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『空気を読む』は日本人だけなのか

会議で、ちょっと違う意見が浮かんだ。

でも、誰も反対していない。

「今、これを言わないほうがいいかな」

そう思って、口をつぐむ。

誰かに「こうしたい」と言われて、本当はあまり乗り気ではない。それでも相手の表情や、その場の雰囲気を見て、

「まあ、いいか」

と合わせる。

こういうとき、私たちはよく、

「空気を読む」

と言います。

あまりにも普通に使っているので、深く考えることはありません。

そして、ときどき、

「日本人は空気を読むから」

「日本は空気を読まないといけない社会だから」

と説明されます。

たしかに、日本で暮らしていると、「空気を読む」ことを求められる場面はたくさんあります。

でも、

「日本人は空気を読む」とひとことで片づけてしまうと、その奥にあるものが見えなくなってしまいます。

なぜ読むのか。何を読んでいるのか。誰の前で読むのか。

そして、読まなかったら何が起きるのか。

そもそも、

空気を読むのは、本当に日本人だけなのでしょうか。

先に結論を言うと、

人間は、かなり普遍的に「空気を読む」。

ただし、

何を「読むべきもの」としているのかは、社会によって違う。

私は、そこに文化のおもしろさがあると思っています。

目次


「日本人だから」で終わらせると、見えなくなる

文化について話すとき、

「日本人は集団を大切にする」

「アメリカ人は自分の意見をはっきり言う」

「タイ人は争いを避ける」

といった説明をよく耳にします。

わかりやすいし、まったく根拠がないわけでもありません。

でも、人類学では、こうした「○○人はこういう人」という説明には少し慎重になります。

なぜなら、その一言で、

人びとの行動の細かな違いが見えなくなるからです。

たとえば、

「日本人は空気を読む」

と言ってしまえば簡単です。

けれど実際には、上司の前では読むけれど、家族の前では読まない人もいる。

対面では合わせるけれど、SNSでは強く意見を言う人もいる。

友人には遠慮しないけれど、知らない人にはとても気を遣う人もいる。

人類学者が知りたいのは、

「日本人は空気を読むか、読まないか」

という二択ではありません。

むしろ、

どんな場面で、誰が、誰に対して、何を気にしているのか。

そこを細かく見ていきます。


そもそも「空気を読む」とき、私たちは何をしているのか

「空気を読む」というと、目に見えない何かを察知する能力のようにも聞こえます。

でも、実際に私たちが読んでいるのは、もっと具体的です。

誰がいるのか。相手はどんな表情をしているのか。誰が話し、誰が黙っているのか。

その前に、どんな会話があったのか。そして、この場では何が期待されているのか。

そうした小さな手がかりを集めて、

「今、ここでは、どう振る舞うのがよさそうか」

を判断している。

文化人類学者の木村忠正は、日本社会のコミュニケーションを考えるなかで、「空気を読む」という実践に注目しています。

おもしろいのは、「空気」が誰か一人の頭の中にあるわけではないということです。

一人が相手の反応を読む。相手もこちらの反応を読む。周囲の人も、そのやりとりを見る。

そうやって互いの反応を見ながら行動しているうちに、

「この場では、こうするものだ」

という雰囲気が生まれていく。

つまり「空気」は、最初からそこにあるというより、

人と人とのあいだで、つくられていくもの

とも考えられます。


海外の人は、空気を読まないのか

では、日本以外では、人はもっと自分の考えだけで行動しているのでしょうか。

もちろん、そんなことはありません。

どんな社会でも、人は相手の表情や声の調子、その場の関係を見ながら、

「ここでは、どこまで言っていいのか」

「今は話すべきか、黙るべきか」

を判断しています。

人はどこにいても、文脈を読んでいる。

ただし、何を気にし、何を「読むべきもの」と考えるかは同じではありません。

それがよく見える例として、タイの kreng jai を見てみましょう。


タイにも「相手を気にする」文化がある

タイには、

kreng jai(クレンジャイ/เกรงใจ)

という、日本語にそのまま置き換えるのが難しい言葉があります。

相手に負担をかけたくない。相手の立場を考えて遠慮する。関係を悪くしたくない。

そんな感覚が重なった言葉です。

タイ・ミャンマー国境地域で行われた研究では、kreng jai は、単なる「遠慮」というより、

相手との関係のなかで、どう振る舞うのがよいかを判断する感覚

として描かれています。

たとえば、

「質問したいけれど、忙しそうだから聞かない」

「困っているけれど、相手を煩わせたくないので言わない」

といった行動にも現れます。

なんだか、日本の話にも聞こえませんか。

「迷惑をかけたくない」

「相手を困らせたくない」

「今は言わないほうがいいかな」

私たちにも、よくある感覚です。

でも、ここで、

「ほら、タイ人も日本人と同じだ」

とは言えません。

そこが文化比較のおもしろいところです。

人類学では、似たものを見つけて終わるのではなく、

「似ているけれど、何が違うのか」

を見ます。

日本語の「遠慮」とタイ語の kreng jai は、重なるところがあっても、同じものではありません。

どんな関係で求められるのか。何をすると「配慮がある」と見なされるのか。どこまで自分を抑えるのか。

その細部は違います。

文化は、こういうところに現れます。


人間はどこでも周りを読む。でも、読むものが違う

ここまで見てくると、

周囲の反応を見ながら、自分の行動を調整すること自体は、日本人だけのものではない

と言えそうです。

人は、誰かと一緒に生きています。

だから、

「相手はどう感じるかな」

「ここでは、どう振る舞えばいいかな」

と考える。

ただし、何を気にするかは同じではありません。

ある社会では、

「相手に負担をかけないこと」

が強く意識されるかもしれない。

別の社会では、自分の意見を言わずに曖昧にすることのほうが、「不誠実だ」と感じられるかもしれない。

そして同じ社会のなかでも、家族と職場では違う。上司と友人でも違う。学校とSNSでも違う。

つまり、

人間はどこでも周りを読む。

でも、何を「読むべきもの」とするかは、文化や関係によって違う。

そう考えると、

「日本人は空気を読む」

という一文だけでは、急に物足りなくなってきます。


さらに気になるのは、「誰が誰の空気を読んでいるのか」

もう一つ、見ておきたいことがあります。

同じ「空気を読む」でも、

誰もが同じだけ空気を読んでいるとは限りません。

たとえば職場で、部下は上司の機嫌をよく読むのに、上司は部下の機嫌をそれほど読まなくても仕事が進む。

家庭で、ある一人だけが、みんなが不機嫌にならないよう調整役を引き受けている。

学校で、少数派の子どもだけが、「変に思われないように」と周囲を細かく観察している。

こうした場面を見ると、

「空気を読む」は単なる性格ではありません。

そこには、

立場や力関係も関わっています。

誰が誰を気にしなければならないのか。

誰は、周囲をあまり気にしなくても許されるのか。

この問いを加えると、「空気」は急に社会的なものになります。


空気が読めることと、従うことは同じではない

だから、

「どうして私は、こんなに空気を読んでしまうんだろう」

と思ったとき、すぐに、

「もっと自分を持たなければ」

「日本人だから仕方ない」

と結論づけなくてもいいのだと思います。

代わりに、少し観察してみる。

私は、いま何を読んでいるのだろう。

相手の表情なのか。周りの期待なのか。「こうするべき」という暗黙のルールなのか。

それとも、

「嫌われたくない」

「迷惑をかけたくない」

「浮きたくない」

という自分の気持ちなのか。

「空気を読む」という一言の中には、実はたくさんのものが入っています。

そして、それが見えてくると、もう一つ大事なことに気づきます。

空気が読めることと、空気に従うことは、同じではありません。

「あ、今みんなは私が黙ることを期待しているな」

とわかったうえで、発言することはできる。

「この人は、私が引き受けると思っているな」

と察したうえで、断ることもできる。

空気を読まない人になる必要はないのかもしれません。

むしろ、

読んだうえで、どうするかを自分で選ぶ。

そのほうが、ずっと自由です。


人類学は、遠い国の珍しい風習を知るためだけの学問ではありません。

いつもの会議。家族との食卓。友人とのLINE。

そこで自分がふと感じた、

「今は言わないほうがいいかな」

という感覚からも、自分が暮らしている社会を見ることができます。

私は、何を「普通」だと思っていたのか。

そして、誰の反応を気にしていたのか。

そんなふうに、自分にとって当たり前だったものを、いったん、当たり前ではないものとして眺めてみる。

それが、人類学のおもしろさです。

「今は言わないほうがいいかな」

と思った、その瞬間。

そこにはすでに、

文化があります。


この記事で参考にした文献

  • Tadamasa Kimura, “Keitai, Blog, and Kuuki-wo-yomu (Read the Atmosphere): Communicative Ecology in Japanese Society,” Ethnographic Praxis in Industry Conference Proceedings, 2010.

  • Napat Khirikoekkong et al., “Culturally responsive research ethics: How the socio-ethical norms of Arr-nar/Kreng-jai inform research participation at the Thai-Myanmar border,” PLOS Global Public Health, 2023.

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武田和歌子 (Wakako TAKEDA)|人類学者 私の記事が役に立った、面白かった、笑ったと思った方のサポートお待ちしております!いただいたサポートは更に良い作品を作るためのインプットや、他の素敵なクリエーターさんへのサポートに使いたいと思います。