現代小説の「機能」について
今日は酒井信さん、三宅香帆さんと楽天大学ラボの収録があった。テーマは「現代日本の小説とその論点」で、詳しいことは、動画の方を見てもらいたいのだが、例によって議論の中で考えたことや、収録中には言えなかったことについて、ここでまとめておきたい。
とりあえず、今回の動画で僕が提示したかったのはここ30年くらいの文学史の、あまり共有されていない視座の提示だ。
たとえばもう10年以上前に、僕は「郊外」をテーマに現代小説のアプローチを分類したことがある。つまり、「モノはあっても物語はない」「歴史の終わり(フクヤマ)」的な消費社会の風景は、バブル期の都市では過密さと高い熱量を示すが、まさにバブルが弾けると郊外の「ファスト風土」に帰着する。人間はそうなるとポストモダン的なアイデンティティ不安の世界に投げ出される。
前期村上春樹はマルクス主義に「やれやれ」と距離を置き、消費社会を歓迎した。しかし消費社会こそがアイデンティティ不安をもたらすと気づいた後は、自分より弱い存在(具体的には女性)に必要とされることで自信を持つと言う回路を用いて自分を安定させるようになり、その安定を根拠に歴史にコミットすると言う方法を選んだ。(「デタッチメントからコミットメントへ」)
僕はある意味同世代の男性作家たちのメンタリティを批判的に取り上げてデビューした批評家でもあるのだけど、それは要するに、この後期村上春樹のメンタリティの継承者への批判だと考えていい。
ゼロ年代批評的な話題をすると質の悪い読者が寄ってくるので最低限にしたいのだけど、象徴的に述べれば僕は滝本竜彦的なメンタリティを、僕は単に既得権益を失ったことに被害者意識を膨らませているに過ぎないのだと、まあ、今思えば残酷なやり口だったかもしれないが正確に指摘したのだ。
要するに彼らは「父」になれないために、つまり自分よりも弱い誰かを所有して自信を持つという回路が壊れてしまったために「引きこもる」のだと述べていたのだけど、僕は「そもそもそんなくだらないことしか考えられないからダメなんだ」と指摘したわけだ。そのせいでいまだに一部の男性から恨まれているのだけど、なんというか、僕を恨むのは筋違いだと思う。
それはさておき、このように彼らの男性中心主義のルーツには村上春樹がある。つまり石原慎太郎的な「強い自分が女子供を所有する」マチズモを否定しながらも、村上春樹的な「自分より弱い存在に必要とされる」タイプのマチズモを延命するメンタリティがポイントなのだ。
そして前述の郊外をキーワードにした文学的想像力の分類はその「後」を考えたものだ。具体的にはいわゆる〈ファスト系作家〉たちが氷河期世代的な被害者意識に支えられて村上春樹的な男性ナルシシズムに執着していたのに対して、彼らと同世代から若干年上の作家たちはもう少し構造的なアプローチができていたのではないかと考えたのだ。
例えば吉田修一の『悪人』は一見フラットに見える郊外的な空間も、視点を変えればむしろグローバルな格差構造の作り出した戦場であるという認識のもとに書かれたものだと考えることができるし、伊坂幸太郎の一連の作品はその郊外のフラットな空虚さ自覚した上で浪花節的、ロック的なロマンティシズムを確信犯的に導入したもので、そのスタンスは『砂漠』で自己言及されている。この視点から阿部和重『シンセミア』などは郊外に渋谷的な都市の過密さを「輸入」したものと位置付けてもよいだろう。
その上で、主に今日僕たちが話したのは70年代の女性作家たちについてのことだ。端的に僕自身が同年代のファウスト系作家よりも、異様に層が厚い女性作家たちの当時の作品群を刺激的に受け取っていた。要するに彼女たちはまた異なるアプローチでその「先」に触れていたのではないか、という話をしたのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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