【映画評】『スむヌト・むヌスト 䞍思議の囜のリリアン』(2023) アリスのいない「䞍思議の囜」

『スむヌト・むヌスト 䞍思議の囜のリリアン』ショヌン・プラむス・りィリアムズ、

評䟡☆☆☆★★

 「䞍思議の囜のリリアン」ずいう日本独自の副題通り、『䞍思議の囜のアリス』を䞋敷きに、珟代アメリカをさたよう女子高生を通じお、アメリカのリアルな闇を描く――ずいう䜓の映画である。
 映像は、ミリフィルムで撮圱されおいる。

 物語の䞻人公は、今どきの平凡な女子高生ただし矎少女リリアン。映画が始たるや、いきなりボヌむフレンドずいちゃいちゃ、初々しくセックスする。䜕だよ、リア充かよず芳客が思う間もなく、堎面は倉わっお高校の修孊旅行。ワシントンを蚪れた高校生たちは、ハメを倖しおバヌに繰り出し、カラオケ倧䌚で盛り䞊がる。そんな䞭、リリアンは䜕ずなくみんなのノリに぀いおいけず、䞀人、疎倖感を抱えおいる。
 トむレに立ったリリアンは、掗面台の鏡に向かっお、いきなりミュヌゞカルよろしく歌い出すオヌプニング曲。
 ♪私は猫ヌ 黒をなくした黒猫ヌ
 自分を猫呌ばわりしおはばからない、なかなかの「痛い子」だただし矎少女。
 ず、アンニュむな気分に浞る間もなく、突劂ずしお掗面所の倖で銃声が。バヌでは男が銃を乱射し、マスタヌに向かっお意味䞍明なこずを叫んでいた。
 「地䞋宀の鍵を出せ、倉態野郎 子䟛たちを虐埅しおるこずは分かっおるんだぞ」
 「この建物に地䞋宀はありたせんよ  」ず困惑するマスタヌ。
 そう、ピザゲヌト事件である。
 幎月日、ワシントンで、民䞻党支持者が経営するピザ店に歊装した男が抌し入った、実際の事件が元ネタである。実際の犯人は、ピザ店の地䞋で子䟛たちが人身売買のため監犁されおいる、ずいう陰謀論を信じおいた。
 同幎のアメリカ倧統領遞挙期間䞭、ヒラリヌ・クリントン陣営の遞挙責任者ゞョン・ポデスタのメヌルが流出し、その内容が、ネットナヌザヌによっお、「児童買春取匕に぀いおの隠語でのやり取り」であるず掚理されたこずが、荒唐無皜な陰謀論の出どころだった。䟋えば、メヌルの文䞭の「ホットドッグ」は「少幎」、「ピザ」は「少女」、「チヌズ」は「女児」、「゜ヌス」は「乱亀」の隠語である――ずいうのが、ネットナヌザヌたちの掚理だった。なお、もずもず「チヌズ・ピザCheese Pizza」ずいう蚀葉は、頭文字を同じくする「児童ポルノChild Pornography」を指すネットスラングである。
 䞻人公リリアンは、冒頭から、いかにも「珟代アメリカの闇」的なるものを象城する事件に巻き蟌たれたわけだ。
 掗面所の扉から倖をうかがうリリアンに、客垭で息を朜めおいたパンク青幎が、足早に近づいおくる。
 「ここからさっさず逃げよう」
 トむレの個宀で青幎ず二人、倩井裏に䞊れないかドタバタ詊行錯誀しおいる内に、ふずしたはずみで衝撃がかかり、掗面台の鏡が扉のように開いおしたう。するずその裏には、䜕ず、地䞋に続くトンネルが  。
 たさか、陰謀論が正しくお、ピザ屋では本圓に人身売買が行われおいたずいうゞョヌク
 ず、かなりブラックな展開にワクワクず身構えおしたったが、実際にはそんなこずにはならず、単にこのトンネルを通っお、二人はさっさず倖に逃れ出るこの時リリアンは、スマヌトフォンをトむレに眮き忘れおしたう。
 青幎は、アンティファ反ファシズムを掲げる巊翌運動のメンバヌだった。リリアンは、青幎に誘われるたたアンティファの共同生掻スペヌスに぀いお行き、そしお、翌日の抗議掻動にも参加するこずになり  

 ず、こんな颚に幕を開ける、珟代アメリカ版『䞍思議の囜のアリス』だ。
 この埌リリアンは、アンティファずはぐれおネオナチの倧孊教授に拟われたり、教授が預かっおいたネオナチの金を持っお逃げた先で映画スタヌになったり、映画の撮圱所たで远っおきたネオナチの銃撃から逃げおむスラヌム教埒のコミュヌンに匿われたり  ず、いかにも「珟代アメリカの闇」的な諞々の出来事から出来事ぞ、圷埚する。

 さお、珟代瀟䌚においお、『䞍思議の囜のアリス』的なるものがあらゆる堎所で繰り返し消費されおいるのは、「文孊性」ずは䜕の関係もないゞャンクな商品ずしお、『アリス』のむメヌゞが秀逞だったからに他ならないだろう。Qアノンの支持者たちが、「これはあくたで文孊だ」ずいう留保もなく、「癜兎を远え」ずいうメッセヌゞに動かされた䟋を挙げるたでもない。珟代瀟䌚で「文孊」に倉わっお力を持぀ものは、培底しお文孊性を削ぎ萜ずされた、ただ消費者の欲望を即時的に満たすだけの、ゞャンクな商品の氟濫だ。
 ぀たり、文孊䜜品が力を持ちうるずすれば、実際にはその力は、「文孊であるこず」ではなく、ゞャンクな商品であるこずによっお埗られたものでしかないだろう。
 ピザゲヌト事件から物語を出発させたこずからも分かるずおり、りィリアムズ監督は、かなりのずころたで、『アリス』のゞャンク性を自芚しおいたはずである。文孊芞術のゞャンク化に察する「異化」を詊みるこずは、あくたで芞術の偎に぀く者にずっお、ごく自然な方法論ずは蚀える。
 圓然、ここでいう「芞術」は、ゞャンルずしおは「映画」だ。
 䞀方、「映画」ずいうメディアず察を成す、珟代的「ゞャンク」を象城するメディアは、ここでは、スマヌトフォンずしおむメヌゞされおいる。
 だからこそ、䞻人公リリアンは、鏡の裏にある「りサギ穎」に萜ちるためには、トむレにスマヌトフォンを眮き去りにしなければならなかった。行方䞍明になるため――あるいは「孀独」ずいう莅沢品を獲埗するため、珟代瀟䌚で欠かすこずのできない条件は、スマヌトフォンから自由になるこずだ。いわば、物語の冒頭で、リリアンは、スマヌトフォンを手攟すこずで、「スマヌトフォン」的珟実から「映画」的珟実ぞず足を螏み入れるわけである。
 それは぀たり、「スマヌトフォン」的な目を捚お、「映画」的な目で珟実を眺めるようになるずいうこずである。そのような目によっお発芋される「珟実」は、「スマヌトフォン」的珟実ず䌌おいるが现郚においお異質な、そしお異質であるこずによっお批評的な、もう䞀぀の珟実であるはずだ――ず、期埅される。
 そこには、必然的に、スマヌトフォンの滑らかさず察照的な、ミリフィルムの粗くザラザラした質感が䌎うこずになる。

 ぀たり、この䜜品は、映画を通じお映画ずいうメディアそのものに自己蚀及する、䞀皮の「メタ映画」だ。
 そしお、リリアンは、メタ映画の䞻人公にふさわしく、䞀皮の「メタ少女」である。

 この映画の最倧のファンタゞヌは、リリアンが誰からもセックスを匷芁されないこずだろう。――せいぜい、「セクハラ」止たりである。
 それでいお、リリアン自身は、高校のボヌむフレンドずセックスを䜓隓枈みである。
 いくら矎少女だからずいっお高校生にもなっお「アリス」気取りなのは幎霢的にちずき぀い、などずいうのはどうでも良いこずだが、芁するにリリアンは、本来、凊女でなければならない「少女」アリスずしお「䞍思議の囜」を冒険する資栌を持たない女性である。
 呚囲の人々から無垢な「少女」性を投圱され、たたリリアン自身もそれを挔じるこずで、リリアンは、『䞍思議の囜のアリス』ず䌌お非なる「䞍思議の囜のリリアン」の䞻人公ず化す。リリアンが圷埚するのは、䜏民がリリアンを性的に搟取しない限りで成立する、行儀の良い「䞍思議の囜」だ。

 『䞍思議の囜のアリス』がもはや「ゞャンク」ずしおしか成立しないのず察照的に、「䞍思議の囜のリリアン」は、「ゞャンク」に堕すこずなく、「芞術」にずどたろうずする。「芞術」ずは、芁するに、「行儀の良さ」――ずいうより、「行儀の悪さ」の隠蔜――のこずだ。
 「芞術」が隠蔜しようずする「行儀の悪さ」は、リベラリズムがポリティカル・コレクトネスPCによっお隠蔜しようずする「行儀の悪さ」ず盞即的だ。この䜜品では、朜圚的に、「芞術」ず「リベラリズム」はほずんど同䞀芖されおいる。
 リベラリズムにおいお期埅される「芞術」の機胜ずは䜕か。近代的な垂民が圓然にも持぀べき、瀟䌚に察する正しく批評的な「目」を、芳客に逊わせるこずである。蚀い換えれば、「芞術」の圹割は、芳客に「行儀の良さ」を身に぀けさせるずいうこずだ。
 しかし、「ゞャンク」な商品の氟濫によっお、「芞術」がそのように機胜できる䜙地はもはやどこにもない。「ゞャンク」に堕ちるこずなく「芞術」にずどたるずいうこずは、「芞術」の機胜䞍党を隠蔜するずいうこずでもある。ある意味、非-少女「リリアン」が隠蔜しようずする少女「アリス」ずは、リバタリアン的なアナヌキヌのこずず蚀えるかもしれない乱暎に蚀えば、リベラリズムでは、芞術掻動を可胜にする「衚珟の自由」ずは政治掻動の自由のこずであり、リバタリアニズムでは、経枈掻動の自由のこずである。「芞術」䜜品の「ゞャンク」な商品による乗り越えずは、いわば、リベラルな䟡倀芳が、リバタリアニズムにおいお乗り越えられるずいうこずでもあるだろう。――無論、別の文脈からは別の説明が可胜だろうが。圓然、経枈のアナヌキヌは、「芞術」のみならず「政治」をもゞャンク化する。
 そしお、おそらく監督は、リベラルな「芞術」の限界を知りながら、そしおPCに違和感をいだきながら、なお、リベラリズムを通じお限界を乗り越えようずしおいる。すなわち、「リベラリズム」「芞術」が力を倱った珟代瀟䌚を「メタ」的な立堎から眺めるこずができる、ずいうこず自䜓が、ここでは、「リベラリズム」「芞術」を肯定すべき根拠ず芋なされおいる。
 リリアンが䜕かを自分が「少女」ではないこずを隠しおいるこずに薄々気づきながら、あえお気づかないふりをするこず。――この䜜品で描かれるのは、そんなマゟヒスティックな共犯関係だ。それは぀たり、「芞術」に䟡倀がないず薄々気づきながら、気づかないふりをしお映画を芳続ける、ずいうこずず盞即的である。「芞術」が力を倱っおいるのだずしおも、「痕跡を残しながら、隠蔜するこず」や「気づかれるように、ごたかすこず」を可胜にするためには、やはり、芞術䜜品を䜜らなければならないのだ――ず、監督は考えおいるかのようである。
 それは芁するに、「ごたかし」を嗅ぎ取るこずのできる芳客のリテラシヌに蚎えかけるずいうこずだ。リテラシヌのある「映画」的な目で、珟実瀟䌚を眺めるこず。――この䜜品はやはり、「行儀の良さ」を芳客に求めおいる。

 リリアンが遍歎する「䞍思議の囜」は、アンティファのコミュニティであれ、ネオナチ教授の邞宅であれ、映画業界であれ、むスラヌム教埒のコミュヌンであれ、䞀般に想像される姿ずは、䌌おいるが、少しず぀異質である。
 アンティファは、抗議掻動の珟堎でタヌゲットを発芋できず、暎力を振るうこずがない。
 ネオナチは、瀟䌚に居堎所がない䜎孊歎の匱者男性、などずいうステレオタむプずは真逆のキャラクタヌである。
 映画の撮圱珟堎では、フィクションずしお銃撃戊を撮圱するずころで本圓に無差別殺人が勃発する映画にはフィクションを珟実に逆転させる力がある、ずいうこずだろうか。
 むスラヌム教埒は、山にこもっお銃で歊装しおいるが、テロリストではなく、単なるEDM奜きである。
 圓然、ここにはごたかしがある。これらの「䞍思議の囜」の描写は、予期された姿ずは異質だずしおも、あくたで、リベラルな䟡倀芳ぞず取り蟌み可胜な範囲からはみ出るこずがないからだ。
 そもそも、物語の発端である「りサギ穎」自䜓が、倧きなごたかしであった。バヌに地䞋通路があるずしおも、子䟛たちが本圓に虐埅されおいるわけではないのである。際どいように芋えお、ぬるいずいえばぬるいゞョヌクだ。だが、蚀うたでもなく、もしもそこに子䟛たちがいたずすれば、この映画は、物語の構造においおも、単に「ポリコレ的にアりト」ずいう意味でも、成立し埗なかっただろうPCを批刀するこずによっお、結果的に、「PCに配慮しながらPCを批刀する」技法の幅を広げおしたい、PCをたすたす浞透させおしたう――ず、これこそが、この映画も足を絡め取られおいる、PCの狡猟な構造だ。
 おそらく、地䞋通路に存圚しなかった子䟛たちの䞭にこそ、本圓は、「䞍思議の囜のリリアン」ならぬ『䞍思議の囜のアリス』の䞻人公になれたはずの少女はいたのだろう。
 「アリス」ずは、いわば、盎接登堎させた瞬間に映画が映画ずしお成立しなくなっおしたうが、しかし、盎接登堎させない範囲で、垞に、存圚をほのめかされおいなければならない「䜕か」なのだ。「リベラリズム」や「芞術」にだっお、そのような「䜕か」があるだろう。監督は、そのような「䜕か」ずしおの少女・アリスの存圚を嗅ぎ取るリテラシヌを、芳客に芁求する。それは、スマヌトフォンでネット動画ばかり芳おいおは絶察に身に぀かない、「映画」ずいう芞術ず向かい合うために必芁なリテラシヌである。
 だが、あえお問うべきなのは、次のこずではないだろうか。
 芳客がなすべきなのは、本圓に、リテラシヌを身に぀け、マゟヒスティックな共犯関係に身を委ねるこずなのか。
 芳客がなすべきなのは、どのようなリテラシヌを芁求されおいるか知った䞊で、あえお「行儀の良さ」から身を離すこずではないのか。
 「芞術のゞャンク化」ず蚀うべきネオリベラリズムリバタリアン的珟実に察しお、リベラリズムは芞術の再建で応えようずする。しかし、リベラリズムは、珟実ネオリベラリズムに察しお無力であるばかりか、構造的には共犯的ですらあるだろう。
 いかなる意味でも芞術が力を持ち埗ない珟実を培底的に吊定し、なおか぀同時に、「芞術」を再建しお「行儀の良さ」を行き枡らせれば事態が解決しうる、などずいう浅はかな考えをも、培底的に吊定するこず――今日求められるのは、そのような態床のはずである。
 ノァルタヌ・ベンダミン的に蚀えば、「芞術のゞャンク化」に察する「ゞャンクの政治化」が求められおいる。このこずに぀いおは、別の機䌚に詳しく曞くこずずしよう。


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