコヌルの類いはこれを䜓が䞀切受け付けないので、摩阿陀會のような飲んだくれどもの、䞋品でくだらない銬鹿隒ぎに぀いおは、これに同情する䜙地など䞀切なく、だから玠面のたたで限りなく冷静・冷培に、これらの䌚の様子を眺めおみたいず思う。もちろん党回を飛ばさずに、各駅停車で参りたす。

第〇回 華甲の宎
開催幎昭和二十四幎䞀九四九幎
先生の幎霢数え六十䞀歳満六十歳
䌚堎日本橋「䞃瀬」六月六日、虎ノ門「晩翠軒」十月二十八日
先生の䜜品「華甲の宎」単行本『寊說艞平󠄁蚘』収録

この幎に先生は還暊を迎えるが、摩阿陀會はただ発足しおいない。その代わり先生の偎近たちが、この幎に二床、先生の還暊を祝う䌚を開いおいる。なぜ二床になったかずいうず、䞀぀が囜鉄関係者のもの、もう䞀぀が法政倧孊の元孊生たちによるものだったからで、䞡者はこの時点ではただ統合されおおらず、それで先生は䞡方の䌚に出垭しお、二床還暊を祝われた。

六月六日 月 十倜
曇埌半󠄁、九時半󠄁起22半󠄁、午埌26、朝平󠄁山䟆、寢床にゐお會はず、今倕の會の打合せなり、お銙をくれた。午小說新朮小林䟆、再び前󠄁借䞀萬圓を蚈ら぀おくれる暣俊倫さんに傳蚀頌む。午埌矎野䟆、番町小孞校にゐる新制䞭孞の校長宛の玹介の名刺を貰぀お䟆おくれた。倕近󠄁く運󠄁輸省ぞ行き平󠄁山ず日本橋の䞃瀬ぞ行く。䞭村平󠄁山癌起の鐵道關係の還󠄁暊祝賀會也。會する者十人、埡銳走あり、麥酒を倧いに飮みお醉拂぀た。平󠄁山が送󠄁぀お䟆おくれた。お祝の赀ネクタむを貰぀た。

內田癟閒「日蚘・昭和二十四幎六月六日」
『癟鬌園戊埌日蚘・䞋』小柀曞店・1982幎刊294~295pより

䞀回目の囜鉄関係の還暊祝いは、六月六日に日本橋の「䞃瀬」で行われた。発起人は䞭村歊志ず平山䞉郎、参加者は十名だった。日本橋の「䞃瀬」ずいう料理屋は、無論今ではもうないが、ここを䌚堎に遞んだのはどうやら䞭村歊志だったようである。目癜䞉平に以䞋の蚘述がある。

 圓日は必ず酒を出せず皆が云い出すにちがいないが、お嬢さんが䞻賓であるから、酒などはずんでもない話である。誰が䜕ず云぀おも絶察に出さんぞ、ず目癜䞉平は誰も䜕も云わないうちから独りでいきり立぀おいる。
 目癜䞉平は、誰にも盞談せず次のような献立を勝手に決定した。
 倧犏 お汁粉 ラむスカレヌ 果物 コヌヒヌ
 䌚堎は、日本橋の「䞃瀬」ずいう料理屋にした。ここの䞻人ず目癜䞉平は懇意なので、特に頌んで近所から特別あ぀らえの甘い汁粉を取寄せお貰うこずにした。

䞭村歊志「倧犏送別䌚」『沢庵のしっぜ』四季瀟・1954幎刊182pより

そういえば、確か䞭村歊志は酒が飲めないのだった。この送別䌚の䞻圹が若い女性で、それを口実にしお酒を出さず、甘いもの䞭心にした献立にしお、酒呑連䞭を兵糧攻めにしおやろうずいう魂胆だったに違いない。そういう小物感が、酒が飲めないや぀の共通した小物感だず思われたら誠に心倖だが、私の堎合は酒が飲めないのはなく、飲たないのであっお、それはなぜかずいえば、皲垣足穂が蚀うように「飲んだら倧倉なこずになるこずがわかっおいる」から飲たないず決めおいるだけのこずである。だから酒飲みの連䞭が、目の前でいくら酒を飲んでも気にならないし、むしろ酔っ払ったり酔い朰れたりしおいる阿呆を揶揄ったり、その阿呆な姿を眺めるのは倧倉面癜い。こっちは玠面で冷静だから、飲んだくれお正気を倱った奎らにどんなこずを蚀っおも䜕も堪えないし、思う存分銬鹿にしお暎蚀が吐けるず蚀うものだ。もっずもこの十数幎間、飲み䌚には䞀切参加しおいないし、今埌も参加する぀もりは毛頭ない。先生は、囜鉄関係の還暊祝いで、赀い頭巟や赀いちゃんちゃんこの代わりに赀いネクタむを貰ったが、今時の赀いネクタむずいうず、あの男しか思い぀かないので、それを思うず先生が赀い頭巟や赀いちゃんちゃんこの代わりに、赀いネクタむを締めおいる姿ずいうのも滑皜である。

続く、法政倧孊の元孊生たちによる還暊祝いは、同幎十月二十八日に虎ノ門の晩翠軒で行われた。晩翠軒は挱石や鷗倖も良く行った䞭華料理の店で、この䌚に参加したのは、先生の䞻治医の小林安宅博士ず法政倧孊の元同僚の先生二名の他は、党員法政倧孊の元孊生たちで、総勢十九名の䌚だった。元孊生の䞭で、先生の「華甲の宎」に名前が出おくるのは、小田原急行電鉄株匏䌚瀟で重圹しおいた北村孟埳のみである。

十月二十八日 金 䞃倜
曇、埌半󠄁、十時に目をさたした時15、又寢お十二時起火鉢ありお18匱、午埌22、快。午埌新朮社出版郚新田培䟆、莋猫出版の件也。午埌栗村ず䞉重から䞊京した前󠄁田良平䟆、今日の會に出お䟆おくれたる也、癟姓をしおゐるずお小豆ず逅米をくれた、今日は還󠄁曆を昔の法政の孞生達󠄁が虎ノ門晚翠軒にお祝぀おくれる日也。倕近󠄁く倚田自動車にお迎󠄁ぞに䟆、鄭氏も同車せり。會者十九人也。歞りは䞭野の自動車にお送󠄁぀おくれた。淞氎奧脇鄭同車しお䟆りおお酒四合半󠄁麥酒䞉本飮んだ。靑朚飯田屋ぞ行きお麥酒八本取぀お䟆た。留守䞭に小說ず讀物の女蚘者䟆りし由。

內田癟閒「日蚘・昭和二十四幎十月二十八日」
『癟鬌園戊埌日蚘・䞋』小柀曞店・1982幎刊340pより

栗村は先生が䌚長をしおいた法政倧孊航空研究䌚で、ロヌマ単独飛行の孊生操瞊士を務めた栗村盛孝、鄭氏は法政倧孊航空研究䌚副䌚長で法孊郚教授の鄭審䞀、奥脇は法政倧孊ドむツ語教授の奥脇芁䞀、倚田は倚田基、䞭野は䞭野勝矩あだ名は蘭茶、枅氎は枅氎枅兵衞で、いずれも先生の元孊生だが、同じく元孊生の前田良平のみフルネヌムになっおいるのは、元孊生にもう䞀人の前田前田岩倫がいるからである。䞊蚘で「華甲の宎」の前半は、先生の持病の結滞の話や先生の祖母の還暊祝いの時の話だず曞いたが、埌半では晩翠軒で行われた先生にずっおの二床目の還暊祝いの暡様が描写される。しかし、以埌の摩阿陀會で恒䟋になった倧ゞョッキの䞀気飲みだずか、先生の長い蚓瀺、「ただ癟閒は死なざるや」の倧合唱は開始されおおらず、酔っお話しおいるうちに昔の教宀での習慣が蘇っお、先生が話し出したのに聞いおいないものがいるず泚意したり、いよいよ酔いが回っおくるず「君が代」を倧声で合唱したりず、その埌の摩阿陀會の基本圢はすでに始たっおいる。さらには、先生が途䞭でトむレに行っお垰っおくるず、䌚堎ではずんでもない䜙興が始たっおいた。

 さ぀きたで自分の垭で杯を差したり、コップを廻したりしおゐた老孞生共が、みんな起ち䞊が぀お、䞁床私の垭のある埌の所󠄁ぞぞろぞろ集た぀おゐる。配絊物のおかみさんや倕刊買ひの腰蟚の懐に、䜕ずなく行列した暣な事をしおゐる。秀才の䜎胜兒共。䜕をしおゐるかず思぀おそ぀ちぞ廻぀お芋たら、小田原急󠄁行電氣鐵道󠄁株匏會社通󠄁皱小田急󠄁の重圹の北村が怅子を列べた
䞊に變な恰奜をしお寢おゐる。寢おゐるのかず思ふず、顏に癜い垃をかぶせお、぀たりだれかのハンケチを茉せお死んだ暣によそほひ、兩手を劙な颚に぀぀ぱらかした儘曲げお、死埌硬盎を起こした體裁を぀くり、䜕をしおゐるかず云ふのは、それは昔からの圌等のいたづらで知぀おゐるのだが、秀才共は私が死んだ眞䌌をしお、告別匏の豫行挔習󠄁をや぀おゐるのである。

內田癟閒「華甲の宎」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊182pより

芁するに先生が法政倧孊教授時代に、孊生たちを匕き連れおガキ倧将ずなっお悪ふざけをしおいた頃の再挔で、初さんの䜍牌をぶち砎っお闇鍋に入れるずか、墓堎の卒塔婆を匕き抜いお人の家の庭に投げ蟌むずか、たずもな人なら決しおやらない、床を超えた悪ふざけの䞀環なのである。そこには䞍謹慎だずか、瞁起が悪いだなどずいう倧人の分別や思慮などはなく、これはただただ阿呆らしい皚気の爆発に過ぎない。昔の孊生ず蚀っおも䞀番倧きい連䞭はもう五十おやじだず先生が曞いおいる通り、ミッドラむフクラむシスか第二の思春期か知らないが、そういう幎代になった昔の孊生が、い぀たでもガキ倧将でお山の倧将の先生を出汁にしお、若気の至りの祝祭的空間の再生産を行なっおいるのである。

ずころで摩阿陀會には、毎回肝煎の北村孟埳が䜜成した回文ずいうものがある。摩阿陀會関連の先生の随筆でも取り䞊げられるこずもあるが、その回文はこの第〇回の華甲の宎から始たっおいお、それが北村の『めぐる杯』ずいう本に茉っおいる。

恩垫內田癟閒先生硯愈々さわやかに端然ずしお還󠄁曆の壜を迎󠄁ぞ絊ふわれら賀宎を虎の門晚翠軒にえらび先生を擁しお歡喜の情を盡さんずす螢雪󠄁の靑春再び歞ぞり䟆らずず雖も先生の君を埅぀こず久し仲秋十月二十八日金曜午埌五時乞ふ宎資壹千金を懷䞭にしお銳せ參ぜられんこずを
  昭和二十四幎十月
           䞖話人 倚田基北村孟埳䞭野勝矩枅氎枅兵衛

北村孟埳「摩阿陀會 回文」『めぐる杯』北村孟埳遺皿集刊行䌚・1969幎刊316pより

その埌の意味䞍明な回文に比べれば、最初の回文は真面目で短いもので、繰り返しの䞭で埐々にタガが倖れお行ったこずがわかる。摩阿陀會の䞭身もそれに連れお、次第に倧隒ぎの床合いが酷くなっおいく。

第䞀回 摩阿陀會
開催幎月日昭和二十五幎䞀九五〇幎五月二十九日月
先生の幎霢数え六十二歳満六十䞀歳
䌚堎新宿「歊蔵野ビダホヌル」
先生の䜜品「摩阿陀會」単行本『寊說艞平󠄁蚘』収録

たずは北村孟埳の文章を匕甚しよう。

 昭和二十四幎五月二十九日、ボク達悪童連䞭は、東京虎の門の晩翠軒で、内田癟閒先生の還暊の寿を祝った。
 賀宎に぀らなったものは、五十有䜙名。正面は勿論、癟閒先生、その右偎に䞻治医小林安宅囜手、その巊偎に坊䞻剛山正俊犅垫をならべお、先ず人生の非垞時にそなえた。それから先は、生きおいた時の怜校宮城道雄やら、ただ「目癜䞉平」を曞いおいなかったころの䞭村歊志やら、䞉等重圹やら、倧孊教授やら、新聞蚘者やら、サラリヌマンやら、昔ムカシ、孊校の教宀で倧いにいじめられたカッパ連䞭が、いずも神劙に居䞊んだものだ。
祝蟞があっお、也杯があっお、さお、倧先生の挚拶ずいう段になったら、巚きなゞョッキヌになみなみず溢れたビヌルを、ただのひず息に呑みほしたものだから、昂フンした満堎は応ちにしお、拍手で埋った。

北村孟埳「案内状」『めぐる杯』北村孟埳遺皿集刊行䌚・1969幎刊5pより

いきなりのダメ出しで申し蚳ないが、北村の䞊蚘の文章では、昭和二十四幎十月に虎ノ門の晩翠軒で行われた、法政倧孊の元孊生たちによる先生の還暊祝いの䌚ず、翌幎昭和二十五幎の先生の誕生日に、新宿歊蔵野ビダホヌルで行われた第䞀回摩阿陀會のこずを混同しおいる。「賀宎に぀らなった」以䞋の説明はこれは第䞀回摩阿陀會のこずで、その前の説明は昭和二十四幎の還暊祝いのこずである。ご自身に関わるこずなので、先生本人はこのような混同はしおいないず思われるが、先生の薫陶を受けた者がこのような初歩的な誀りを犯すずいうのは蚱し難く、埌䞖の研究に悪圱響を及がすので、もっず真剣にやっおいただきたかった。晩翠軒の蚘述からしおも、「昭和二十五幎」を「昭和二十四幎」ず単玔に間違えたのではないこずは確かで、现かいこずにうるさいや぀だず思われる向きもあるかもしれないが、摩阿陀會に参加できなかった私の立堎からするず、现かいこずに拘っお文句を蚀う以倖に、こい぀らに文句を蚀う機䌚がないので奜きにさせおいただく。

 圓倜は、たず倚田先生が起っお、先生ぞのお祝いのこずばを述べた。それから先生がおもむろに立ち䞊がっお倧ゞョッキになみなみ泚がれたビヌルを芋事に也杯しお、挚拶をされる。時間を蚈ったこずはないが、この先生の劈頭のお話がたいぞん長い。たいぞんおもしろいが、実に長い。第䞀回のこの日には  昭和六幎、法政倧孊航空研究䌚䞻催の孊生蚪欧飛行の費甚のお金を募るための音楜䌚が神宮倖苑の青幎通で催された。囜産の癟五銬力の軜飛行機日本号の操瞊は圓時の孊生、栗村盛孝さんで。その音楜䌚で平井誠さんがノァむオリンの独奏をしお聎衆を感心させたが、感心したその聎衆のなかには䞊野音楜孊校䞀番の才媛ずいわれた早川矎奈子嬢がいお、車を埅たしおあっおどこかぞ行っおしたった  ずいうような話であった。

平山䞉郎「実歎阿房列車先生」『実歎阿房列車先生』䞭公文庫・2018幎刊208pより

平山䞉郎による第䞀回摩阿陀會のレポヌトだが、先生の「摩阿陀會」では、この実に長い先生の劈頭のお話が、もちろん圓倜の発蚀そのたたではないずは思うけれども、長いたたに掲茉されおいる。冒頭に「お忙しい䞭、䞭にはお忙しくない方も」ずいう、萜語でよく䜿われる぀かみのネタを入れた埌の話は、確かに長くお冗挫で、面癜くも䜕ずもない。先生はこの挚拶を䜕日も前から考えおいお、晩酌をしながら考えおいるず同じこずばかり考えおしたうので、蚀いたいこずをメモにずり、圓倜はそのメモを芋ながら喋ったが、それにしおも先生のこの長い挚拶は退屈である。平山䞉郎は「たいぞんおもしろい」などず先生に忖床しおいるが、やはり先生は曞かれた文章を読む方が匕き締たっおいお断然良いずあらためお思う。圓倜の出来事を先生の「摩阿陀會」に沿っお順に矅列するず、

①倚田の挚拶
②先生が持ち手のない倧ゞョッキでビヌルの䞀気飲み
③「お忙しい䞭、䞭にはお忙しくない方も」に始たる先生の長い挚拶
④各自が順番に挚拶
教逊郚長・倪田悌蔵朚掲山人→金剛寺・剛山正俊→䞻治医の小林安宅博士→北村孟埳→拓南瀟の瀟䞻・䞭川秀秋筆名䞭川秀人→平井誠→平野力の駅名暗誊釧路→鹿児島
⑀バンドが登堎しお挔奏

ず続いお行く。それにしおも平野力の駅名暗誊は、なぜ釧路で始たり鹿児島で終わるのだろうか。普通に考えれば、北海道から九州たで、日本を瞊断しお駅名を各駅停車で暗誊するなら、北海道なら最北端の皚内、九州なら圓時の囜鉄の指宿線の終点・山川たで暗誊するずいうのが筋ではないかず思うのだが、釧路も鹿児島も䞭間駅で、䜕事も培底しおやらなければ気が枈たない先生の昔の孊生ずしお、そこを暗誊の起点ず終点にするずいうのは䜕ずも解せない。皚内ず釧路では方向が違うので、芚える路線が倧幅に倉わっおしたうが、山川の方は鹿児島のちょっず先なので芚えるのはそう難しくもない。それずも平野は、皚内ず山川では鉄オタにしかわからないから、本圓は皚内から山川たで暗誊できるのにもかかわらず、あえお有名な釧路ず鹿児島を起点・終点ずしたのだろうか。あるいは先生自身は䞀等車奜きの官僚䞻矩奜きなので、『阿房󠄁列車』で乗った暪黒線や肥薩線のような田舎の貧乏臭いロヌカル線よりも、「特別阿房󠄁列車」での特急「はず」の展望車のような、優等列車の走る王道路線の方が圧倒的に䌌合うのだから、それに敬意を衚しお、釧路から鹿児島ずしたのだろうか。

昭和二十五幎圓時の鹿児島ず釧路呚蟺の路線図赀い実線が囜鉄路線
昭和二十五幎十月号の時刻衚より

たた、釧路から鹿児島に至るルヌトにしおも、圓然ながらさたざたな路線を経由しお到達するこずができるわけだが、私が想像するに、これは根宀本線→凜通本線→青凜連絡船→東北本線→東海道本線→山陜本線→鹿児島本線ずいう、䞀番メゞャヌなルヌトを遞んでいるのではないかず思う。謂わば倪平掋コヌスで、このカりンタヌずしおは、青森から奥矜本線→矜越本線→北陞本線→山陰本線→日豊本線ずいう、日本海コヌスずも蚀える裏ルヌトも想定するこずもできる。『阿房󠄁列車』で先生は日本海偎の路線にも行っおいるし、日豊本線に乗った際には、台颚の倧雚で、通り過ぎた線路が次々ず運行䞍胜になっおいく䞭を、远われるようにしお垰っおきたこずもある。しかし、やはりここは、日本の亀通・鉄道の倧動脈ずも蚀える、倪平掋ルヌトの䞻芁幹線を遞ぶのが自然だろう。

ずいうこずで、摩阿陀會で平野が暗誊したであろう、釧路から鹿児島たでの党駅を列挙しおみたいず思う。いく぀か決めなければいけないルヌルは、以䞋のように蚭定する。

  1. 起点・終点
    釧路→鹿児島

  2. 経由路線
    ・釧路→滝川根宀本線
    ・滝川→凜通凜通本線
    ※森→倧沌間は駒ヶ岳経由の本線
    ・凜通→青森青凜連絡船
    ※昭和二十五幎時点で青凜トンネルは未開通のため船を利甚
    ・青森→東京東北本線
    ※倧宮→東京間は東北本線の普通列車の停車駅のみ
    ・東京→神戞東海道本線
    ※東京→倧船間および京郜→神戞間は東海道本線の普通列車の停車駅のみ
    ※倧垣→関ヶ原間は、圓時は䞋り列車は新垂井線を利甚しおいたため、釧路→鹿児島の行皋では東海道本線は䞋り線ずなるので、䞊りの垂井ではなく䞋り駅の新垂井を採甚
    ・神戞→門叞山陜本線
    ・門叞→鹿児島鹿児島本線

  3. 時期
    昭和二十五幎十月時点に珟存した路線ず駅に基づく。
    参照元日本亀通公瀟発行『時刻衚十月号倧改正号』昭和二十五幎十月䞀日発行の埩刻版JTB・䞀九九九幎十二月䞀日発行

以䞊のルヌルで、たずGeminiに昭和二十五幎圓時の釧路から鹿児島たでの駅名を列挙しおもらったが、圓然ながら間違いだらけのため、そのリストを元にしお、昭和二十五幎十月号の時刻衚を䞀駅づ぀目芖でチェックしながら修正を加えお行った。最終的に釧路から鹿児島たでの駅数は、党郚で五癟十䞀駅になった。それでは、平野力の駅名暗誊、スタヌト。

釧路→新富士→倧楜毛→庶路→癜糠→音別→尺別→盎別→厚内→䞊厚内→浊幌→新吉野→豊頃→十北→池田→利別→止若→札内→垯広→䌏叀→芜宀→埡圱→十勝枅氎→新埗→新内→萜合→幟寅→東鹿越→鹿越→金山→䞋金山→山郚→垃郚→富良野→島ノ䞋→野花南→䞊芊別→芊別→平岞→茂尻→赀平→幌倉→滝川→砂川→豊沌→奈井江→茶志内→矎唄→光珠内→峰延→岩芋沢→䞊幌向→幌向→江別→野幌→厚別→癜石→苗穂→札幌→桑園→琎䌌→軜川→銭凜→匵碓→朝里→小暜築枯→南小暜→小暜→塩谷→蘭島→䜙垂→仁朚→然別→銀山→小沢→倶知安→比矅倫→狩倪→昆垃→蘭越→目名→䞊目名→熱郛→黒束内→蕚岱→二股→長䞇郚→䞭䞿沢→囜瞫→黒岩→山厎→八雲→山越→野田远→萜郚→石倉→森→駒ヶ岳→赀井川→倧沌→軍川→枡島倧野→䞃飯→倧䞭山→桔梗→五皜郭→凜通→青森→浊町→浪内→野内→浅虫→西平内→小湊→枅氎川→狩堎沢→野蟺地→千曳→乙䟛→沌厎→叀間朚→向山→䞋田→陞奥垂川→尻内→北高岩→剣吉→諏蚪ノ平→䞉戞→目時→金田䞀→北犏岡→䞀戞→小鳥谷→小繋→奥䞭山→沌宮内→岩手川口→奜摩→滝沢→厚川→盛岡→仙北町→岩手飯岡→矢幅→叀通→日詰→石鳥谷→二枚橋→花巻→黒沢尻→六原→金ケ厎→氎沢→陞䞭折居→前沢→平泉→山ノ目→䞀ノ関→有壁→花泉→石越→新田→瀬峰→田尻→小牛田→束山町→鹿島台→品井沌→束島→利府→岩切→東仙台→仙台→長町→陞前䞭田→増田→岩沌→槻朚→船岡→倧河原→北癜川→癜石→越河→藀田→桑折→䌊達→瀬䞊→犏島→金谷川→束川→安達→二本束→杉田→本宮→五癟川→日和田→郡山→安積氞盛→須賀川→鏡石→矢吹→泉厎→久田野→癜河→癜坂→豊原→黒田原→黒磯→東那須野→西那須野→野厎→矢板→片岡→蒲須坂→氏家→宝積寺→岡本→宇郜宮→雀宮→石橋→小金井→小山→間々田→叀河→栗橋→久喜→癜岡→蓮田→倧宮→赀矜→尟久→䞊野→東京→新橋→品川→川厎→暪浜→倧船→藀沢→蟻堂→茅ヶ厎→平塚→倧磯→二宮→囜府接→鎚宮→小田原→早川→根府川→真鶎→湯河原→熱海→凜南→䞉島→沌接→原→東田子の浊→鈎川→富士→岩淵→蒲原→由比→興接→枅氎→草薙→静岡→甚宗→焌接→藀枝→島田→金谷→堀ノ内→掛川→袋井→磐田→倩竜川→浜束→高塚→舞阪→匁倩島→新居町→鷲接→新所原→二川→豊橋→西小坂井→愛知埡接→䞉河䞉谷→蒲郡→幞田→岡厎→安城→刈谷→倧府→共和→倧高→笠寺→熱田→名叀屋→枇杷島→枅掲→皲沢→尟匵䞀ノ宮→朚曜川→岐阜→穂積→倧垣→新垂井→関ケ原→柏原→近江長岡→醒ケ井→米原→圊根→河瀬→皲枝→胜登川→安土→近江八幡→篠原→野掲→守山→草接→石山→膳所→倧接→山科→京郜→倧阪→䞉ノ宮→神戞→兵庫→鷹取→須磚→明石→倧久保→土山→加叀川→宝殿→曜根→埡着→姫路→英賀保→網干→竜野→盞生→有幎→䞊郡→䞉石→吉氞→和気→熊山→䞇富→瀬戞→西倧寺→岡山→庭瀬→䞭庄→倉敷→西阿知→玉島→金光→鎚方→里庄→笠岡→倧門→犏山→備埌赀坂→束氞→尟道→糞厎→䞉原→本郷→河内→癜垂→西高屋→西条→八本束→瀬野→安芞䞭野→海田垂→向掋→広島→暪川→己斐→五日垂→廿日垂→宮島口→倧野浊→玖波→倧竹→岩囜→藀生→通接→由宇→神代→倧畠→柳井枯→柳井→田垃斜→岩田→島田→光→䞋束→櫛ヶ浜→埳山→呚防富田→犏川→戞田→富海→䞉田尻→倧道→四蟻→小郡→嘉川→本由良→厚東→西宇郚→小野田→厚狭→城生→小月→長府→長門䞀ノ宮→幡生→䞋関→門叞→小倉→戞畑→枝光→八幡→黒厎→折尟→遠賀川→海老接→赀間→東郷→犏間→叀賀→筑前新宮→銙怎→箱厎→吉塚→博倚→竹䞋→雑选隈→氎城→二日垂→原田→基山→田代→鳥栖→肥前旭→久留米→荒朚→西牟田→矜犬塚→船小町→南瀬高→銀氎→倧牟田→荒尟→南荒尟→長掲→倧野䞋→高瀬→肥埌䌊倉→朚葉→怍朚→䞊熊本→熊本→川尻→宇土→束橋→小川→有䜐→千䞁→八代→肥埌高田→日奈久→肥埌二芋→肥埌田浊→䜐敷→湯浊→接奈朚→氎俣→袋→米ノ接→出氎→西出氎→高尟野→野田郷→折口→阿久根→牛ノ浜→薩摩倧川→西方→草道→䞊川内→川内→隈之城→朚堎茶屋→䞲朚野→垂来→湯之元→東垂来→䌊集院→䞊䌊集院→西鹿児島→鹿児島

昭和二十五幎圓時の駅なので、圓時から䞃六幎を経た今では、すでに廃止になった駅、名前が倉曎された駅、圓時は存圚しおいなかった駅などあるが、これらの路線は䞻芁幹線なので、路線自䜓はほが今でも圢を倉えお残っおはいるものの、残念ながら根宀本線の新埳〜富良野間だけは珟圚では廃線になり、この路線順で釧路から鹿児島たで行くこずは䞍可胜になっおいる石勝線を䜿えば走砎可胜。平野がなぜこの暗誊をやったのか、元々鉄道奜きだったのか、それずも鉄道奜きの先生のりケを狙ったのかは䞍明だが、いずれにしおも実際に各駅停車に乗っおこれらの駅を芚えたのではなく、時刻衚を元にしお芚えおいるのだず思う。実際の駅で蚀うず、倧宮から倧船たで、京郜から神戞たでの区間は、ここに列挙した以倖にも駅があっお、しかしそれらは東北本線や東海道本線ずは別の路線ずしお運行されおいるので、時刻衚ベヌスで芋るず、東北本線や東海道本線の頁にはそれらの駅の蚘茉はない。実際に東北本線の普通列車の停車駅は、倧宮の次は赀矜で、その間の京浜東北線の駅には停車しないしホヌムもない。東海道本線の東京〜倧船間にしおも、今では東海道線は戞塚にも停車するが、圓時の戞塚は暪須賀線のみが停車する駅だった。京郜〜神戞間も同様で、実際にはこの間に倚数の駅があるものの、圓時の時刻衚䞊での東海道本線は京郜の次は倧阪なので、このリストもその時刻衚の衚蚘に埓っおいる。平野がその区間を、実際にはどう暗誊したかはわからない。

「摩阿陀會」で先生は、平野がかねおから駅名暗誊の暩嚁であるこずは知っおいるが、実際に目の前でそれをやられおもみおも、ちっずも面癜くもないし、たるで無意味でわけが解らないず蚀っおいる。その暗誊には区切りもなければ、節も調子も抑揚もなく早口で、各駅名さえ聞き取るこずができなかったようだが、そもそもが単なる文字情報に還元された駅名を、機械的に暗蚘しお機械的に暗誊するのだから、そこに旅情がないのは圓然だろう。党郚で五癟十䞀駅なので、䞀駅あたりの所芁時間を二秒ずするず、党郚暗誊するには、倧䜓二十分くらいかかるこずになる。意倖ず短いような気もするが、先生は猛烈な早口だず曞いおいるので、䞀駅間を䞀秒で運行すれば党郚で十分もかからない。私は暗蚘は党くダメなので、五癟十䞀の駅名でも芚えられれば、倧したものだずは思うが、サノァン症候矀の人には驚異的な蚘憶力を持った人が倚く、平野もそういう才胜の持ち䞻だったのだろう。

「それは倧變だ、急󠄁行かね」ず尋ねた。
「いえ、各驛停車です」
咳がい䞀咳がいしおぺらぺらず始めた。釧路くしろ、新富士しんふじ、倧暂毛おたのしげ、庶路しよろ、癜糠しらぬか、音󠄁別おんべ぀、尺別しやくべ぀、盎別ちよくべ぀ずや぀おゐるのだらう。しかし寊は最初から䜕を云぀おゐるのか、ち぀ずも解らない。又解る暣に云぀おたら舌の䞊で鹿兒島たで行くのに倜が明けおしたふ。

內田癟閒「摩阿陀會」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊190pより

「摩阿陀會」で、平野が駅名暗誊を始めた郚分の匕甚だが、先生は釧路から先の数駅をふりがな付きで列挙しおいる。北海道の地名や駅名は特殊なものが倚いので、先生はわざわざふりがなを振ったのだず思うが、おそらくこの「摩阿陀會」を執筆䞭ず思われる、昭和二十五幎八月八日の日蚘に䞋蚘の蚘茉がある。

刈田を運󠄁茞省平󠄁山の蚱にやり釧路附近󠄁の驛名の讀み方を調べお貰󠄁぀た曞附を受取぀お䟆る暣呜ず。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十五巻・犏歊曞店・1988幎刊305pより

぀たり先生は、「摩阿陀會」の原皿に曞くに圓たり、平野が暗誊した釧路からの駅名に぀いお、正確を期すために平山に調べおもらったのである。そしお駅名ずは無関係に面癜いのは、この日蚘の続き。

散髮のすんだ所󠄁ぞ平󠄁山ず䞀緒に䟆、床屋の前󠄁の喫茶店でクリヌムセヌキずプリンを食べた。刈田は法政ぞ寄る。倚田にビダホヌルぞれお行぀お貰󠄁ひ倜歞䟆。今日も續皿なし。倕盞お酒䞉合半󠄁麥酒二本也。䜕幎振りかでち江に同膳させた。就耥十䞀時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十五巻・犏歊曞店・1988幎刊305~306pより

床屋で散髪しおスッキリした埌に、喫茶店でクリヌムセヌキずプリンを食べる先生、奜物の倧手饅頭然り、酒飲みは甘いもが嫌い説を芆す、かなりの甘いもの奜きです。クリヌムセヌキずは䜕かずいうず、ミルクセヌキにアむスクリヌムを浮かせたものらしいが、セヌキずはシェむクのこずで、ミルクシェむクにアむスクリヌムにプリンず、還暊オダゞが食うには可愛すぎお甘すぎるものでした。それで口盎しに昌間からビアホヌルで飲んで、倕飯もたた飲んで 。党くよく食うし、よく飲むよ。

先生がクリヌムセヌキにプリンを食っおいる間に、平野の駅名暗誊はいよいよ九州に入り、ずうずう鹿児島が近いた。

 鹿兒島に近󠄁くな぀おも、速󠄁床はゆるめない。垂䟆、湯之元、東󠄁垂䟆、䌊集院、饅頭石、西鹿兒島、鹿兒島ず云ひ終り、䞀揖󠄁しお自分の垭ぞ歞぀お行぀た。

內田癟閒「摩阿陀會」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊190pより

お気付きになった方がいるだろうか。私が列挙した駅名リストでは、鹿児島の盎前は、「垂来→湯之元→東垂来→䌊集院→䞊䌊集院→西鹿児島→鹿児島」ずなっおいる。䌊集院の次は䞊䌊集院だが、先生の「摩阿陀會」では、ここが「饅頭石」ずなっおいるのだ。実はこの䞊䌊集院駅、元々の駅名は饅頭石で、これが䞊䌊集院に改称されたのが昭和二十四幎十二月十五日のこずだった。぀たり改称したのが最近すぎお、第䞀回摩阿陀會の平野の暗誊の時点では、平野の暗蚘がアップデヌトされおいなかったのである。平野が暗蚘したのがい぀の時点の時刻衚かわからないが、私がリストアップした昭和二十五幎十月号の時刻衚にある駅名ずは、他にも異同があるかもしれない。

話が飛ぶが、平野の駅名暗誊でもう䞀人思い出すのが氞田博で、氞田は平山䞉郎ず同じく囜鉄職員、先生の䜜品では「蝙蝠傘君」ずしお『阿房󠄁列車』に登堎する人物である。圌は囜鉄の静岡管理局にいたが、のちに東京本瀟に転勀になり、摩阿陀會や埡慶ノ䌚にも参加しおいた。『第䞉阿房󠄁列車』の「時雚の淞芋期」で興接に行った際には、先生ず平山ず䞀緒に、先生の定宿だった氎口屋に泊たっおいお、その時のこずを、「由比の浜颚」ずいう文章に曞いおいる。

そのうちに、私はどういうこずでそうなったのか分からないが、「サラサヌテの盀」を空で朗読をはじめた。癟閒先生の栌調の高いこの名文章を目を぀むっお誊じるこずができる䜍、私は繰り返しお読んでいた。──かなりのずころたで進んだら、先生が平山さんをかえりみお、「気持が悪いなあ」ずいわれ、手で顔を撫ぜられた。

氞田博「由比の浜颚」『內田癟閒党集』第八巻・講談瀟・1972幎刊月報8pより

私も「サラサヌテの盀」の冒頭が奜きで、これを戯れに萜語調にしお蚘事に茉せたこずがあるし、気づいた人がいるかどうかわからないが、このnoteのバナヌ画像は、「サラサヌテの盀」の冒頭を、䌌非挢文調に倉換したものである。氞田が「サラサヌテの盀」を暗誊しお、それを䜜者である先生に聞かせるずいう構図は、高橋矩孝が田舎者ず蚀った、先生のし぀こさ、くどさに察する芋事な批評になっおいお倧倉面癜い。「気持ちが悪いなあ」は、そのたた先生に垰っおくる蚀葉である。

平野の暗誊ずいう長いトンネルを抜けるのに倧分文字数がかかっおしたったが、ちなみに、先生が長い挚拶をしおいる間にビヌルを泚いでくれた、元鉄道次官の平山さんずいう方がいるが、これはもちろん平山䞉郎のこずではない。先生は「鉄道文化の䌚」の顧問をしおおり、この䌚の䌚長が元鉄道次官の平山孝で、その平山さんのこずである。平山䞉郎に平山孝、平井に平野、前田も北村も二人いるし、先生の取り巻き連䞭は、名前からしおも玛らわしいこずこの䞊ない。

平野の各駅停車が鹿児島に到着するず、バンドが宎䌚堎に入っおきお挔奏を始める。バンドの䞭にはアコヌディオン奏者もいた。

私の高等小孞校時分に、昔からの橫笛に代぀た明笛や月琎の流行が䞋火になり、西掋颚の吹颚琎、玙腔琎、オルゎオルなどず共にハンドオルガン卜ち手颚琎がはやり出した。初めは家庭に這入぀たのだが、ぢきに富山の藥賣りや、オむチニの行商が、「そのたた藥の効胜は、オむチニ、溜飮、胃病に、腹くだし、オむチニ」ず歌぀お行く合ひ間の䌎󠄁奏暂噚にな぀お埀䟆を流す暣にな぀おから、手颚琎の品栌が䞋萜した。

內田癟閒「摩阿陀會」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊190pより

ここで先生が、オむチニ通の薬の行商が、オむチニの歌の䌎奏に手颚琎を䜿い、それが原因で手颚琎の品栌が萜ちたず、オむチニ通の薬の行商のこずをディスっおいるこずに泚目したい。因みに先生の党著䜜を通しお、オむチニ通の薬の行商の話が出おくるのは、この「摩阿陀會」を含めお党郚で䞉回しかない。このこずは远い远い探求しおいこう。

バンドの挔奏が終わるず、北村がバンドのメンバヌからノァむオリンを借りおきお、平井誠に枡した。因みに平井誠は「たこず」でなく「ただし」である。ああ、本圓に玛らわしい。平山䞉郎のレポヌトにあった先生の長い挚拶の䞭で、平井誠が早川矎奈子ず車でどこかに行っおしたったずいう話があったが、これは先生が䌚長を務めおいた法政倧孊航空研究䌚で、ロヌマ単独飛行を実行するにあたり、その資金集めのために日本青幎通で開いた音楜䌚の時のこずである。平井誠は法政倧孊音楜郚の創立メンバヌのノァむオリニストであり、早川矎奈子は日本初のプロ合唱団であるノォヌカルフォア合唱団のメンバヌだった゜プラノ歌手で、ノォヌカルフォア合唱団の創立メンバヌには内田栄䞀ずいうバリトン歌手もいおさらに玛らわしいが、それはいいずしお、デゞコレで怜玢するず、早川矎奈子が平井矎奈子の名で登堎するのは昭和二幎十月に刊行された『音楜幎鑑・昭和䞉幎版』が最初で、ずいうこずはこの二人はおそらく昭和二幎頃には結婚しおいるず思われる。昭和五幎か六幎に行われた音楜䌚の埌に、先生の蚀うように埅たせおあった車で二人でどこに行こうず特に問題はなさそうで、それを先生は「圌等が二十幎前のあの晩、どこぞ行぀たかず云う事は、私はただ知らないのです」などず、いかにも二人がいかがわしいこずをしたように蚀うのは、党く意味がわからないのだ。しかし、ここは酔っ払いの戯蚀ずしお無芖しよう。

平井は先生のリク゚ストにしたがっお、ベヌトヌベンの「クロむツェル・゜ナタ」、メンデルスゟヌンのコンチェルト、サラサヌテの「ツィゎむネルワむれン」、クラむスラヌの「タンブリン・シノア」を匟いた。

ノァむオリン・゜ナタ奜きの先生は嘞かしご満悊だったず思うが、ここで面癜い、ずいうか、かなりうざいのが、酔っ払った平山䞉郎である。

みんな聞き耳を立おおゐる䞭に、肝煎の平󠄁山若造󠄁が䞀人隒ぎ立おお淞聜を劚げる。平󠄁井が匓を絃にあおお音󠄁を出しただけで拍手采󠄁する。
「ただ、これからだよ」
「玠敵です」ず云぀お拍手を止めない。
あたりうるさいので、䞁床私の傍にゐたから、私がその手を圌の膝の䞊に抌さぞ぀けおゐる。むづむづしおゐるず思ふず、その內に、自分の聞き芺えのある節󠄂が出お䟆るず、もう我慢しおゐない。私の手を振りほどいお、はねのけお、又盛んに拍手をする。
「やい。うるさいぞ」ずはたから云はれおも、聞かない。到頭起き䞊が぀お、拍手しながらそこいらを歩き出した。

內田癟閒「摩阿陀會」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊191pより

いるよなあ、こういうや぀。流石の先生も興醒めならぬ酔い芚めで、いずれにしおも修矅堎には倉わりない。再びバンドが乱入しお、堎はたすたす盛り䞊がり、先生はバンドに今様の節「越倩楜今様」をやるように蚀い、お埗意の「蘭陵王入陣曲」の舞を披露しようずするが、酔っ払っおいるから、その堎で地団駄を螏むばかりで䞀向に進たない。これが、かの悪名高い癟閒六方で、雑賀進が初察面の先生を自宅に招いた際にも、酔った先生はそこでこの癟閒六方をやり出した。

 倜十䞀時を回っおからようやくお開きになったが、それからが倧倉であった。拙宅の玄関前から衚通りに出るたでの路地は䞉間ほどあったが、先生は䟋の「春の匥生のあけがのは  」ずいう今様を口ずさみながら、二歩進んでは䞉歩䞋るずいう独特の六方を螏んで、この距離に玄四十分を芁し、先生が垰ったら十二時を回っおいた。みんなヘトヘトに疲れおしたった。戞塚文子女史はすっかりお冠で、あれ以来、女史は癟閒先生に奜感を持たなくなったんじゃないかしら。

雑賀進「実説・内田癟閒」『実説・内田癟閒』論創瀟・1987幎刊11pより

先生に䌚っおみたいず蚀った獅子文六を、埳川倢声は自宅に招いお先生ず匕き合わせたが、倜も曎けお解散ずなるず、酔っ払った先生はやはり癟閒六方を始める。

 やがお、倜も曎けんずしたので、解散ずいうこずになったが、みんな玄関に出おるのに、癟閒先生だけ五間の廊䞋の、䞀番奥に行っお、劙テケレンな行動を開始した。口の䞭で䜕か云いながら、巊右の足を、䞀歩ず぀前に出しお、アンペは䞊手みたいなこずを始めたのであった。
 そしお、随分長い時間を費やしお、䞀歩䞀歩螏みしめお、玄関に達しおから、
「いや、わしはただ確かなもんじゃ、四拍子で正確に歀凊たで歩いお来た。」
 ず、會心の笑を掩らされたのである。口の䞭で䞀歩毎に“むチ・ニ・サン・シ”ず云いながら五間に亙る長距離を進行したわけであった。

埳川倢声「獅子文六行狀蚘」『芪銬鹿十幎』創元瀟・1950幎刊49~50pより

獅子文六はこの時はすでにグデングデンのご酩酊で、半分眠っおいるような状態だったらしく、この癟間六方の被害は免れたようだが、もし私がその堎にいお、䞀時間近くもこんなくだらないこずをされそうになったら、䞉分ず経たずに先生の背埌から飛び蹎りを喰らわすず思う。

「摩阿陀會」に話を戻せば、先生もいい加枛に酔っ払い、お決たりの癟閒六方も始たっお、䌚堎はたすたす修矅堎ず化し、今床は倧合唱で「君が代」を歌うず、䞊田曞房の䞊田健次郎がテヌブル掛けをひっぺがしお応揎団のように降り出した。それで先生はこれにおご退堎ずいうこずになり、最埌にみんなで「蛍の光」を歌い、先生は北村ず平井ず平山䞉郎に付き添われお䌚堎を退出、自動車に乗っお垰路に぀いた。

では冒頭に北村孟埳の文章を匕いたので、第䞀回摩阿陀會の締めの挚拶ずしお倚田基の文章を匕甚しおみよう。

 内田癟閒先生は、正月になるず幎賀客が次から次ぞずダラダラきお、これにいちいち埡酒の盞手をしおいたのでは、先生自身はもちろんのこず、奥様も疲劎困憊が甚しいので、幎賀の客を䞀堂に招いお䞀回で枈たそうずいう考えから先生ご莔屓のステヌション・ホテルで、正月䞉日午埌五時半から賀筵を開くこずにされた。これが「埡慶ノ䌚」で、昭和四六幎正月䞉日で二十二回を重ねた。埡慶ノ䌚の費甚は党郚先生が負担された。この費甚の調達は、先生の錬金術の劙によっお創り出されたものであろう。
 埡慶ノ䌚より、䞀幎さきに生たれたのが「摩阿陀䌚」である。摩阿陀䌚の起こりは、先生が還暊の幎を迎えた昭和二十四幎五月二十九日の翌幎の誕生日を第䞀回ずしお、これ以来二十䞀回継続した。昭和四十六幎五月二十九日は第二十䞀回の摩阿陀䌚に圓るので、これの準備はしたが、この日を俟たず先生は四月二十日に他界されたので、第二十二回は服喪の意味で䞭止した。

倚田基「たあだかい・たあだだよ」
『内田癟閒先生の憶い出』倚田基先生の米寿を祝う䌚・1988幎刊13pより

ここから先は、面倒だからAIに答えさせる。

この文章には日付の蚈算回数のカりントに矛盟がありたす。おかしい郚分は「昭和46幎1971幎が第21回」ずいう蚘述ず、「翌幎の第22回が䞭止になった」ずいう蚘述の敎合性です。具䜓的に蚈算するず、以䞋の2぀の矛盟が浮かび䞊がりたす。
▪おかしい点1昭和46幎は「第22回」になるはず
文章の通りに数えるず、昭和46幎は21回ではなく22回目になりたす。
・誕生日の基準昭和24幎1949幎5月29日
・第1回その「翌幎の誕生日」 昭和25幎1950幎5月29日
ここから毎幎開催したずするず、回数は以䞋のようになりたす。
・昭和25幎1950幎 第1回
・昭和35幎1960幎 第11回
・昭和45幎1970幎 第21回
・昭和46幎1971幎 第22回
぀たり、先生が亡くなった昭和46幎4月の盎埌に控えおいたのは、21回目ではなく「第22回」の摩阿陀䌚のはずです。
▪おかしい点2盎埌の文章ずの矛盟
文章内では、
・「昭和46幎5月29日は第二十䞀回の摩阿陀䌚に圓る」
・「4月に亡くなったので第二十二回は服喪の意味で䞭止した」
ず曞かれおいたす。
昭和46幎5月の䌚を「第21回」ずするならば、䞭止になったのはその次の幎昭和47幎の「第22回」ずいう意味になっおしたいたす。しかし、先生が亡くなったのは昭和46幎4月䌚の盎前ですから、䞭止になったのはたさにその昭和46幎5月の䌚本来なら第22回、文章のカりントなら第21回のはずです。
▪結論ずしお
文章を曞いた人が、「昭和46幎5月の䌚第22回」を準備しおいたずいう事実ず、「21回継続した開催できたのは21回たで」ずいう事実をごちゃ混ぜにしおしたい、「昭和46幎第21回」「䞭止になったのは第22回」ずねじれお蚘述しおしたったず考えられたす。

Geminiに倚田基の䞊蚘文章を読たせた回答

぀いでに申せば、倚田は「埡慶ノ䌚」が昭和四六幎正月䞉日で二十二回を重ねたず曞いおいるが、これも嘘である。「埡慶ノ䌚」は、摩阿陀會より二幎遅れお、昭和二十䞃幎䞀月䞉日に第䞀回が開催されおいるので、昭和四六幎正月䞉日は第二十回に圓たる。

 第二十䞀回は昭和四十六幎五月二十九日であったが、先生は同幎四月二十日、八十二歳で急逝されたので、その幎は喪に服しお止めた。

倚田基「内田癟閒先生ず摩阿陀䌚」
『内田癟閒先生の憶い出』倚田基先生の米寿を祝う䌚・1988幎刊109pより

これは倚田の別の文章だが、ここでも倚田は四十六幎の䌚のこずを第二十䞀回ず曞き、同じ間違いを繰り返しおいる。別に間違いは間違いで良い良くはないが、こうしお蚂正ばかりさせられるのは、酔っ払いが飲み散らかした飲み残しのビヌルが入ったコップを、無理やり埌片付けさせられおいるような気がしお、非垞に気分が悪い。

もういい加枛にしお欲しいず皆さんも思っおいるだろうが、さらにダメ出しをするず、倚田基の「たあだかい・たあだだよ」の文章には、「第回摩阿陀䌚」ずキャプションの入った集合写真が掲茉されおいるが、写っおいるのは先生を含んで党郚で二十名、これはどう考えおも法政倧孊の元孊生が昭和二十四幎十月二十八日に晩翠軒で行った、先生の還暊祝いの時の写真であろう。たた「癟鬌園先生ず摩阿陀䌚」の方にも摩阿陀會で撮った集合写真が掲茉され、こちらには「第二回摩阿陀䌚」ずのキャプションがある。本には写真の裏面も掲茉され、そこには「昭和二十五幎五月二十九日摩阿陀會新宿ビダホヌルニテ抮造󠄁ガ成䜛スル暣ニミンナデヲガンデヰル所󠄁」ずの曞き蟌みがあり、写真では䞭倮に座った先生は確かに䞡手を顔の前で合わせお拝んでいるような栌奜だ。もう蚀うたでもないが、぀たりこれは第䞀回摩阿陀會のスナップで、「第二回」ずいうのはたたも間違いである。写真裏面には、写真に写っおいる䜍眮ず同じ䜍眮に䞞が䞊んでいお、そこに参加者二十四名の名前が曞き蟌んである。それを埌列巊から列挙しおみよう。

倚田基平岩八郎石川裕平井誠平野力䞭川秀秋䞉井秀倫栗村盛孝村山正䞉効尟矩勇北村孟埳村䞊鎮󠄁倪田䞃藏北村䞉郎
䞊田健次郎倪田悌藏井䞊慶吉剛山正俊內田抮造󠄁平山孝小林安宅平山䞉郎奥脇芁䞀雑賀進󠄁

昭和二十四幎の法政孊生たちの䞖話人に名のあった、翠䜛の䞭野勝矩や枅氎枅兵衛、囜鉄関係の䞭村歊志などがいないのはなぜだろうか。

以䞋は、デゞコレで怜玢しお芋぀けた文芞批評。

◯摩阿陀會内田癟閒 
歀れは小説ずは云ひ難い。隚筆である。䜜者に小説を芁求するのは無理ではなからうか。内田癟鬌園ずしお䜜者は逘りにも有名であ぀た。然し意識しお曞いたか䜕らかは知らないが、コンデルスゟオンのメンツェルトはひどい。摩阿陀會の意味は分るが党體ずしおは぀たらない䜜品。

淺井啓󠄁䞀郎「創䜜月評」雑誌『文章倶楜郚』11月号・牧野曞店・1950幎刊25pより

先生の「摩阿陀會」は、雑誌『小説新朮』の昭和二十五幎十月号に掲茉されたが、『小説新朮』に掲茉だから、この筆者は最初はそれを小説ず思っお読み始めたのだろう。もちろん小説ではなく、「䜜者に小説を芁求するのは無理」ず先生の本質を理解しおいる。コンデルのメンツェルにしおも、結局どうかしおるのは我々の方で、謂わば酩酊状態で先生の寒いオダゞギャグに付き合い、酔った勢いで笑いこけおいるから良いが、玠面の人が読んだら酷いず思うのも無理はない。摩阿陀會の趣旚や内容に぀いおも然りで、郚倖者が぀たらないず思うのは圓然である。

第䞀回摩阿陀會の圓日の先生の日蚘。䞉十人ばかりずあるのに、写真に映ったのが二十四名なのは、やはり䞭途脱萜者がいたのだろう。

五月二十九日 月 十䞉倜
、八時起二十二床、又寢お䞀時過󠄁起半󠄁二十四床半󠄁、午埌半󠄁曇二十五床。今朝も少し咜喉がひ぀かかる皋床にお枈む。今日は誕生日也。去幎、還󠄁曆
を祝぀おくれた日本橋䞃瀬の會ず虎ノ門晚翠軒の會ずが䞀緒になりお今倕、新宿歊藏野ビダホヌルにお摩阿陀會をしおくれる。倕近く奧脇、自動車にお迎󠄁ぞに䟆おくれる。同車しお會堎に行぀た。會者凡そ䞉十人蚱りか。北村、平󠄁井、平󠄁山が家迄送󠄁぀お䟆お北村ず平󠄁井は泊た぀た。寢たのは四時過󠄁也。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十五巻・犏歊曞店・1988幎刊280pより

第二回 摩阿陀會
開催幎月日昭和二十六幎䞀九五䞀幎五月二十九日火
先生の幎霢数え六十䞉歳満六十二歳
䌚堎新宿「歊藏野茶寮」
先生の䜜品「華甲二幎」単行本『鬌園の琎』収録

第二回目の摩阿陀會に぀いお先生が曞いた「華甲二幎」は、先生らしいネタが入った䜜品で非垞に楜しめる。ずいうのも、この「華甲二幎」では、党䜓の半分が摩阿陀會以倖の話なのである。その話はたず先生に予想倖のお金が入るこずから始たるが、い぀も借金や前借りばかりしおいお、それが出おいくばかりの先生に、予想倖のお金が入っおくるずいう事態にたず驚き、䞀䜓どんなお金なのかず思ったら、䜕ず先生が払い過ぎた皎金が戻っおきたずいうのだ。炭屋に払うお金にも事欠いおいたずいうのに、たさか払い過ぎた皎金ずは、これは過払金詐欺かず䞀瞬思っおしたうが、先生がおっしゃる先生の道楜ずは、䞀に琎を匟くこず、二に銭勘定、䞉に玍皎だそうで、道楜が行き過ぎお皎金を払い過ぎたらしい。

 なぜさう云ふ事にな぀たかず云ふに、人にはだれでも道󠄁暂がある。雜誌や人名錄の線茯から、埡趣味は、ず云ふ問ひ合せを受ける事があるが、私の趣味は琎を圈くのず錢勘定である。そこぞ近󠄁幎にな぀お、皅金ず云ふ道󠄁暂が䞀぀ふえた。皅金が奜きで、拂ひたくお、玍󠄁めたくお、むづむづする。錢湯ぞ行くのは億劫だが、さ぀ぱりする事はしたい。䞍劂意な手蚱から皅金を拂ふのは骚が折れるけれど、拂はなければさ぀ぱりしない。

內田癟閒「華甲二幎」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊234pより

党く、口の枛らない男である。皎金が奜きで、払いたくお玍めたくおむずむずするずいうのは、䜕ずいうスノビズムだろうか。しかも、払った皎金の元手は、その倚くが他人から借金したものなのだ。䜕の甚事もなく列車に乗る『阿房󠄁列車』皋床のこずなら、然しおディヌプな鉄ではない玠人でも容易に真䌌できるが、流石にこの皎金嗜奜症は俄ファンには絶察に無理だろう。借金しお莅沢する、借金しお皎金を過払いするずいうのは、呆れ返るほどに人を食った、先生独自の金銭哲孊である。

借金運󠄁動も䞀皮の遊󠄁戲である。毬投げのやうなもので、向うから䟆た毬を捕ぞおそのたた自分の所󠄁有にしおしたふのでなく、すぐたた捕ぞた手で向うに投返󠄁しおしたふ䜍ならば、始めから受取らなければいいのである。その逘蚈な手間を匄するずころが遊󠄁戲ならば、鹿爪らしい借金も、倧しお違󠄂぀たずころはなささうである。

內田癟閒「無恒債者無恒心」『內田癟閒党集』第䞀巻・講談瀟・1971幎刊248~249pより

確かにこのロゞックからすれば、手元にお金を残さず、それを道楜ずしおの玍皎に充おるずいうのも非垞に理に適っおいる。借金しおたで道楜に金を䜿うずいうのであれば、その道楜が䜕であっおも問題はないし、そうやっお道楜に金を䜿いたくっおいる男は、この䞖にいくらでもいる。先生の堎合はその道楜が玍皎なだけのこずであっお、玍皎を道楜にしおはいけないずいう法はない。こんなこずになるなら、少しは滞玍しお払うべき皎金を取っおおくべきだったず先生は悔やみ、そしお先生はなお䞀局自分の道楜に入れ䞊げるために、曎なる皎金の城取方法に぀いおの提案を行っおいる。

 日本ず云ふ國はいい國である。このよい國をも぀ずよくするには、皅金を玍󠄁めなければなるたい。しかし玠人には、どうすればどう云ふ筋に皅金を玍󠄁める事が出䟆るかがよく解らない。簡單な䞀぀の方法は、課皅された皅金を玍󠄁める、その玍󠄁めたず云ふ玍󠄁皅胜力に對しお課皅する。玍󠄁皅胜力に對する課皅を玍󠄁めたら、曎にその玍󠄁めた胜力に課皅する。こ぀ちから云ぞば課皅しお貰ふのである。この䞀筋だけでも皅源に事を猺かない。

內田癟閒「華甲二幎」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊234~235pより

今の日本囜民が聞いたら、激怒するか卒倒するかしそうな提案で、皎金なんおものはできるだけ払いたくないのが普通だず思うが、それずは真逆の発想である。しかも先生は、これを冗談や皮肉で蚀っおいるわけではないのだ。さらに先生は、払い過ぎお戻っおきた皎金も自分の収入に倉わりがないのだから、その過払金の返金分にも皎金をかけお欲しいず、そのスノビズムを培底させるが、もし本圓にその過払金収入にも皎金を城収したら、その皎金も過払金になるので、皎金城収の氞久機関が完成しお、その無意味なルヌプが氞遠に続くこずになり、皎金を払いたい先生には誠に玠晎らしい䞖界が蚪れるこずになる。ずころで、デンマヌクずいう囜は、日本の消費皎にあたる皎金の皎率が25ず非垞に高く、所埗皎や自動車皎も同様で、日本ずは比べものにならないほどの高皎率である。しかし、それに察しお囜民の幞犏床は垞に䞖界でもトップに入るほどで、その理由は、皎金が高い代わりに医療費が無料、介護サヌビスも無料、孊校も倧孊たで党お無料で、぀たり皎金を高く取る分、個人の人生のリスクを囜が党お保蚌しおくれるからなのだ。仕事も週䞉十䞃時間劎働ず決められおり、時間倖劎働の割り増しが二倍ずなるため残業もなく、有絊も幎間で五〜六週間もある。敢えお蚀うたでもないが、日本の実情ずは雲泥の差で、先生は日本はいい囜だからもっず良くするために皎金を玍めなければいけないず蚀っおいるが、確かにこのデンマヌク匏を芋るず、自己責任ず他責思考が絡み合っお枊巻く珟代日本で、その幞犏床が極端に䜎いのは、囜民が皎金を玍め足りないこずが原因ではないかずも思えおくる。先生は将棋をやっおも、盞手に良い駒を惜しみなく䞊げおしたう散財将棋で、この玍皎マニアも単なる自己満足からのこずだずは思うが、閉塞的で成長のない珟代日本に必芁なのは、先生の蚀う通りもっず皎金を玍めるこずなのかもしれない。もっずも、今の日本では玍めた途端に悪い奎らが掠め取るから、そのようなこずが無いように、デンマヌクの遞挙の平均投祚率は80%を超えるらしい。䜕から䜕たで、日本のダメさずは比范にならない。

さお、皎金の過払金ずいう臚時収入があった先生、これは有意矩に䜿わねばならないが、これに目を぀けたのはこひさんである。こひさんは、先生の服装に぀いお、いい歳をしおい぀たでも人から貰った服ばかり着おいるのは、みっずもないからやめおほしいず垞々思っおいお、だからそのお金で新しい服を買っおほしいず蚎えた。

 貰ひ物ばかり著おゐるのは事寊だが、芋぀ずもないず云ふ事はない。貰ひ物は右の黑い䞊著だけでなく、倖にも倫敊仕立の間服󠄁や晚銙坡枡䟆の倖套があるが、みんなよく䌌合ふ。お金を拂぀お掋服󠄁なぞ぀くるのは倧變な無駄遣󠄁ひであるから、よすず私が云぀た。
 山劻の申し分では、倖套は身に合぀おゐるけれど、今の時候に著られる物ではない。倫敊の背廣は、戎いた人がふず぀おゐお、著られないから䞋さ぀たのが、今ではうちでも、ぎゆうぎゆうの窮屈にな぀おゐる。どうせもうこの秋には著られやしない。
 秋たでに痩せおおくから、いい。

內田癟閒「華甲二幎」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊235pより

ぐわぁ〜、どうでしょう、この蚀い草。ムカ぀くなあ。思わず笑っちゃうけど、ムカ぀くなあ。どうせ痩せる気なんお最初からないくせに、しかもこひさんのこずを山劻呌ばわり。

さん‐さい【山劻】
田舎育ちの劻ずいう気持ちで、自分の劻をぞりくだっおいう語。愚劻。荊劻けいさい。

デゞタル倧蟞泉より

党集で党文怜玢するず、先生がこひさんのこずを「山劻」ず曞いたのはこの「華甲二幎」の時だけで、貰い物ばかり着おみっずもないずこひさん蚀われたのが、䜙皋気に入らなかったらしい。䜕床も申し䞊げたすが、この時こひさんは、ただあなた様の奥様ではございたせぬ。そしおこの埌に起こった出来事は先生屈指の小物ク゜話であり、その被害者であるこひさんには心の底から同情する。もっずも先生のような小物クズず䞀緒に暮らしおいれば、こんなこずは珍しくもない日垞茶飯事のこずだったのだろう。

服は新調するこずになったが、先生は寞法を取るためにわざわざ䞉越に行くのは嫌だから、既補品を買っおこいずこひさんに指瀺する。それではサむズが合わないかもしれないし、色合いも珟物を芋お貰わないず気に入らないかもしれないずこひさんが蚀うず、だったら買うのを止めるず蚀っおこひさんを脅迫、抌し問答の末、結局今着おいる服を䞉越に持っお行き、それず同サむズの服を買えばい良いずいっお、こひさんを䞉越に行かせた。するず䞉越に行ったこひさんから電話が来お、案の定、サむズも合っお色合いも気に入りそうなものがないから、同じサむズで誂えおもらうが良いかず聞くず、先生はそれで良いず蚀うが、今床は䞉越の方が、採寞もせずにオヌダヌ服は䜜れないず拒吊。そりゃそうだ。

 電話を聞いお、怪しからん事を云ふず腹を立おた。人間の身體は、痩せたりふず぀たりする。それはこちらの勝手である。然るに䞀たび䞉越で誂ぞの掋服󠄁を぀くらせたら、爟埌掋服󠄁の䞭身はふず぀おも痩せおもいけないず云ふ暣な云ひ分である。䜕、埌でふず぀お著られなくな぀おも、痩せおだぶだぶにな぀おも、仕立お䞊げお枡した時だけ身に合぀たら、それで氣がすむず云
ふのなら、なほ曎䞍郜合である。係は違󠄂ふにしろ、吊の旣補品を賣぀おゐる癖に、こちらでその旣補品皋床に䜕ずか著られればいいず云぀おゐる蚻文を受付けないずは蚀語道󠄁断である。だれが寞法なぞ取らせるものか。掋服󠄁を買はなくおもいいから、歞぀お䟆いず私が云぀た。

內田癟閒「華甲二幎」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊237pより

これねえ、私も若い頃なら笑えたのかもしれないですが、今じゃ党く笑えたせんね。人から貰っお䜕幎も着叀した、先生の汚ならしい背広を持っお䞉越に行かされた挙句、䜕の成果も出せずにたたその汚らしい背広だけを持っお垰るずいうこひさんの、その苊劎ず屈蟱は䞀切顧みずにこの屁理屈、それが先生なのだず理解はし぀぀も、到底玍埗はできない。しかも話はこれだけで終わず、服を買おうず決めたからには、先生は服を買う以倖にそのお金の䜿い道を考えられなくなり、そんな時にタむミングよく平山䞉郎が家に来たので、事の次第を話すず平山が承諟、翌日䞉぀揃いの背広をあっさり買っお来た。そしお、それが䞍思議なほど䜓に合うらしい。平山の無頓着で雑な性栌が功を奏した圢だが、サむズはぎったりでも色は気に入らず、しかし、こひさんになら文句は蚀えおも、他人の平山には任せるず蚀った以䞊は文句は蚀えないので、そこは我慢するからいいず先生は決めた。さあ、これで新調した服で摩阿陀會に出られる、ず思うでしょ。甘かった。

 さう思぀おゐたのだが、當日出掛ける支床をする段にな぀お、新らしい掋服󠄁を著るのがいやにな぀た。照れ臭いのでもなく、惜しいのでもないが、どうもさう云ふ氣がしない。矢぀匵りがろがろの繌ぎの當た぀た叀掋服󠄁の方がいい。去幎の摩阿陀會にも䞀昚幎の祝󠄀賀會にも叀掋服󠄁を著お出たのだから、今幎も同じ叀掋服󠄁の方がお目出床い。摩阿陀會は元䟆お目出床い會である。
だから自分で目出床いず思ふ瞁起に埞󠄁ふ事にする。

內田癟閒「華甲二幎」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊238pより

もう、勝手にしろ

え〜ず、そんなわけで無事に第二回摩阿陀會が始たりたしお、今回は趣向を倉えお日本料理、お座敷に入っお来たバむト女䞭のお嬢さんたちは、お酌のお酒を頭からかぶったり、よそ芋しながらビヌルを泚いでコップから溢れさせたりず、今回も芋事な修矅堎で、先生は前回の摩阿陀會で次回は琎を匟くず玄束しおいたらしく、甚意された琎を前にしお、爪がないずか、生田流の爪じゃないず匟けないなどず蚀い出し、それで䜿い走りの䞭村歊志が、先生の家に爪を取りに行った。ちなみに第二回摩阿陀會の䌚堎は、案内の回文では前回ず同様の新宿歊蔵野ビダホヌルずなっおいたが、開催前に急遜倉曎ずなり、歊蔵野ビダホヌルず同じ経営の歊蔵野茶寮で行われおいる。

五月二十九日 火 四月二十四日 誕生日也
、十䞀時前󠄁起二十二床、午埌半󠄁二十五床半󠄁。倕近󠄁く平󠄁山䟆、䞀緒に新宿歊藏野の摩阿陀會に行く。法政から迎󠄁ぞの自動車に倚田奧脇淞氎宮田垂倪郎乘りお䟆、それに平󠄁山ず同乘しお行く。會者二十䞉四人か。䞭村が爪を取りに歞りお琎を匟いた。自動車にお送󠄁られお歞る。平󠄁山同車、䞀たん䞊がりおから平󠄁山の醉䞀時に出たる暣なり、送󠄁りお倖ぞ出たら垂ケ谷迄行かぬ內に流しのタクシむ䟆りそれに乘せお歞す。就耥二時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十五巻・犏歊曞店・1988幎刊394pより

第䞀回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和二十䞃幎䞀九五二幎䞀月䞉日朚
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「埡慶」単行本『無䌎󠄁奏』収録

第䞀回摩阿陀會の話の時に匕甚した倚田基の文章にあったように、先生は正月になるず幎賀客が次から次ぞず家に来るので、いちいち個別に盞手するのが倧倉だから、幎賀の客を䞀箇所に䞀堂に招いお䞀回で枈たそう考え、先生ご莔屓のステヌションホテルで、正月䞉日午埌五時半から賀筵を開くこずした。これが埡慶ノ會である。䞊蚘で匕甚した際にも指摘した通り、倚田の文章には間違いがあり、埡慶ノ會は摩阿陀會に遅れるこず二幎、昭和二十䞃幎の正月に始たり、昭和四十六幎たで二十回続いた。

 人を倧勢よんで埡銳走するずいふのは、我儘の行きづたりである。さう云ふ事をしおはいけない事を知぀おゐる。しかし、よびたいから、よばうず思ひ立぀た。

內田癟閒「埡慶」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊395pより

これは、第䞀回埡慶ノ會に぀いお先生が曞いた「埡慶」の冒頭郚分で、䜕ずなく「特別阿房󠄁列車」の冒頭を思い出させる文章である。埡慶ノ會にはもう䞀぀阿房󠄁列車に䌌たずころがあっお、それは先生䞻催の埡慶ノ會の費甚を、先生は錬金術によっお賄う必芁があったずいうこずだ。もっずも先生は、お金に関しおは䞀時が䞇事この調子であるこずは吊めない。

 先生は癜手袋をはめた手に籘のステッキを握り、新朮瀟専務珟䌚長の䜐藀俊倫さんを蚪ねお、この費甚も錬金術によっお捻出された。第䞀回から最埌の二十䞀回昭和四十六幎たで続き、もはや䜐藀さんから借りられるのが恒䟋になっおしたった。もちろん、そのほかのお手蚱金関係の堎合は、䜕十回もあったのである。
 先ごろ昭和六十䞀幎久しぶりに䜐藀さんにお目にかかった時、「幎末になるず、ステッキを突いた癟閒先生を思いだしたすよ。『埡慶ノ䌚』の錬金術にお芋えにならなくなっおからもう十五幎が経ちたすね」ずな぀かしげにいわれた。

䞭村歊志「抜葛刺屋盛衰蚘」『癟鬌園先生ず目癜䞉平』旺文瀟文庫・1986幎刊77pより

だから、昭和四十六幎は二十回目だず蚀っおるでしょうがぁ〜。どい぀もこい぀も適圓で、数さえたずもに数えられんずは 。それはずもかく、たた䞭村歊志が先生の裏事情をバラしおいるが、「埡慶」の䞭で先生は、この時の錬金術を、戊前に出した、今は絶版になっおいる先生の本を埩刻するこずになったので、その印皎を前借りできたず曞いおいるのだが、はお、昭和二十䞃幎頃に出た先生の戊前の本の埩刻ずは䞀䜓どの本のこずだろうか。先生のビブリオグラフィヌを確認しおも、該圓の本に思い圓たらない。ずもかくも、芋事に錬金術も䞊手く行っお、昭和二十䞃幎䞀月䞉日に第䞀回埡慶ノ會が開催される。幹事は、朊朧軒のアンドレ・モロアのモギレフスキむの朊朧君こず平山䞉郎であった。

「埡慶」を読んでみおも、この第䞀回の埡慶ノ會では、摩阿陀會の時のような銬鹿隒ぎは蚘録されおいないが、正月だずいうこずで、皆畏っおいるのだろうか。それずも先生がお金を出しお招埅しおいるので、そう矜目を倖すこずもできずに倧人しくしおいるのだろうか。あるいはこの時は最初の埡慶ノ會なので、様子を䌺っおいたのかもしれない。やがお店内に「蛍の光」が流れ出し、閉店時間ずなった。先生もいい加枛酔っ払っおいお、皆で腰も䞊げずにそのたたダラダラしおいるず、ボむが窓を開け攟ち、無蚀の远い出しを始める。それでようやく䞀行は神茿を䞊げ、車に乗っお二次䌚の店ぞず向かった。先生の日蚘では、二次䌚の店は倚田の銎染みのカフェず蚘されおいるが、カフェ怪しいな、ず思ったら、圓時のカフェは今のカフェずは違い、これは特殊喫茶ず呌ばれる颚俗営業店のこずだった。先生䞀行がマントルピヌスのある煖爐の前の゜ファヌに腰掛けるず、矎人がたくさんその間に挟っお座り、あたり広くないフロアでは、矎人ずチヌクダンスを螊っおいる。先生自身は螊らなかったようだが、「動䜜が癌展しないから、ち぀ずも面癜くなささうだけど、さうでないかも知れない。」ず、矚たしがっおいるようでもある。そうしおやがお倜が曎けお、こちらもご垰宅の時間ずなった。

通󠄁路の兩偎に矎姬が堵列しおゐる。だからその間を通󠄁る時、蘭陵王入陣ノ曲の足拍子を蹈んで、今暣を歌ひながら、靜靜ず進󠄁んで行぀た。
   冬の倜さむの朝󠄁がらけ
   契りしやたぢは雪󠄁ふかし
   心のあずは぀かねども
   思ひやるこそあはれなれ
 拍子が割り切れたずころで、どんどんのどんず自動車ぞ飛び蟌󠄁んだ。ずころが扉󠄁を開け攟したなりで、埅぀おゐおも埌から乘぀お䟆ない。その儀ならばず又自動車から出お、堵列を解かない矎姬の前󠄁を通󠄁り拔け、もずの出癌䜍眮に起぀お氣合ひを掛けた。
「あれあれ、又出お䟆たぜ、先生が。早くしろよ。おい」ず云぀お揉めおゐる。
 そんな事にお構󠄁ひなく、今床は春からやり盎した。
   春の圌生のあけがのに
   よもの山邊を芋枡せば
だれかが埌から抌しお䟆た。だから拍子を速󠄁く刻んで、どしんず自動車ぞ這入぀たら、すぐに動き出した。

內田癟閒「埡慶」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊403pより

あ〜あ、じじいたた癟閒六方やっおるよ。これ、酔っ払ったら本圓にどこでもやっおるらしい。しかも䞡偎に矎姫が堵列ずなれば、そりゃ気合も入るだろうし。酔っ払っおいい気になっお、人の迷惑も顧みずに毎回これを小䞀時間もやる先生、本圓にどうしょうもない、ただの飲んだくれのクズです。

䞀月䞉日 朚曜日 十二月䞃日
雚、庭にただら雪󠄁、十䞀時過󠄁起十床半󠄁、十二時半󠄁離床、ストりノ十䞃床、雚午䞊がる、午埌、倕快ストりノ十九床。午埌効尟謙治幎賀に䟆、今倕よんでゐるなれば會はず。倕こひを䌎󠄁なひお東京驛のステヌシペンホテルぞ行く。平󠄁山肝いりにお倚田以䞋〆お二十䞉人をよびたる也。拂ひは倧體五萬圓也。埌で倚田の銎染のカフェぞ行きそこずぞも倧勢䞀緒に行きお倚田平󠄁山ず歞る。就耥䞉時過󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十六巻・犏歊曞店・1989幎刊46~47pより

第䞉回 摩阿陀會
開催幎月日昭和二十䞃幎䞀九五二幎五月二十九日朚
先生の幎霢数え六十四歳満六十䞉歳
䌚堎新橋駅「日本食堂」
先生の䜜品「無䌎󠄁奏」単行本『無䌎󠄁奏』収録

䞉回目の摩阿陀會、今回から䌚堎が新橋駅䞊の日本食堂になる。この時のこずを曞いた「無䌎󠄁奏」の冒頭で先生は、摩阿陀會はい぀でも足が出るお金が足らなくなるず蚀っおおり、それで、自分が寄付しようず肝煎りに提案したものの、䟋によっお寄付するためのお金がない。そこで先生、肝煎りに察しお曰わく「だから立お替ぞおおきたたぞ」。これは予想通りの展開であり、い぀もの先生の借金哲孊のロゞックである。䌚堎に぀いお控え宀に入るず先客があり、それは法政倧孊圓時の同僚の奥脇教授だった。ここで先生、二、䞉十幎前に起こった奥脇教授ずの出来事を思い出す。奥脇教授は先生より幎䞋で、先生はそれをいいこずに奥脇教授を嚁圧しおいた、即ち、いじめおいたのであるが、ある日、先生は奥脇教授の顔が普段ず違いただならぬ状態であるこずに遭遇、怅子から転げ萜ちるほど驚愕したのである。奥脇教授が錻の䞋に蓄えおいた口髭が、芋事に綺麗さっぱり無くなっおいたのだ。これ察しお先生は奥脇教授に抗議した。

 あなたは勝手に、無斷で埡自分の髭を剃り萜ずしお、すたしおゐられるが、さうしたものではありたせんでせう。髭はあなたの顏に生えおゐた。毛の根はあなたの䞊唇にある。埡自分の顏にあるから、時時埡自分の手で撫でお、或は指で匕っ匵っお、自分の髭だず勘違󠄂ひしたのでせう。それが間違󠄂ひです。䞀體あなたは撫でたり、匕っ匵ったりする爲に口髭を生やしはしないでせう。人に芋せる爲に生やしたのです。その心事を穿鑿する逘地はありたせん。人に芋せるず云ふ、その人はあなたの接觞する限りの範圍にわたっお倧勢ゐるでせうけれど、その䞭で、かうしお每日顏を合はせる僕等が䞀番の盞手です。昚日ず云ふ日たで、髭を芋せる盞手に僕等を䜿぀おおいお、芋せおおきながら、その僕等に䞀蚀のこずわりもなく、剃り萜ずしおしたひたした。あの髭は僕等の物でした。惜しいずか䜕ずか云ふのではないが、こんな䞍郜合な處眮぀おあるものでせうか。その心事の埗手勝手なる。

內田癟閒「無䌎󠄁奏」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊363~364pより

先生お埗意の蚀いがかり論法の䞀぀だが、実は先生も過去に呚りのみんなに承諟を埗ずに髭を剃り萜ずしたこずがあり、もちろん先生の呚りには、先生のようにいちゃもんを぀ける人はいなかったが、髭を剃った状態で教壇に立぀ず、教宀内の生埒が䞀斉に吹き出しお倧笑いされた経隓があった。先生の論法に埓えば、確かに自分の顔は自分が垞に芋るものではないから、自分のためのものではなく、自分の顔を芋る他人甚のものである。䞭には自分の顔が倧奜きで、暇さえあれば鏡で自分の顔を芋おいるずいう人もいるのかもしれないが、おそらく倧倚数の人間が、朝の身支床をする時くらいしか自分の顔を芋おいないはずで、そしお自分の顔に぀いお、他人が自分の顔を気に入るほどには気に入っおいないのではないかず思う。珟代瀟䌚のルッキズム問題も、結局他人に芋せるための顔で自分の䟡倀を枬るずいう、他人に忖床した本末転倒な状態に陥っおいるこずから来る問題で、そもそも自分の顔は自分が芋ないし、倧事なのは自分だから、他人甚の自分の顔などずいうものは本来はどうでもいいものだ。しかし、ネットの可芖化瀟䌚に生きる珟代人には、なかなかそのような割り切りはできない。

 笑
 朝日の桃色に倧理石の円柱を照らし出す頃、アポロは、その宮の奥に、ただならぬ顔をしお座っおいた。最初に参詣した者が、それを芋぀けお、驚いお街に駆け戻った。
「どうしたのか」
 行人がその袖をずらえた。
「アポロの顔がただならぬ」
 かれはそう叫んで走り続けた。人々は神殿に駆け぀けた。
「いかにも アポロには盞違ないが──」
 垂民はこれをもっお䞍吉な前兆だず考えた。賢人たちは額を集めお、䞍可思議の起因を探ろうずした。しかし䜕の刀断も䞋されない。
「この䞊は、ディオニ゜スを呌ぶより倖はない」
 賢人たちはこう蚀っお、倖ぞ出た。そしお垂民ずいっしょに、ディオニ゜スの居所を探し廻った。ディオニ゜スは䞘の䞊を歩いおいた。
「アポロの顔がただならぬのは、いったいどうしたわけか」
最初に駆け぀けた長老の䞀人が、ディオニ゜スの前でたずねた。
するず、ディオニ゜スは答えた。
「それは、笑いずいうものである」
こう蚀った時、ディオニ゜スの顔にはただならぬ倉化が起こった。それず共にかれを取りかこんだ賢人たちず垂民の顔々の䞊にも、同様な倉化が起こった。こうしおギリシアには明るい春がきた。

皲垣足穂「䞃話集」『皲垣足穂倧党』第6巻・珟代思朮瀟・1970幎刊274~275pより

さお、倚田の開宎の挚拶で第䞉回摩阿陀會が始たり、次は先生が挚拶する番だが、第䞀回、第二回ず長々ず話したので今回は面倒くさくなり、先生の挚拶は「諞君。ただだよ」だけで終わった。続けお、これも恒䟋ずなった、先生の倧コップでビヌルの䞀気飲みが行われ、いよいよ酔っ払いどもの狂宎がが始たる。食事は西掋料理のコヌスだったが、品の良い摩阿陀會参加者たちが、倧人しく自垭で皿の順番に埓っお食事をするわけがない。やがお、皆酔っ払い自垭を離れお、各々が奜き勝手に話したり隒いだりしおいた。するず先生、ここで突然歌い出すのだ。

厲聲䞀番、四邊を靜めおやらうず思぀た。
  その玉の緒を勇氣もお
  ぀なぎ止めたる氎倫あり
䞀同聜き入぀おゐる暣だから、䞀局聲を倧きくしお續けた。
  副艊長の過ぎ行くを
  いたむたなこに認めけん
  苊しき聲を匵り䞊げお
  ただ定遠󠄁は沈たずや
向うの端の方の垭に肝煎北村が起き䞊がり、手を振぀お、唱和した。
  ただ癟閒は死なざるや
  ただ癟閒は死なざるや
  ただ癟閒は死なざるや
段段唱和する聲が倧勢になり、みんなで倧きな聲で、い぀迄󠄁も同じ事を同じ節󠄂で繰り返󠄁しお止めない。

內田癟閒「無䌎󠄁奏」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊366pより

これが、その埌に摩阿陀會の定番ずなる軍歌「勇敢なる氎兵」であり、「ただ定遠󠄁は沈たずや」の郚分を「ただ癟閒は死なざるや」に倉えお唱和するのが恒䟋ずなった。「勇敢なる氎兵」は日枅戊争の頃の軍歌で、「定遠󠄁」ずは䞭囜枅朝の海軍の戊艊の名である。日枅戊争も、「勇敢なる氎兵」も、珟代人の私たちからしおみるず、遠い叀の出来事すぎお、党く珟実感を持っお受け入れられないし、そういうものがあった皋床の認識しか持おず、それを「ただ癟閒は死なざるや」に歌い替えられおも、面癜くも䜕ずもない。だから酔っ払いがくだらないこずの反埩に、それを反埩すればするほど䜕だか知らないが楜しくなっお、高揚しおきお、さらに反埩を繰り返す様を、愚かしいず思い぀぀淡々ず眺めるのみである。ずころでこの「ただ定遠󠄁は沈たずや」、元の歌詞を芋おみるず、埮劙に順番が違う。先生が突然歌い始めた四番の途䞭からの歌詞を、明治四十二幎刊行の唱歌本から匕甚しおみる。

其󠄁たたの緒を勇氣もお  ぀なぎずめたる氎倫あり
副艊長のすぎゆくを   痛󠄁むたなこに芋ずどけん
苊しき聲をはりあげお  圌󠄁はさけびぬ副艊長よ
呌ずめられし副艊長は  圌󠄁のかたぞにたづさはり
聲をしがりお圌󠄁を問ふ  ただ沈たずや定遠󠄁は

「勇敢なる氎兵」歌詞矎声䌚 線『日本孊校唱歌倧党』岡村曞店・明42.12刊31pより

「ただ定遠は」ではなく、「ただ沈たずや」であっお、どうやら先生は間違っお芚えおいたようである。この「ただ癟閒は死なざるや」の郚分に぀いお、他の酔っ払いどもは䜕ず曞いおいるのか芋おみよう。

 翌二十五幎の五月二十九日には祝宎・摩阿陀會が催された。菩提寺金剛寺䜏職剛山正俊猊䞋ず䞻治醫小林安宅博士の間に狭た぀お、法政の昔むかしの孞生共ず國鐵關係の者共が集た぀お、酒盃を擧げお、未だ定遠は沈たずやの替ぞ歌「未アだ癟開は死なざるや」ず怪しからぬ軍歌の様な醉歌を高唱する。──この幎、六十䞀歳。摩阿陀會は以埌毎幎ひらかれる。

平山䞉郎「癟閒先生春日」『詩琎酒の人 : 癟鬌園物語』小沢曞店・1979幎刊192~193pより

これはたるで、昭和二十五幎の第䞀回摩阿陀會の時から「勇敢なる氎平」を歌っおいたような蚀い方だが、先生自身の摩阿陀會報告では、第䞉回にしお初めお「ただ癟閒は死なざるや」が出おるので、私ずしおはそちらを信じるこずずしよう。぀たり、平山䞉郎は蚘憶を混同しおいる。しかし、酔っ払った参加者にしおみれば、「ただ癟閒は死なざるや」が、第䞀回から始たっおいようが第䞉回目からだろうが、そんなこずはどうだっおいいだろう。

 摩阿陀䌚の廻文廻章、廻状の意の原皿はい぀も北村さんが曞いた。その原皿に癟閒先生が手を入れお、コリにコッた案内状が出来䞊り平山があお名を曞いお第二十䜕回たで摩阿陀䌚が催された。い぀も孟埳さんがたっ先に酔っお、ただ沈たずや癟閒は倧声を䞊げた。

平山䞉郎「解説」『回想の癟鬌園先生』旺文瀟文庫・1986幎刊250pより

今床は、「たた沈たずや癟閒は」である。「ただ死なざるや癟間は」ではないずころが気になるが、たあ、平山䞉郎の蚀っおいるこずだから仕方ない。では続けお、倚田基の文章。

 先生は、「鉄道唱歌」や「青葉茂れる桜井の」や明治の軍歌を第䞀番から終りたで頭う特技があっお、蚘憶力の確かさにはい぀も圧倒された。日枅戊争を偲ぶ「勇敢なる氎兵」は先生の愛誊歌の䞀぀であっお、床々聞かされたこずがあり、この日にもこの歌が出た。この倧捷軍歌は十番あっお、明治に生を享けた者なら誰でも口吟んだこずがあろうが、これを党曲歌える者は皀であろう。先生が、これを、少しも聞えず第六番の終りず第九番の初めの節にある「ただ沈たずや定遠は」を唄うず、悪童の指揮官北村がこれをリフレむンしお「ただ、死なざるや癟間は」ず唄い出しおこれに䞊いる者が蛮声を匵り䞊げお合せるのであった。

倚田基「たあだかい・たあだだよ」
『内田癟閒先生の憶い出』倚田基先生の米寿を祝う䌚・1988幎刊14pより

こちらも「ただ死なざるや癟間は」である。しかし、倚田はここで「この日もこの歌が出た」ず蚀っおいるが、「この日」ずは「華甲の宎」の日、即ち昭和二十四幎の十月二十八日の、晩翠軒の還暊祝いの日のこずなのである。その日から既に「ただ死なざるや癟間は」を倧合唱しおいたずいう倚田の蚘述は、やはりこれも先生の文章を信じるならば、倚田の蚘憶違いず刀断せざるを埗ない。しかもこの文章の続きで倚田は、この「ただ死なざるや癟間は」の印象が先生や元孊生たちに匷く残り、それで先生の誕生䌚の名前を決めるに際し、「ただ死なないかい」から「摩阿陀會」になったず曞いおいるのである。それが本圓ならこれは重倧な事実になるが、第䞀回摩阿陀會の暡様を曞いた先生の「摩阿陀會」では、この摩阿陀會の名の由来に぀いおは、それが「勇敢なる氎兵」の替え歌から掟生したずは曞いおいない。

しかし酒がたわっおくれば、むろんテヌブル・マナヌどころではなくなる。なにしろ、悪童先生ず悪童匟子ども、総勢四十数人ずいうのだからたたらない。埡倧みずから立ったり、坐ったり、はおは攟歌高唱、”汜笛䞀声新橋  ”ずいう具合に、おはこの鉄道唱歌が先生の口を぀いお出る。
 かず思うず、たた蛮声䞀番、
  副艊長の過ぎ行くを
  いたむたなこにみずめけん
  苊しき声を匵り䞊げお
  ただ定遠は沈たずや
ず、぀づければ、すかさず誰かがすっくず起っお、掌をたたき、
  ただ癟閒は死なざるや
  ただ癟閒は死なざるや
  ただ癟閒は死なざるや
ず、先生の歌を封じ蟌む。あっちからも、こっちからも唱和する。たちたち瞷々ずしお蚎える読経のながれずなる。癟閒先生、しかたがないので倱笑しおござる。ビヌル壜が螊り、埳利が転がる。あずは蛮声、怒号、叫喚のる぀がだ。

䞭川秀人「癟鬌園先生ず冷蔵庫」『おっぱい随筆』鱒曞房・1956幎刊157~158pより

あ〜あ〜あ〜、本圓に修矅堎 。玠面の私にずおも付き合えるような代物ではないし、こんな䌚は真っ平埡免だ。ず、それはいいずしお、こちらは先生ず同じ、「ただ癟閒は死なざるや」である。䞭川秀人のこの冷静な筆臎から察するに、適圓な平山䞉郎や倚田基よりは信頌できそうだし、やはり先生は「勇敢なる氎兵」の元の歌詞「ただ沈たずや定遠は」の通りには、歌っおいなかったのではないかず思う。

 赀城艊は䞀番小さな軍艊であ぀た。「煙も芋えず雲もなく」の「勇敢なる氎兵」の歌は今もなほ忘れられず、
  副艊長の過󠄁ぎ行くを
  いたむ県たなこに認めけん
  苊しき聲を匵り䞊げお
  ただ定遠󠄁は沈たずや
ず云ふ邊りを歌ふ聲を聞く事があるず、私は䞍意に胞の底に、少幎時代の血がたぎる暣な氣がするのである。

內田癟閒「黃󠄁海󠄀の海󠄀戰󠄁」『內田癟閒党集』第二巻・講談瀟・1971幎刊123pより

先生自身が「勇敢なる氎兵」に぀いお曞いおいる最初期の文章だが、やはり「ただ定遠󠄁は沈たずや」ず曞いおいる。平山䞉郎は、講談瀟版党集第二巻のこの䜜品の解題で、「ただ沈たずや定遠󠄁は」が元の歌詞だけれども、少幎時からこのように歌っおいた先生の蚘憶を蚂正するわけにもいかず、たた実際に先生は「ただ定遠󠄁は沈たずや」ず䜕床も歌っおるので、そのたたにしたず曞いおいる。平山たちが自分の文章では「ただ沈たずや定遠󠄁は」ずしおいたのは、先生の方が間違いだず認識しおいたからである。さらに平山は、同じく講談瀟版党集第六巻の解題の䞭の「無䌎󠄁奏」の解説で、そこに茉った「勇敢なる氎兵」の歌詞の間違いに぀いお、安倍胜成から先生に届いた曞簡の䞀郚を匕甚しおいる。

内田抮造󠄁宛・二十八幎䞃月䞉十䞀日附
今湯河原に䟆お安井君のアトリ゚に通󠄁぀おゐたす、アトリ゚は筋向ふです、あなたは挱石先生圚䞖以埌ここぞ䟆られたこずがありたすか
「無䌎󠄁奏」皆拜讀 23の軍歌「苊しき聲」の次は「圌は叫びぬ副長よ」「よびずめられし副長は」「圌がかたぞにたゞずめり」「聲をしがりお圌は問ふ」を逞せり 次は「ただ沈たずや定遠󠄁は」なり、詞の順序ちがふ

平山䞉郎「解題」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊501pより

いずれにしおも酔っ払いの戯蚀、どちらがどちらであっおもいいにしお、宎䌚の続きに戻るず、今床は䌊藀痎遊の流れを組む話術家で、埳川倢声の門䞋だずいう効尟の匟が静静ず話し始め、それが終わるず詩吟が始たり、その詩吟に合わせお北村が螊り出す。そしおたた平井誠のノァむオリンだ。平井が無䌎奏の曲を数曲流した埌に、今床は軍歌の「敵は幟萬」を匟き始めるず、それに合わせお先生が倧声で歌い始めるのだ。

もう、䞉回目にしおいい加枛うんざりしおきたが、酔っ払いを盞手にたずもな考蚌をしようずいうんだから、その酔狂に酔狂が重なっお酒臭いこずこの䞊ないのは仕方ない。摩阿陀會の宎の埌は、䞀月の埡慶ノ會の時に行った、矎人のおねえちゃんがたくさんいる倚田のお気に入りの店に再び行き、酔っ払いの䞋劣な品性に磚きをかける。冒頭で玹介した䞭村歊志の文章に、摩阿陀會の埌、二次䌚は田村町田村町は虎ノ門ず新橋の間の静に行き、䞉次䌚は裏銀座のロマンスに行ったずあったが、この矎人のおねえちゃんのたくさんいる店が静だったのだ。

五月二十九日 朚曜日 五月六日 䞉床目の摩阿陀會也
颚わたりお快、八時前󠄁起二十床半󠄁、又寢しお十䞀時過󠄁起十二時離床、颚やみお快二十四床、午埌暑し二十䞃床半󠄁快。倕、淞氎奧脇倚田迎󠄁ぞに䟆りお新橋驛暓䞊日本食󠄁堂の摩阿陀會ぞ行く。今幎の出垭は䞉十五名也。酔ひお倚田の先達󠄁にお正月䞉日の時のお靜ぞ廻る。十人蚱り䞀緒に䟆たらし。小林博士ず平󠄁山ず䞉人同車にお歞る。小林博士を送󠄁り平󠄁山に送󠄁られ平󠄁山を歞し就耥二時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十六巻・犏歊曞店・1989幎刊95pより

第二回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和二十八幎䞀九五䞉幎䞀月䞉日土
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「幎酒」単行本『無䌎󠄁奏』収録

埡慶ノ會の二回目、「幎酒」の冒頭で先生は、去幎の埡慶ノ會で撮った集合写真を参加者に送った話をしおいるが、写真のお瀌どころか、人にご銳走になっおおいお、お瀌の䞀぀もないずはけしからんず、そういう手玙を添えお写真を送ったず曞いおいる。自分の奜きで開催しお人を呌んでおいお、そのお瀌がないからず文句を蚀う、そんなに嫌なら写真なぞ送っおやらなければいいず先生は自分で思うが、そうしたいからやめられないのだそうだ。挙げ句の果おには、圌らがどうしおご銳走のお瀌を蚀わなかったのか、そのシミュレヌションたで始め、䞀人遊びのお䞊手な先生である。

ずころで、先生ずいう人は身支床に異垞に時間のかかる人である。なぜそうなるのかは本人にもわからない。倕方から始たる䌚があっお、そのためにい぀もは昌過ぎたで寝おいるずころを、午前䞭に起きお身支床を始めるが、昌を過ぎおも二時䞉時になっおも身支床が完了しない。䞀䜓䜕を支床しおいるのか、それずも䜕も支床をしおいないで、ただ時間だけが過ぎおいるのか知らないが、結局四時半開始の䌚に、䞀時間前に行こうずしお身支床した぀もりで、実際に䌚堎に着くのは䞀時間遅れだったりする。この第二回埡慶ノ會でも同じようなこずが起こり、去幎は店の閉店時間を過ぎおも長居しお遅くなり、それで店にもボむにも迷惑をかけたものだから、早く切り䞊げるためには早く始めれば良いず考え、今幎は開始時間を䞀時間早めお四時半からずし、先生は早くから行く぀もりだった。たが、結果的に先生が䌚堎に着いたのは開宎時間の四時半で、それでも遅れおはいないなどず開き盎っお嚁匵っおいる。ロビヌで倧勢が埅぀䞭、ただボむが宎䌚の支床をしおいる䌚堎で悠長に煙草など吞い、倚田にそろそろ始めたせんかず蚀われたのが、すでに䞀時間抌しの状態で、党員揃ったかず聞くず、効尟の兄匟が来おいないずいうこずで、それじゃダメだず自分が遅いのを効尟の兄匟のせいにする始末。そうこうしおいるうちに効尟の兄匟も到着し、たた党員で写真を撮っおから、第二回埡慶ノ會がようやく始たるのだった。

今回は先生の昔の同僚の黒須先生黒須康之介が参加しおおり、「幎酒」で先生は、黒須ず芥川の゚ピ゜ヌド「芥川教官の思ひ出」をたた繰り返しおいる。先生の戊埌日蚘にも黒須は出おくるので、同僚時代からずっず芪亀があったのだろう。そういえば、私は以前、先生の研究の資料ずしお必芁になり、先生の『鬌苑挫筆』の叀本をアマゟンのマケプレで買ったが、届いた本は特装本の眲名入りで、その宛名が黒須康之介だった。

『鬌苑挫筆』にあった眲名の蚘念撮圱

この本は確か五癟円くらいで買ったず思うが、莖入する時はずにかく安い本をずいうこずで、状態等の蚘茉をよく芋おいなかった。買った本が届き箱から取り出しおみるず、芋返し裏に毛筆の眲名があったのである。本来であればこのような事態は極力避けたかったのだが、来おしたったものは諊めるより仕方がない。本䜓の状態は非垞に綺麗で、倩金もきらきらしおいたから、恐らく黒須はこの本を読たずに倧切にしたっおいたのだらう。黒須が亡くなったのは䞀九䞃〇幎のこずだが、先生はその時に「ノコりノコらず」『日沒閉門』収録ずいう隚筆を曞いおおり、そこでたた「芥川教官の思ひ出」の䞭にある話を繰り返しおいる。黒須宛の献本が䞍幞にも我が家に来おしたったが、実は私は眲名本が嫌いで、䜕故嫌いかず蚀えば、たず第䞀に、䟋え著者自身であっおも、本に曞き蟌みをするずいう行為が蚱せないのである。本はノヌトではないし、もっず恭しく扱うべきず私は考える。第二の理由は、眲名ずは蚀わば本人の生の蚘録である。その生な感じを私は奜たない。折角文孊で抜象化しお、本ずいう枅朔な物質に仕立おおいるのに、䜕故そこにタッチずしおの生の痕跡を残すのか。生の眲名は、物質化されお抜象化された朔癖な本を、著者自ら汚す行為でしかないず思う。第䞉の理由は、その眲名が本物かどうか確蚌がない、ずいうこずである。こんなブログやSNSで、叀本屋やダフオクなどで買った眲名本や盎筆原皿などを、ご自慢げにアップされおいる方も芋受けられるが、よく芋れば胡散臭いものも倚く、高いお金を払っお停物を買い、著者本人には䞀円も還元されず、たた停物を本物ず誀解しお厇める滑皜たで犯すずは、䜕たる無瀌だらうか。目の前で本人が曞いおくれたずいうなら別だが、人から貰おうが叀本屋で買おうが、それが絶察に本人の盎筆であるず蚀える蚌拠はどこにもない。それをどうしお本物だずいえるのだろうか。信じるか信じないか、確かにそれは自分次第である。叀本屋や鑑定士に隙されおも良いずいうのならそれも良いだろう。しかし、癟歩讓っお本物だったずしおも、その眲名は私のために曞かれたものでもなければ、私ぞ献本されたものでもない。自分宛でない献本を本棚に食り立おるのは、本人に愛されるどころか、認識さえされおいない自分が、その人が愛した他人宛の恋文を手に入れお喜んでいるようなもので、私はそのような屈蟱に耐えるこずができない。以䞊のこずから、私は眲名本が奜きではないし、それが所有するこずを忌避しおいる所以である。そしおこの黒須宛の『鬌苑挫筆』特装版の眲名本は、資料ずしお䜿甚したあずは芁らなくなったので、あっさりず資源ゎミに出しおしたった。先生も黒須も、自分はもうこの䞖にはいないのだからそうしおくれお良かったず、必ずや仰るず信じおいる。私は個人的には、文孊を愛する者が最もやっおはいけないこずは、眲名本を所有するこずず、墓参りをするこずだず思っおいる。それは文孊の本質ずは皋遠い、文孊ぞの畏敬の念のない、卑俗な行為である。

話が逞れたが、「幎酒」に戻すず、宎䌚が進むずたた瀬尟の匟の南遊が䞀垭ぶっお、そのあずで各々が各所で歌い始める。そうなるず先生も黙っおはいられない。今床は、倧正倩皇埡成婚の祝歌を歌い始めた。

國の瀎 菊玉怜校調
八重垣぀くる埡園生の 霞に旭照りそひお
千代友鶎鳎きわたる 春の宮居の長閑さよ
思ぞば國のいしづゑの いよゝかたたる今日の日ぞ
いざ涯りなき目出床さを 祝ひ歌はん諞共に

琎曲振興䌚 線『琎曲歌集 桜之巻』束本平曞店・1911幎刊・73pより

二十䞀䞖玀の感性からするず、喜び勇んでこの歌を倧声で歌うこずの、その感興に぀いおはほずんど理解ができないが、今の自分の幎霢から考えおみおも、先生が還暊を過ぎおこのような銬鹿隒ぎの先導を取っおいるずいうこずには぀くづく感嘆する。若さずいうよりも皚気だず思うが、お酒の力もあるのだろうけど、やはり私にはたるで瞁のない䞖界だ。「勇敢なる氎兵」ずの時ずは違っお、「幎酒」に茉っおいる「國の瀎」の歌詞もほが同じ、倧きな違いは二行目の「春の」の郚分が「東の」ずなっおいお、東の郚分には「はる」ず振り仮名がある皋床である。宎䌚の方は続けお救䞖軍の軍歌になだれ蟌んで、「ただ信ぜよおう」ず連呌し、揃っお手を振り足螏みしお、い぀たでもやめない。するずたた北村がずんでもないこずをやり始めた。

 い぀もの癖の居睡り閣䞋が、぀いさ぀き迄隒ぎ廻぀おゐたのに、すでに昏昏ず眠りに陥぀おゐる。怅子の靠れの䞊で、ぐらぐらしおゐる頭のうしろぞ北村が廻り、燐寞を擊぀お、ポマアドの぀いた髪の毛に火を぀けた。
 ぜう぀ず燃えたので、平󠄁山があわおお叩き消したら、埡本人がび぀くりしお目を芺たした。
 北村は味をしめお、寢おゐない者の頭にも火を぀けお廻぀た。䜕かに氣󠄀を取られおゐる所󠄁を、うしろぞ廻぀お燐寞を擊る。頭が燃えるから、び぀くりする。眞󠄀䞭では、ただ止めない。
 それ信ぜよ、おう
 ただ信ぜようおう

內田癟閒「幎酒」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊413pより

いやはや、呆れを通り越しお䜕やら腹が立っおきた。北村の遺皿集『めぐる杯』の冒頭には、ベレヌ垜を被っおニダ぀いおいる、晩幎の北村の写真が掲茉されおいるのだが、これがやはり芋るたびに䞍愉快になる悪魔的な顔぀きで、こんな奎が跋扈する摩阿陀會や埡慶ノ會ずいうものが、それが先生の寛容の裏にある傲慢さを芋せ぀けられる䌚のようで、さらにそれを助長する北村の䞍謹慎な行動は、床が過ぎお䞍快に転じた悪ふざけずしか思えない。

圓日の先生の日蚘を芋るず、この第二回埡慶ノ會にはこひさんず嚘の矎野さんも参加しおいるようだ。菊たさは先生の日蚘に䜕床も出おくるが、これは先生の生埒で早逝した菊島和男「垌倷公」「垌倷公の認印」などの息子の菊島和政のこずである。

䞀月䞉日 土曜日 十䞀月十八日
朝䞃床、十䞀時起、快、午埌快。午埌ラゞオ東京新井和子䟆、阿房󠄁列車續攟送󠄁ノ件也、承諟す。菊たさ䟆、みの䟆、先にステヌシペンホテルぞ行っおゐる平󠄁山の所󠄁ぞ菊たさを行かせる。倕近󠄁くこひ矎野ず出掛ける。去幎の今日ず同じくステヌシペンホテルの新幎會也。會者二十䞃人。支拂五䞀九六〇也、別にボヌむにチップ二〇〇〇を與ふ。それから虎ノ門のお靜ぞ行぀た、倚田北村䞭村女絊䞀人平󠄁山送󠄁り䟆る。就耥二時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十六巻・犏歊曞店・1989幎刊166~167より

第四回 摩阿陀會
開催幎月日昭和二十八幎䞀九五䞉幎五月二十九日金
先生の幎霢数え六十五歳満六十四歳
䌚堎新橋駅「日本食堂」
先生の䜜品「門の柳」単行本『犁客寺』収録

摩阿陀會も四回目ずなるずルヌティン化し、先生の灰汁も倧分抜けおきたず芋え、スラスラず読みやすくなった。最初は摩阿陀會に関係ない話で、阿房列車で行った九州で旧友に䌚う話、孊校の先生だった頃に無闇に腹を立おおいた話、ドむツ語教垫を逞脱しお囜語の䜜文を担圓しおいた話ず続き、そこから北村の曞いた䜜文を芚えおいないずいうこずを思い出すず、そのたた北村の摩阿陀會回文の話になる。北村の回文は、先生も難儀するほどの難文らしいが、私的にはどうでもいいくだらない内容で、簡単なこずを難しくいうずいうよりも、慇懃無瀌に駄文を捏ねくり回しおいるだけで䜕の面癜みもない。第二回埡慶ノ會での乱暎狌藉で、北村のこずがさらに嫌いになった。

「門の柳」では、そういう悪ふざけや銬鹿隒ぎのこずはあたり曞かれおいないが、今回は先生の長い挚拶が収録されおいる。それは自分はもう寿呜だから柳の枝に銖を括っお死ぬこずにしたずいう内容で、う〜ん、これも切れはいたいち、どぎ぀い冗談で笑いを取ろうずしたのかもしれないが、銖を括るのが柳の朚だけに、颚たかせに揺れたくる話に腰がなくお、あたり面癜くない。先生の挚拶に続いお宎䌚が始たるず、䟋によっお平井のノァむオリンが登堎するが、その前に先生、たた歌い出した。

先生は、聎くずなればノァむオリン・゜ナタを䞭心ずしたクラシック音楜の愛奜家で、私も奜きなバッハの無䌎奏などもお奜みだが、歌うずなるずどうしおもこういうものになっおしたうので、宎䌚で本人たちが歌っおいるのは楜しいのだろうが、流石に玠面で聎くには耐えない。「青葉茂れる桜井の」は、小接安二郎の『圌岞花』でも、蒲郡で同窓䌚をやっおいる、ちょうど摩阿陀會の昔の孊生ず同幎代のおっさんどもが、笠智衆の楠朚正行蟞䞖を曞するの詩吟を聞いた埌で、みんなで歌っおいる。

「湊川」は十五番たである長い歌で、先生は「青葉しげれる櫻井の」から初めお、「みなわず消󠄁えし兄匟の、淞き心は湊川」たで挕ぎ぀けたず曞いおいる。最埌の「淞き心は湊川」は、元の歌詞は「心も枅き湊川」で、ここでもたた先生は前埌を逆にしお芚えおいるようだ。先生におけるこの歌詞の転倒は、䞀䜓どのような心理が霎すものなのだろうか。平井がツィゎむネルワむれンを匟き、途䞭で間違えたようで違ひネルワむれンだず排萜た埌、続けおこれもお決たりの南遊の講談が先生の知らないうちに終わっお、先生が講談なら自分も知っおいるず蚀っお話し出す。

「秊の始皇垝は、宮䞭に䞉千の矎姫をたくはぞ絊ひ、裞にしおう぀䌏せに寢かしたお尻の䞊を、ずん、ずん、ずんず枡らせ絊ふ。お尻のあぶらでおみ足を蹈みすべらし、す぀おんころりずころがり絊うた所󠄁にたたくらを遊󠄁ばしお、朕は今晩󠄁この所󠄁に䌏すず仰せられる。がうぎなものですなあ」

內田癟閒「門の柳」『內田癟閒党集』第䞃巻・講談瀟・1972幎刊409pより

これも先生の珍しい゚ロネタのひず぀だろうか。続けお今床は法政倧孊の校歌、正しい歌詞は「若きわれらが呜のかぎり ここに捧げお愛する母校」だが、われらはもう若くないので「叀きわれら」ず倉えお歌っおいる。そうこうしおいるうちにお時間ずなり、先生䞀行は䟋によっお、矎姫が列をなす虎ノ門のキャバクラ・静ぞ、これも恒䟋の流れになった。

五月二十九日 金曜日 四月十䞃日 誕生日垞也
雚、十二時半󠄁起二十床半󠄁、午埌䞊がる曇二十䞀床半󠄁。午埌新朮社絊仕皿料內借の八を䞀〇〇〇円屆け䟆。倕倚田奧脇に迎󠄁ぞられお䞀緒に新橋驛暓䞊日本食󠄁堂の摩阿陀會に行぀た。會者䞉十五人。埌で虎ノ門のお靜ぞ廻り平󠄁山菊たさに送󠄁られお歞る。就耥䞉時。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十六巻・犏歊曞店・1989幎刊207pより

第䞉回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和二十九幎䞀九五四幎䞀月䞉日日
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品なし

この幎の埡慶ノ會は、先生の䜜品はない。先生の日蚘を読むず、こひさんを連れお行ったのは去幎ず倉わらず、しかし嚘の矎野さんは参加しなかったようだ。䌚のあずの二次䌚は恒䟋の静ぞ行く。たさかこひさんは、䞀緒に行っおはいないず思いたすが。

䞀月䞉日 日曜日 十䞀月二十九日
快、朝十䞀床、十時半󠄁起十二床半󠄁、ストりノ二十床、午埌快無颚ストりノ二十二床半󠄁。倕近󠄁くステヌシペンホテルぞ行く、嘉䟋の新幎宎會也。こひを䌎󠄁なふ。お客二十九人〆お䞉十䞀人の宎垭也。お靜ぞ廻り、酔぀お平󠄁山その他ず同車しお歞る。就耥䞉時。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十六巻・犏歊曞店・1989幎刊271pより

第五回 摩阿陀會
開催幎月日昭和二十九幎䞀九五四幎五月二十九日土
先生の幎霢数え六十六歳満六十五歳
䌚堎新橋駅「日本食堂」
先生の䜜品「けふの瀬」単行本『犁客寺』収録

五回目の摩阿陀會、単行本『犁客寺』では、四回目の「門の柳」ず五回目の「けふの瀬」が䞊んで収録されおいる。五回目ずもなれば會の次第は完党にルヌティン化し、倚田の開䌚の挚拶、先生の倧ゞョッキビヌルに続いお先生の挚拶になるが、今回は趣向を倉えお、参加者の前でテヌプを流すずいう。そのテヌプは、先生が宮城道雄の家に遊びに行った際、興が乗っお先生がその堎で歌った歌を、宮城がテヌプレコヌダヌに録音したものだ。

 今倜もおそるおそる私が録音をするから䜕か唄をずいうず、先生どう気が向いたのか唄い始めた。「氎をたくさん汲んで来お、氎鉄砲で遊びたしょう、䞀、二、䞉、四、シュッシュッシュッ」ずいうのが初たりで、次は「そのたた薬の効胜は、オむチニ、りゅういん胃病に、腹䞋し、オむチニ。産前産埌や血の道に、オむチニ、オむチニ」ずいうのである。
 これは私たちの子䟛の明治時代に掋服を着お、キむの぀いおいないアコデオン、その頃は手颚琎ずいっおいたのを匟いお唄いながらやっお来る薬売りであるが、それが党囜的にどこにでも廻っお来る。倧人も子䟛もこの節を芚えおみんな真䌌をした。
 癟閒先生はしきりにその歌を続けた。「神経衰匱房事過床、オむチニ、オむチニ。倩才きちがい䜎胜児、オむチニ、オむチニ」このあずは癟閒䜜の口から出たかせではないかず思った。それからいろいろ唄っおいる䞭にその録音を聞かせるずすっかり興に乗っお、たた぀づけお唄い出した。

宮城道雄「癟鬌園の越倩楜」『定本宮城道雄党集 䞋巻』東京矎術・1972幎刊330~331pより

ご自身で歌う歌ずなるず、先生は子䟛の頃のたたで、酔った勢いずはいえ、還暊過ぎたじじいが氎あそびの童謡を歌うのは些か気色悪い。「氎あそび」に続いお歌ったのが「オむチニの薬屋さん」で、宮城の解説にもある通り、これは明治倧正期に、軍服姿で手颚琎を奏で぀぀、オむチニ、オむチニず号什をかけながら、薬の効甚を歌いながら売り歩いた行商人が歌っおいた歌のこずである。ちなみに、「神経衰匱」以䞋の歌詞は、宮城によるずどうやら先生の口から出たかせの歌詞らしい。䞀郚、珟代の瀟䌚通念や今日の人暩意識に照らしお、䞍圓たたは䞍適切ず思われる衚珟や語句がありたすが、先生がすでに故人であり、たた歌唱圓時の時代的背景や資料的䟡倀を考慮しお、圓時の衚珟のたた掲茉しおおりたすこずを、あらかじめご了承䞋さい。

続けお先生は、「汜笛䞀聲新橋を」の「鉄道唱歌」、「靑葉茂れる櫻井の」の「湊川」を終わりたで歌い、さらには日枅戊争の安城川の歌や「幎の初めのためしずお」の正月の歌「䞀月䞀日」をくだらない替え歌にしお今様の越倩楜で歌い、続けお「勇敢なる氎兵」ず倩長節の歌ず進んで、最埌は「君が代」で締めたずのこずである。倩長節の歌ずいうのは䜕皮類かあるらしく、面倒なのでいちいち調べないが、この時先生が歌ったのは䜜詞高厎正颚・䜜詞䌊沢修二の倩長節の歌だ。先生は録音された自分の歌が倧倉気に入っお、倜曎けになるたで䜕床もし぀こくプレむバックし、それで自分で自分のし぀こさに蟟易しお、「このじじいし぀こいなあ」ず蚀ったそうである。第五回摩阿陀會の挚拶で先生は、今日はこのテヌプを皆さんに聞かせるず通告、時間にしお四十分はあるそうだ。し぀こくお迷惑なじじいだ。

 小說新朮の四月號に、宮城檢校が「癟鬌園の越倩暂」ず云ふ隚筆を寄皿したのを、諞君の䞭に讀んだ人もゐるだらう。その䞭に藥賣りの文句が出お䟆る。これも諞君には耳新しいかず思ふから、テヌプを廻す前󠄁にあらかじめ解說しおおく。
 その藥屋は、僕は挫然ず富山かず思぀おゐたが、さうではなく本鋪は倧阪だ぀たのかも知れない。オむチニ通ず云ふので、そこから党國に藥賣りを出しお行商させた。制服󠄁制垜󠄁に手颚琎を持぀お、歌に合はしお鳎らしながら、オむチニ、オむチニず足拍子を螏んで行く。歌に曰く、
 そのたた藥の效胜はオむチニ
 たんせき、溜飮、腹くだし
          オむチニ、オむチニ
又曰く、
  產前󠄁產埌や血の道󠄁にオむチニ
そこで僕には新䜜がある。今にテヌプが歌ひ出す。
  神󠄀經衰匱房󠄁事過󠄁床󠄁オむチニ、オむチニ
  倩才氣ちがひ䜎胜兒オむチニ
どうかゆ぀くり埡󠄁鑑賞を願ふ。その間󠄁僕󠄁はこれにおお祝󠄀ひの埡󠄁酒󠄁を頂戎する。

內田癟閒「けふの瀬」『內田癟閒党集』第䞃巻・講談瀟・1972幎刊413pより

「オむチニの薬屋さん」に぀いお、宮城の文章ずほずんど同じ内容になっおいるが、ここでは先生が「藥売りの文句が諞君には耳新しいず思うから」ず断った䞊で、挚拶の䞭でその解説をしおいるこずに泚目したい。

それにしおも、いくら先生を敬愛する摩阿陀會の参加者たちも、還暊過ぎたし぀こいじじいが歌う、ぶっきらがうで䞀本調子な歌を四十分も聞かされるずいうのは、䞀皮の拷問であったに違いない。実は宮城が録音したこの時のテヌプは、宮城が私的にレコヌド化しお先生に莈呈しおおり、先生はそれが十二むンチ盀で四枚八面あるず蚀っおいるが、四十分で四枚八面ずいうこずは、䞀面が五分の蚈算になるので、おそらく䞃十八回転の十二むンチのアセテヌト盀だろう。先生は宮城にもらったレコヌドを平山䞉郎に聞かせたが、平山は途䞭でいやだいやだず蚀い出し、悲しくなるず蚀ったそうだ。テヌプからアセテヌト盀にした際に音が劣化し、先生が蚀うには陰々滅々ずしお、幜霊がうなされおいるように聞こえたらしい。それを平山は、先生の遺声を聞かされたように感じたのではないかず、先生は曞いおいる。

ふず、先生猺垭の摩阿󠄀陀會挚拶󠄁をテヌプレコヌドに錄音󠄁したのがあるのを思ひ出しお、曞架の奧からそれを取り出󠄁し、恐る恐る機械󠄁に掛けおみた。テヌプがゆ぀くり廻󠄁蜉しはじめお、䞍意に、劙な咳拂ひが聞えた途󠄁端、竊然ずしおスむツチを切󠄁぀た。──その聲を平󠄁生な氣持󠄁で聞󠄁く勇氣は私󠄁には未だなか぀た。

平山䞉郎「「摩阿陀會」驥尟」内田癟閒『摩阿陀會』接軜曞房・1976幎刊270pより

これは平山䞉郎の、先生没埌の回想。テヌプレコヌドっお䜕やねん、ず突っ蟌みたくなるが、テヌプレコヌダヌの間違いだろう。そうなるず、宮城道雄が先生に送った、先生の歌入りレコヌド四枚はどこに行ったんでしょうね。

摩阿陀會の方は、先生の歌う「勇敢なる氎兵」がテヌプから流れるず、「た
ふずき血もお甲板は、からくれなゐに食られ぀぀」の郚分で、遅れおきた北村が「からくれなゐに氎くぐる」ず歌ひ返し、そのあずはい぀も通りの倧隒ぎの摩阿陀會に戻ったようである。やがお宎䌚がお開きになり、い぀もなら二次䌚䌚堎の矎姫のお静ぞずいうこずになるが、䌚の埌の二日酔いならぬ䞉日酔いの埌遺症ず、脚が出たくる費甚のこずを考えお、今回はどこにもよらず家に垰るこずにした。ずころが先生ず䞀緒に、参加者の䞀郚が先生の家に぀いおきお、総勢十六名が先生の狭い家に犇くこずになった。しかし、これはどうやら先生の倧げさな創䜜のようで、圓日の日蚘を芋るず、

五月二十九日 土 四月二十䞃日 摩阿陀會
曇埌、十䞀時起20床、午埌薄曇24床。午埌井䞊氏䟆。䞉重の前󠄁田䟆、會はす、圌は倕出垭する由。倕奧脇の迎󠄁ぞにお新橋驛日本食󠄁堂の摩阿陀會ぞ行く。會者33人。散る時に內䞉人぀いお䟆お䞊がり蟌󠄁み埌からお靜の䞉人加はりお二時半󠄁過󠄁たでるゐた。四時前󠄁Bt。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十六巻・犏歊曞店・1989幎刊312~313より

ずあり、䌚から家にやっおきたのは䞉名で、先生に来おもらえなかったお静から、マダムず矎姫の蚈䞉名が家にたでやっお来たのである。぀たり、家に来たのは党郚で六名で、「けふの瀬」では十名氎増ししおいる。お静のマダムが持っお来たシャンペンを開けお飲み、先生の家にあった酒類を飲み尜くしお、先生の家での二次䌚は終わり、二時半過ぎにみんなは垰っお行った。そしお翌日になっお事件が起きるのである。

 別に󠄁入り甚があ぀たわけではなく、だから探󠄁したのではないが、䜕か倖の事で曞霋の抜斗󠄁を開けたら、昚倜出がけに持぀お行぀た掋服󠄁のポツケツトの諞󠄀品が、各󠄁きちんず元の䜍眮󠄁に玍󠄁た぀おゐる䞭に、ただ蟇󠄀口󠄁がある筈󠄁の所󠄁だけが空󠄁いおゐる。぀たり蟇󠄀口󠄁がない。をかしいなず思぀た。

內田癟閒「けふの瀬」『內田癟閒党集』第䞃巻・講談瀟・1972幎刊419pより

もう想像が぀くず思いたすが、翌日の倕方に甚事で来た、二日酔いでただ朊朧ずした顔をした平山䞉郎にこの蟇󠄀口󠄁のこずを聞いたら、北村が額の裏に隠したず蚀った。きたむらぁ〜〜〜。

第四回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十幎䞀九五五幎䞀月䞉日月
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「寶の入船」『いささ村竹』収録

第四回目の埡慶ノ會、ここで改めお埡慶ノ會のルヌティンを列挙するず、
①幎末が近づくに連れ、先生は埡慶ノ䌚の費甚の錬金術を開始
②芋事錬金盞成っお、参加者に案内状を送る
③期日たでに返事しない奎がいるずご立腹
④圓日は開始時間に䌚堎に到着
⑀座垭に金瞁のネヌムガヌドがあっお、曞かれた名前は「閣䞋」付
⑥䌚が始たる前に参加者党員で蚘念撮圱埌日党員に写真を郵送
⑊䌚が始たり、たずは先生の挚拶
⑧食事前の喫煙は厳犁灰皿撀去
⑚先生の挚拶の埌、先生が倧杯を飲み干しお宎䌚開始
⑩飲めや歌えの倧隒ぎ
ずいう流れで、今回は宮城道雄が初参加しお、⑥の蚘念撮圱では、北村が今日は宮城先生が来おいるから、撮圱の時はみんなで目を瞑ろう、その代わり宮城先生は目を開けおくださいず、䞋品で心無い冗談を蚀っおいる。今だったら䞀発アりトの発蚀だが、写真を撮ったのは若い女性の写真家で、矎人だったらしく、それで北村は䜙蚈にそんなくだらないこずを蚀ったのかもしれない。出来䞊がった写真を芋たら、誰も目を瞑っおいなかった。圓然だ。

「寶の入船」では、今回は先生の長い挚拶が収録されおいるが、こちらもい぀もず倉わり映えのしない内容で、いよいよ先生におけるミニマリズムの退屈さを発揮しおくる。ノラの時の日蚘のように、この退屈さが次第に聞かないず満足できなくなる䞭毒性になっおいくようだ。挚拶が終わっお䌚が始たり、お酒が回っおたた先生が歌い出す。先生、今床は䜕の軍歌です

もういい加枛飜きた 。ずいうか、日本の軍歌っお党郚同じですよね。四小節の歌詞があっお、「もしもし亀よ亀さんよ」ず同じような四フレヌズのメロディを延々ず繰り返しおいるだけで、軍歌のみならず「鉄道唱歌」も「青葉茂れる桜井の」も童謡も、今だったらトレパク疑惑になるくらい党郚同じです。たあ、そういう様匏だったのでしょう。この埌先生は、初参加の宮城道雄に郜々逞をやっおくれずせがみ、宮城は最初は固蟞したが、先生が十䞃、八幎前に宮城の郜々逞を聞いた話を事现かに説明したら、芳念しお郜々逞をやり始めた。端唄、小唄、郜々逞、浪花節、それぞれ違いがあるらしいが、気になる方は各自でお調べください。そうしおお開きの時間になったが、梯子はしないず決めおいた先生は、そのたた二、䞉人ず䞀緒に家に垰り、塩鮭で䜕杯もご飯を食べたそうだ。途䞭でご飯がなくなっお、あわおおこひさんがご飯を炊き足したそうで、本圓に迷惑な奎らだ。翌朝先生が起きるず蓄音機の䞊に玙袋があり、その䞭にお金が入っおいた。い぀も足らないのに、珍しく昚倜の䌚の費甚が䜙ったそうである。それでタむトルが、埡祝儀「寶の入船」ずなったようだ。

䞀月䞉日 月曜日 十二月十日
快、颚あり、朝䞃時半󠄁起少しく胞がどきどきしその他氣分良からず、䞊厠しお埌寢なほす、十䞀時前󠄁起倧體平󠄁垞に埩す。ストりノ十八床、午埌快、埌雲出づ、ストりノ二十床半󠄁。タこひず出掛けおステヌシペンホテルぞ行く、嘉䟋の埡慶の會也。出垭瞜員四十䞉人倚田、平󠄁山、菊たさず歞りお埡を食󠄁べた。就耥䞀時過󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十六巻・犏歊曞店・1989幎刊370~371より

第六回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十幎䞀九五五幎五月二十九日日
先生の幎霢数え六十䞃歳満六十六歳
䌚堎新橋駅「日本食堂」
先生の䜜品「墓朚拱ならず」単行本『いささ村竹』収録

「墓朚拱ならず」の第䞀章は、先生ず倚田の䌚話になっおいる。特に今回は先生を摩阿陀會に招くだけでなく、䜕か莈り物をしたいずいうこずになり、それで倚田が先生に䜕が欲しいかを聞くのである。そんな質問に察しお、先生がたずもに答えるわけがない。倚田の提案に、散々難癖を぀け、難題を出しおはぐらかしおいる。途䞭でフロックコヌトが欲しいず蚀い、それならば掋服屋に行っおいただいお採寞しおもらわなければず倚田が蚀うず、以前に払い過ぎの皎金が戻っお来お、それで新しい背広を買おうずした時に、こひさん蚀ったこずず同じこずを蚀っおいる。

「僕は嫌だ」
「仕暣がないな。それぢや掋服󠄁屋をよこしたせう」
「よこしお、どうする」
「寞法を取るのです」
「それが嫌なんだよ。解らない人だな。卷尺を卷き぀けたり、物差しの棒を股倉や腋の䞋ぞ突぀蟌んだり、くすぐ぀たくお仕暣がないぢゃないか」
「匱󠄁぀たな、それぢゃどうしたせう」
「吊るしの旣補品がいい」
「それはありたせんね、フロックコヌトのレディヌメヌドは。この頃では叀着屋だ぀おないでせう」
「それなら、いい」
「いい぀お」
「いらない」

內田癟閒「墓朚拱ならず」『內田癟閒党集』第八巻・講談瀟・1972幎刊71~72pより

解らない人はお前じゃ〜〜。ムカ぀くけど、面癜いなあ。面癜いけど、ムカ぀くなあ。先生にこういう態床を取らせたら、そのクズぶりを存分に発揮しお、右に出る者がいない。こんなのに付き合っおる摩阿陀會の連䞭、よっぜどの物奜きです。

宎䌚が始たっお、慣䟋通り先生の倧ゞョッキの䞀気飲みのあずの先生の挚拶は、今回は先生の日垞の䞀日の過ごし方の話で、䜕かの随筆にも同じこずが曞かれおいたが、ずにかく朝昌起きるのは遅いし、日課にしおいる片付けで日䞭が終わり、倕方から仕事をしお倕飯が倜䞭になるので、それたでは家に蚪ねお来られおも困るから、来るなら倕飯が終わる倜䞭の二時か䞉時にくらいにしおくれずいう話だった。先生の挚拶の埌、䌚堎では蓄音機から行進曲が流れ、肝煎の䞉人が倚田を真ん䞭にしお物々しく登堎、先生に目録を枡した。摩阿陀會のみんなからのプレれントの冷蔵庫の目録である。先生も恭しくこれを受け取り、䞭身を芋おみるずほずんどが癜玙のたたで、「目録」「冷蔵庫 壺」ず肝煎䞉人の名前があるだけだった。するず、これを芋た先生、癜玙の郚分を読み䞊げるずいう、ダダむスト的行動を始めた。

「ちん飮たうに」
高等小孞の二幎生の時に暗誊させられたから今でも芺えおゐる。
朕惟フニ、我カ皇祖皇宗、國ヲ肇ムルコト宏遠󠄁ニ、執ヲ暹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ䞀ニシテ、䞖々厥ノ矎ヲ濟セルハ、歀レ我カ國體ノ華ニシテ、敎育ノ淵源亊寊ニ歀ニ存ス。
爟臣民、父母ニ孝ニ、兄匟ニ友ニ、倫婊盞和シ、朋󠄁友盞信シ、
狂犬おのれを嚙み、癜晝人を毆打し
「いかん。䞍敬きはたる。やり盎し」

內田癟閒「墓朚拱ならず」『內田癟閒党集』第八巻・講談瀟・1972幎刊79pより

これは教育勅語であっお、冒頭の「ちん飮たうに」は、教育勅語の冒頭の、「朕惟フニ」チンオモフニをパロっおいるのである。最埌の「狂犬」云々の郚分も原文にはないふざけた文句で、それで䞍敬極たるず自分で蚀っお、さらに先生は教育勅語を最埌たで暗誊した。

第六回の摩阿陀會のこの日は日曜日で、日曜日はお静は定䌑日だから、今日は二次䌚に行かずに枈むず先生は思っおいた。前回は二次䌚でお静に行かなかったら、逆にお静のマダムず矎姫が䞉人で先生の家にやっお来たが、今回は来ないのかず思ったら、先生たち来おもらうために日曜で定䌑日だずいうのに特別に店を開けたらしい。矎姫たちに錻の䞋をなが〜く䌞ばしお、散々錻毛を抜かれおいるらしく、がったくるには先生たちは誠に郜合の良い客だったのだろう。

五月二十九日 日曜日 四月八日 誕生日也
雚、九時起二十䞀床半󠄁、又寢しお十二時起、雚二十䞀床、午埌雚二十二床半󠄁。午過󠄁淞兵衛䟆、お祝の倧鯛車海老ワラサをくれたり。倕倚田奧脇の迎󠄁ぞにお新橋驛日本食󠄁堂の摩阿陀會ぞ行く、會者玄四十人、埌で倧勢ず虎ノ門お靜ぞ廻り、倚田平󠄁山菊たさに送󠄁られお歞る、䞉人共䞊がらず。就耥䞉時過󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十六巻・犏歊曞店・1989幎刊411~412pより

第五回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十䞀幎䞀九五六幎䞀月䞉日火
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「埡慶五幎」単行本『いささ村竹』収録

「埡慶五幎」はこれたでず違い、先生の挚拶だけが収められおいる䜜品。䌚は原則ずしお毎回同じこずの繰り返しだから、䜜品の方はせめおノァリ゚ヌションを持たせようずいうこずなのか、しかし、䌚の内容もそのための先生の準備の錬金術も毎回ほが同じなので、それ以倖のネタは䌚の開催䞭にハプニングでもないず平坊なミニマリズムに陥るこずになる。今回は䌚の最䞭に特に面癜いこずは無かったのか、先生の挚拶もい぀ものお金の工面に始たるが、い぀もその錬金に苊劎しおいる先生の姿を知っおか、今回の埡慶では参加者からの寄付があった。先生はその寄付金を、䌚の費甚に充おるのではなく、点字の図曞通に寄付するこずにしたず挚拶の䞭で蚀っおいる。宮城道雄を始め、先生は幎少の頃から琎を習っおいたから、盲人のお琎の垫匠に瞁が深く、自分も点字の勉匷もしたこずがあるそうで、そういう瞁からの点字図曞通ぞの寄付なのだろう。玔粋に捉えれば「先生、ご立掟な志です」ず蚀いたいずころだが、普段の䌚の乱暎狌藉ず先生の我儘のク゜ぶりからしお、こんな殊勝な志を突然芋せられおも、その志に反しお癜けるだけである。

䞀月䞉日 火曜日 十䞀月二十䞀日
薄氷、快、八時半󠄁起九床、十時から又寢しようず思぀たが終󠄁に寢られず十二時過󠄁離床、快ストりノ二十床、午埌快無颚、ストりノ二十二床。朝矎野の病氣の速󠄁達󠄁にお小林博士ぞ䟝頌の電話を掛けたり、氣を遣󠄁ひお寢䞍足也。午埌䌊藀晚䞀䟆。倕こひず出掛けおステヌシペンホテルぞ行く、幎幎嘉䟋の埡慶の會也、會者四十䞉人。菊たさ同車にお歞り、平󠄁山靜岡の氞田も䟆おゐた。就耥二時半󠄁過󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十䞃巻・犏歊曞店・1989幎刊62~63より

第䞃回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十䞀幎䞀九五六幎五月二十九日火
先生の幎霢数え六十八歳満六十䞃歳
䌚堎新橋駅「日本食堂」
先生の䜜品「第䞃囘摩阿陀會」単行本『ノラや』収録

「第䞃回摩阿陀會」も、先生の挚拶だけで成り立っおいる。しかもその挚拶もだいぶ短い。やはり毎回同じ内容を、同じように曞くには気が匕けたのだろうか。考えお芋れば、酒飲みが䞀堂に介しお酒を飲んで、ご銳走を食うだけの䌚なのだから、倉わり映えがするこずもないのは圓然である。先生の挚拶しにしおも、幎々蚀うこずもなくなっお来お、今回は先生の葬匏の話である。先生の葬匏に圓たっおは、皆さん必ず銙兞を持っお来いずのこずで、いざずいう時に銙兞に困らないように、䞀口十䞇円の銙兞保険に入っお、毎月それを積み立おろず蚀っおいる。

五月二十九日 火曜日 四月二十日 誕生日也、摩阿陀會
、薄日、十二時起二十五床、午埌快二十䞃床、倜半󠄁雚。今日もノラが四時半󠄁に襖を匕぀搔いたので目がさめおその埌倜䞭寢られなか぀た。朝寢おゐる內に淞兵衛嘉䟋のお祝の鮮鯛、海老、わらさをくれた。山䞋の息子父の䜿におゞペニヌヲヌカヌを屆け䟆、北海道󠄁の北村䞉郎しやけのめふんの壺を持぀お䟆、午埌䞊田健次郎䟆、ロりケツ染をくれた。倕近く平󠄁野力䟆、ひじきあらめ等をくれた。倚田奧脇迎󠄁ぞに䟆、平󠄁野も同車にお新橋驛暓䞊の日本食󠄁堂の摩阿陀會ぞ行く、會者四十幟人也。倚田、淞氎、菊政、小林博士、平󠄁山に送󠄁られお歞る。埌で倧を食󠄁ひお就耥二時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十䞃巻・犏歊曞店・1989幎刊102~103pより

第六回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十二幎䞀九五䞃幎䞀月䞉日朚
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「埡慶六幎」単行本『ノラや』収録

今回の「埡慶六幎」も短め、先生の挚拶ず䌚堎の様子が半々である。先生の挚拶は昚幎に続いお寄付のこずで、この日も寄付を募ったがその金額が少ないず文句を蚀っおいる。そしお、

去幎は宮城がゐるず云ふ爲に盲人の點字圖曞通ぞ寄附したのではなか぀たが、今幎は同じく點字圖曞通ぞ寄附するずしおも、宮城さんはもうこの䞖にゐないのです。宮城檢校の噞盀菩提ずんしようがだいの爲にも、皆さんも぀ずおよこしなさい」

內田癟閒「埡慶六幎」『內田癟閒党集』第八巻・講談瀟・1972幎刊295pより

ず蚀われお、ああ、そうか、もう宮城が亡くなった埌かず気が぀く。前幎昭和䞉十䞀幎の六月に、宮城は東海道の刈谷駅付近で奇犍に遭い、呜を萜ずしおいたのである。その死をネタにしおいるわけではないのだろうが、先生の蚀い方は䜕ずなく脅迫めいおいお、折角の新幎の䌚が湿っぜくなるのを避けおそうしたのか、宮城怜校も草葉の陰で苊笑いしたに違いない。そしお、その埌の、䟋によっお北村の所業がい぀もながらに酷い。

二人が這入぀お行぀たのを忘れた時分にな぀お、パントリから變な恰奜をした二人が出お䟆󠄁た。先に立぀た孟埳は片脚を釣󠄁るしおび぀こになり、束葉杖󠄀
を兩脇に挟んで、ずこずこ歩き出した。同垭の脚の惡い、ず云ふより䞀本しか脚がない南遊󠄁の束葉杖󠄀を取り䞊げたのである。頞から玐で䜕か曞いた厚玙を胞にぶら䞋げおゐる。遠󠄁くお讀めないが、路ばたや列車內にゐる傷痍軍人の眞󠄁䌌をしたのだらう。埌から淞兵衛が癜い玙箱を突き出す暣に手に持぀お぀いお行぀た。
 さうしお二人は宎垭の各人の間を、䞹念に䞀぀づ぀廻り始めた。

內田癟閒「埡慶六幎」『內田癟閒党集』第八巻・講談瀟・1972幎刊295pより

これを読むず私は、暪溝正史原䜜の映画『獄門島』の冒頭に出おくる、䞉谷昇挔じるずころの、片足を無くしお束葉杖で歩く埩員兵を思い出す。この埩員兵、実は片足を無くしおなどいないし、それどころかずんでもない埩員詐欺垫だった。埩員詐欺ずいうのは、兵士ずしお戊争に行った人のいる家を呚り、お宅の息子さんは無事で、もう盎ぐ戊地から戻りたすなどず嘘を蚀い、それに喜んだ家族から金品や物資を貰う詐欺のこずだ。実際には、その兵士は戊地で亡くなっおおり、戊死公報が䌝えられる前にその家に行き詐欺を働くのである。戊争ずいう狂気が生む、卑劣で蚱し難い詐欺だが、そもそもそれが戊争の本質であるず思えば、この埩員詐欺も戊争の䞀郚なのかもしれない。『獄門島』では、本鬌頭の千䞇倪が、本圓は戊死しおいるのに、この埩員詐欺によっお生きお垰っおくるず嘘を䌝えられたために、それが理由で連続殺人が起こるのである。その殺人の理由にしおも、戊争ず䜕ら倉わらない自分勝手で匷欲で卑劣な理由で、そういう時代だったずいえばそれたでだが、だからこそ、䞋品で䞋劣な北村孟埳が、い぀もながらこういう床を超えた悪ふざけができるのも、今では先生の䜜品の䞭だけのこずである。

䞀月䞉日 朚曜日 十二月䞉日
䞀時間眠りですでに十二時に目がさめた、次いで二時に起き、䞉時に起き、四時に起きもう寢られず朝八時頃こひを呌びお郚屋にお朝食󠄁す、こひを歞し十時頃からう぀らう぀らしお䞀時半󠄁起、䞉時頃から宎會堎の方ぞ行く、すぐ埌から平󠄁山䟆、埡慶の會の會者四十八人也。倚田、菊たさ、平󠄁山ず歞りお麥酒を飮み、就耥䞉時。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十䞃巻・犏歊曞店・1989幎刊164pより

䞊蚘に匕甚した先生の圓日の日蚘では、前日の倜から朝たで䜕床も目が芚めた挙句に、八時頃にこひさんを呌んで郚屋にお朝食ずあるが、この日は先生は、前日から東京駅のステヌションホテルに泊たっおいたのである。『阿房󠄁列車』の時も、朝の出発時間が早い堎合、この時ず同じようにステヌションホテルに前泊しおいたが、この時もその方法を採ったのだ。

 今幎の正月二日には、本来なら二日は善哉のお雜煮を祝ふ家䟋なのだが䞀日ぢゆう寢おゐたのでそれも省畧、ではない省畧するず緣起が惡いから延期にしおおいお、倕方から家を出お東京驛のステヌシペンホテルぞ泊たりに行぀た。
 翌日の䞉日の晚は、恆䟋の埡慶ノ會で人を呌んでゐるが、倧分前󠄁から身體の加枛が惡く、果しおその定刻たでに家から䟆られるかどうか疑はしか぀たので、前󠄁晚からその會堎のステヌシペンホテルぞ䟆お、泊たり蟌󠄁みで翌晚のお客を埅たうず云ふ぀もりにな぀たのである。

內田癟閒「䞀本䞃冬」『內田癟閒党集』第八巻・講談瀟・1972幎刊281pより

「倧分前󠄁から身體の加枛が惡く」ずいう郚分が、ああ、そろそろ来るのか ず思わせる。

第八回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十二幎䞀九五䞃幎五月二十九日氎
先生の幎霢数え六十九歳満六十八歳
䌚堎新橋駅「日本食堂」
先生の䜜品なし

前幎に宮城道雄が䞍慮の事故で亡くなり、この幎の䞉月にはノラが行方䞍明になる。その圱響があっおか、先生は第八回摩阿陀會のこずを䜜品にしおいない。ノラがいなくなっおからただ二ヶ月あたり、先生はノラ探しに奔走しおおり、ず蚀っおも、実際に奔走しおいるのは、こひさんや摩阿陀會のメンバヌで、第八回摩阿陀會の圓日も、プリンスホテルで確保しおいた猫を、真倜䞭にこひさんず菊島に確認させに行っおいる。

五月二十九日 氎曜日 五月䞀日 誕生日第八囘摩阿陀會
曇、小雚二十䞀床半󠄁、午埌曇二十二床半󠄁、小雚。十時前󠄁起、午淞兵衛今日のお祝の葡萄酒サン゚ミリオンを持぀お䟆おくれた。午埌町內六番町からノラらしい猫の知らせありすぐにこひが銳け出しお行った、違󠄂぀おゐた、い぀か䞋條さんの所󠄁で芋た猫なる由。倕近󠄁く石厎䟆、ステヌシペンホテル社長の今日のお祝の麥酒䞀打を屆けくれたり。品川から電話ありおノラの事を聞き䞉毛の雌の二ヶ月の子をやるず云぀お䟆た、厚意を謝しおこずわる、又䞀讀者より電話あり男なり、芪切に慰めおくれお六ケ月は埅おず云぀た。今日䟆た手玙には八ケ月埅おず云ふのもあった。倕奧脇の迎󠄁ぞにお新橋日本食堂の第八回摩阿陀會ぞ行く、會者四十幟人也、四十六人の出垭通󠄁知なれども法政の評󠄁議員會にお敞人遲れたり。十二時頃歞る。倚田、平󠄁野、北村、小林、宮田、平󠄁山、石厎、淞氎、日䞋、菊たさ䞀緒に䟆、そら豆ずしのだ壜叞にお麥酒を飮み盎した。留守䞭に赀坂の觀光バスの名取ずもずの李王家の埌のプリンスホテルから、ノラの電話あり、みんなず歞぀たらすぐにこひ菊たさを
れおプリンスホテルぞ芋に行぀た。違󠄂぀おゐたけれど倜半󠄁十二時迄その猫を止めお眮いおくれた奜意難有し。就耥䞉時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十䞃巻・犏歊曞店・1989幎刊224~225より

第䞃回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十䞉幎䞀九五八幎䞀月䞉日金
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「埡慶䞃幎」「圌岞櫻」より単行本『東海道󠄁刈谷驛』収録

「圌岞櫻」ずいう䜜品の䞭の䞀章が、埡慶䞃幎の報告に圓おられおいるが、これも短く、たた先生の挚拶のみである。話の内容もたた同じで、点字図曞通に寄付する寄付金を払えずいうこずず、䌚の出欠垭の返事が遅い、䞭には自分の名前を曞かずに返信した奎がいるなどのお小蚀である。むベントも日垞になれば陳腐化する、ずいうこずか。ノラがいなくなっお、䞀幎が経ずうずしおいる。日蚘にある「Nora 282」ずは、ノラがいなくなっお二癟八十二日目ずいう意味である。

䞀月䞉日 金曜日 十䞀月十四日 Nora 282
厚氷、快寒颚、ストりノ十八床、䞭䞭溫床䞊がらず午埌挞く二十䞀床半󠄁。十二時過󠄁起。四時半󠄁頃から八時半󠄁過󠄁ぎ迄寢られなか぀たが今日は止むを埗ないから起きた。玄關の四孔のストりノず茶の間の六孔ずを眮きかぞた、小さい四孔の方が六孔より調子よければなり。倕近󠄁くからこひずステヌシペンホテルぞ行く䞃回目の埡慶の會也、會者四十九人、埌で八人倚田、奧脇、菊たさ、石厎、日䞋、平󠄁山、淞氎、平󠄁野぀いお䟆お麥酒ヰスキヌを飮み、おむすびを平󠄁げお歞る。就耥四時。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十䞃巻・犏歊曞店・1989幎刊298~299より

第九回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十䞉幎䞀九五八幎五月二十九日朚
先生の幎霢数え䞃十歳満六十九歳
䌚堎新橋駅「日本食堂」
先生の䜜品「臚時停車」単行本『東海道󠄁刈谷驛』収録

「臚時停車」は、厳密には摩阿陀會報告の䜜品ではないが、第䞀章の「肖像畫」に摩阿陀會の話が入っおいる。過去に摩阿陀會の連䞭が、先生に冷蔵庫をプレれントしたこずがあるが、今回もたた䜕か莈り物をしたいずいうこずで、たずは肖像画はどうだろうかず先生に提案する。先生はこれを蚀䞋に断るかず思ったが、満曎でもなかったようで、それも良いかもしれないず䞀旊は考えるが、しかし肖像画を曞くにはその画家の前に座り、䜕日も䜕時間もじっずしおいなければいけないので、ずにかく䜕もしないで埅っおいるのが嫌いな先生は、自分には難しいず刀断した。しかも埅っおいる間に、その心的圧迫から、必ず持病の結滞が起こるだろうず心配したのである。それで旅行をプレれントするこずになり、この時は既に『阿房󠄁列車』の旅も終わっおいたし、たた宮城が亡くなっお二幎経ち、先生は宮城が奇犍にあった刈谷を蚪れおみたい気持ちにもなっおいた。そうず決たれば行く先は䞀぀、熊本八代の束濱軒ずいうこずになる。

この旅の垰りに、先生は刈谷で途䞭䞋車しお、そこで宮城の痕跡を蟿ろうず蚈画しおいたが、「臚時停車」の䞭では、やはり行くのはただ早いかず逡巡しおいる気持ちが描かれおいる。先生は宮城の葬匏にも行かず、宮城が亡くなった埌に宮城の家にも行っおいないが、それは䞍人情ずいうよりも自分がその悲しみに耐えられなくなるのが嫌だからで、それで宮城の死以来、宮城の面圱に近づくこずができなかったのである。このような先生の故人に察する態床は、芪しい人を亡くした時は毎回同じで、だから宮城が死に至った過皋を、刈谷の地で远䜓隓するなどずいうこずは、先生には耐え難いこずだったのかもしれない。「臚時停車」では、先生が刈谷で途䞭䞋車したのか、しなかったのかは描かれおいないが、講談瀟版党集第八巻の月報には、昭和䞉十䞉幎六月六日に撮圱された、刈谷駅近くにある宮城の䟛逊塔の前に立぀先生の写真が掲茉されおいる。

五月二十九日 朚曜日 四月十䞀日 Nora 428 誕生日垞阿陀會
快二十八床。二時前󠄁起。倕倚田奧脇の迎󠄁ぞにお新橋驛日本食󠄁堂の摩阿陀會ぞ行く、叀皀を祝぀お貰ひ、蚘念品ずしお旅行をプレれントしおくれた、十萬圓也。會者五十五人倚田、平󠄁野、平󠄁山、束本剛、菊たさ送󠄁り䟆、皻荷鮚にお麥酒を飮み盎す。就耥䞀時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十䞃巻・犏歊曞店・1989幎刊339pより

第八回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十四幎䞀九五九幎䞀月䞉日土
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「埡慶八幎」「䞉會芺え曞」より単行本『東海道󠄁刈谷驛』収録

昭和䞉十䞀幎に宮城道雄が亡くなり、昭和䞉十二幎にはノラが行方䞍明ずなり、昭和䞉十䞉幎は、今床はこひさんが倧病を患っお入院した。幞い元気になっお退院でき、第八回の埡慶ノ會に無事参加したのである。䌚の報告の「埡慶八幎」は、今回も先生の挚拶郚分のみ、取り立おお面癜くもないが、䟋によっおたた寄付の話をしおいる。そしお、こひさんも治っお目出床いから、今回は歀間奏楜を呌がうずしたが宮内庁に瞁故がないから断られ、それなら軍楜隊を呌がうず思っお近衛連隊ぞ行ったら、陞軍も海軍ももうないず蚀われたそうだ。無論冗談だか、それで圓日はゞンタを呌んだ。

「法埋は冷酷なものでありたす。メリヌは䞀片の麺麭の爲に囹圄の人ずなりたした。ドンパツパ、ドンパツパ、チタタチヌ」のあのヂンタです。

內田癟閒「埡慶八幎」『內田癟閒党集』第八巻・講談瀟・1972幎刊380pより

ず蚀われおも、䜕だかさっぱりで、芁するにサむレント映画のバックやサヌカスなどで挔奏しおいた小楜団のこずで、その埌のチンドン屋のようなものらしい。先生にはゞンタがノスタルゞヌの源泉なのかもしれないが、二十䞀䞖玀の私たちには、軍歌ず同じでどうにもゟッずしない。

先生の圓日の日蚘では、流石に病埌のこひさんを気遣っおいる蚘述もある。ノラの倱螪日数は消え、クルの蚘述に倉わっおいる。

䞀月䞉日 土曜日 十䞀月二十四日
快十床、埌ストりノ。二時起。支床しお迎󠄁ぞに䟆おゐる菊たさずステヌションホテルの埡慶の會に行く、倖ぞ出たがお正月のせゐか䞞でタクシヌが䟆ないので盎ぐ近󠄁くの田屋の前󠄁の宿車に出車を頌んだ、その車を匕返󠄁さしお埌からこひず矎野を䟆させた、こひが出垭出䟆お誠にお目出床い。會者五十䞉䞉人也、平󠄁山に確かめないず正確な人敞はわからない。十䞀時過󠄁ぎおから匕き䞊げお歞぀た。倚田その他送󠄁぀お䟆たがこひが先に歞぀お寢おゐるのでだれも䞊がらせなか぀た。今日午たぞ眞さんから送󠄁぀お䟆た岡山のカステラを切぀お麥酒を少し飮み盎した、おかゆを食󠄁べお二時半󠄁就耥。▜クルは䞀晝倜半󠄁近󠄁く歞らなか぀たが倕方五時前󠄁出掛ける前󠄁に歞぀お䟆た。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十八巻・犏歊曞店・1989幎刊10pより

第十回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十四幎䞀九五九幎五月二十九日金
先生の幎霢数え䞃十䞀歳満䞃十歳
䌚堎新橋駅「日本食堂」
先生の䜜品なし

日蚘の蚘述もシンプルなら、䌚の報告の䜜品もなし。

五月二十九日 金曜日 四月二十二日 誕生日 摩阿陀會
二十六床。䞀時前󠄁起。倕倚田奧脇の迎󠄁ぞにお新橋驛日本食󠄁堂の摩阿陀會ぞ行く、會者五十人平󠄁山田村平󠄁野菊たさ石厎送󠄁り䟆りお麥酒を飮んだ。就耥二時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十八巻・犏歊曞店・1989幎刊46pより

第九回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十五幎䞀九六〇幎䞀月䞉日日
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「埡慶九幎」「しみ拔き」・単行本『぀はぶきの花』収録

九幎目の埡慶ノ會、先生の報告も特に目新しいこずもなく、半幎前に摩阿陀會で䌚った連䞭ずたた䌚っお、酒を飲むだけのこずである。このずころ二次䌚には行っおいなかったが、この日は最初に行った店がすでに看板で、別の堎所で飲み盎した。就寝も朝の五時半ず、これたでで䞀番遅かったのではないだろうか。䌚の埌に二次䌚に行ったのは、摩阿陀會・埡慶ノ會合わせおこれが最埌で、虎ノ門のお静にはもう行かなかったようだ。

䞀月䞉日 日曜日 十二月五日
十床半󠄁、ストりノ、快。䞀時半󠄁過󠄁起。午埌䌊藀晚䞀䟆會はず、倕こひ千江ず共にステヌションホテルぞ行く、第九幎埡慶の會也。今幎から千江も出させた、出垭寊敞五十二名。埌で壺井平󠄁野菊たさ平󠄁山石厎等ずどこだ぀たか壺井の云ふ所󠄁ぞ廻぀たがすでに看板にお駄目、新宿ぞ廻り宮城野ず云ふ店で飮み盎しお歞る。就耥五時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十八巻・犏歊曞店・1989幎刊100~101pより

第十䞀回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十五幎䞀九六〇幎五月二十九日日
先生の幎霢数え䞃十二歳満䞃十䞀歳
䌚堎新橋駅「日本食堂」
先生の䜜品なし

第十䞀回摩阿陀會も、先生の䜜品はなし。この幎の摩阿陀會の盎前、四月十五日には、倧井埁が五十六歳の若さで亡くなっおいる。倧井は先生が法政倧孊の先生をしおいた頃の孊生で、ず蚀っおも倧井は仏文が専攻だったので、ドむツ語の先生ずは接点はなかったが、特埅生を決める際にずば抜けお成瞟の良い倧井のこずを知り、たたその倧井が教宀で喫煙したこずが原因で特埅生の栄誉を逃したこずも知っおいた。そんなこずから芪亀が始たっお、圓然倧井は摩阿陀會や埡慶ノ會にも参加しおいたようである。倧井が亡くなった埌に、先生は「ずくさの草むら」ずいう隚筆を曞いおいるが、その䞭で埡慶ノ會で食事が終わるたでは犁煙だから、たずは灰皿を撀去するず宣蚀した埌で、食事が始たるず途端にボむに「灰皿」ず蚀ったのは倧井だったず暎露しおいる。「ずくさの草むら」が発衚されたのが䞃月なので、そちらを曞くために第十䞀回摩阿陀會のこずは曞かなかったのかもしれない。

   かいぶん
はいけい
たあだかいの五が぀です。なにもかもほ぀たらかしお、あ぀た぀おください。二十九にちのゆうべ六じ。しんばしステヌシペンの二かい。ぜには䞀せん五ひやくえん  けいぐ
  五が぀十五にち
               たいこもち ひらやた さぶろう
                     きたむら たけのり
                     た だ  もずい
 たあだかいのみなさた

「第十䞀回摩阿陀會回文」『めぐる杯』北村孟埳遺皿集刊行䌚・1969幎刊323pより

これが第十䞀回の回文。それたでの難しい蚀い回しを捏ねくり回した回文に比べお、子䟛が曞いたような文章になっおいる。十䞀回目ずもなるず、どうにもネタが尜きたのか、倧井の死で意気消沈の先生に気遣ったのか、いずれにしおもおっさんが曞いおいるので寒々しい。

五月二十九日 日曜日 五月五日 摩阿陀會 癌衚溫床二䞃・䞀
朝時時小雚、午埌、颚吹く二十五床。十䞀時起、十二時から又寢しお二時起。倕倚田奧脇の迎󠄁ぞにおこひず共に新橋驛日本食󠄁堂の摩阿陀會に行く、今幎は第十䞀回目也、會者四十五名。送󠄁られお歞り平󠄁山菊たさは䞊がる、田村は先にこひを送󠄁りお䟆おゐた。就耥䞉時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十八巻・犏歊曞店・1989幎刊137pより

第十回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十六幎䞀九六䞀幎䞀月䞉日火
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「埡慶十幎」単行本『けぶりか浪か』収録

埡慶ノ會も十幎目の十回目、「埡慶十幎」はこれたでの総たずめ的な過去のおさらいで、ほずんど同じ話の繰り返しである。ずころが前幎の十䞀月に、六月の倧井埁に続けお、蘭茶、酔拂こず䞭野勝矩が飛行機事故で亡くなるずいう悲劇が起きた。先生はそのこず「空䞭分解」ずいう随筆で曞いおいるが、その最埌に「なぜ死んだ。銬鹿」ず蚘し、その突然の事故死に際しお、宮城の時のような無念を噛み締めおいる。その他にも、歳を食っお段々いろんなこずが面倒になり、四十日も床屋に行かず髭も剃らずがうがうの状態だずか、去幎の埡慶ノ會を参加者の皆んなに送ろうずしたが、写っおいる人の数名が誰だかわからず、結局送らず仕舞いで䞀幎立っおしたったずか、確か新刊の献本に぀いおも送れずに溜たり出したのもこの頃で、先生もいよいよ本栌的にお幎を召しお来たのだず感じる。

䞀月䞉日 火曜日 十䞀月十䞃日 䞃・䞉
、皍薄日、ストりノ。倕倚田の迎󠄁ぞにおステヌションホテルの埡慶の會に行く、會者五十敞名也。ぐ぀たり疲れお歞る、埌から平󠄁山菊淞兵衛平󠄁野が芋屆けに䟆おくれたが、柱に靠れお居睡りしおゐお會はず、圌等は玄關より歞る。就耥時刻忘。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十八巻・犏歊曞店・1989幎刊191pより

第十二回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十六幎䞀九六䞀幎五月二十九日月
先生の幎霢数え䞃十䞉歳満䞃十二歳
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「未だか十二幎」単行本『けぶりか浪か』収録

第十二回目の摩阿陀會、この䌚から開催堎所が新橋駅䞊の日本食堂から、埡慶ノ會の東京駅のステヌションホテルに倉曎になる。倉曎の理由は、日本食堂が改装のために営業しおいなかったからである。先生はこのこずを話した埌に、実は新橋駅が嫌いだず告癜する。過去の歎史の話になるが、今の新橋駅ずいうのは元々は烏森駅で、鉄道唱歌にある「汜笛䞀声新橋を」の新橋駅は、圓時は貚物駅だった汐留駅の䜍眮にあった。そちらが本圓の新橋駅なのに、元の烏森駅が新橋駅だず蚀っおいるのはけしからん、ずいうのである。その話から、過去に「立腹垖」で曞いた、急行刞を誀魔化したず思われお疑われた話を始めから終いたでもう䞀床党郚話し、そしお前回も話した幎を取っおいろんなこずが面倒になっお、床屋に行くのも面倒、手玙を曞くのも面倒、人が来るののも面倒、電話も埡免被りたいずいう話をしおいる。

床屋は近󠄁所󠄁だし、足腰に異狀があるわけではなし、倖ぞ出られない身體ではない。早く行぀お䟆お、さ぀ぱりしようず思ふ。さう思぀おゐるず雚が降る。颚が吹く。颚は僕には苊手なのだから、颚の吹く日は敬遠󠄁する。いいお倩氣にな぀たず思ふず、今日は床屋の定䌑日である。䞀週󠄁に䞀日の床屋のお䌑みが䞀週󠄁間ぢゆうにひろが぀お、僕の行かうず思ふ日はい぀もお䌑みに當たる暣な氣がしたり、䞭䞭さう簡單に行かれるものではない。

內田癟閒「未だか十二幎」『內田癟閒党集』第九巻・講談瀟・1973幎刊96pより

そういうこずもあったので、私もあなたにお目にかかりたいず思いたす。しかし、私の机の䞊にはただ未敎理の手玙が山積みになっおおり、たた、果たしおいない玄束もありたす。これらを敎理しおいる内に間もなく春になり、春の次ぎには倏が来お、倏の次ぎには秋が来お、あなたず䜕月䜕日にお目にかかる、ずいうこずをいたから決めるこずは出来たせん。どうしたしょうか。
                             内田抮造
私は思わず吹きだした。たるで癟閒先生の゚ッセむそのもののような、ナヌモア溢れるお返事だったからである。

高峰秀子「倏の぀ぎには秋が来お」『回想の癟鬌園先生』旺文瀟文庫・1988幎刊190pより

五月二十九日 月曜日 四月十五日 誕生日 摩阿陀會 䞉〇・四
、暖颚吹き荒れる、クヌラヌ。十時起、又寢しお十二時前󠄁起、十二時過󠄁離床。午埌菊たさ䟆、倕近󠄁く奧脇の迎󠄁ぞにおステヌションホテルの摩阿陀會ぞ行く、䟋幎の新橋驛日本食󠄁堂は今幎は改築䞭にお䜿ぞないからステヌションホテルになりたる也、會者凡そ五十人䜍、いい心持に酔ひ送󠄁られお歞る、だれだれ送󠄁぀お䟆おくれたかは぀きりしない、倚田平󠄁野平󠄁山石厎、その前に菊たさはこひを送󠄁぀お家に䟆おゐた。就耥二時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十八巻・犏歊曞店・1989幎刊227pより

第十䞀回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十䞃幎䞀九六二幎䞀月䞉日氎
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「埡慶十䞀幎」単行本『けぶりか浪か』収録

「埡慶十䞀幎」も先生の挚拶のみの構成、その挚拶もやはりミニマリズムの展開で、䞀月䞉日は良い倩気の日が倚いこずや、床屋に行っおいなくお髪も髭も䌞び攟題の話を繰り返しおいる。その姿で恒䟋の蚘念写真を撮るのは嫌だったのだが、去幎の蚘念写真はカメラマンのカメラが䞍調で、撮った埌に確認したら䜕も写っおいなかったそうだ。『阿房󠄁列車』の旅で、平山䞉郎が自分のカメラで撮った写真も䜕も写っおいなかったこずがあるが、元々写真嫌いで、そんながうがうの状態が嫌だず思っおいた先生の気持ちが䌝わったのか、どうやらカメラの方が遠慮したようである。先生の挚拶ず共に、数幎前にも呌んだゞンタの楜団の挔奏があり、その埌でその幎で還暊になる䞉人の参列者を祝った。参加者は党䜓で玄五十名、先生の挚拶では「淑女および閣䞋」ず呌びかけおいるので、旧悪童たちのみならず、女性も倚く参加するようになっおいたらしい。先生の幎霢もあるし、淑女も倚数参加ずなるず、初期のような銬鹿隒ぎもなかなかできなくなっおいたのだろう。先生の圓日の日蚘を読むず、こひさんの効のち江さんも参加したようである。

たずえば「摩阿陀䌚」のような䞀聯の䜜品は、どれもこれも実によく䌌通っおいお、䞀篇々々が「個性的」ではない。圢容詞や成句も、同䞀のものが同系統の䜜品䞭に幟床ずなく繰り返し䜿われおいる。぀たり「類型的」になっおきたのだ。そういう意味で、霢の若い人が内田癟閒の埌期の諞䜜品に呈する非難、どれにもこれも同じこずしか曞いおないずいう非難は的倖れなのであっお、それら諞䜜品は「同じこず」を曞くためにこそ曞かれたのであるから、その非難は、これは盥だが、これが盥だから぀たらないずいうようなものである。盥は盥であっお、バケツであろうずもしなければ柄杓であるずいっおいるわけでもないのだ。

高橋矩孝「内田癟閒論」
『珟代日本文孊党集 第75 (䞭勘助,内田癟間集)』筑摩曞房・1956幎刊402pより

摩阿陀會䜜品における先生のミニマリズム、マニ゚リスムに぀いお、高橋矩孝はこのように匁護しおいる。「個性的」「類型的」ずいうのは、この前段で高橋が匕いたトヌマス・マンの蚀葉から来おいお、トヌマス・マンは䜜家ずしおの長い生涯においお、「個性的・垂民的」䞖界から、「類型的・神話的」䞖界ぞ移行したず蚀っおいるらしいが、これが䜕を意図するのかよくわからないし、類型的ぞの移行ずいう抂念が、先生のミニマリズムの匁護になるかどうかも埮劙である。「神話的」ずいう蚀い方に぀いおは、確かに神話は同じモチヌフのノァリ゚ヌションが倚いので、先生の繰り返しが神話的であるず取れなくもないが、なんずなく高橋は、若者が先生を評しおどれもこれも同じこずしか曞いおないず蚀っおいるこずに反論するためだけ、無理やりトヌマス・マンのこの話を持っおきたような気もする。単玔に考えればそれは老化ず熟成の結果であっお、そもそも盥が盥だから぀たらないのではなく、盥ばかりだから぀たらないのであっお、芁するに盥が奜きか嫌いか、奜きなら盥ばかりでもいいし、嫌いならバケツや柄杓も欲しいずいうこずになるだろう。私は酒も宎䌚も倧嫌いなのに、今回は無謀にも摩阿陀會の党回に付き合っおいるわけで、䌊達や酔狂でやっおいるわけではないが、飲たなきゃやっおられないな、ずは思う。だからずいっお、先生や摩阿陀會の連䞭に盥は飜きたから、バケツや柄杓に倉えろず蚀っおも無理な話だし、そもそも本人たちが盥が倧奜きなのだから仕方がない。

少なくずも先生は、同じ話を繰り返すに圓たり、この話は昔曞いたらやめおおこうずか、繰り返しになるのはし぀こいなどずは、䞀切考えおいなかったず思われる。その時その時で、思ったこずや曞きたいこずを思うがたたに曞いおきたず思うが、それが歳をずっお思考の筋が䞀本になり、去来するむメヌゞや思い出もさらにシンプルに䞀本化されお、それが繰り返しの原因になったのだず思う。そもそも人間の生掻自䜓が日々の繰り返し、ミニマリズムのマニ゚リスムであり、その反埩の䞭からの埮现な倉化が、曲を前に掚し進めるのである。濁り酒のような軍歌ばかり聞かされお意識が混濁しおきたので、枅朔な音楜を聎いお頭をスッキリさせよう。

䞀月䞉日 氎曜日 十䞀月二十䞃日 埡慶の會 䞀二・䞉
、ストヌノ。二時前󠄁起、二時過󠄁離床。倕こひず東京ステヌションホテルの埡慶の會に行く、第十䞀幎也、ち江を同車䌎󠄁なふ。會者玄五十名、岡山の岡厎眞さんのお蔭なり。倚田奧脇に送󠄁られお歞る、埌から平󠄁山菊たさ氞田壺井倧橋぀いお䟆お䞊がり麥酒を飮みなほしお歞る。就耥䞉時半󠄁過󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十八巻・犏歊曞店・1989幎刊285~286pより

第十䞉回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十䞃幎䞀九六二幎五月二十九日火
先生の幎霢数え䞃十四歳満䞃十䞉歳
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「摩阿陀十䞉幎」単行本『クルやお前か』収録

法政倧孊の元総長で、先生も倧倉お䞖話になった野䞊豊䞀郎の十䞉回忌が晩翠軒で行われ、その話から十四幎前に晩翠軒で行われた自分の還暊のお祝いの時の話になる。北村の葬匏ごっこの話である。そしお、やはり歳を取っお䜕もかもが面倒になり、手玙は溜たる䞀方で返事も曞けずに攟ったらかし、点字図曞通ぞの寄付金総額の報告を兌ねおいた埡慶ノ會の写真も、皆さんに送れないたた、いろんなこずが滞っお来た。その埌、珍しく北村の回文に觊れおいるが、たたこの時の回文が悪寒がするほど盞圓に寒い。

第十䞉回 摩阿陀會回文
よっちょい わっちょい
よっちょい わっちょい
癟閒さただよ
い぀も幎をずらないで
春 倏 秋 冬
䞖界䞭を照らす
お月さたのようだよ
お月さたは桃いろ
お酒は黄金いろ 肎は笹の葉
ござれや 摩阿陀會よ
五月二十九日 倕かた六時
東京驛のステヌシペンホテル
お金は壹千八癟圓さ
 昭和䞉十䞃幎五月吉日

「第十䞉回摩阿陀會回文」『めぐる杯』北村孟埳遺皿集刊行䌚・1969幎刊323pより

ゞゞむが幌児蚀葉を䜿う気色悪さが、「癟閒さた」でさらに助長されお、たるで先生自身が痎呆老人になっお幌児化し、退行しおしたったかのように感じられる䞍快な文章である。先生自身も「摩阿陀十䞉幎」でこの回文の䞀郚を匕甚しおいるが、「春 倏 秋 冬」の郚分は「しゅんかしゅうずう」ではなく、「はる な぀ あき ふゆ」であるず曞いおいる。その埌に、お日様より暗い倜を照らすお月様の方が偉いず蚀っおいお、これは「癟間」の日が月になっお「癟閒」になったこずず通底しおいるのか。

五月二十九日 火曜日 四月二十六日 摩阿陀會 二五・䞀
朝雚やみお薄日、午埌曇、倕から雚。六時過󠄁起、十時過󠄁から寢なほす、䞭䞭寢぀かれなか぀たがその內眠りお䞀時過󠄁起、二時前󠄁離床。倕奧脇さんの迎󠄁ぞにおずひず共にステヌションホテルの摩阿陀會に行く、ち江を䌎󠄁なふ、會者玄五十人也。倚田平󠄁野北村平󠄁山菊たさ城川柄內田克巳氞田博送󠄁り䟆る、玄関迄。就耥二時。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十八巻・犏歊曞店・1989幎刊323pより

第十二回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十八幎䞀九六䞉幎䞀月䞉日朚
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「幎の始めの」単行本『クルやお前か』収録

い぀も通り、䌚は蚘念撮圱から始たるが、䞀昚幎の写真がカメラマンのミスで撮れおいなかったこずをたた蚀っおいる。䌚が始たり、たずは先生の挚拶だが、今回は頗る短い。挚拶から也杯しお、先生の倧ゞョッキのビヌルの䞀気飲みもい぀も通りで、そしおご銳走ずなるが、今回は珍しくメニュヌを披露しおいる。続けお、今幎から初参加の床屋の鈎朚閣䞋を玹介、歳をずっお䜕もかもが面倒になり、床屋にも行かずがうがうだったが、鈎朚さんのおかげで先生はスッキリず坊䞻頭になったそうだ。以降先生は、ずっず坊䞻頭だったかしら。自分の祖父などもそうだったが、男性がある皋床歳をずり、髪を䌞ばすのをやめおいきなり坊䞻になったりするず、旧に老けたずいうか、䜕か牙を抜かれたような颚情になっお、䜕ずなく悲しい気持ちがしたのを芚えおいる。講談瀟版党集の第十巻に冒頭には、昭和四十䞀幎の摩阿陀會に参加する先生ずこひさんのツヌショット写真が茉っおいるが、それを芋るず坊䞻ずいうよりは、もう぀るっぱげのようだ。それより䞉幎前のこの時は、ただ髪があったのだろうか。尀も先生は、「掻痒蚘」の時も坊䞻にしおいるし、戊前の写真を芋るず坊䞻になっおいるこずが倚い。講談瀟版党集第九巻の月報には、先生の戊前昭和十五幎頃の写真が䞉枚掲茉されおいるが、その䜕もが坊䞻頭だ。その埌、今床は䌚に参加で還暊を迎える人のお祝いをい぀も通りやり、寄付の話をし、ゞンタを呌んで盛り䞊がろうず思ったが、楜隊の隊長が䞭颚になっおしたい、今回は䞍参加だった。

埡慶ノ會ず合わせれば、すでに二十五回も同じようなこずをしおいるので、䞭身のマンネリ化は吊めないが、それを読んでいる方ずしおもなかなかにしんどいものがある。先生の筆臎はお幎の召しおも滑らかではあるが、やはり少し散挫で冗挫で、筆が滑っおいるような気がしないでもない。今埌さらに老いお行く先生を、このたた远い続けるのは少々気が重い。講談瀟版党集第九巻に収録された「幎の始めの」の最埌に、この時の埡慶ノ會の様子ず思われる写真が掲茉されおいるが、それがひどく䞍鮮明でボケた写真で、誰が写っおいるのか刀然ずしないが、䞭倮に立った四人うち䞉人がその時の還暊察象者で、䞀番巊で手を䞊げおいるように芋えるのが先生かもしれない。確かに髪は無さそうである。

先生の圓日の日蚘には、ちょっず気になる蚘茉が。「終󠄁りに近󠄁く裏の件におしくじり倧いに困぀た」ずあるのだが、裏の件ずは䞀䜓䜕のこずだろうか。昚倜も家でそうだったずも曞いおいるが、それが䜕だず曞いおいないので、はっきりずはわからないが、やはり高霢から来る諞々の問題だろうか。

䞀月䞉日 朚曜日 十二月八日 䞀䞀・䞃
十二時半󠄁起、䞀時半前󠄁離床。支床しお倕ステヌションホテルの埡慶の會ぞ行く、第十二幎也。今幎初めおよんだ床屋の鈎朚健垂を同車にお䌎󠄁なふ、會者五十人目出床く進行したが終󠄁りに近󠄁く裏の件におしくじり倧いに困぀た。昚倜も家でさうだ぀たので氣を぀けおゐたがさうず思぀おからは間に合はなか぀た。倚田北村平󠄁野田村平󠄁山菊たさ等送󠄁り䟆る、䞊がらず。䞉時半󠄁就耥。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十八巻・犏歊曞店・1989幎刊323pより

第十四回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十八幎䞀九六䞉幎五月二十九日氎
先生の幎霢数え䞃十五歳満䞃十四歳
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「枭城の朝雚 摩阿陀十四幎」単行本『波のうねうね』収録

第十四回目。たたこひさんのこずを家内ず曞いおいるが、こひさんに免じおこれ以䞊文句を蚀わないこずにする。先生の倖出は今幎はこの摩阿陀會が四床目だそうで、そのうち䞀回は正月䞉日の埡慶ノ會、残りの二回はどこに行ったか知らないが、ずにかく歳をずっお䜕もかもが億劫になり、それが幎々進行しおいるずいうこずも毎回話しおいる。少しは散歩でもず思うが、やはりそれも億劫でできないし、先生の家の呚りはすっかりビルが立ち䞊んでしたい、ドヌナツ型の池のある庭はたるで谷底のようになっおる。そのビル裏の䞉畳埡殿で、倖にも出ずに䞀人むくれお日々を過ごしおいるそうである。そんなこずではいけないず先生は突然思い立ち、今床の摩阿陀會では琎を披露しようず考えるが、人に聎かせるためには倧分腕が錆び぀いおいるので、明日から毎日緎習しようず思うが、結局来る日も来る日も琎を取り出すこずはできず、緎習もできないから、摩阿陀會で琎を匕く案は廃案ずなったのである。私は埌数幎で摩阿陀會の幎になるが、こうしお家にいお゜ファヌに座っおPCでこの蚘事を曞いおいるず、目の前のテヌブルの向こう、歩けば二、䞉歩の堎所にキャビネットがあり、そのキャビネットには先生の講談瀟版党集がきっちり収たっおいるが、゜ファヌに座り切りになっおいるず、時たたその先生の党集を取りに行く二、䞉歩が億劫になるこずがある。だから先生のこの状態は、私も䞃十代半ばを過ぎれば同じようなこずになるのではないかず思っおいるし、そもそも䞃十半ばたで生きたいず思わない。

この䌚では、比良君がこの床東京から京郜に転勀するこずになり、先生は送別の詩を披露する。比良君ずは、東京新聞文化郚長の平岩八郎のこずで、平山、平井、平野に平岩の比良である。平岩は摩阿陀會や埡慶ノ䌚のほが党おに参加しおいるメンバヌで、䌚の最䞭に居眠りをする癖があり、北村がその居眠りしおいる平岩のポマヌドだらけの髪にマッチで火を぀けたのだ。その平岩が、東京新聞から京郜新聞に移るのだそうである。先生が吟じた「枭城の朝雚」は、唐の詩人である王維の『送元二䜿安西』の冒頭の句で、西域ぞ旅立぀芪友ずの別れを惜しむ䜜品である。

五月二十九日 氎曜日 閏四月䞃日 摩阿陀會也 二五・四
、半󠄁、曇。倜半󠄁から雚。䞀時過󠄁起、二時前󠄁離床。倕倚田奧脇の迎󠄁ぞにお東京驛ステヌシペンホテルの第十四幎摩阿陀會ぞ行く。會埌平󠄁野淞兵衛、平󠄁山送󠄁り䟆りお曎にすし新のにぎりにお䞀獻す、䞉鞭酒、麥酒、ホワむトホヌス、ニッカ、赀葡萄酒、癜葡萄酒等也。就耥䞉時。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊78pより

第十䞉回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和䞉十九幎䞀九六四幎䞀月䞉日金
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「その玉の緒を 埡慶十䞉幎」単行本『波のうねうね』収録

久しぶりに冒頭に「勇敢なる氎兵」の、䞉番ず四番の歌詞が登堎する。「癟閒は死なざるや」の連呌は、流石にもうやっおないずは思うが、先生は短い挚拶の䞭で「君が代」を歌ったようである。そしお、もう本圓に倉わり映えのない毎回同じの埡慶ノ會で、同じこずをやり続けお、同じこずを曞き続けるこず、すなわち参加するこずに意矩があるスポヌツず同じ具合になっおきた。寄付の話、還暊を迎える参加者のお祝いもい぀も通り、唯䞀い぀もず違ったのは、䞀月䞉日は倧抂倩気が良いのに、その日は曇っお小雪がちら぀いたずいうこずだった。

䞀月䞉日 金曜日 十䞀月十九日 埡慶の會 四・九
曇、午頃から小雪󠄁、積もる皋でなし、倕やむ。十二時過󠄁起、䞀時過󠄁離床。倕ステヌシペンホテルの埡慶の會に行く、こひの倖にち江鈎朚健垂同車、會者四十八。淞兵衛平󠄁山鈎朚が送󠄁り䟆りお飮み盎し、鱒鮚、チヌズ、゜ヌダビスケットにお䞉鞭酒䞭二本麥酒二本。就耥四時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊133~134pより

第十五回 摩阿陀會
開催幎月日昭和䞉十九幎䞀九六四幎五月二十九日金
先生の幎霢数え䞃十六歳満䞃十五歳
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「その前埌 摩阿陀十五幎」単行本『銬は䞞顏』収録
※日蚘なし

読み出すず最初はそうは思えなかったが、「その前埌 摩阿陀十五幎」の第䞀章が、第十五回摩阿陀會の先生の挚拶の内容だったようである。誕生日の五月二十九日は摩阿陀會のお祝いの䌚が必ずあるため、家で誕生日䌚をしないから、それで前日の二十八日に自宅で内祝いをするずのこずで、そのお膳の内容を蚘しおいる。私自身がお酒を飲たず、お酒を飲むこずが人生の倧きな目的ではないので、お酒を飲むこずを人生の倧きな目的にしおいる先生の気持ちがどんなものなのか、皆目芋圓が぀かない。銬肉のコンビヌフを賜の目に切っおシャンパンの぀たみにするずいうこずだが、酒の぀たみにするず旚いのかなあず懐疑的な気持ちしか浮かばないし、そもそも銬肉のコンビヌフなんお食べるこずがたずない。先生が奜きなら奜きなように飲んで食っお貰えばそれで良いが、その味わいは私には䜕ずも理解ができないのである。

今回も特に目新しいこずもないが、䌚の準備でちょっずしたハプニングあった。摩阿陀會はこれたでのしきたりずしお、北村が回文を䜜り、先生が校閲をしお、それを案内状に印刷しお参加者に送っおいたが、今回は手違いがあっお、案内状が印刷に回っおおらず、発送が倧幅に遅れたのである。そんなドタバタした䞭での開催であったが、むしろ参加者は䟋幎より倚かったそうである。

第十四回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和四十幎䞀九六五幎䞀月䞉日日
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「氞當氞當 埡慶十四幎」単行本『銬は䞞顏』収録

第十四回目、昭和四十幎代に突入ずなるず、いよいよ抌し迫った感じがしおくる。それでも参加者は幎々増えおいる。流されれば流されるほど、角が取れお䞞くなるこずもあれば、そこいらを無闇矢鱈に転がっただけ、ゎミが付着しお増倧になるずいうこずもある。

冒頭で案内状の話をし、案内状を早く出さないずいけない思うが、早く早くず焊れば焊るほどそれに反しお実際は遅々ずしお進たず、华っおその焊燥感が䜜業をさらに遅らせる。自制しお悔い改めるなどずいうこずはもう成り立たないし、運呜ずしお諊めるずするが、諊めおいいのかずたた逡巡する。よくないがどうにもならない、の繰り替えしで、どうやら先生、䞃十代に半ばにしお、ようやく自分の圚り方を哲孊的に疑い出したようである。

い぀も通りに䌚は始たり、先生の挚拶にから「あけたしおおめでずう」の也杯になるが、通垞であれば先生はビヌルの第ゞョッキの䞀気のみをするずころ、今回から参加者を含めおシャンパンに倉わった。先生はご臚終になる盎前たでストロヌでシャンパンを啜っおいたが、晩幎はビヌルを卒業しおすっかりシャンパン党になっおいたようである。しかし、シャンパンはビヌルより高いので、歳を食っおさらにその分莅沢の床合いが増したこずになる。

これも恒䟋の参加者の還暊のお祝いをしおいるず、先生は突然、シャンパングラスやビヌルのコップが䞊んだテヌブルを握り拳で匷打しながら、救䞖軍の軍歌を歌い出した。

 そォれ信ぜよオ
 たアだ信ぜよオ
 信ずる者はたれも
 みな救はれん

內田癟閒「氞當氞當 埡慶十四幎」『內田癟閒党集』第九巻・講談瀟・1973幎刊449pより

これに合わせお参加者も皆でテヌブルを叩き、絶叫調で唱和した。

この埌、新芏参加者の玹介があるが、その䞭に実嚘の矎野さんの倫、䌊藀良二氏がいた。「これたで摩阿陀會や埡慶ノ會でお芋知りの嚘矎野」ず先生が蚀っおいるので、矎野さんは䌚にずっず参加しおいたようだが、この䌊藀氏は元文郚省の官僚で、その埌ナネスコの職員になり、今床は矎野さんを連れおパリに赎任するそうである。先生は䌊藀氏を新たに姻戚になったず玹介しおいるが、やはりこれも耇雑な気持ちになる蚀い方である。もう䞀人の新芏参加者も先生の血瞁の芪戚になる鈎朚秀倫氏で、この方も人事院の官僚、䜕の自慢だかよくわからないが、ずにかく昔ず倉わらず官僚䞻矩が倧奜きな先生である。

䞀月䞉日 日曜日 十二月䞀日 埡慶の會 六・五
曇、時に薄日、寒し、倜小雚。䞀時半󠄁起、二時離床。倕埡慶に行く迎󠄁ぞの歊本の自動車䟆、鈎朚健垂を同車させおステヌシペンホテルに行く、會者五十逘名段段倚くなるらし。平󠄁野、淞兵衛、埌から別の車にお平󠄁山送󠄁り䟆りしがいづれも䞊がらず。麥酒小䞀本飮みお就耥四時半󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊180~181pより

第十六回 摩阿陀會
開催幎月日昭和四十幎䞀九六五幎五月二十九日土
先生の幎霢数え䞃十䞃歳満䞃十六歳
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「十六矅挢 摩阿陀十六幎」単行本『銬は䞞顏』収録

十六幎目の摩阿陀會、先生も満䞃十六歳、いよいよ足腰が立たなくなっおきた。普段から倖に出るこずがなく、起きれば䞀日䞭座ったたた、なるべく䞀箇所から動きたくないずいうのだから仕方がない。庭に出るにも庭は日本匏で凞凹しおいお歩きづらいし、運動はもずより、元々散歩に出るような趣味もない。その歳でその生掻をしおいたら、足腰の筋力が衰えるのは圓然で、しかしながら先生に最早その生掻を正す気力も意思もない。次第に立ったり座ったりも難儀するようになり、家の䞭では壁や柱を䌝わないず歩けなくなっおいた。日蚘にもある通り、摩阿陀會のお迎えはい぀も倚田ず奥脇教授が来おいたが、そんな状態なので、その二人ずは別に若い䞉人が先生の家に来お、先生の出発をアシストするこずになった。ようやく玄関に出お靎を履く段になり、先生は靎の思い出を語りだす。

 そこに揃ぞおある靎を手に取り、足を玍󠄁れようずする。靎は深護謚で、今時かう云ふ型の靎を穿いおゐる人は滅倚にゐないだらう。昭和十四幎の春、日本郵船の囑蚗にな぀た時、爟埌出社する際の裝備の䞀぀ずしおこの型の靎を蚻文しようずした。

內田癟閒「十六矅挢 摩阿陀十六幎」『內田癟閒党集』第九巻・講談瀟・1973幎刊487pより

深護謚の靎ずいうのは、今で蚀うサむドゎアブヌツのこずで、確かにこの型の靎を履いおいる人は今も昔もあたり芋ない。特に最近の若者はカゞュアルなものがメむンだろうし、ビゞネスやフォヌマルでサむドゎアブヌツを遞ぶ人もたずいないだろう。先生の䜜品で深護謚靎が最初に出おくるのは、初期の文集『無絃琎』に収録の「絹垜󠄁」で、陞軍の孊校の匏兞に出るために正装しなければならず、フロックコヌトにシルクハットに黒皮の靎が必芁だったが、その時先生が愛甚しおいたのは赀革の線䞊げ玐靎のブヌツで、履き叀した昔の黒皮の深護謚を出しお履いおみたが、サむズが小さくなっおいおき぀く、仕方なくそれを無理やり履いたず曞いおいる。それが倧正初期のこずだから、それ以前から先生はサむドゎアブヌツを履いおいたずいうこずになるが、さらに深護謚で先生の䜜品を怜玢するず、『鶎』に収録の「寫眞垫」で、先生が東京垝囜倧孊生の頃に「垜子は䞭折れ、着物に小倉の袎をかけお、深護謚の靎を穿いた」ず曞いおおり、どうやら先生は孊生時代から深護謚を履いおいたようである。「十六矅挢」で、日本郵船の囑蚗になった時に出勀甚に深護謚を誂えたず曞いおいるが、なぜこの時に深護謚にしたかずいうず、圓時先生は䜓重が二十貫目䞃十五キロくらいくらいあっお、座っお玐靎の玐を瞛るのが苊しかったらしい「痩せ藥」参照。この点、深護謚の靎は、立ったたたでも履けるので問題にならなかった。その埌、短靎普通の玐靎に倉えたようだが、ただ玐が瞛りづらく、出かける時はこひさんに瞛っおもらっおいたらしい。

私の靎は昭和十四幎に誂ぞお造󠄁぀た䞊等品で、キッド皮の深護謚である。深護謚ず云ふ靎の圢に銎染みがない人は、昔の暞密顧問官が穿いた暣な靎だず思ぞばよろしい。立掟な靎だが叀くな぀お、橫腹に穎があいたから、倧きな぀ぎが當た぀おゐるけれど、それは止むを埗ない。

內田癟閒「特別阿房󠄁列車」『內田癟閒党集』第䞃巻・講談瀟・1972幎刊18~19pより

そしお戊埌になるず、たた深護謚を匕っ匵り出しおきお、以降、摩阿陀會でも埡慶ノ會でも、そしお『阿房󠄁列車』の旅でも、先生は深護謚の靎を履いおいたようだ。

 自動車だから、すぐ東京驛に着いた。逘り時間が早過󠄁ぎるので、乘車口の入り口で、靎を磚かせた。私の靎はいゝから、磚き甲斐がある。靎磚きもさぞ本懷であらうず思ふ。キッド皮の深護謚であ぀お、滅倚に人が穿いおゐない。さうしお、鞄ず違󠄂ひ、私自身の物である。阿房󠄁列車の初めの內、穿いお出掛けたのは、橫腹に倧きな穎があ぀お、そこに継ぎを當おたから芋苊しくない事もなか぀たが、今のはさうでない。深護謚の二代目であ぀お、某閣䞋の穿き叀しの拂ひ䞋げを受けたのである。ち぀ずも痛んでゐないから、䞞で新品である。磚き䞊げたら、瞫ひ目のないキッド皮が足頞の所󠄁たで柔らかく光り、足を動かす時に出䟆る皺に深い底光りがしお、王暣が歩き出した暣な氣がした。

內田癟閒「雷九州阿房󠄁列車 前󠄁章」『內田癟閒党集』第䞃巻・講談瀟・1972幎刊212pより

たた貰い物か 。先生が雷九州の旅をしたのは、昭和二十八幎の六月のこずなので、二代目ずいえども、昭和四十幎の摩阿陀會たでには、十二幎以䞊は履いおいるこずになる。先生は昔の暞密顧問官が履いたずか、ロンドンの垂長が履いたずか蚀っおいるが、深護謚は正匏名はチェルシヌブヌツず蚀い、その起源は十九䞖玀むギリスのノィクトリア朝にたで遡り、圓時の靎職人がノィクトリア女王のために䜜ったのが最初だず蚀われおいる。たたチェルシヌブヌツは別名アルバヌトブヌツず蚀われ、ノィクトリア女王よりも倫のアルバヌト公がこれを気に入り、愛甚しおいたこずからそう呌ばれおいるのである。日本には江戞末期に䌝わり、昭和倩皇も履いおいたこずがあるそうだから、英囜王宀ず日本の皇宀の埡甚達ずなれば、それを先生が気に入らないわけがない。人からの貰い物なのに、私の靎は良いから靎磚きも本懐だろうずか、王様が歩き出したような気がしたずか、非垞に傲慢で倪々しいこずを蚀っお、倧倉ご満悊の様子である。

深護謚の靎をはいた癟鬌園先生
出兞囜立囜䌚図曞通「近代日本人の肖像」
(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

チェルシヌブヌツは、先生が履いおいた頃は、昔の暞密顧問官が履くだけで人が滅倚に履かない靎だったが、六十幎代英囜でモッズやスりィンギング・ロンドンのムヌブメントが起こるず、そのファッションアむテムずしお愛甚され、ビヌトルズやストヌンズのメンバヌも履いおいたそうだ。斯く蚀う私も若い頃はチェルシヌブヌツを愛甚しおいお、別にモッズ・ファションに染たっおいたわけではないし、先生の圱響でもないが、そのスタむルが奜きだったのず着脱の䟿利さから履いおいたようである。その埌はしばらく履いおいなかったが、最近ではたた履くようになった。私はパンクスだから、愛甚しおいるのはマヌチンの2976で、基本的に靎はそれしか履かないが、出瀟する際は先生の蚀うずころの線䞊げの1460の、着脱しやすいZIPバヌゞョンを履いおいる。元々服装に匷いこだわりはないし、ブランドにもたるで興味がなく、マヌチン皋床が私にはちょうど良い。それに、うちの䌚瀟は服装なども党くうるさくないので、出瀟甚には無印の同じ黒いシャツずパンツを䞉぀買っお着回し、くたびれおきたら買い替えるようにしおいる。ミニマリストずいうわけでもないが、いろんな服があるず出瀟ごずきのために掋服を遞ぶのが面倒で、その時間が無駄でもある。だから䌚瀟では、私はい぀も党身黒い人で通っおいるが、「どうしおい぀も黒なんですか」ず人に聞かれたら、「䌚瀟の黒字が続くように願掛けしおるのだ」ず答えるこずにしおいる。私は出瀟するのが嫌いで、䜕が嫌いずいえば満員電車に乗るのが䜕より嫌いだからで、それでも業務䞊の芁請で出瀟するこずが倚々あり、その際は朝はい぀も十時過ぎに出瀟し、倕方は四時には䌚瀟を出おしたう。そうすればほがラッシュは回避できるし、私が自ら満員電車の乗客になっお、満員電車をさらに窮屈にするこずもないから瀟䌚貢献にもなる。

深護謚から倧分話が脱線したが、先生の「十六矅挢」に戻るず、先生は日本郵船に通うために深護謚を䞉越で新調したが、䜕ずこの時は自分で䞉越に行き、採寞しおもらっお靎をオヌダヌしおいる。払いすぎた皎金が戻っおきた時には、あれだけスヌツの採寞を嫌がっお、結局オヌダヌしなかったずいうのに、靎の堎合は嫌ではなかったのか。その靎で日本郵船に出勀し、そのうち戊争になっお、空襲で家が焌かれた時もその靎で逃げ、戊埌になっお『阿房󠄁列車』の旅でも摩阿陀會でもその靎を履いおいたが、倧分傷んできたずころに、たたたたタむミングよく敗戊埌の陞軍䞭将から深護謚を貰い受けた。これが䞍思議なくらいに先生の足にフィットしお 、ず聞くず、先生が入院䞭の森田草平を芋舞いに蚪れ、そこにあった森田の山高垜子を詊しに被り、「あ〜なんおピッタリなんだ」ずか䜕ずか蚀っお、結局その山高垜子を森田から奪った話を思い出す。

五月二十九日 土曜日 四月二十九日 第十六幎摩阿陀會 䞀䞉・九
雚、薄寒し、もう六月ず云ふに北海道は零䞋䞉床なる由、どこかは零䞋䞃床ずか。十二時半󠄁起、䞀時半󠄁過󠄁離床。倕倚田、奧脇又別に足蚱があぶないので氞田、か぀み、束本剛䞉人の迎󠄁ぞにおステヌシペンホテルぞ行く。こひは別車、倚田、奧脇ず共に。會者五十二人。送󠄁぀お䟆た倚田、淞氎、迎󠄁ぞに䟆おくれた䞉人は䞊がらず、平󠄁野、さやか、きく、平󠄁山は䞊がりお麥酒シャムパンを飲んだ、その埌におお刺身あはび等にお飮み盎しお銚子䞉本。就耥五時過󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊214pより

この日、先生の家に迎えに来た若い䞉人は、氞田博、内田克巳、束本剛ず、いずれも囜鉄関係の平山の仲間だったが、先生の『぀はぶきの花』の単行本の挿画を描いた時の話を、のちに内田克巳が文章にしおいお、その䞭でこの時のお迎えの話を曞いおいる。雚の降る䞭、先生を玄関から車たでアシストするのに、先生のキッドの深護謚靎を汚さないように苊劎したようだが、この時の摩阿陀會に぀いお、「ステヌションホテルでの十六回目の摩阿陀䌚は、足が匱くなられた先生が、倖に出られたさいごになった。」内田克巳「぀わぶきの花」ず曞いおいるが嘘である。この埌を読み進めおもらえばわかるこずだが、先生が最埌に参加したのは、昭和四十二幎五月二十九日の第十八回摩阿陀會で、翌幎䞀月䞉日の埡慶ノ會から以降は党お䞍参加である。

第十五回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和四十䞀幎䞀九六六幎䞀月䞉日月
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「挱石誕生癟幎の埡慶第十五幎」単行本『麗らかや』収録

摩阿陀會を远い぀぀、埡慶ノ會も十五幎目、先生の文章はたすたす繰り返しの極臎で、ほがルヌティンの報告に終始しおいる。この幎は倏目挱石の生誕癟幎で、挱石は五十歳で亡くなったので、同時に没埌五十幎ずいうこずになるが、そういう幎だずなるず、先生の話も圓然挱石臚終の時の話になり、これもいたたで先生の䜜品で䜕床も曞かれおいるこずの繰り返しである。逆に死んで五十幎経った埌に新しい事実が飛び出すこずもないだろうから、おじいちゃんの昔話を安心しお聞いおいられるず蚀うもので、そういう幎だったからかどうかはわからないが、この幎の埡慶ノ會には、挱石の長男の玔䞀が初参加した。最初期の『癟鬌園隚筆』の「芋送󠄁り」に始たり、玔䞀は先生の䜜品に䜕床も登堎するが、先生が玔䞀にドむツ語を教えおいたこずなど、「挱石誕生癟幎の埡慶第十五幎」で先生が話す玔䞀に関する゚ピ゜ヌドも、ほが繰り返しである。

䞀月䞉日 月曜日 十二月十二日 埡慶の會 䞀〇・䞃
快。朝䞃時半󠄁起、九時半󠄁離床。倕內田克巳の迎󠄁ぞにおこひ、ち江同車ステヌシペンホテルの埡慶の會に行く。會者今迄の內最も倚く六十人足らず也。倧勢に芋送󠄁られお、しかし皆玄關から歞りおシャムパン麥酒を飮みなほし、就耥䞉時過󠄁。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊257pより

第十䞃回 摩阿陀會
開催幎月日昭和四十䞀幎䞀九六六幎五月二十九日日
先生の幎霢数え䞃十八歳満䞃十䞃歳
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「やらやら目出床や」単行本『麗らかや』収録

ずうずう先生も喜寿の幎、摩阿陀會も十䞃回目ずなった。摩阿陀會の参加者䞀同からは、先生に珟金䞃䞇䞃千䞃癟䞃十䞃円䞃十䞃銭䞃厘が莈られる。この他にも振袖を着たご什嬢から、氎揚げしたばかりの鯛に平目に鰀が送られたり、次から次ぞず喜寿のお祝いが参加者から送られたのである。次から次ぞず莈り物を持っお来る参加者に察し、足腰が匱くなった先生は、その床に垭を立぀のに難儀しお、莈り物がある方は、立っおるうちに持っおきおくれず催促した。十二時前に家に垰り、たず䜕ずかしなければいけないのは、いただいた鮮魚の鯛ず平目ず鰀である。圓然ながら、こひさんがこれらず栌闘し、䜕時間もかかっお刺身にした。先生は、座っお、黙っお、出された刺身を食うだけである。こひさんが刺身にした魚を食っお、たたお酒を飲んでいたら、倜が明けおしたった。

 倜が明けたのである。぀ら぀ら思ふに、人にこんなに魚をくれお、くれおおいお、くれた方はぐうぐう寢おゐるだらう。貰぀た方はこんな目に合はされおゐる。そもそも人から物を受取るのはうれしい。いくらでも貰ひたい。倚倚たすたす蟚ずるず云ふ氣で手を出す。貰぀た物がうれしいず云ふよりは、貰ふず思ふ事がうれしい暣である。
 しかし、疑ふらくは、それにも增しおくれる偎の方がも぀ずいい心持ちなのではないか。人に䜕かやる、思぀ただけでも暂しい。況んやその堎の思ひ぀きではなく、前󠄁前󠄁からあらかじめその぀もりになっお、準備しおずずのぞた物を人にくれる。思ふだに暂しき限りである。

內田癟閒「やらやら目出床や」『內田癟閒党集』第十巻・講談瀟・1973幎刊105~106pより

私のこずをいえば、私は䜕かを莈られるずいうのは苊手である。こっちが欲しい物を莈っおもらう、あるい買える物なら䜕にでも倉えられる珟金をくれるずいうならただ良いが、それでもやはり盞手には䜕らかの負担をかけるこずになるので、積極的にはもらいたくないし、特に盞手が自分の意思で遞んだ物を莈られるのは固く遠慮したい。気持ちずか、圢のないもの莈られるのなら嬉しいが、圢あるものは将来的にはどうしおもその凊分に困るこずになるので、人の気持ちの入った、あるいは入っおいない物を捚おる責任を背負うのは嫌である。莈りものの䞭で、私が特に嫌うのはやはり本である。

本ずいうものは、人を圧迫するずいう欠点を持っおいる。絵でも音楜でも、倚少鬱陶しくおも、関心がなければその方に気を向けなかったらよいのである。本だけはそうはいかない。読たないこずにはお話にならない。それが先方の時間を奪う理由ずなる。だから、本を莈るのは䞍道埳だず私は云うのである。盞手の自由を奪うからである。殊にそれが良曞であればあるだけ、こちらには「読たなければならぬ」ずいう負担がかかっおくるこずになる。本ずいうものは暗いおもちゃである。

皲垣足穂「“すでに肉䜓が真理である”」
『タルホ入門 : カレヌドスコヌプ』朮出版瀟・1987幎刊190pより

我が家では、䜕幎か前たでは、春になるず奧さんの実家から毎幎筍が送られおきたが、それがい぀も尋垞でない量で、なぜかずいうず、奧さんの実家の近所のおじさんおばさんたちが、春になるずこぞっお山に筍を取りに行き、そのお裟分けが方々から届き、実家では消化できなくらいに集たるからなのである。我が家に送られおくる筍は、掘った儘の状態だったり、切っお䞋茹でしお煮たものだったりもしたが、我が家では奧さんしか食べないので、倧量の筍を凊理しお毎日食べ続けるのにうんざりし、しかし折角送っおくれたものを捚おるのも気がひけるらしく、それで曎にうんざりしおいた。

その春の筍が、ここ数幎は送られおこない。特に必芁でもないからそれで良いが、筍が送られなくなったのは、筍を山に取りに行っおいた人たちが、時の流れで亡くなったり、あるいは歳をずっお足が立たなくなったこずが原因だろう。それで山の筍は竹になっおいるず思うが、品が良いずいうこずの䞀因は、量が少ないずいうこずだから、葉っぱの裏にびっしり附いた虫の卵ずか、かがちゃの䞭倮郚分にびっしり詰たった皮だずか、倧量に送られる筍を芋るたびに、そういう品のない光景を思い出したものである。おじさんおばさんが山に行っお、倧量の筍を掘りたかった気持ちも、そういう生呜の倫理に根ざしおいたのかもしれない。

先生に話を戻すず、摩阿陀會で頂いた魚たちは、こひさんが刺身にしたり、あら煮にしたり、フラむにしたりしお、それを先生は存分に味わい尜くしたようだ。面癜いのは、そのもらった魚の話の埌、突然に䜕の脈絡もなく「教え子」ずいう蚀い方が倧嫌いだずいう話になる。曞いおいお突然そのこずが脳裏に飛来したのだず思うが、先生は教垫が「私の教え子」ずいうのも、生埒が「先生の教え子」ずいうのも嫌いで、そこには甘ったれた響きを感ずるのだそうである。私は先生が「教え子」ずいう蚀い方が倧嫌いだず知っおいたので、このnoteの蚘事でも「教え子」ずいう蚀葉は䜿わないように心がけおいるが、先生も自分の著䜜では䞀床も䜿っおいないず曞いおいる。いやいや、そう蚀われるず調べたくなるじゃないですか。ありたした。

埌に岡山の教育界に重きをなされた森先生が、恐らくは若き日の抱負ず垌望を抱いお、郜會地の孞校に進󠄁出せられた、その第䞀歩の敎ぞ子ずなったのは私共である。

內田癟閒「森䜜倪先生」『內田癟閒党集』第二巻・講談瀟・1971幎刊116pより

生涯で千篇以䞊の䜜品を曞いおいれば、圓然䞭身を忘れたり、曞いたこずを忘れるこずもあるだろうし、䞇党を期しおも挏れるこずはあるもので、先生自身が倧嫌いな「敎ぞ子」を䜿っおいおも仕方がないだろう。実は先生は、この「敎ぞ子」をもう䞀回䜿っおいお、「東北本線阿房󠄁列車」の旅で盛岡を蚪れたが、それが珟地の新聞に取り䞊げられお蚘事になり、そこに「敎ぞ子たづねお」ずいう題が぀いおいたのである。それで「敎ぞ子」ずいう蚀葉が倧嫌いで、芋ただけでむかむかするず曞いおいるので、぀たり今回突然思い出しお曞いたこずも、以前に曞いたこずの繰り返しだった。突然思い出しおしたったばっかりに、先生は自著の䞭で「敎ぞ子」を䜿った回数を、「やらやら目出床や」でさらに䞀回増やしおしたったのである。

さお、この日の先生は、たた前日から東京駅のステヌションホテルに泊たった。圓日の準備に手間がかかり遅刻をしそうなのでそうしおいるが、䌚が始たるのが倕方六時で、普通に考えれば、昌過ぎたでダラダラしおも間に合う時間なのに、先生はそれに間に合わせるこずができない。今だったらそんな症状はすぐに発達障害的な蚺断をされそうだが、䜕に時間がかかるのか、なぜ時間がかかるのか、䜕をしお時間がかかっおいるのか、どうやら本人にもよくわからないらしい。先生は、新幹線ができるず聞いた時に、そんなに急ぐなら、東京から倧阪たで線路を党郚ホヌムにしお぀なげおしたえばいいず蚀ったが、先生も歳をずっお、倖に出かけるのが埡慶ノ會ず摩阿陀會くらいになったので、ステヌションホテルに䜏んだらいいのではないかず思う。

ステヌションホテルの同宀には平山䞉郎も泊たらせお䞇党を期し、盞倉わらずベッドに文句を蚀っお、よく眠れずに摩阿陀會の圓日を迎える。足が悪いので、ステヌションホテルの長い廊䞋を䌚堎たで行くのが倧倉だから、ホテルから車怅子を借りお、それに乗っお行こうずしたが、先生が芋たのは個人の方が䜿っおいた車怅子で、ステヌションホテルには備え付けのものはなかった。䜕ずか自分の足で䌚堎に行き、い぀も通り䌚が始たった。挚拶の途䞭で先生に去来したのは、たた昔の童謡「電車」である。やはり老化しお幌児化しおるのか、先生には懐かしいのだろうけれども、読者ずしおはたた耇雑な気持ちになる。講談瀟版党集第十巻の冒頭に掲茉された、先生ずこひさんのツヌショット写真ケヌキ入刀は、この喜寿の幎の摩阿陀會でのものだが、こひさんが写った写真が先生の著䜜に掲茉されたのは、これが唯䞀ではないだろうか。

五月二十九日 日曜日 四月十日 第十䞃幎の摩阿陀會にお喜壜の賀宎也 二四・四
曇、倜雚。摩阿陀會の會者五十八人ず云぀おゐる䞊になほ二人加はりお六十人、空󠄁前󠄁の出垭敞なりず肝煎り報告す、十二時みんなに送󠄁られお歞る。埌で飮み盎しシャムパン䞭䞀本お酒お銚子䞀本。デンマルクプラムロヌズチヌズずひしほおずは。就耥四時。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊295pより

第十六回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和四十二幎䞀九六䞃幎䞀月䞉日火
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「花のない祝宎」単行本『倜明けの皻劻』収録

十六回目の埡慶ノ會には、宎䌚のテヌブルに花がなかった。これは、埡慶ノ會や摩阿陀會の䌚堎ずなった、東京駅ステヌションホテルの宎䌚郚の担圓者である石厎英男が、前幎の十䞀月に䞉十そこそこの若さで急逝したためである。通垞お正月䞉ヶ日は花屋は䌑みで、それを䜕ずか石厎が花の準備をしお埡慶ノ會のテヌブルに添えおいたらしいのだが、その石厎が亡くなっおそのような配慮をしおくれる人もいなくなっおしたった。先生も老化もさらに進んで、䞀日䞭寝おいるこずが倚くなり、先生も老いおるが参加者も老いたり亡くなったりし、時間の経過に抵抗しお、同じこずを同じようにやり続けるずいうこずは、その間の倉化や止めようもない運呜の力に屈服する過皋のように思われる。もう止めればいいのにずも思うが、そう簡単に止められるこずもできず、普段は日䞭はほずんど寝おいる先生も、決死の芚悟で䌚に参加しおいる。

䞀月䞉日 火 埡慶の會
快にしおひどく寒い、午埌曇、倕。朝十時半󠄁過󠄁離床。倕氞田博の迎󠄁ぞにおこひ、ち江同車、ステヌシペンホテルぞ行く。會者六十逘人。平󠄁野力、淞兵衛、きく、平󠄁山ずゆみ送󠄁り䟆りおせちにお飮み盎す、麥酒小八本。就耥䞉時。

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊339pより

第十八回 摩阿陀會
開催幎月日昭和四十二幎䞀九六䞃幎五月二十九日月
先生の幎霢数え䞃十九歳満䞃十八歳
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「未だ沈たずや」単行本『倜明けの皻劻』収録
※日蚘なし

過去の摩阿陀會の思い出話で、久々に「未だ癟閒は死なざるや」が出おくるが、「勇敢なる氎兵」の歌詞の説明をする郚分では、「未だ沈たずや定遠󠄁は」ず曞いおいる。ようやくその違いに気が぀いたのかもしれない。正月の埡慶ノ會に出た埌、先生は䜓調を厩し、二ヶ月以䞊埮熱があっおほが寝おいたらしく、そのせいでさらに足が匱っおしたった。膝を曲げお座る、すなわち正座するこずができなくなったのである。それで摩阿陀會に出られるか䞍安になったが、担圓医の小林博士が䞀日眮きに埀蚺しお新薬の泚射を打ち、䜕ずか䌚に出られるほどには埩掻した。䌚の話は、やはり前幎に亡くなったステヌションホテル宎䌚郚の石厎の䜙波が続いおいお、今回は石厎の奥さんず遺児䞉人に石厎のお兄さんも参加しおいた。

 さうしお石厎の遺兒䞉人。䞀番䞊が男の子で、この春から幌皚園ぞ䞊が぀たず云ふ。「魔王」がれお行きさうな可愛い子で、魔王に枡す迄もなく、私が食󠄁぀おしたひたい皋可愛い。䞋の二人は女の子、䞀番䞋はただ䞀幎䜕ケ月で、しかしよちよち歩き廻る。党くごみの暣で、或は氎晶玉の暣で、食󠄁぀おしたふず云ふ皋の物ではない。みんな口の䞭ぞ入れお、呑み蟌󠄁んでしたひたい。

內田癟閒「未だ沈たずや」『內田癟閒党集』第十巻・講談瀟・1973幎刊210pより

ごみのようだず蚀い、そしお氎晶玉のようだずも蚀う。この前段でもごみのようだず蚀っおいお、どうやらこのごみずいう衚珟は、先生には䟮蔑の意図はないようにも思われる。

第十䞃回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和四十䞉幎䞀九六八幎䞀月䞉日氎
䌚堎東京「ステヌションホテル」
先生の䜜品なし
※先生䞍参加

埡慶ノ會も十䞃回目にしお、ずうずう先生は参加ができなくなった。䜜品がないので詳しい事情はわからず、日蚘でも「今幎は行かず」ずしか曞いおいない。平山䞉郎が線集し、様々な人が先生に぀いお曞いた文章を集めた『回想内田癟閒』接軜曞房ずいう本があるが、この本の冒頭に先生の写真が掲茉されおいお、キャプションには「昭和42幎12月 麹町の自宅で」ずの蚘茉がある。先生は济衣姿で正座しお、猶ピヌスの煙草を吞っおいるが、いやだからいやだで断った芞術院の掚薊があったのがこの頃なので、おそらくその取材を受けた際の写真ではないかず思う。同じくキャプションには「共同提䟛」ずあるので、これは共同通信瀟の撮った写真なのだろう。この幎の五月の摩阿陀會の前には、膝を曲げるこずができなくなっおいたが、この写真では正座しおいるし、お顔を芋おもお元気そうである。それなのに翌月の埡慶ノ會に䞍参加だったのは、䜕か理由があったのだろうか。埡慶ノ會二日前の元旊の日蚘には「今幎の䞉日には行かない぀もりなれどその垭割等䟋幎の諞甚をすたせお恒䟋の祝膳にお䞀獻す」ずの蚘茉がある。

 氎  四日  15・3 埡慶の會の晚なれども今幎は行かず 倚田淞氎平󠄁山に萬事を蚗す
抮倪郎を代理に仕立おたり 埌で倚田淞氎平󠄁山䟆曎めお䞀獻す Bt4すぎ

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊371pより

第十九回 摩阿陀會
開催幎月日昭和四十䞉幎䞀九六八幎五月二十九日氎
先生の幎霢数え八十歳満䞃十九歳
䌚堎垂ケ谷「私孞會通」
先生の䜜品「殺さば殺せ」単行本『殘倢䞉昧』収録
※先生䞍参加

匕き続き足が悪い先生だが、座敷では正座ができないので問題があるが、怅子には座っおいられるので、第十九回摩阿陀會は出垭をする気になれば出られたのだが、この幎はたた別の問題が発生した。摩阿陀會の垭䞊で垞に先生の隣に座っおいた䞻治医の小林博士が、病気で入院しおいたのだ。䞻治医が䞍圚ずなれば、これに先生が参加するわけには行かない。先生が足が悪いので、摩阿陀會の連䞭が気を遣っお、定䟋のステヌションホテルから、䌚堎を先生の家に近い私孊䌚通に倉曎したが、そういう理由で先生は参加しなかった。「殺さば殺せ」には、この幎の正月䞉日の埡慶ノ會に参加しなかった理由も曞かれおいお、それは去幎の埡慶ノ會に参加した埌に埮熱が続き、それで䌏せっおいたのですっかり足が匱っおしたい、それが颚邪だったのか、埡慶ノ會の参加者から移されたずも限らないから、家人の勧めで倧事をずっお参加しなかったず蚀うこずであった。それで先生は参加者に申し蚳ないので、テヌプレコヌダヌに自分の挚拶ず「幎の初めの」のお正月の歌を吹き蟌み、そしおそれが䌚堎に流された。日蚘にある通り、䌚が終わるず先生の家には、悪童おやじどもがやっおきた。日蚘では、倚田、北村、平󠄁山、淞氎、田村、菊島、平󠄁野の䞃人の蚘茉があるが、北村は腹が枛ったからおむすびが食いたいず蚀い出し、こひさんが塩結びを䜜っお、みんなに食わせたのだった。

先生には埡慶ノ會、摩阿陀會に加えお鵯會ずいう飲み䌚があっお、こちらはもっず小芏暡なものだったようだが、毎幎春ず秋の幎二回開催しおいた「ひよどり會」参照。しかし䌚が䜕であろうず、芏暡がどうであろうず、集たっおお酒を飲んで、ご銳走をいただけば、それはみんな䌚であっお、さすがに今回は鵯會たで远いかけおいないが、圓然ながら先生は鵯會の参加も蟞退するしかなく、もずもず小芏暡な鵯會自䜓が有耶無耶になっおしたった。

 埡慶ノ會、摩阿陀會、鎚會、みんなもずの暣に出たいな。䜕を云ふか。倩知る地知る。わか぀ずる。

內田癟閒「殺さば殺せ」『內田癟閒党集』第十巻・講談瀟・1973幎刊247pより

これは「殺さば殺せ」のラストだが、う〜ん、こういう物蚀いは苊手だ。じじいが「出たいな」などず皚気を出すのがキモいし、「わか぀ずる」でじじいに戻るもの、やはり薄ら寒い。

29氎 五月二日 曇 摩阿陀會なれども䞍出垭 倜倚田北村平󠄁山淞氎の倖田村菊島平󠄁野䟆 シャムパンを飮む B 2・30過󠄁

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊381pより

第十八回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和四十四幎䞀九六九幎䞀月䞉日金
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品なし
※先生䞍参加

䞍参加であるこずは確かなので、䜜品がないのは圓然だか、日蚘には最早䞍参加ずも曞いおいない。倕方に平山䞉郎が幎賀を兌ねた諞甚で来たずあるのだが、平山はこの埌に埡慶ノ會に行ったのだろうか。実はこの前月、昭和四十䞉幎の十二月に、摩阿陀會を肝煎ずしお䌚を先導し、そしお数々の悪行を行った北村孟埳が急逝した。倧井埁や䞭村勝矩の死に際しおは、先生は䞀文を草しおいるが、北村に぀いおはその死のショックが倧きかったのか、文章で觊れるこずはなかった。

金 十䞀月十五日  䜎䞋0・7 午埌癌送󠄁簿敎理續き なほ未了 倕平󠄁山䟆幎賀兌󠄁諞甚也 Bt 12・30過󠄁

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊396pより

第二十回 摩阿陀會
開催幎月日昭和四十四幎䞀九六九幎五月二十九日朚
先生の幎霢数え八十䞀歳満八十歳
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「雚が降぀たり」単行本『日沒閉門』収録
※先生䞍参加

ずうずう八十歳になった先生、やはり䌚ぞの参加はできなかったようだ。それどころか、もう最近ではアルコヌル類はシャンペンしか飲めなくなったず曞いおいる。先生が参加できないので、テヌプレコヌダヌに先生の挚拶を録音しお䌚堎で流したが、その挚拶が「雚が降぀たり」に入っおいる。

29朚 四月十四日 曇小雚 誕生日也摩阿陀會䞍出垭 宎埌きもいり倚田淞氎平󠄁山䟆 倏目玔䞀も䟆 Bt 4・0

內田癟閒「戰埌日蚘」『新茯內田癟閒党集』第二十九巻・犏歊曞店・1989幎刊406pより

第十九回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和四十五幎䞀九䞃〇幎䞀月䞉日土
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品「第二十幎埡慶ノ會」単行本『日沒閉門』収録
※先生䞍参加日蚘なし

先生の䜜品のタむトルは「第二十幎埡慶ノ會」ずなっおいるが、この幎はただ第十九回である。この間違いも先生がお幎を召したこずの圱響なのか、平山䞉郎も先生に間違っおいるずは蚀わなかったのだろう。先生はたすたす膝が悪くなっお、人間には四肢があるが、そのうちの䞀本がダメになるず四本党郚がダメになるず曞いおいる。こひさんの介添を受けながら、寝床から苊劎しお起き䞊がっお怅子に座り、䞀献二献䞉献しおたた寝床に戻る。そいういう生掻のパタヌンになっおしたっお、圓然ながら倖出などできるはずもない。それでも先生は、ただ諊めおいない様子を䌺わせる。

しかし今幎の五月二十九日の摩阿陀會には、時候は良くな぀おゐるし、ただ日もある事だから、是非顏を出したいず念願しおゐる。これも、䜆し、私が會に向か぀お玄束しおゐる事にはならない。今から心掛けるだけである。

內田癟閒「第二十幎埡慶ノ會」『內田癟閒党集』第十巻・講談瀟・1973幎刊365pより

第二十䞀回 摩阿陀會
開催幎月日昭和四十五幎䞀九䞃〇幎五月二十九日金
先生の幎霢数え八十二歳満八十䞀歳
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品なし
※先生䞍参加日蚘なし

先生の絶筆の「猫が口を利いた」は、講談瀟版党集第十巻の平山䞉郎の解題によれば、昭和四十五幎䞃月六日に曞き始め、八日に曞き終わっおいる。そしおそれ以降は、翌幎四月にお亡くなりになるたで、文筆掻動は䞀切できなかったようだ。

 四十五幎䞃月、「猫が口を利いた」を曞いた。執筆メモによるず、六日、二枚、䞃日、ナシ、八日、䞀枚半、蚈䞉枚半。──こひ倫人が背埌から䞡肩をしっかり支ぞながら、ペンを執らせお䞀行䞀行ず曞きすすめおい぀たずいふ。四癟字詰原皿玙䞉枚半で、九月号小説新朮に茉぀た。二十幎以䞊にわたる「癟鬌園随筆」連茉のさいごにな぀おした぀た。

平山䞉郎「癟鬌園先生逝く」『回想内田癟閒』 接軜曞房・1975幎刊198pより

「猫が口を利いた」の前に曞いた「陞海軍隊萬萬歳」すごいタむトルだは、五月十九日に曞き始めたが、翌二十日以降曞くこずができず、次に曞いたのは六月五日で、この間の䜓調が特に悪かったのか、五月二十九日には第二十䞀回の摩阿陀會があったわけだが、圓然先生は参加しおいない。倩気ず寝起きの時間しか曞くこずがなくなったので日蚘も止めおしたったし、䞃月以降に曞かれた原皿もないので、先生の動静を远うこずはできない。

第二十回 埡慶ノ會
開催幎月日昭和四十六幎䞀九䞃䞀幎䞀月䞉日日
䌚堎東京駅「ステヌションホテル」
先生の䜜品なし
※日蚘なし

この時のこずも詳现䞍明だが、この時期のこずをやはり平山䞉郎が曞いおいる。昭和四十六幎二月初旬、先生最埌の著曞『日没閉門』の校正刷が䞊がっおきた頃の先生の様子だ。

 倧きな食卓のある座敷の方ぞ出お来られるこずは既に出来ない。旧い䞉畳の真ン䞭の郚屋を寝間にしお、先生は暪臥したたたの日垞だ぀た。臥せた先生の傍、次の䞉畳の間の敷居あたりに私は坐぀お、奥さんが運んでくれるお盆の䞊のシダムパンをいただく。先生は暪にな぀たたゝ、シダムパン杯にストロヌを入れお飲たれる。ビニヌルの管で吞ひ飲むシダムパンは旚くはなささうだ぀た。──校正刷をその枕元でひろげお、䞍審な箇所を次々に蚊くのだけれど、先生の文字ず蚀葉遣ひに぀いおの神経はさほど衰ぞおゐるずは思ぞない。
 ──曞きたいこずはもう二䞉きた぀おゐる。早く床䞊げしお机に向う積りだが、  さうだね、その前に、ステヌシペンホテルで快気祝ひをしよう、ず云はれる。満曎、カラ元気でもなささうだ぀た。

平山䞉郎「癟鬌園先生逝く」『回想内田癟閒』 接軜曞房・1975幎刊199pより

すでに先生は、寝たきりの状態だったようである。満曎、カラ元気でもなさそうな先生の快気祝いが、ステヌションホテルで開かれるこずはなかった。

匕甚した平山䞉郎の文章を収録した『回想内田癟閒』には、平山の他に、倚田基、北村孟埳、䞭川秀秋、村山故郷、雑賀進、平岩八郎、剛山正俊、小林安宅、枅氎枅兵衛、䞭村歊志など、摩阿陀會、埡慶ノ會のメンバヌの曞いた文章が収められおいる。䞊蚘の平山の「癟鬌園先生逝く」が肝心の平山の本に入っおいないず思ったら、文庫版の『実歎阿房列車先生』の増補郚分「癟鬌園先生 远想」に、別タむトルで収録されおいた。

第二十二回 摩阿陀會
開催幎月日昭和四十六幎䞀九䞃䞀幎五月二十九日土
※四月二十日に先生ご逝去のため開催なし

䞊蚘で第䞀回摩阿陀會のこずを曞いた際に、倚田基の文章を匕甚したが、それをもう䞀床匕いおみよう。

昭和四十六幎五月二十九日は第二十䞀回の摩阿陀䌚に圓るので、これの準備はしたが、この日を俟たず先生は四月二十日に他界されたので、第二十二回は服喪の意味で䞭止した。

倚田基「たあだかい・たあだだよ」
『内田癟閒先生の憶い出』倚田基先生の米寿を祝う䌚・1988幎刊13pより

 第二十䞀回は昭和四十六幎五月二十九日であったが、先生は同幎四月二十日、八十二歳で急逝されたので、その幎は喪に服しお止めた。

倚田基「内田癟閒先生ず摩阿陀䌚」
『内田癟閒先生の憶い出』倚田基先生の米寿を祝う䌚・1988幎刊109pより

回数の間違いに぀いおは繰り返さないずしお、昭和四十六幎五月二十九日の摩阿陀會は、先生が同幎四月二十日にご逝去されたので䞭止したず曞いおいる。同じ回数の間違いをしおたで、二回もこのこずを肝煎自ら曞いおいるので、やはり、昭和四十六幎五月二十九日の第二十二回摩阿陀會は䞭止になったのであろう。

 「摩阿陀䌚」も「埡慶ノ䌚」も二十䞀回続いお終りずなった。「寒雀ノ宎」もこの䞖では終りを告げおしたった。䜵しこれらの集たりはいずれあちらで盛倧に開かれるこず必定である。

小林安宅「寒雀の宎」『回想内田癟閒』接軜曞房・1975幎刊244pより

ダメ抌しの蚌蚀。先生の䞻治医、小林安宅の文章である。埡慶ノ會の二十䞀回目ずはもう正すのも面倒だが、寒雀の宎ずは、毎幎正月に先生が小林を自宅に招いお行っおいた酒垭のこずだ。名目は䜕であれ、ずにかく飲めればそれでいい、先生の䞀生だった。

 お酒が飮みたい。飮みたいから飮む。倩の矎祿だず云ふ話だが、こんなうたい物はないから、いくらでも飮みたい。しかしいくらでも飮むずお金がかかるのだが、お金の事は神祕な䞍思議に屬する。それに觞れたら千萬蚀も他人には解らないだらうし、自分も解らなくなるから觞れたい。そこでお金には構はずに、いくらでも飮たうずするず、その內に醉぀お䟆お仕舞にはもう飮めない。殘念な事だが、飮めば醉ふから止むを埗ない。

內田癟閒「鬌苑雜蚘」『內田癟閒党集』第六巻・講談瀟・1972幎刊47pより
摩阿陀會埡慶ノ會幎衚
埡慶ノ會はすべお東京ステヌションホテルで開催

宎のあず

先生のご他界によっお䞭止しおいたこの䌚も、先生のご冥犏をお祈りするず同時に圌岞の地から先生がわれわれに察しお「たあだかい」ず問われるのに圓分の間「たあだだよ」ず答えようずいうこずで、この五月二十日に第二十二回の䌚を開く予定である。い぀たで、䌚員の銘々がこう答えられるか神様が知るだけである。
                法政倧孊校友䌚報昭和47幎5月10日

倚田基「たあだかい・たあだだよ」
『内田癟閒先生の憶い出』倚田基先生の米寿を祝う䌚・1988幎刊17pより

倚田基の文章を再び匕甚したが、昭和四十六幎五月二十九日の第二十䞀回摩阿陀會は䞭止ずなったものの、翌昭和四十䞃幎の摩阿陀會は開催したずのこずである。そしお、ここでは正しく「第二十二回」ず曞いおおり、すなわち昭和四十六幎の摩阿陀會は第二十二回だったが、それが開催されなかったので、今回昭和四十䞃幎が、第二十二回だずいう正しい認識である。先生もおらず、先生のテヌプレコヌダヌの声もない祝宎は、䞀䜓どんな様子だったのだろうか。

 先生が亡くなっおから初めおの摩阿陀䌚は今幎の五月二十九日に䞀応開催したが、䜕ずなく湿っぜく、倚田さんが閉䌚を宣したずきは、䌚が始たっおから二時間も経っおいなかった。
 正気のたたの人が倚く、たいおい腑に萜ちないような顔をしおちりぢりになった。

雑賀進「実説・内田癟閒」『実説・内田癟閒』論創瀟・1987幎刊44~45pより

話が逞れるが、この雑賀進ずいう人物は、摩阿陀會のメンバヌずしおは囜鉄偎の、平山䞉郎や䞭村歊志の仲間だったようだが、この人の曞いた『実説・内田癟閒』ずいう本は酷いゎシップ本で、本圓のこずも曞いおはいるのだろうが、その筆臎にせよ、ネタにせよ、どうにも䞋品な内容でいけ奜かない。こひさんが「自分は先生のずころに女䞭にきたようなもの」ず蚀ったずか、䞭村歊志が先生に察しおはらわたの煮えくり返る思いを抱いおいるだろうずか、戊埌に先生が家に䜏たわせ面倒芋おいた青幎がこひさんに惚れおしたったずか、逆に先生が惚れたらしい長野初のこずや、千䞁の柳のさんのこずなど、雑賀自身が先生に察しお耇雑な感情を持っおいお、その鬱憀を先生の私的な秘密を暎露するこずで晎らしたような内容である。平山䞉郎が跋を曞いおいお、本にするように雑賀に進めたそうだが、いずれにしおも䞋らないものだ。先生に぀いお曞いた文章の結びが、

 それに぀けおも思うのは、心から或る䜜家の文孊を愛するなら、その生前の生身の䜜者の日垞生掻にじかに接しないこずだ。そういう意味では、がくも若干䞍幞であったようである。

雑賀進「阿房の癟鬌園」『実説・内田癟閒』論創瀟・1987幎刊81pより

ずいうもので、先生に察する文孊者ずしおの尊敬の念の裏にある、生の人間ずしおの先生ぞ軜蔑がこのような本を曞かせたのだろう。いやはや、私は党く生の先生を知らずに、文字だけで抜象的に付き合えるこずは、䜕たる幞せだろうず思う次第である。぀いでに申せば、この雑賀進は野々村䞉五郎ずいう別名でも文筆掻動をしおいたらしいが、先生の『戀文・戀日蚘』に収録されおいる次女矎野さんの回想の、その元になった雑誌蚘事の聞き手が、五の抜けた野々村䞉郎ずなっおいる。この野々村䞉郎ずいう人物、先生の呚りでは党く聞かない名前だが、同蚘事では先生の「盞剋蚘」に執着し、その時のこずをし぀こく矎野さんに聞いおいるので、おそらくこの聞き手が、雑賀野々村䞉五郎なのだろうず、私は掚枬しおいる。

話を戻すず、それにしおも気になるのは、たた日時の䞍敎合である。倚田の文章では「この五月二十日に」ずあり、開催日が先生の誕生日の五月二十九日ではない。これに察しお雑賀の文章では、「今幎の五月二十九日」に開催ずなっおいる。倚田基の「二十日」の方が「九」が抜けおしたっただけで、実際の開催は二十九日だったのか、あるいは本来は先生の誕生日の二十九日開催だが、郜合があっお二十日になったのを雑賀が忘れおいただけなのか、どこたで行っおも日付の曖昧な連䞭である。さらに蚀うず、雑賀の「実説・内田癟閒」が、雑誌「小説新朮」に発衚されたのは、昭和四十六幎十二月号だずいうのだから、話がさらに耇雑になる。昭和四十䞃幎に行われたこずを、昭和四十六幎十二月号の雑誌に蚘事ずしお掲茉するこずはできたい。にもかかわらず、雑賀が昭和四十六幎十二月号に掲茉した蚘事で、「今幎の五月二十九日」ず蚀っおいるのだから、圓然これは昭和四十六幎の五月二十九日のこずである。さあ、䞀䜓これをどう解釈すべきなのか。では第䞉の蚌人の文章を匕いおみよう。

 先生歿埌は、翌四十䞃幎五月二十九日、同じく東京驛暓䞊に斌お远悌の宎を催した。翌、四十八幎四月二十日、䞭野䞊高田の金剛寺においお䞉回忌、五月には同寺にお远悌の集たり、四十九幎五月東京驛暓䞊に集た぀た。いづれも「摩阿陀會」ず僭皱し、ひずをたくさん招んで埡銳走するこずの奜きだ぀た先生がその垭に圚るがごずく杯を擧げた。

平山䞉郎「「摩阿陀會」驥尟」内田癟閒『摩阿陀會』接軜曞房・1976幎刊269pより

さあ、第䞉の回答が来た。それぞれを比范する。

・倚田基
日付昭和四十䞃幎五月二十日 
出兞昭和四十䞃幎五月十日発行『法政倧孊校友䌚報』
・雑賀進
日付昭和四十六幎五月二十九日
出兞『小説新朮』昭和四十六幎十二月号
・平山䞉郎
日付昭和四十䞃幎五月二十九日
出兞「摩阿陀會」驥尟内田癟閒『摩阿陀會』接軜曞房

䞉人が䞉人ずも日付が䞀臎しおいないずいう、たるで「藪の䞭」のような状態になっおいるが、倚田の日付の二十日はおそらく二十九日の誀怍か、倚田の間違いであろう。ずなるず、やはり平山の昭和四十䞃幎五月二十九日が正しいずいうこずになるが、そうなるず雑賀はやっおもいない先生没埌第䞀回の摩阿陀會を、いかにも開催したかのように嘘を曞いたずいうこずになる。そしおその䌚が「䜕ずなく湿っぜく」、䌚が始たっおから二時間も経たずに閉䌚ずなり、参加者は「正気のたたの人が倚く」お、「腑に萜ちないような顔」をしおいたずいうのだから面癜い。これは先生が亡くなっお、その圱響力が消えたこずを印象付けるための、雑賀の願望を織り蟌んだ虚構だろうか。雑賀の本を読むずその䞋䞖話な品性が䌝わっおくるので、こういう嘘も平気で吐きそうな気がするのである。倚田に぀いおは、この本は他所でも間違いや誀怍があるので、二十日は二十九日の間違いだず考えお良いかず思うが、雑賀の蚘述に぀いおは、昭和四䞃幎五月の䌚のこずを、昭和四十六幎十二月の時点で曞くずいうこずは、やはりあり埗ない䞍敎合で、雑賀が嘘を぀いおいる蚌拠を远求しおやりたくなっおきた。それでこの『実説・内田癟閒』の元になった、雑誌『小説新朮』昭和四十六幎十二月号に掲茉の蚘事を盎接確認するために、䟋によっお囜立囜䌚図曞通に遠隔耇写を䟝頌したのである。そうしお、数日埌に到着した誌面のコピヌを確認した。

雑誌『小説新朮』の昭和四十六幎十二月号に掲茉された、雑賀進の「実説內田癟閒」には、各章のサブタむトルがなく、数字が觊れられおいるのみで、それが䞀から五たである。これに察しお単行本の『実説・内田癟閒』に収録された「実説・内田癟閒」では、数字は振られおいないが、各章にサブタむトルが぀いおいる。「金剛寺にお」「麻薬」「癟鬌園・文六・倢声老」「甘朚君の死」「意地悪る出版蚘念䌚」「癟鬌園先生蚀行録抄」「摩阿陀會点描」「癟鬌園先生臚終蚘」の八章で、雑誌の党五章に察しお䞉章増えおいる。しかしこれは、雑誌発衚時の章の区切りを倉えただけで、䞭身は倉えずに単行本化したのかもしれないから、たずは先ほど匕甚した「今幎の五月二十九日」の郚分がある「摩阿陀會点描」の章が、雑誌掲茉版の「実説內田癟閒」にもあるのかを確認した。単行本の最終章になる「癟鬌園先生臚終蚘」は、雑誌掲茉版ではこちらも最終章の「五」だから、ずいうこずは、雑誌版の「四」が単行本版のどの章になっおいるか確認すれば良いわけで、それで雑誌版の「四」の最埌の䞀文を芋おみるず、それは単行本版の「摩阿陀會点描」の前章「癟鬌園先生蚀行録抄」の最埌の䞀文だったのだ。぀たり、雑賀は「実説內田癟閒」を単行本『実説・内田癟閒』に収録する際、この「摩阿陀會点描」の章を曞き足しおいるのである。そのくせ、単行本化に際しお増補したこずは、単行本『実説・内田癟閒』の䞭では、たえがき、あずがき、初出䞀芧のどこにも蚘茉されおいない。どうせ適圓なゎシップ本で、取るに足らない内容だから、増補したこずの泚釈などいらないず刀断したのか知らないが、確かに内容ず盞応の杜撰な線集で、こんなものに隙されお付き合ったこずを深く埌悔した。ずなれば、匕甚した「今幎の五月二十九日」の「今幎」ずは、単行本の『実説・内田癟閒』が刊行された䞀九八䞃幎のこずであるが、その前に「先生が亡くなっおから初めおの摩阿陀䌚は」ずいう文章があるので、だずするず、摩阿陀會は先生が亡くなっおから䞀九八䞃幎たで開かれなかったずいうこずになる。するず、倚田や平山が嘘を 、もういいか。

 第二十䞀回は昭和四十六幎五月二十九日であったが、先生は同幎四月二十日、八十二歳で急逝されたので、その幎は喪に服しお止めた。その埌摩阿陀䌚は十四回開催しお先生の遺埳を偲んだ。小林先生、北村、䞭野、栗村君は先生の蚱に行っおしたい、幎ず共に先生の所に移籍する䌚員が倚くなっおきたので、圌の地から、われわれに向っお「たあだかい」ず蚀っおいるかも知れない。
         実践女子孊園父母の䌚䌚報第47号昭和61幎7月15日

倚田基「内田癟閒先生ず摩阿陀䌚」
『内田癟閒先生の憶い出』倚田基先生の米寿を祝う䌚・1988幎刊109pより

もう䞀぀、第二十二回で匕甚した倚田基の二個目の文章を、その続きたで匕甚しおみた。ここでは先生のご逝去された昭和四十六幎の摩阿陀會は䞭止したが、その埌に摩阿陀會は十四回開催したず、昭和六十䞀幎䞃月発衚の文章で曞いおいる。぀たり、昭和六十䞀幎五月二十九日の摩阿陀會は、先生没埌第十四回目ずいうこずになるわけだが、倚田の別の文章では、先生の没埌最初の摩阿陀會は昭和四十䞃幎五月二十日に開催ずあるので、以降、毎幎開催されたずなれば、昭和六十䞀幎は第十五回目ずなるはずである。しかし、倚田は十四回開催したず蚀っおいるので、ここも数字が合わない。それずも、この十四回ず蚀うのは連続十四回ずいう意味ではなくお、途䞭で䞀回やらなかった幎があっおの十四回なのだろうか。そういう詮玢をしたくなるくらいに、各自の数字がずれたくっおいるので、盞圓にもやもやする。

さお、先生没埌の摩阿陀會は、そうやっお継続はされおいたようだが、先生が亡くなった埌の葬儀にも、摩阿陀會の連䞭が関䞎しおいる。

 生前から、私が葬儀委員長になるようにず蚀われおいたので、そこに居合わせた平野力、垃川角巊衛門、枅氎枅兵衛、平山䞉郎の諞兄ず盞談し葬儀次第を決定しお奥様の承認をもらった。お通倜は五ママ月二十䞀日倜六時より八時たで密葬は五ママ月二十二日、出棺は午埌䞉時幡ヶ谷火葬堎葬儀及び告別匏は午埌䞀時より䞉時迄䞭野区䞊高田の金剛寺で行うこずずなった。

倚田基「第十䞉回癟忌を迎えるに圓たっお」
『内田癟閒先生の憶い出』倚田基先生の米寿を祝う䌚・1988幎刊65pより

ママを入れたが、本圓に酷い誀怍、でなければ倚田の酷い間違いである。蚀うたでもないが、先生は四月二十日に亡くなられたので、お通倜は四月二十䞀日、密葬は四月二十二日である。ああ、もう〜。いくら私家版の非売品だからず蚀っお、先生の昔の孊生であるこず以䞊に、先生の偎近のように芪密で「むダだからむダだ」のお䜿いたでした男が、先生に぀いお曞いた文章を集めた本なのだから、本ずいう䜓裁でこの䞖に残すのであれば、䞇党を期した内容にしお欲しかったず思う。あるいは、私が摩阿陀會の連䞭に存分に文句が蚀えるように、あえお抜け挏れだらけの本に仕䞊げたのだろうか。

倚田基の回想には、通倜に蚪れた先生の子䟛たちや孫たちの悲痛な様子が曞かれおいるが、ここでそれを取り䞊げるのは止めおおこう。圓然のこずなのだが、こひさんずその効のち江さん偎ず、先生の子䟛達の偎ではやはりそこに隔たりがあるように感じられるし、やはり子のない埌劻ずすでに故人の先劻の実の子䟛たちでは、その確執は避けられないのだろう。たた、子䟛の䞭では唯䞀、先生ずこひさんの元にもよく遊びに来お、摩阿陀會や埡慶ノ會にも参加しおいた次女の矎野さんが、なぜかこの倚田基の文章に出おこないずいうのも解せない。そしお、私が芋぀けたのは「家政婊は芋た」ばりの掞察力でお銎染みの、野䞊圌生子の日蚘である。䟋によっおこのためだけに叀本を買うのは無駄なので、デゞコレ必殺法で抜曞した。

六月十䞉日 日 曇晎
内田癟閒の劻君の嘆きずいふのを角さんから䌝ぞきいた。圌の死ずずもに、それた出入りを犁じられおゐた嚘たちが参集、劻君に金など隠しおあるだらうから出せず迫぀た。それどころではなく新朮瀟には○䞇の借金があり、お墓も危い。嚘たちは墓には自分たちが建立者ずしおの名を぀らねるずいふ。それで䟋の匟子グルヌプで建おる事に決定したずいふ。今日たでの事をおもぞば、嚘たちの気持も分かるが、あの劻君の䞖話があ぀おこそ、癟閒は最埌たで圌らしい生き方をされたわけだから、ようこそ看護しおくれたずい぀おもよいわけだ。しかし䞭々さうはいかないのも無理はない。人間の䞀生の終末がたこずに奜たしいかたちで果されるのは、䞀般的にはむづかしいものらしい。

野䞊圌生子「日蚘昭和四十六幎」
『野䞊圌生子党集 第二期 第17å·»-1』岩波曞店・1990幎刊行より

この話の真停の皋は定かではないが、これを読んで私が思い出したのは、暪溝正史原䜜の映画『犬神家の䞀族』である。犬神財閥の創始者・犬神䜐兵衛翁には、それぞれ母芪の違う䞉人の嚘がいお、犬神䜐兵衛翁が老幎になっお若い愛人を䜜り子䟛ができるず、犬神家を乗っ取られるず危惧したその䞉人嚘が、その愛人ず子䟛に䜏む家に乗り蟌んで、二人を打擲するのである。もちろん、これは小説や映画の䞭での話だが、そのような問題の原因を䜜る、無責任な男の業の深さにうんざりするずずもに、先生に察しおは䜕が摩阿陀會だず蚀っおやりたくもなるが、それが先生なのだずなれば仕方ない。

結局、先生のお墓に぀いおは、こひさん偎、実の子偎で折り合いが぀かず、それで摩阿陀會有志が建おるずいうこずになったのだろう。平山䞉郎の「塀の倖吹く俄颚」『実歎阿房列車先生』収録ずいう䜜品の末尟には、先生の䞉回忌の昭和四十八幎、菩提寺の金剛寺に墓暙ずその傍らに句碑が、いずれも摩阿陀會有志によっお建立されたずある。

平山䞉郎、ズボン䞊げすぎじゃね

䞭村歊志の呜日

クロニクルの前段で䞭村歊志の文章を匕甚したので、散々ディスったお詫びも兌ねお、締めのラヌメン、いや、塩むすびずしお、䞭村歊志の文章を再び匕甚するずしよう。ず思っお、䞭村の『内田癟閒ず私』をパラパラずツヌ讀しおいたが、先生関連の話ばかりをたずめた本かず思いきや、『内田癟閒ず私』の「私」の方の比重が倧きくお、あんたの「私」は読みたくないず思っお、䞀気に萎えおしたった。愛ずは残酷なものだから、愛する察象ずは党く関係のない、愛する察象の付着物には、これに関心を払うこずなどはできないから、やはり最埌もディスっお終わるこずになりそうである。䞭村は、先生の嫉劬を裏に、目癜䞉平の倧ヒットを受けお流行䜜家になったものの、今では䞀冊も埩刻さえおいないどころか、歎史の圌方に完党に忘れ去られた存圚になっおいる。䞭村の新字新かなぞの裏切りを受けおもなお、先生の本が二十䞀䞖玀の今日たで生き延びおるのずは党く正反察で、元々比范にならない栌の差ずいうものがあるのだからそれも仕方がないだろう。そういうわけで「私」の方は完党に無芖しお、先生に぀いお曞かれた方をツヌ讀しおみたのだが、やはり我田匕氎の感が吊めない眉唟物で、そもそも私は䞭村に察しお良い感情を持っおいないのだから、そう思うのもたた仕方がない。

癟閒先生は、無意識のうちに、ご自分がここに登堎するような王様であるこずを知っおおられたず私は考えたい。そうでなければ、昭和十䞃幎から、お亡くなりになるたでの䞉十幎間、私は囜鉄に勀める傍ら、特に敗戊前埌の十幎間は、䞉日にあげず、先生の著䜜の校正、錬金術の打合わせや金子や酒、食糧のお届けに参䞊したのだが、たずえどんな無理なご呜什、ご指瀺でも、いや応なしに聞いお差しあげなければならぬような気持ちにさせられるはずはない。血瞁も他人も党郚家来であった。䞇䞀先生の意に反すれば、こちらが盞枈たぬず思うのだから䞍思議で、いやこれが王様ず家来の関係である。

䞭村歊志「癟閒先生故郷ぞ垰る」『内田癟閒ず私』岩波曞店・1993幎刊322pより

先生を王様ず敬うその裏で、裞の王様、バカ殿の面倒を芋るのはアホらしかったずでも蚀っおいるかような文章である。「たずえどんな無理なご呜什、ご指瀺でも」ずいう蚀い方に、䞭村の感情が透けお芋える。この「癟閒先生故郷ぞ垰る」では、この埌に、実嚘の矎野さんが野々村䞉郎のむンタビュヌを受けた時の蚘事『文芞広堎』に四回連茉のこずを取り䞊げ、そこで矎野さんが語った、講談瀟版党集ぞの䞍満に぀いお曞いおいる。党集の幎譜の「倧正十四幎、家庭生掻䞀切を攟棄しお早皲田終点に近い䞋宿屋早皲田ホテルに独居する」ずいう蚘述が嘘であるず蚀い、たた平山䞉郎が同党集の解題で『癟鬌園日蚘垖』の登堎人物を解説するにあたり、「町子堀野枅子」ず枅子倫人の旧姓で蚘茉したこずや、先生の遺骚は先生の遺志で分骚され、岡山のお墓にも入っおいるのに、そのこずが同党集で觊れられおいないこずに矎野さんが憀慚しおいるこずを取り䞊げお、自分ず違っお先生に寵愛された平山䞉郎を、姑息に批刀しおいるのも気に入らない。その埌、こひさんが亡くなっお、犏歊版党集の䞻導暩を平山から奪い取り、先生の本を新字新かなに改竄しお、倩䞊界の先生に最倧の屈蟱を䞎えお埩讐した話は、ここではもう繰り返さない。

 それ以来、亡くなられた昭和四十六幎四月二十日たでの䞉十幎間、埗難い垫に接しながら、䜕の感埗もせず、圱響も受けず、目癜䞉平シリヌズの劂き駄文を匄するのみで、その䞊酒豪にもなれず、錬金借金術も䞭途半端なこずしか出来ずに、今日に至っおしたった。
 そこで先生より長生きをしお、幎霢で远い越す以倖に道がないこずに思い圓たった。䞭略
 その䞀幎远い越すこずになる去幎の十二月䞃日、毎日䞀床は行く鍋屋暪䞁の䞭囜料理翠鳳で、矎野さん、菊矎さん、孫の内田ミネさんたちが䞻催で、癟閒党集を出した犏歊曞店の寺田博出版郚長ほかお二人が陪食で、先生を䞀幎远い越したお祝いをしお䞋さった。宎終っお仕事堎ぞ垰る途䞭の露地で、"われ癟閒を超えたり"ず呟き、぀いでに駄句をひねった。

䞭村歊志「われ癟閒を超えたり」『内田癟閒ず私』岩波曞店・1993幎刊347~348pより

ただ生きおいるだけで達成できる方法で、先生を超えるこずができたずいうのも笑止だが、この文章の末尟に曞かれた日付を芋お愕然ずなった。その日付は、「䞀九九二幎十二月十䞀日」で、䞭村はこの日にこの文章を曞いおいるこずになるのだが、なんずこの日は䞭村の呜日なのである。ずいうこずは、呜日に䞭村はこの文章を曞き、そしおそのたた亡くなったずいうこずなのだろうか。呜日の方に間違いがあるのかず思い、りィキを確認したが、確かに呜日は䞀九九二幎十二月十䞀日で、りィキには間違いもあるだろうからず思い、デゞコレ必殺法で怜玢するず、䞀九九二幎十二月二十四日号の雑誌『週刊新朮』に、「䞭村歊志氏が十䞀日心䞍党のため亡くなった。享幎八十䞉。」ずの蚘茉があった。ちょっず、き぀ねに぀たたれたような話で釈然ずしないが、今回は最埌の最埌たで日付に翻匄された、釧路から鹿児島たでの日本瞊断の長旅であった。


映画『たあだだよ』雑感

先生の摩阿陀會ずいえば、それを䞻テヌマにしお先生のこずを描いた、黒柀明監督の映画『たあだだよ』に぀いお、觊れないずいうわけにはいかないだろう。䜕床か曞いおいる通り、私は映画では小接安二郎䜜品が䞀番奜きなので、同じ日本の巚匠でも、その察極にあるような黒柀明䜜品は党く奜みではなく、真剣に芋たこずはほずんどない。映画の動的ダむナミズムや非日垞性ずいうものが苊手で、だから黒柀の『䞃人の䟍』で、激しい雚の降る泥だらけ埀来で、銬に乗っお斬り合うシヌンなどでは、銬ごず人が倒れたりするず銬は怪我をしおいないだろうかずか心配になるし、『矅生門』で草むらの䞭で斬り合うシヌンをみるず、草で足を切ったりしおいないかなどず、そのリアリズムの远求の床合いが濃いほどに、怪我や痛みに察する心配ばかりが先立っお、ずおもじゃないが安心しお芋おいられない。その点、小接映画の画面は静謐だし、痛そうな堎面も皆無なので、安心しお芋おいられる。

それはずもかく、同じ黒柀映画にしおも『たあだだよ』は異䟋の䜜で、そこには栌闘シヌンもなければ、芋るからに痛そうなシヌンもない。䜜家の生涯を描いた映画なのだから圓然だずは思うが、それたでの黒柀の䜜品がどうであったのかはよく知らないし、たた興味もないが、先生その人をテヌマにするずなれば、興味のない監督の䜜品であったずしおも、やはりこれを芋ないわけにはいかない。それで私は、この『たあだだよ』を、公開から十幎くらい経った埌にテレビで芋たが、どうにも端から銬鹿にしおいお、「䜕だこんなもの」ずいう斜に構えた気持ちでしか芋るこずができなかった。実際、映画の最埌の方に出おくる、「自分の奜きなものを芋぀けお努力しなさい」ずいう先生の蚀葉や、先生が「金無垢」「金無垢」ず囃し立おられる姿に、掗緎や諊芳ずは皋遠い、酷い田舎芝居を芋せられおいるような気分がしたものである。先生の読者であれば、先生が金無垢「かね」ではなく「きん」、金のように無垢だずいうこずらしいでもなく、努力しろなどず殊勝らしいこずを蚀いような人ではないこずは十分に知っおいるはずだ。

だからこれは、先生の䜜品や先生の生涯の゚ピ゜ヌドを流甚しお、黒柀明が想像した、架空の心枩たる垫匟物語ず捉えるのが正しく、先生はその䜜品ず個性を適圓に利甚されたのだず思った方が良いようである。先生の本質や、先生の䜜品や生涯を正ずしおこの映画を芋おしたうず、本来の先生ず異なる郚分や、゚ピ゜ヌドのディテヌルの差異にばかり目が行っおしたうからだ。教垫を蟞める理由、新築した家の間取り、こひさんず思われる女性を正匏な奥さんずしおいるこず、最初の摩阿陀會が戊時䞭の開催など、芋おいお匕っかかる郚分も倚いのだが、「今、忘れられおいるずおも倧切なものがここにある。」ずいうこの映画のテヌマからするず、郜合の悪い郚分やそれに適さない事実は、これを正確に衚珟するこずができないのは圓然であろう。映画䜜家が、自分の䜜品のために誰かの䜜品や生涯の゚ピ゜ヌドを利甚しお、自分の理想の物語を䜜るこずは、特に咎められるこずではないずは思うが、私は映画䜜家の方よりも、その利甚された䜜家の方に倧いに畏敬の念を抱いおいるので、そこに䜕か搟取のような、剜窃のような埌味の悪さを感じおしたうこずも確かである。

そのような感慚を持っお、今回私は、玄二十五幎ぶりくらいにもう䞀床、映画『たあだだよ』を芋おみた。芋た感想が昔ず倉わるこずはなかったが、特に今回は摩阿陀會の蚘事のために芋るずいう目的もあったので、以䞋では『たあだだよ』の䞭で描かれた摩阿陀會の様子に぀いお振り返りながら、若干の感想を述べおみたいず思う。

第䞀回摩阿陀會映画『たあだだよ』より

「摩阿陀䌚」の䌚堎も面癜い。最初は新宿歊蔵野通のビダホヌルで始め、途䞭から新橋の駅にあったレストランになるでしょう。僕の映画は最初ず同じビダホヌルずいう蚭定にしたんです。

黒柀明『たあだかい』解説
『癟鬌園先生 内田癟閒党集月報集成』䞭倮公論瀟・2021幎刊416pより

犏歊文庫は、映画『たあだだよ』公開圓時に先生の摩阿陀會関連の䜜品を集めたアン゜ロゞヌ『たあだかい』を刊行し、そこに黒柀明の解説むンタヌビュヌ構成が収録されおいる。監督本人が映画に぀いお語った珍しいものだが、それを読んでみおも、先生の䜜品が奜きだったずいうこずは理解するものの、それを映画に萜ずし蟌んでいく䞭で、倉圢させられたり、削ぎ萜ずされたりした郚分があるのは、やはり䞻県は先生になく、先生を出汁にしお自分の䞻匵を描いおいるずいうのが本音だろう。途䞭から新橋駅のレストランになったのではなくお、新宿歊蔵野通のビアホヌルは䞀回目しか䜿っおいないず、すでにこの䞖にいない黒柀に正しおも意味がない。

映画『たあだだよ』における、第䞀回摩阿陀會の構成は、

①肝煎倚田基の開䌚の挚拶
②先生の挚拶お忙しいずころ、お忙しくなかった人も
③先生の倧ゞョッキのビヌル䞀気飲み
④参加者挚拶平野の駅名暗誊、等
⑀童謡「お月様えらいの」の合唱
⑥童謡「月」のおがん
⑊オむチニの薬屋さんの行進
⑧先生の擬䌌葬儀
⑚「たあだかい」「たあだだよ」のコヌルアンドレスポンス

ずなっおいる。これらをいちいち怜蚌しお、どれが先生のどの䜜品からの匕甚かだずか、ここが違うなどず論うのは意味がないし、そもそもどれが本圓でどれが創䜜なのかは、摩阿陀會の参加者が滅亡した今では誰にも蚌明できない。なのでここでは、実際の摩阿陀會にない、黒柀オリゞナルず思われる郚分に泚目しおみたいず思う。

⑀童謡「お月様えらいの」の合唱、および⑥童謡「月」のおがん

摩阿陀會では、「勇敢なる氎兵」などの軍歌や童謡が歌われるこずが毎回恒䟋になっおいたが、映画『たあだだよ』のこの二぀のシヌンにあるように、童謡の「お月様えらいの」や「月」出た出た月がが、実際の摩阿陀會でこのシヌンのような圢で歌われおいたのかはわからない。ただし、先生が参加できなくなった、昭和四十四幎の第二十回摩阿陀會の報告「雚が降぀たり」には、先生が自分の挚拶をテヌプに吹き蟌んでそれを䌚堎で流したずあり、そのテヌプの䞭で先生は「お月様えらいの」ず「月」を歌ったず曞いおいるのである。黒柀は「雚が降぀たり」のその郚分を元に、このシヌンを創䜜したのではないだろうか。

「盆のような月が」のシヌン映画『たあだだよ』より

 お月さたは、我我文孞文章の埒に取぀おは、詩歌のセンチメントである。象城であり、神聖であ぀お、冗談ではない、科孞者の勝手攟題は迷惑ずも䜕ずも。
  月芋れば千千に物こそ悲しけれ
   我が身䞀぀の秋にはあらねど
  ほずずぎす鳎き぀る方を眺むれば
   ただ有り明けの月ぞ殘れる
 たた
  物干のふんどしに月やほずずきす
 今床は歌を歌぀お芋たい。

  お月さたはえらいな
  お日いさたの兄匟で
  たんたるになったり
  鏡のやうになったり
  春な぀秋ふゆ 日本ぢゅうを照らす
  
  出た出た月が
  たるいたるいたんたるい
  盆のよな月が
  かくれた雲に
  黑い黑いた぀くろい
  のよな雲に
  たた出た月が
  ココノ所忘
  鏡のよな月が

內田癟閒「雚が降぀たり」『內田癟閒党集』第十巻・講談瀟・1973幎刊365pより

「月」の䞉番の歌詞の二段目、ここが先生は䞍明だず蚀っおいお、その郚分に぀いおの探究の顛末を、「雚が降぀たり」ず同じく、先生の遺著『日没閉門』に収録の「たた出た月が」ずいう䜜品で曞いおいる。早速この郚分に぀いお摩阿陀會の肝煎の枅氎枅兵衛が調べたが、岩波版の歌唱集では䞉番は䞀番の繰り返しで、先生が曞いおいる䞉行目の「鏡のよな月が」の郚分も䞀番ず同じ「盆のよな月が」だった。先生は自分が芚えおいるものずも違うし、第䞀䞉番が䞀番ず同じ「盆のような月」では、歌に進展がないからおかしいず蚀っおいるが、私もデゞコレで明治倧正時期の本を䜕冊も調べおみたが、やはり䞉番は党お䞀番の繰り返しになっおいた。「ただ死なざるや」の間違いずいい、先生は自分の奜きな歌の歌詞を独自に改造するのがお埗意らしい。あるいは先生の単なる蚘憶違いなのか、寄る幎波で混乱しおいるのかわからないが、映画『たあだだよ』の䞭では、䞉番は䞀番の歌詞を繰り返しお歌っおいる。

⑊オむチニの薬屋さんの行進

先生の摩阿陀會䜜品の䞭では、オむチニの薬屋さんの歌に觊れた郚分は、第䞀回の「摩阿陀會」ず第五回の「けふの瀬」だけだが、前者ではオむチニ通の行商が手颚琎を䜿っお歌いながら街を緎り歩き、それで手颚琎の品栌が萜ちたず蚀っおおり、オむチニを摩阿陀會で歌ったり、映画『たあだだよ』で描かれおいるような、おっさんが数珠繋ぎになっお行進するような光景は描かれおいない。埌者では、先生が宮城道雄の家に行った際に、宮城が先生が歌った歌を録音した䞭に、オむチニの薬屋さんの歌が入っおいお、それを第五回摩阿陀會の䌚堎で流すのである。もちろん、その時もおっさんの行進の描写などはない。

オむチニの薬屋さんの行進映画『たあだだよ』より

あそこで歌う「オむッチニ」は僕もあたり知らなかったんですが、䞀緒に手䌝っお貰った本倚猪四郎君は、昔、田舎にいた時にオむッチニの薬屋さんを芋たず蚀っおたした。手颚琎なんかを調べお、映画のような圢にしたんですが、癟閒先生が歌っおいる歌詞ずは違うんです。あの螊りもどういう行列をしたのかわからないんで、僕が考えたんです。

黒柀明『たあだかい』解説
『癟鬌園先生 内田癟閒党集月報集成』䞭倮公論瀟・2021幎刊416pより

ここでは黒柀が、「どういう行列をしたかわからない」ず蚀っおいるこずに泚目したい。぀たりそれは、行列はあったがその方法は䞍明だ、ずいうこずになるず思うが、摩阿陀會で本圓にこの行列があったのかはよくわからない。このオむチニの薬屋さんは、明治埌期から昭和初期にかけお党囜に芋られた薬の行商人で、生盛薬通ずいう薬屋がやっおいたようである。

 そのいでたちがすごい。ピカピカの勲章の぀いた軍服颚制服に週番士官のたすき、手には手颚琎を持ち、垜子には䞹沢家の王である五䞃の桐の蚘章が぀いおいるずいう凝りっぷり。そんな軍囜調セヌルスマンが、日枅戊争の倧勝利を背景に、最盛期には䞉千人も党囜各地を歩き回っおいたずいう。その光景は、林芙矎子の短線「颚琎ず魚の街」にも描かれたほどだ。

「䞹沢善利日本の広告を䜜った50人」雑誌『広告批評12』マドラ出版・1996幎刊29pより

䞹沢家ずいうのは生盛薬通の創業家で、ここの二代目が䞹沢善利であり、この行商スタむルを考案した人物である。先生は「オむチニ」ず曞いおいるのだが、他所では「おおいちに」だったり、「オむチニむ」「オむツチニ」などず様々なので、元々人が口頭でやっおいた広告を聞いたものだから、その人の聞き取り方で様々に衚珟されたようだ。特にこれ以䞊は「オむチニ」には拘泥しないが、この黒柀が考えた行列のスタむルでは、行進の途䞭に敬瀌の動䜜が入るけれども、これを芋お私はやはり小接安二郎の映画を思い出すのである。

オむチニの行進の敬瀌映画『たあだだよ』より
小接安二郎監督『秋刀魚の味』より

そういえば、小接安二郎の『秋刀魚の味』も、昔の孊生たちが恩垫の先生を囲んで饗応する話だった。東野英治郎挔ずるその先生は、今は教垫をやめおラヌメン屋をやっおおり、そのラヌメン屋に元孊生の笠智衆が行った際に、そこに客ずしおきたのが加藀倧介で、加藀は海軍の戊艊で笠智衆の郚䞋だった。䞊蚘のシヌンは偶然再開した二人が飲みに行った店で「軍艊マヌチ」がかかり、それに合わせお加藀が行進し、皆で敬瀌し合う堎面である。

映画『たあだだよ』に戻るず、この埌、先生の擬䌌葬儀が始たるが、正確にいうず北村孟埳がこれをやったのは、先生の還暊祝いの「華甲の宎」の時である。その埌、摩阿陀會でも続けられたかどうか定かではないが、この擬䌌葬儀に続き、映画では先生ず摩阿陀會の連䞭ずの、「たあだかい」「たあだだよ」のコヌルアンドレスポンスになだれ蟌むのである。

「たああだかい」「たあだだよ」のC&R映画『たあだだよ』より

これが黒柀映画のダむナミズムなのだろうが、残念ながら私は党く奜きになれない。それにしおも、おっさんだらけの汚い絵面で、それが凄い勢いでこちらに迫っおくるので、䞉十幎前の公開圓時のならばただ蚱されたのかもしれないが、いろいろアップデヌトされた珟代にこれを芋るのは少々き぀いだろう。いくら先生の䜜品ず蚀えども、飲んだくれの銬鹿隒ぎである摩阿陀會自䜓に、元々私は良い感情を持っおいないので、このような評䟡になるのは仕方がない。お奜きな方には倧倉申し蚳ないが、これはあくたでも奜みの問題ずさせおいただく。このコヌルアンドレスポンスが実際の摩阿陀會にあったのかどうかは知らないが、䌚の定番だった「勇敢なる氎兵」の「ただ癟閒は死なざるや」は、黒柀はこれを採甚しなかった。日枅戊争ずいう叀い戊争時期の軍歌で、䞀般性も普遍性もないず刀断したのだろう。

映画『たあだだよ』では、もう䞀回、先生の喜寿の幎の第十䞃回摩阿陀會の暡様が描かれる。

喜寿の第十䞃回摩阿陀會映画『たあだだよ』より

第䞀回摩阿陀會のおっさんばかりの景色ず違っお、䌚堎には女性や子䟛も倚くいるし、先生の隣にはこひさんも座っおいる。先生が振袖の女性から花束をもらうシヌンもある。もはや、あの悪童たちの銬鹿隒ぎは封印されおいるようで、倚田が「久々にオむチニをやろう」などず蚀っおいる。先生が喜寿のバヌスデヌケヌキの蝋燭を吹き消すず、子䟛たちに向かっお喋りだす。

「私は、このケヌキず䞀緒に君達に䞊げたいものがある  蚀いたい事がある  みんな、自分が本圓に奜きなものを芋぀けお䞋さい  自分にずっお本圓に倧切なものを芋぀けるずいい  芋぀かったら、その倧切なもののために、努力しなさい  君達は、その時、努力したい䜕かを持っおいる筈だから  きっずそれは、君達の心のこもった立掟な仕事になるでしょう」

黒柀明『たあだだよ』埳間曞店・1993幎刊より

犏歊文庫『たあだかい』の解説では、このセリフに぀いお黒柀は䜕も蚀っおいないが、この勧善懲悪的な安易な締めくくりには、個人的には非垞に倧きな違和感を芚えるものである。䜕床も蚀うように、こんなセリフを先生は蚀うわけはないから、これは先生に無理矢理蚀わせた黒柀のメッセヌゞずずっおいいだろう。もうひず぀、非垞に違和感のある「金無垢」ずいう蚀い方だが、こちらに぀いお黒柀は䞋蚘のように蚀っおいる。

映画の䞭では、お匟子さんたちが、金無垢先生ずいうように評しおいるんです。金無垢先生ずいうのは、トルストむの「戊争ず平和」にある連隊長が出おくるんですが、兵隊たちが金無垢っお呌んでるんですよ。うちの倧将は金無垢だずいう、それを思い぀いお、金無垢っお䜿ったんです。ああいいう具合にはっきりしおおかないずいけないず思いたしお。

黒柀明『たあだかい』解説
『癟鬌園先生 内田癟閒党集月報集成』䞭倮公論瀟・2021幎刊417~418pより

圓然のこずながら、金無垢の出所は先生でも摩阿陀會の連䞭でもない。これを黒柀がはっきりさせおおいおくれたのは、倧倉良かったず思う。我儘で偏屈ならただしも、先生に金無垢ずは、先生自身の人を食ったような錬金術の借金哲孊ず、それを成就させるための暪暎なたでに自己䞭なロゞックからしおも、あたりにも䞍釣り合いで䞍謹慎、ずんでもない噎飯物だ。

さお、以䞋は『たあだだよ』でデゞコレを怜玢しおいお芋぀けた蚘事。映画『たあだだよ』公開圓初の、先生圹をやった束村達雄ず劇䜜家の接村忠の察談である。

接䞊 こんどの映画「たあだだよ」の内田癟閒圹はずいぶん熱挔でしたね。束村さんは法政でしょ 教えおもらったこずはあるんですか
束村 いや、ないんです。がくは英文ですから。ほら、森田草平っおいるでしょ。あの人の講矩が面癜かった。授業っおいうより無駄っ話しで  。
接䞊 え! 森田さんも法政で教えおたんですか
束村 そう。あの人が英語を教えおた。がくは癟閒さんは随筆で興味を持っおたけども教宀が違うから行けなかった。ずいぶん孊生がどやされおね、あの人は倉わりものだから、ずいっおたしたよ。䞀人が悪くっおも、おたえらみんな悪いんだ、っおいっお。

「監督の県力,圹者の存圚感 / 束村達雄・接䞊忠」
雑誌『民䞻文孊 (334)(384)』日本民䞻䞻矩文孊䌚・1993幎刊94pより

䜕ず、束村達雄は法政で先生の同僚だった森田草平の生埒だった。先生の法政倧孊教垫時代ずかぶっおいお、専攻が英文でなくおドむツ語だったら、村束も摩阿陀會のメンバヌになっおいたのだ。

ダメ抌しで最埌にもう䞀぀。今床は、映画評論家の淀川先生ずおすぎが、雑誌『広告批評』で連茉しおいた「おしゃべり映画講座」から。

淀川 ちょっず、「たあだだよ」の話おもいい 僕は倧奜きだけど、あなたはダメなんでしょ。
杉浊 いや、ノヌコメントです。
淀川 ノヌコメントですべおわかるね。
ずころがね、こんなにいい映画ないの。内田癟閒の話で、「たあだだよ」ずいう題は「先生死なないでね」「たあだだよ、死なないよ」ずいうこずなんだけど、そんなこずよりも黒柀明監督が内田癟閒のストヌリヌを぀かんだこずが非垞によかった。「赀ひげ」なんかもヒュヌマンタッチだったけど、あ
あいう食いしばったずこはなくお、今床は柔らかい柔らかい柔らかい映画になっおる。倧孊に䞉十幎勀めおた先生に生埒が「先生、ご苊劎さん、ご苊劎さん」ずいうような話。やっぱり黒柀さんの映画ずなるず圹者もみんな本気になるからね、井川比䜐志も所ゞョヌゞも。特に癟閒やった束村達雄がすごくいいの、きっずこの人の代衚䜜になるよ。
 これはね、もういっぺん、垫匟愛を芋盎したような映画で、朚䞋惠介の「二十四の瞳」はいかにも女性的だったけど、これは芋事に男性的。よく芋たら、ゞョン・フォヌドなのね。ゞョン・フォヌドの「長い灰色の線」でタむロン・パワヌのやる先生に生埒が「先生、おめでずう。クリスマスですよ」っお蚀いに行くずころがあるけど、そういう暖かさが芋事に出おる。
 それから、黒柀さんらしい映画的感芚が芋事ね。銙川京子の挔じる奥さんが突然の来客で慌おお゚プロンを぀けるずころ、埌ろ手でスススッずね。それをカメラが埌ろから撮っおるんだけど、家庭ずか䞻婊のフォヌムが芋事に出おる。
 戊争で焌け出されたあずに䜏んでた掘っ建お小屋での四季。春の颚。倏は倖に干した掗濯物を取りこむずこ、秋になったら枯れ葉を焌き、冬は雪。ワンカットワンカット、神経が行き届いおる。倏の日の皲劻の光、雷鳎の音、少し倧きめの月、みんな実際の自然よりちょっずデフォルメしおる。
生埒ず先生が䞀緒に♪出た出た月が〜っお歌うずこもちょっず倧袈裟なの。そういう倧袈裟ぶりがこの映画にはあるけど、僕にはよくわかる。
 いたの若い子は也いたアスファルトだから、この柔らかい氎が入らないのね。䞭幎の匟子たちが先生の前で「仰げば尊し」や「因幡の癜兎」を歌ったりするのがいたの若い子にするず照れくさいんだね。でも、これは目で芋お心で聞いお泣く映画なの。どうですか、おすぎさん。
杉浊 私はノヌコメント。黒柀さんが倧奜きだから、ノヌコメントです。
淀川 この人はノヌコメントね。それで、この人の奜きなのは「ラスト・オブ・モヒカン」なのよ、呆れちゃうね。(笑)

淀川長治・杉浊孝昭「おしゃべり映画講座60「ダメヌゞ」「たただだよ」」
雑誌『広告批評 (160)』マドラ出版・1993幎4月刊76~77pより

明治生たれの淀川先生ず、終戊間際の生たれのおすぎでは、この『たあだだよ』に察する評䟡が察立するのは圓然なのかもしれない。おすぎは「黒柀さんが倧奜きだから、ノヌコメントです」ず蚀っおいるが、やはり『たあだだよ』は、それたでの黒柀ファンでも銖を傟げおしたうような䜜品だったのだろう。いや、それたでの黒柀ファンだからこそ、銖を傟げたのか。淀川先生はゞョン・フォヌドを匕き合いに出したり、銙川京子の゚プロンの動䜜に぀いお觊れおいるが、私が映画『たあだだよ』をあえお映画的に評しおみるならば、『たあだだよ』は党䜓を通しお䜕か挔劇的で、たるで舞台䜜品を芋おいるような感芚になったずいうこずだ。摩阿陀會のシヌンや、䞉畳埡殿のシヌンにしおも、あるいは掘立お小屋の四季や、井川比䜐志ず所ゞョヌゞが焌け跡や深倜の路地を歩くシヌンでもそれは同じで、圹者の台詞回しの倧袈裟さず、セットであるこずを隠さない背景の䜜り物感が、䜙蚈に舞台挔劇のような雰囲気を䜜り出しおいるのだず思う。スクリヌンの画角にきっちりず収たった、小接の端正で静謐な人工矎が奜きな私が、生の人間の手觊りを䞻県に眮き、その分舞台装眮には制玄のある挔劇に惹かれるはずがなく、だからこの『たあだだよ』にも映画的な魅力を感じる郚分はほがなかった。぀たり映画に求めるものが違うのである。もちろんこれは、黒柀映画がどのようなものかを党く知らないで曞いおいるし、私が小接映画に感じおいる奜たしい郚分ず、先生の話だずいうこずずは関係なしにした䞊で、それでも『たあだだよ』に私が感じおいる違和感の正䜓に぀いおは、小接の映画を芋おもらえれば䞀目瞭然なので、これ以䞊は曞かない。『たあだだよ』が公開された九十䞉幎圓時は、私もただ先生の本を読み始めお数幎の頃で、それでも黒柀が先生の話を取り䞊げるずいうこずには、圓時は倧きな違和感を持った。それに぀けおも思うのは、心から或る䜜家の文孊を愛するなら、その䜜家の生涯を元にしたり、あるいは䜜品を元にした映画を芋ないこずだ。文孊の本質は文孊でしか味わえないし、䜜家は文字で曞くこずに、文孊は文字で読むこずにこそ、その意味がある。先生の䜜品の粗を映画で芋たにしおも、その粗ばかりが目に぀くのであっお、それは文孊䜜品や文章で味わえるものずは、党く関係のないものだ。鰻が奜きで䞀ヶ月連続で鰻を取っお食った先生が、はんぺんや豆腐や長芋で䜜った鰻もどきに満足するわけがない。

そう蚀えば、先生の䜜品が元ネタの映画にはもう䞀぀、鈎朚枅順監督の『ツィゎむネルワむれン』がある。だが、これも私は芋たこずがなく、たた今埌も芋る気もないが、プレビュヌやトレヌラヌを芋おみるず、挔劇的な生々しい挔出ず、泥絵の具のようなどぎ぀い色圩、フリヌクス的な小道具などが、これも党く私の奜みではなかった。タむトルからしお、先生の「サラサヌテの盀」を䞋敷きにしおいるようだが、土方巜の劣化コピヌ版のよう実際、土方巜が出挔しお、现江英公が撮ったシュヌト・フィルム『ぞそず原爆』ず䌌たような浜蟺のシヌンがあるな原田芳雄の颚貌も、藀田敏八の痩せた鯰みたいな顔぀きも奜きではなく、くせ぀よな女性陣もたるでダメで、若い頃ならただしも、あるいは文孊ずしおカラカラに也いた文字で読むならただしも、今これを芋るのはき぀い。銙川京子以倖はほずんどおっさんしか出おこない、『たあだだよ』の薄汚い絵面を芋る以䞊にき぀いかもしれない。そもそも小接ずロメヌルが奜みの私には、最初から無理な話ではあるのだが。


参考文献
内田癟閒『摩阿陀會』接軜曞房・1976幎刊
平山䞉郎『実歎阿房列車先生』䞭公文庫・2018幎刊行
平山䞉郎『癟鬌園先生雑蚘垳』䞭公文庫・2020幎刊行
䞭村歊志『内田癟閒ず私』岩波曞店同時代ラむブラリヌ・1993幎刊
北村孟埳『めぐる杯』私家版・1969幎刊
倚田基『内田癟閒先生の憶い出』私家版・1988幎刊
村山故郷『癟閒先生の面䌚日』角川曞店・1980幎刊
雑賀進『実説・内田癟閒』論創瀟・1987幎刊
䜐藀聖線『癟鬌園先生-内田癟閒党集月報集成』䞭倮公論新瀟・2021幎刊
䜐藀聖線『癟鬌園寫眞垖 内田癟閒集成24』ちくた文庫・2004幎刊