「左翼」はどこで失敗し、「リベラル」はどこで間違えたのか
今日は左翼について考えてみたい。一般的な(SNS的な)イメージの話はくだらないので、脇に置いておいて、左翼とリベラルは、当事者(の一部)にとっては違うことになっている。ここでいう「違い」とは、要するに資本主義の廃絶か、改善かというところで発生している。
ここでいう左翼は、資本主義を廃絶することを考える。だから、生産手段を共有する経済を考えて大失敗したりもした(共産主義)。対してリベラルは、その失敗の「反省」から、資本主義で発生する格差を再分配でカバーする「改良」を主張する。このモデルは戦後の旧「西側」で大成功を収めるが、90年代に入ると、内部と外部の双方から崩壊する。
内部的には女性や移民など、就労差別を受ける階級からの搾取が批判される(「戦後中流」とは、性的・民族的マジョリティである男性労働者を実質的な階級として扱い、持ち家取得による資産形成を支援したことの産物である)。外部からは、情報化とグローバル化によって再分配が機能しなくなる(グローバル市場で発生した格差を、ローカルな国家内の再分配で解消することは難しい)。これがリベラルの退潮のメカニズムだ。
そのため、右派は差別を必要悪として実質的に是認し、地域共同体と家父長制の復古を主張する。左派は共産主義の失敗から迷走し、かつてもっとも自分たちが批判していた前近代的な共同体への回帰を主張するか、理論的にも制度的にも未検討な「天国」的な共同体のイメージだけを語り、権威を笠に着てバカを騙し、金を取るバラモン的ビジネスに堕落している。
さて、ここで補助線を引きたいのがアイデンティティの問題だ。つまり、戦後の「リベラル」(社会民主主義)は、資本主義……というか、賃労働の生む「疎外」(給料をもらって他人の仕事を代行していると、何のために生きているか分からなくなる)を、国「家」や「家」族によるアイデンティティの安定によって「ごまかす」ことで解決してきた。
しかし国家への依存は(現在の状況が証明するように)戦争リスクを高め、家「族」への依存は、家父長制の延命(経済的な理由ではなく、アイデンティティの安定装置として家父長制が召喚される)を世界的に引き起こした(日本は特に酷い)。
70年代以降日本の思想家たちは、吉本隆明も上野千鶴子も宮台真司も、国「家」はリスクが高すぎるので、「家」族をどうするかを考えてきた。家父長制「ではない」家族……というか、親密圏のモデルを獲得するために、「アイデンティティ・ゲーム」とか「仲間」とか言ってきたわけだ。僕も若い頃はこの流れで思考していて、サードプレイス的なマイルドな共同体主義や、独立した「個」同士の共存にとどまらない「対話」的な関係性を推していた。著作で言えば、『ゼロ年代の想像力』から『母性のディストピア』までの僕は、この方向で考えていた。
いまでももちろん、これはこれで我ながらいいことを言っているというか、間違っているとは思わないのだけど、いまの僕は「これだけ」では足りないと思っているのだ。ターニングポイントになったのは『遅いインターネット』で、要するに、20代から30代の僕が主張していた開かれた共同性やフェアな対話の関係性を成立させるためには、その前提となる、まさに「土台(プラットフォーム)」の問題を考えないと難しいな、と考えるようになったのだ。
これは他人から見れば「転向」なのかもしれないが、僕はアプローチを変えたほうがいいと考えただけで、別に向かっている方向が変わったとはあまり考えていない。ただ、共同性や関係性にロマンチックな物語を読み込み、そしてウットリとナルシスティックな自分語りをしたい人には、それが最終解答にならない(というか、「最終解答がある」みたいな思考そのものが安直だと批判する)僕の言説は、かなり不愉快なのだと思う。
さて、これは僕が一部のケア論壇の偽善性にうんざりしながらも、その成果をリスペクトする理由でもある。
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