ヒッチコックの「汚名」──戦争が終わった翌日から始まる、ナチスの後始末
『汚名』を観ると、第二次世界大戦が終わった翌年という時代の異様さがよく分かる。
1946年。ドイツは敗北した。ヒトラーは死んだ。ナチス政権も崩壊した。普通なら、ここで映画は「戦争が終わった」と言ってもいい。
ところが『汚名』では、そこから話が始まる。
ナチスは終わっていない。正確には、ナチスという国家は終わったが、ナチスだった人間たちは生きている。
そして、その人間たちは世界中へ逃げている。
映画の舞台はブラジル。リオ・デ・ジャネイロ。
そこに、ナチスの残党たちが潜伏している。
つまり『汚名』は、戦争映画ではない。
戦争が終わった後に始まる、ナチスの後始末の映画である。
この違いは大きい。
1946年の観客にとって、ナチスはまだ「歴史上の悪の組織」ではない。
つい昨日まで存在していた敵である。
戦場から帰ってきた兵士もいる。
強制収容所から生還した人間もいる。
ナチスの協力者も逃亡者もいる。
そして、彼らを追う情報機関もいる。
『汚名』は、その「戦争の翌日」を舞台にしている。
監督・原案:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:ベン・ヘクト/撮影:テッド・テズラフ/衣装:イーディス・ヘッド/音楽:ロイ・ウェッブ
キャスト:
アリシア/イングリッド・バーグマン
デヴリン/ケイリー・グラント
セバスチャン/クロード・レインズ
ルイス・カルハーン
主人公アリシアは、非常に奇妙な立場にいる。
父親はナチスのスパイとして有罪判決を受けた。
そのため、彼女自身も「ナチスの娘」という汚名を背負っている。
ここで映画の原題が効いてくる。
Notorious。
悪名高い。悪評を持つ。
つまり、世間からそう見られている女。
しかし、アリシア自身がナチスであるわけではない。
むしろ彼女はアメリカを愛している。
それでも父親の過去によって、彼女の人生には「ナチス」という文字が貼り付いている。
ここに、戦後社会の非常に嫌な問題がある。
犯罪者本人だけでなく、その家族まで歴史の影響を受ける。
アリシアは父親の罪によって汚名を背負う。
そしてアメリカ政府は、その汚名を逆に利用する。
ナチスの残党に近づくためのスパイとして、彼女を送り込む。
つまり、「ナチスの娘だから信用されない」という欠点が、「ナチスの娘だから敵に信用される」という能力に変換される。
なんとも倒錯している。
彼女の人生を汚していた「ナチスとの血縁」が、そのまま国家にとっての便利な資源になる。
戦争とは、こういうことなのかもしれない。人間の人生に付着した傷まで、国家は任務の材料にしてしまう。
そして、そこにデヴリンが現れる。
彼はFBI側の人間として、アリシアをスパイに誘う。
ところが、アリシアはデヴリンを愛してしまう。
ここから『汚名』は、スパイ映画と恋愛映画の境界を奇妙に行ったり来たりする。
任務のために男に近づく。
しかし、その任務を依頼した男を愛している。
その男のために、別の男と結婚する。
愛している男のために、愛していない男の妻になる。
ヒッチコックらしい、非常に意地の悪い構図である。
しかし「ナチス映画」という視点で見ると、ここにも戦争の残酷さがある。
戦争は人間を殺すだけではない。
人間の恋愛まで、任務に変えてしまう。
アリシアの身体。
アリシアの美貌。
アリシアの過去。
アリシアの父親。
そしてアリシアの恋愛感情。
すべてが「情報収集」という目的のために利用される。
彼女はスパイになることで、ようやく「父親の娘」から脱出できると思ったのかもしれない。
しかし実際には、国家によってもう一度「ナチスの娘」という属性を利用される。
逃げても逃げても、父親の影から逃げられない。
そして『汚名』でもうひとつ恐ろしいのが、「ナチスの残党」があまりにも普通の人間として存在していることだ。
セバスチャンは、怪物のような軍人として登場するわけではない。
社交界にいる。
人と会う。
馬に乗る。
食事をする。
恋愛する。
そしてアリシアに求婚する。
つまり、戦争が終わった世界で、かつてナチス側にいた人間が、普通の社会生活へ戻ろうとしている。
ここが1946年という公開時期を考えると、かなり生々しい。
ナチスは倒された。
しかし、その思想を持っていた人間すべてが消滅したわけではない。
戦争が終われば、人間は軍服を脱ぐ。
そして普通の服を着る。
名前を変える。
国を変える。
社交界に戻る。
資産を隠す。
そして「戦後の市民」になる。
『汚名』が怖いのは、その境界線をほとんど説明せずに見せてしまうところだ。
ナチスは軍服を着ているときだけナチスなのか。それとも、軍服を脱いだ後もナチスなのか。
その問いが、リオ・デ・ジャネイロの邸宅の中に残っている。
そして、ワインセラーでアリシアが見つけるもの。
ワインの瓶。その中身は、ウラニウム。
ここで映画は、ナチス残党の物語から原子力の時代へ接続する。
これも1946年という時代を考えると非常に興味深い。
実は、映画製作時には、まだ広島・長崎への原爆投下すら起きていなかった。
ところが『汚名』は、ナチス残党とウラニウムを結びつけている。
つまり映画の中で、ナチスの戦争から核兵器の時代への移行が始まっている。
第二次世界大戦は終わった。
しかし、戦争が生み出した科学技術は消えない。
戦争によって生まれた人間関係も消えない。
戦争によって生まれた秘密も消えない。
そして、戦争によって生まれた科学も消えない。
『汚名』は、ナチスの残党を追うスパイ映画でありながら、実は「戦争の後には何が残るのか」という映画でもある。
そしてヒッチコックは、それを巨大な戦争映画として描かない。
むしろ、ワインセラーの中に隠す。
鍵を使う。
キーホルダーから鍵を抜く。
パーティー会場の上から、アリシアの手元へカメラを寄せる。
一本の鍵。
一本のワイン瓶。
一杯のコーヒー。
小さな道具によって、世界史が動いていく。これがヒッチコックの凄さだと思う。
ナチスや原爆という巨大な歴史を、最終的には「小さなもの」にしてしまう。
鍵を持っているか。
ワインを飲んだか。
コーヒーを飲んだか。
誰が誰を愛しているか。
誰が誰を疑っているか。
世界史は、案外こういう小さなところに入り込んでくる。
そして、この映画で最も恐ろしいのは、アリシアが毒を盛られる場面かもしれない。
ナチスの残党を追うために送り込まれた女が、正体を知られ、家の中に閉じ込められる。
しかも殺し方は銃殺でも絞首刑でもない。
毎日のコーヒーに、少しずつ毒を入れる。
つまり、彼女を殺すために必要なのは「大きな暴力」ではない。
日常そのものを毒に変えることだ。
コーヒーを飲む。
眠くなる。
また飲む。
また弱る。
日常が少しずつ死へ変わっていく。
これは、ナチスの残虐行為を描いた映画とは違う種類の恐怖である。
戦争が終わった後の世界では、暴力もまた姿を変える。
軍隊ではなく、家庭。
銃ではなく、コーヒーカップ。
戦場ではなく、食卓。
それでも、人間を殺す。
そして最後の救出場面。
デヴリンはアリシアを連れ出す。
しかし、セバスチャンの仲間たちもまた、すべてを理解している。
セバスチャン自身も、自分がナチスの残党であることを知っている。
彼はアリシアを助けたいわけではない。
彼女を失いたくない。
しかし同時に、彼女がスパイだったことも知っている。
つまり、ここでも愛と政治が分離できない。
この映画では、恋愛が政治から自由になる場所がない。
アリシアが誰を愛するか。
誰と結婚するか。
誰にキスするか。
そのすべてがスパイ活動になる。
だから『汚名』は、ロマンチックであると同時に非常に冷酷な映画だ。
〜50年台のヒッチコック作品らしく「愛する人のためにスパイする」という美しい物語に見える。
しかし実際には、国家が女性の恋愛と身体を情報収集の道具として使っている。
ヒッチコックは、それを説教臭く描かない。だからこそ、余計に嫌な感じが残る。
『汚名』のタイトルも、最後には別の意味に見えてくる。
「汚名」とは、アリシア個人に付着したものだった。
父親がナチスだった。
だから娘まで疑われる。
しかし本当に汚れているのは誰なのか。
ナチスに加担した者なのか。
その罪を背負わされた家族なのか。
それとも、過去の罪を利用して新しい任務を作り出す戦後社会なのか。
ヒッチコックは答えを出さない。
ただ、アリシアという一人の女性を、その巨大な歴史の中に放り込む。
そして彼女を愛しているはずの男さえ、彼女を任務のために利用する。
だから『汚名』は、ナチス残党を追うスパイ映画である以上に、「戦争が終わっても、人間は戦争から自由になれない」という映画なのだと思う。
戦争は終わった。
しかし、汚名は残った。
犯罪者は逃げた。
家族は傷ついた。
諜報機関は追い続けた。
科学は次の兵器を生み出した。
そして愛する男女でさえ、その後始末の道具にされた。
1946年のヒッチコックが撮ったのは、戦争の終わりではない。
戦争が終わった翌日から始まる、長い長い後始末だったのである。
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