『日本暗殺秘録』レビュー:殺される顔が、見えない。幕末から昭和へ、日本はいつ「相手の顔」を失ったのか。
横浜へお出かけした。日米和親条約、横浜開港などの歴史をたどっているうちに思い出した、暗殺された権力者。
この映画を思い出したので、書く。
『日本暗殺秘録』は長らく、「テロリストの悲壮美」を描いた異色の東映大作として語られてきた。しかし現代から振り返ると、この映画が記録しているのは暗殺そのものではない。政治から「顔」が失われていく日本近代の年代記である。
映画は桜田門外の変から始まる。雪の中、井伊直弼はほとんど言葉を発しない。襲撃する側にも、される側にも、対話はない。そこにあるのは「顔を知らない相手」を討つという行為だけである。
この構図は、その後百年近く続く暗殺の連鎖を予告している。
大久保利通、大隈重信、星亨、安田善次郎、井上準之助、犬養毅......。
映画は一つひとつの政治思想よりも、「相手が誰であるか」を知ろうとする時間が失われていく過程を積み重ねる。
暗殺される政治家は、人格ではなく「倒すべき象徴」と化していく。
一方で、暗殺者だけは驚くほど丁寧に描かれる。
特に血盟団事件で千葉真一が演じる青年は、貧困、失業、病、共同体の崩壊を経験し、それでも真面目に生きようとする。しかし努力は報われず、最後に宗教と国家改造思想の中で、自らの人生の意味を見出していく。
現代の観客には、その姿は英雄というより、孤立した一人の若者が、暴力だけが社会とつながる言語だと思い込んでしまう過程として映る。
興味深いのは、この視点が決して映画だけの創作ではないことだ。
昭和七年から八年にかけての同時代人も、血盟団事件を「突然現れた狂人たち」とは受け止めていなかった。
宮本顕治の妻にしてルポライター:宮本百合子は、血盟団事件、五・一五事件を経て、日本全体が「非常時」という空気に覆われていったと回想している。
「セメント樽の手紙」の葉山嘉樹は、血盟団や神兵隊のような暴力は社会そのものが生み出す埃であり、本来社会は「水を湛える井戸」であるべきだと書いた。
戦前を代表するマルクス主義者:戸坂潤もまた、五・一五事件は血盟団事件から連続する現象であり、単独犯ではなく時代の病理として理解すべきだと論じている。
つまり当時すでに、多くの知識人は事件を「一人の英雄」ではなく、「社会の空気」が生み出したものとして見始めていた。
だからこそ、この映画が半世紀後に持ってしまった意味は皮肉である。
人気スターはほとんど暗殺者を演じ、暗殺される側は無名の俳優が演じる。この配役は1969年には仁侠映画の延長線だったのかもしれない。
しかし現代では、それ以上に、「暴力を選ぶ側にだけ物語が与えられ、暴力を受ける側からは顔が失われる」という構図そのものが、映画のテーマとして浮かび上がる。
そして、その出発点として置かれるのが桜田門外の変なのである。
雪の中で井伊直弼は、最後まで「顔」を持たない。
幕府の大老として、あるいは開国を決断した政治家としてではなく、「斬るべき存在」としてしか現れない。
その瞬間から、日本近代は対話ではなく暗殺によって政治を更新できるという幻想を繰り返し抱くことになる。
『日本暗殺秘録』は、テロリストを美化した映画として語られることが多い。しかし現代から見るなら、その本当の価値は別の場所にある。
顔を失った政治は、やがて言葉を失う。言葉を失った社会は、暴力だけが相手に届くと信じ始める。
本作は、その危険な過程を、桜田門外の雪から二・二六事件の銃声まで、一世紀にわたって記録してしまった年代記なのである。
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