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戦後日本と「宗教」について

昨日は福嶋亮太さんと加藤喜之さんとの対談の司会をしてきた。テーマは「福音派」と21世紀の宗教だ。詳細は例によって動画を確認してほしいのだけど(何週間か後に公開される)、今日はそこから派生した議論について僕になりに書き留めておきたい。

加藤さんの「福音派」をめぐる議論で強調されるのは、「福音派」のマジョリティは決してカルトな科学否定者や差別主義派でもないし、イラン戦争への支持も限定的だということだ。彼ら彼女らがトランプを支持する主な理由は文化闘争にあり、つまり「伝統的な」中西部プロテスタントの家族間や性倫理の維持に相対的に「近い」トランプを、「野合」的に支持しているという側面が強い。

これを啓蒙の失敗だと言い換えてもいいのだろうが、おそらく話はそう単純ではない。ここで重要なのは現代の「福音派」のルーツとなる原理主義運動が、1920年代にさかのぼることだろう。つまりアメリカが郊外型の賃労働者のスタイルをフォーディズムによる家族賃金モデルとそれを支援する福祉国家的社会保障モデルでの整備で完成させていった時期に原理主義運動もまた発生しているのだ。これは高度成長期に創価学会などの新宗教が戦後日本で拡大していった現象とパラレルだろう。つまり、少なくとも戦後の西ヨーロッパや日本では安定構造だと考えられていたこのモデルすらも、アイデンティティを自前で供給する事は難しく、特にミドルロウアー以下の階層の人々は宗教的なイデオロギーの支援が必要だったと言うことだろう。

自己実現としての家父長制が単独でアイデンティティを支えるようになるのは案外難しく、特にその初期の経済的な不安定な階層においては新宗教的なイデオロギーによる精神の安定が不可欠だったということだ。そしてアメリカではリーマンショック以降、日本では失われた30年を経てじわじわと、自己実現としての家父長制が(もちろん僕はこれ自体がダメだと思うのだけど)経済的な不安定化とそれに伴う社会の流動化を背景に単独でアイデンティティを支えることが難しくなっていると考えれば良いだろう。

つまり加藤さんが述べるように宗教(的なもの)は史上一度も退場していないのだ。新制度(20年代のアメリカや、戦後日本においては「自己実現としての家族」)の定着フェーズや、経済構造の変化による不安定化のフェーズにおいては、必ず「宗教的なもの(スピリチュアルや疑似科学も含む)」が顔を出す。そして、議会政治で一定以上の勢力を必ず保持する。

僕たちに必要なのは脱宗教化であるというよりはむしろ、宗教的なものとの付き合い方なのだ。

その意味において、戦後日本には二回ほど宗教と出会い直す「機会」があったように思える。

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