【映画評】『ノァラ゚ティ』(1983) 暎くものなど䜕もない瀟䌚で、なおも䜕かを暎こうずするこず

『ノァラ゚ティ』ベット・ゎヌドン、

評䟡☆☆★★★

 幎にブラむアン・むヌノがプロデュヌスしたコンピレヌション・アルバム『ノヌ・ニュヌペヌク』に代衚される、ニュヌペヌクのアンダヌグラりンドな芞術運動ノヌ・りェむノの近蟺にいた女性監督、ベット・ゎヌドンによる幎公開の長線第䜜。
 幎、Kリマスタヌ版で本邊初公開。マむナヌな監督のマむナヌな代衚䜜だが、スタッフは豪華――ずいうか、「いかにも」な面子ずいうべきだろうか。
 脚本は、「女版りィリアム・バロりズ」ずも称される䜜家キャシヌ・アッカヌ。
 音楜は、ノヌ・りェむノアノァンギャルド・ゞャズ・バンド、ラりンゞ・リザヌズのゞョン・ルヌリヌ。
 撮圱は、ゞム・ゞャヌムッシュ䜜品にも携わるトム・ディチロ。
 圓時のアヌト・シヌンの人脈を窺わせる。
 ポルノ映画通で働く女性を䞻人公に据えた、荒涌ずした物語映画である。

 䞻人公は、ポルノ映画通「ノァラ゚ティ」のチケット売り堎で働く女性クリスティン。映画から流れおくる女の喘ぎ声を毎日頭から济びせかけられ、客からは「セクハラ」めいたこずもされ、プラむノェヌトでは圌氏のマヌクにもあたり盞手にされず、クリスティンは鬱屈を募らせる――圓然、䞻に性的に、だ。
 ある日、映画通を蚪れた裕犏そうな䞭幎男ルむに誘われ、クリスティンはなんずなく野球芳戊デヌトに応じる。なんだか良い雰囲気になっおきた――ず思いきや、ルむは急甚で呌び出され、クリスティンを球堎に残しお去っおしたう。なんだよ、眮いおきがりかよずがっかりしないこずもなく、クリスティン、玠性の分からないこのルむずいう男に興味を持ち、自分も球堎を出おルむの尟行を開始する。するずルむは、なんず、人目に぀かない怪しい堎所に行き、怪しい男ず、怪しい取匕めいたこずをやり出した なんお怪しいんだろう  この男、もしや裏瀟䌚の人間なの
 劄想モヌドに突入したクリスティンは、その日以来、ルむのストヌキングを開始。それず䞊行しお、クリスティンに぀れない態床を取る恋人マヌクも、どうやら劎働組合ずマフィアの関係を調査しおいるらしく、その話をクリスティンに聞かせたりする。クリスティンはピンずきた。それ、絶察ルむに関係あるよ
 ルむを远っお「芗き郚屋」に足を螏み入れたり、ルむの郚屋に䟵入しお鞄からポルノ雑誌だけを盗んだり――぀たり、䞀人の男をストヌキングしながら、クリスティンは、ポルノ的むメヌゞの氟濫するニュヌペヌクをさたよい歩く。性的むメヌゞの氟濫ず、それらのむメヌゞぞず結実するこずのない性的欲望の浮遊。ポルノ・コンテンツを執拗にスクリヌンに映し出すこずでゎヌドンが描きたかったこずは明癜だ。
 性的むメヌゞを異化し、むメヌゞず、それが掻き立おるはずの性的欲望ずを切り離す、ずいう手法は、盎接的には、ゎヌドンが圱響を受けたずいうヌヌノェルノァヌグや「構造映画」の延長䞊にあるのかもしれないが、その淵源の䞀぀ずしお、幎代の芞術運動レトリスムにおける「ディスクレパン映画」を挙げるこずもできるだろう。映像ずナレヌションを切り離し、映画をその構成芁玠ぞず解䜓し、「映画を芳る」ずいう䜓隓そのものを異化するディスクレパン映画の方向性は、レトリスムから分裂・発展したシチュアシオニスト・むンタヌナショナルぞも受け継がれるこずずなる。ノヌ・りェむノの呚蟺にいたアヌティストたちにずっお、シチュアシオニストの映画䜜家ギヌ・ドゥボヌルの思想が基瀎的な教逊のようなものだったこずは間違いないだろう。やはりドゥボヌルから倚倧な圱響を受けたフランスの思想家ゞャン・ボヌドリダヌルは、「ポルノの氟濫する瀟䌚では、『欲望をそそる秘められたセックス』ずいう幻想はすでに倱われおいる」芁玄ず幎に喝砎するが、ゎヌドンがボヌドリダヌルを知っおいた可胜性も高い。
 「隠される」こずで欲望を掻き立おるはずの性的なタブヌなどどこにも存圚しない、ずいう事実そのものを隠蔜するかのように性的むメヌゞが氟濫する䞖界で、クリスティンは、なおも、欲望に突き動かされるかのように男をストヌキングし、隠された「䜕か」を知ろうずする。これはたるで、陰謀などどこにもないずいう真実を隠蔜するためにこそ陰謀論が氟濫する瀟䌚で、なおも、「䜕か」を暎こうずする陰謀論者のような行動だ。䜜䞭に登堎する恋人マヌクの、組合ずマフィアの関係を暎こうずする、狂気すら思わせる情熱は、そのようなものず芋るこずもできるだろう。セックスを介しお盎接぀ながるこずのない恋人たちは、隠された「䜕か」を知ろうずする亀換可胜な欲望のあり方を通じお、間接的な぀ながりを埗るかのようである。いわば、クリスティンずマヌクは、ずもに、すでにどこにもない「故郷」を取り戻そうずしながら郜垂を浮遊する「故郷喪倱者」だ。
 「故郷」を取り戻そうずする故郷喪倱者のパラノむアックな行動様匏は、クリスティンのようによく知らない他人を無意味にストヌキングする犯眪ずしお発珟するこずもあれば、「陰謀」を暎こうずする探偵のような行動ずしおも、あるいは別の圢の暎力や犯眪ずしおも、あるいは瀟䌚倉革のための政治的行動ずしおも、発珟するこずのあるものである。個人の犯眪であれ、陰謀論者の滑皜な探偵ごっこであれ、無意味な政治テロであれ、ある意味、革呜によっお瀟䌚を根底から倉えうるものだったはずの「暎力」の頜萜圢態ずいうこずもできるだろう。瀟䌚を倉えるために「䜕か」を行ったずころで絶察に瀟䌚は倉わらない、ず分かっおしたった瀟䌚の䞭で、なおも、暎力は、もしかするず瀟䌚を倉えるこずができるかもしれない「䜕か」ずしお、「故郷喪倱者」を䞍断に惹き぀ける。暎力的な犯眪は、それがどれほど愚劣で悪質で無意味なものだったずしおも、瀟䌚倉革ぞの倢をわずかばかりでも宿しおいるものだ。無論、その「倢」が犯眪者の意識に単玔に還元し埗ないものだったずしおも、である。
 そしお、そのような暎力は、ここたでの議論に即せば、「暎く力」ず読み替えるこずもできるわけである。ネット瀟䌚においお、「真実」を暎こうずする陰謀論や、あるいは嫌がらせのような個人情報暎露が、驚くほど「過激」か぀シニカルな暎力ぞず盎結するのはおなじみの光景だが、こうした暎力もたた、倱われた革呜的暎力の代甚品ずしお䞍断に求められるコンテンツ、ずいうこずになるだろう。そしお、集団的な暎力ずしお顕圚化しない個人的な犯眪のレノェルでは、「暎く力」は、他人ぞのストヌキングずしお発珟するこずがある。情報を収集し、ただ知られおいなかった「真実」を知ろうずするストヌキング行為は、「犯眪捜査」によく䌌た犯眪だ。
 『ノァラ゚ティ』は、䞀応、そのような「暎く力」を描いた映画である、ず蚀うこずができるだろう。この"Variety"ずいう題名をVerity真実ず読み替えれば、瀺唆的ずも蚀える。「故郷喪倱者」は、垞に、ノァラ゚ティに富んだコンテンツの䞭から、その䞀぀をVerityの代わりに掎み取るものだからだ。

 ここたで芋おきたように、『ノァラ゚ティ』は読み解きづらい映画ずいうわけではないのだが――残念なこずに、「良い映画」ずいうわけでもない。
 物語映画ずしお芋れば、脚本の粗さは芆うべくもない。クリスティンがルむを远っお遊園地に入ったり、モヌテルに入ったり、ず行動を゚スカレヌトさせる過皋はそれなりにスリリングで、それなりに面癜くもあるのだが、いよいよ物語が盛り䞊がっおきた、ず思わせるずころで、毎回、むメヌゞ映像のごずきクリスティンの心象颚景やら、ポ゚トリヌリヌディングのごずきポルノ小説の朗読やらが挟たれ、物語ずしおの緩急を損ねおいるのである。
 そしお、映画のラストでは、絶察にやっおはいけないこずをやっおいる。気づかれるこずなくストヌキングを行っおきたクリスティンが意を決しお、ルむに電話をかけ、「私はこれたであなたを尟行しおきた」ず告癜し、実際に䌚う玄束を取り付け、さあ、物語が動き出した、クラむマックスだ――ず芳客誰もが思うであろうタむミングで  なんず、映画は終わっおしたうのだ
 尻切れトンボにも皋がある。映画通の客垭から転げ萜ちるかず思った
 たあ、このような䜜劇を行ったゎヌドンやアッカヌの意図も理解できないわけではない。男性向けの性的コンテンツに囲たれながら、自分自身の性的欲望を満たすこずができないクリスティンの「女性ならでは」の内面をトレヌスするかのように、物語は決しお盎線的に心地よく進展するこずはないし、ドラマティックなラストシヌンずいう「オヌガズム」に達するこずもない。物語を受動的に、぀たりポルノ的に鑑賞する芳客のあり方を、ゎヌドンは、クリスティンずいうキャラクタヌの抑圧された「女性性」に準拠するこずで、批刀しおみせようずしたのだろう。いわば、『ノァラ゚ティ』は、物語映画によっお物語映画を批刀する映画であり、スペクタクルによっお「反スペクタクル」を実珟しようずするわけだ。
 ここで、芞術衚珟における反スペクタクル、ずいうこずに぀いお、少し詳しく芋おみよう。
 メディアの発達によっおあらゆる個人間の関係が「むメヌゞ」を媒介ずしたものぞず倉質した倧量消費瀟䌚を、ギヌ・ドゥボヌルが「スペクタクルの瀟䌚」ず呌んだのは呚知の通り。ドゥボヌルらシチュアシオニストは幎パリ月革呜に積極的にコミットするものの、革呜は敗北し、この時期以埌、暎力的蜂起による革呜のリアリティは西偎瀟䌚から埐々に消倱しおいく。スペクタクルぞの反抗が、それ自䜓で䞀぀のスペクタクル商品ず化さざるを埗ないこず――䟋えば、資本䞻矩を批刀するためにスキャンダラスなパフォヌマンスを行ったずころで、メディアに面癜おかしく玹介されるこずで商品䟡倀を埗おしたい、商品の消費そのものを批刀する契機を倱っおしたうこず――は、資本䞻矩瀟䌚を批刀しようずする芞術家が絶察に逃れるこずのできないゞレンマだ。
 レトリスムにおいお、「ディスクレパン映画」のような手法は、独特の歎史芳に基づき、歎史の「切り圫り」段階解䜓期を極限たで掚し進めるこずを目論むものだった。シチュアシオニストにずっお、「芞術」は、スペクタクル瀟䌚の総䜓的な砎壊によっお解䜓されるべきものだった。これらの運動は、単なる消費財ずしおの「芞術」衚珟を拒絶し、「芞術」的手法に歎史性を持たせようずするものだったず蚀える。こうした運動の手法を、歎史性、あるいは革呜ぞの志向から切り離し、単なる「衚珟技法」ずしお反埩するこずは、さしづめ、暎力革呜のリアリティが倱われた瀟䌚で、その代替ずしお発珟する、無意味な暎力犯眪のような「芞術」掻動だ。シニシズムの蔓延する瀟䌚においお、芞術家も犯眪者も、「意矩ある衚珟」を喪倱する点で同類ずいうわけだ。
 無論、圌圌女らの䞻芳では、それらは本圓に意矩ある衚珟の぀もりなのかもしれないし、実際、それらが本圓に意矩あるもののように芋えるこずだっお倚々あるだろう。「瀟䌚にむンパクトを䞎える芞術」や「瀟䌚を震撌させる犯眪あるいはテロ」ずいったものは、瀟䌚を倉えうる珟象であるかのような倖芋によっお、䞍断に、芞術家や犯眪者や「芳客」を惹き぀けるフィクションだ。
 そしお、いうなれば、「女性ならではの芖点」なるものもたた、そのような、「発揮されるこずで瀟䌚を良い方向に倉えるかもしれない」ず人々に思わせる぀のフィクションに他ならない。「女性」を、少数民族、黒人、ゲむ、障害者などに眮き換えおもよい。「幎」に革呜的蜂起を担うこずができなかった西偎の癜人男性マゞョリティに代わり、次なる革呜をもしかしたら担うこずができるかもしれない䞻䜓ずしお、あらゆる領域で浮䞊したマむノリティの運動が、今日、スペクタクル瀟䌚ぞず取り蟌たれ、「ポリティカル・コレクトネス」PCぞず倉質しお猛嚁をふるっおいるこずは、誰もが知るずころだろう。「マむノリティによる反䜓制的な倉革運動」であるかのような倖芋のもず、あらゆる領域でコンプラむアンスを培底させ、資本䞻矩䜓制をどこたでも匷固にするPCは、最悪のシニシズムの発珟にしお、今日、最も成功しおいる「芞術運動」だ。
 「女性ならではの芖点で、アノァンギャルド映画の技法を駆䜿しおポルノ的むメヌゞを異化する映画」は、今日、「性的コンテンツのせいで女性が䞍快にならないよう、コンプラむアンスを培底したしょう」ずいう結論以倖のものを導きようがないだろう。ゎヌドンやアッカヌの䞻芳的意図がどうあれ、だ。

 無論、珟代アヌトずPCをめぐる問題は、『ノァラ゚ティ』だけにこずさら責任を負わせるべきこずではない。
 『ノァラ゚ティ』ずいう映画は、衚珟そのものは、露骚にPCを掚進するものずいうわけではない。今日、もしもゎヌドンず同じ方向性で映画を撮れば、より「効率の良い」衚珟で女性の生きづらさに぀いお啓蒙する、より定型的な䜜品が仕䞊がるこずだろう。珟代アヌトずPCがそもそも論ずしお吊定されるべきものだったずしおも、PCに構造的に加担するアヌト䜜品にだっお優劣があるこずは吊定できない事実である。䜕をどう衚珟するのが「正解」なのか、ただ完党には分かっおいなかった時代に䜜られた映画ずいうこずで、『ノァラ゚ティ』は、確かに、やりようによっおはもう少し面癜くなっおいたはずの映画ずは蚀える。
 どうすればよかったのか。
 现かく芋ればきりがないが、最倧の問題はやはり、ラストが描かれなかったこず、これに尜きる。
 結末を描かないこずによっお、物語の力点は、映画が終わる盎前の、ルむに電話をかけるクリスティンの行動に眮かれるこずずなった。荒涌ずした日垞から䞀歩抜け出そうずする行動、ずいうわけだ。この行動のせいでクリスティンの身には危険が降りかかるかもしれないが、ずもかく、非日垞的な「䜕か」が、䞀歩螏み出したクリスティンを埅っおいるかもしれない――ず、映画は予感させる。閉塞した日垞から脱出させおくれるかもしれない「䜕か」を芋倱った珟代人にずっおは、「䜕か」に向けおずもかくも脱出しようずするポヌズそのものが、「䜕か」の代理ずしお機胜する――ずいうこずになるだろうか。映画は、そのようなポヌズぞの共感を芳客に促そうずする。
 しかし、映画は、「䜕か」がクリスティンを埅っおいるなどず期埅させおはいけなかった。「日垞から䞀歩螏み出したずころで、そこには䜕も埅っおいない」ずいう冷厳な事実を、ありのたたに描くべきだった。
 「䜕か」がそこにあり、「䜕か」ぞず脱出するこずは可胜だずするこず――それはすなわち、日垞生掻を匕き裂く暎力を肯定するずいうこずだが、ここで肯定される暎力ずは、芁するに、瀟䌚を倉革しうるず人々に信じさせるこずでむしろ資本䞻矩䜓制を匷固にする、暎力の頜萜圢態のこずに他ならないだろう。
 そのような暎力が、珟実的にはPCであったり「アヌト」であったりするこずは、ここたで論じおきたずおりである。PCや「アヌト」ずこの映画ずを完党に切り離すこずが䞍可胜だずしおも、物語においお、僅かな亀裂を入れるこずができたかもしれない局面は、あったのだ。
 あるいは、「狂気」に぀いおも同じこずが蚀える。ストヌカヌずしお゚スカレヌトするクリスティンの行動は、䞀応、「狂気」を感じさせるものずいうこずになるが、この映画は、そのような「狂気」ぞの共感を芳客に促すべきではなかった。共感しうるずいうこずは、この堎合、PCぞの取り蟌みが可胜ずいうこずに他ならないからである。
 『ノァラ゚ティ』は、゚スカレヌトするクリスティンの行動を、どこたでも突き攟しお描くべきだっただろう。共感䞍胜な、぀たり既成秩序ず和解䞍胜な「狂気」を抱えた郜垂生掻者が、「䜕か」を掎み取ろうずした挙句、日垞の只䞭ぞず連れ蟌たれる――そんな物語であれば、『ノァラ゚ティ』は、今日においおも、資本䞻矩のPC的改良の砎綻を垣間芋せる映画であり埗たかもしれない。――たあ、これは、幎を経た埌知恵から『ノァラ゚ティ』に提案できる「改良」の、ほんの䞀䟋だ。
 䞭途半端なシニシズムは、培底したシニシズムよりもむしろ害悪である。脱出する先などどこにもない䞖界で、なおもどこかに脱出しようずするクリスティンは、「脱出」が培底しお䞍可胜だからこそシニカルに肯定されるのでなければ、むしろ、安易にどこかに「脱出」するこずができおしたうからこそ、党吊定されるべきだっただろう。

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