「死ぬための思想」から「生きるための思想」へ
さて、今日は先日の対談で與那覇潤さんと話したことをもう少し掘り下げて考えたい。
高市早苗が日本をあと2年で終わらせる? 皇室典範改正は戦後史のターニングポイントか 與那覇潤×宇野常寛
この対談の後半で、與那覇さんが上野千鶴子さんを援用しながら「生き延びるための思想」をキーワードとして提示している。これはどういうことか、僕なりに解釈すると、要するに、有史以来、男性中心の思想のほとんどは、自分の人生にどういうふうに意味を与えるか、という視点から語られている思想、つまり「死ぬための思想」であり、そのためにある形式の思考から逃れられない、ということだ。しかし本当に必要なのは、「生きるための思想」ではないか、というのがその問題提起なのだろう。
與那覇さんがこのエピソードを紹介したのは、前回取り上げた第二次トランプ政権と高市早苗政権に共通する問題に起因している。
つまりもともとはアイデンティティの政治に基づいたポピュリズム的動員のためのパフォーマンスに過ぎなかった過激な政策を、「言うだけ」ではなく「本当に実行する」ことでナラティブを維持する政権の支配下にある時代は、ある意味、この「死ぬための思想」が全面化した時代だと言えるのだ(トランプ関税や男系男子論など、最低限の合理性がかなぐり捨てられている……)。
では、その「生きるための」「生き延びるための」思想とはどういうものか。
僕が左右の「共同体回帰」論に批判的な理由の一つは、これらが(その表面的なイメージとは裏腹に)「死ぬための思想」の域を出ていないからだ。
右派の共同体回帰論とは、端的に言えば、人間の尊厳とは差別や暴力が不可分に結びついているので、それを社会の必要悪としてある程度(あまりひどいものは抑制する程度にして)認めるべきだ、という立場だ。レトリックでごまかしている人が多いが、要はそういうことだ。僕はこの立場を取る人を心から軽蔑する。それははっきり言って、共同体のアルファ雄やそれに近い位置にたどり着きやすい人間や、そこに憧れている人間が、そうではない弱い立場の人間を搾取することを肯定する思想だからだ。僕は絶対にこの立場を認めない。
対して左の共同体主義者は、こういった共同体が持つ暴力性を解消しようとはいう。しかし、僕の知っている限り、具体的な説得力のあるモデルは一つも提示できていない。せいぜい、自分たちの属人的な小さな成功例に尾ひれをつけて、うっとり宣伝する程度だ。彼ら彼女らが頻繁に語る「良いリーダーがいれば、良い共同体ができる」みたいな話は、要するに、天才独裁者がいれば民主主義は要らないと言っているのと変わらない。その良いリーダーが明日死んで、ヒトラーみたいなやつがリーダーになった瞬間に全てが終わるシステムには、全く持続可能性がない。つまり中学校の教科書に載るようなレベルのことを都合よく無視して、ハートフルなストーリーでごまかしているのだ。僕は、こうした連中も心の底から軽蔑する。
要するに彼ら彼女らの考えているのは、アイデンティティの共同体による安定であり、この回路を採用する限り犠牲者が出ることは避けられない。右派はそれを必要悪だと見過ごし、左派は「いい話」でごまかして直視しない。そしてそれは、どこまでいっても、自分が死ぬときに自分の人生には意味があったとちゃんと思えるかどうかという次元の思考、つまり「死ぬための思想」なのだ。
しかし、いま必要なのは、どう考えても「生きるための思想」だ。
アルファ雄やバラモン左翼のプライドのために、人生を台無しにされてしまうような弱い人たちが、希望を持って生きられるようにするための思想なのだ。
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