ヒッチコックの『断崖』――自分で疑い、自分で恐怖を育て、自分の世界を壊していく。
アルフレッド・ヒッチコックの『断崖』(1941年)は、心理サスペンスである。
何が怖いのかといえば、殺人そのものではない。殺されるかもしれない、という疑いである。
そして、この映画の恐ろしさは、その疑いが本当に正しいのかどうか、最後まで分からないことにある。
ジョン・エイズガース(ケーリー・グラント)は、イギリス社交界の人気者で、遊び人。列車の中で良家の令嬢リナ(ジョーン・フォンテイン)と出会い、たちまち惹かれ合う。
ジョンがリナに言う。
「イエスと言いたいときに、正直にイエスと言う女性に僕は初めて会ったよ」
この一言が面白い。ジョンがこれまで相手にしてきた社交界の女性たちは、「イエス」と思っていても「ノー」と言って相手をじらすような、駆け引きに長けた人々だったらしい。
そこへ、素直に「イエス」と言うリナが現れる。
ジョンは彼女の無垢さに惹かれ、リナもまた、遊び慣れたスマートなジョンに惹かれる。二人は両親の反対を押し切るようにして結婚する。
ところが、結婚してからリナは初めて知る。
ジョンには金がない。しかも、彼は最初からリナの財産を当てにしていた。
ここから映画は、恋愛映画から心理サスペンスへと姿を変えていく。
ジョンは働こうとするものの、根っからの遊び人で、まともな仕事を続けられない。従兄弟の財産管理を手伝えば、その金を使い込んで解雇される。競馬ですった金を返すこともできない。
さらに友人ビーキーと不動産会社を興し、一攫千金を狙う。
リナから見れば、夫の行動は次第に怪しくなっていく。
ともあれ、ここからヒッチコックの恐怖が始まる。
ジョンは本当に危険な男なのか。
それとも、リナがそう思い込んでいるだけなのか。
ビーキーがパリで急死すると、疑惑は一気に膨らむ。
ジョンは、ビーキーがアルコールを飲むと危険なことを知っていた。
それなのに、ブランデーを飲んで発作を起こして死んだ。
しかもジョンは、パリには行っていないという。リナは夫の言葉を信じられなくなる。
そして、決定的なのが保険金である。
ジョンが自分の生命保険について調べている。
さらに、推理作家イソベルから、死後も痕跡を残さない毒薬について聞き出そうとしている。
こうしてリナの頭の中では、
金が必要な夫
↓
友人の不可解な死
↓
生命保険
↓
毒薬
↓
夫による殺人
という一本の物語が完成していく。
しかし、本当に恐ろしいのは、この物語を作っているのがジョンなのか、リナ自身なのか分からないことだ。
リナは夫を観察する。夫の表情を見る。言葉を聞く。行動を分析する。過去を思い返す。
そして、バラバラだった出来事を一つの意味に結びつけていく。
「だから、あのときも怪しかった」
「あれも、殺すためだったのではないか」
「やっぱり私を狙っている」
こうして疑いは、疑いを証明する材料を次々に生み出していく。
これはある意味で、自己カウンセリングの失敗とも見ることができる。
自分で自分の不安を分析しているのに、分析すればするほど安心できなくなる。
むしろ、分析した結果として恐怖の物語が精密になっていく。
最初は、「夫は少し信用できない」だったものが、「夫は私を殺そうとしている」に変わる。
そして最後には、「このままでは殺される」という確信に近づいていく。
つまりリナは、夫を調べているようでいて、実は自分自身の恐怖を増幅させている。
ここが、ヒッチコックの心理サスペンスとして非常に巧妙なところだ。
もちろん、本当にジョンが殺人者なのかもしれない。
観客もリナと同じ情報しか与えられない。
だから、こちらも彼女と一緒になって疑う。
ケーリー・グラントが実にいい。
後年の『北北西に進路を取れ』などで見せる、あの軽快でスマートなグラントとは少し違う。
ここでは、そのスマートさそのものが不気味なのである。
何を考えているのか分からない。
女性に慣れている。
金に困っている。
嘘をつく。
怒りっぽくなる。
そして、妻をじっと見つめる。
殺人者にも見える。しかし、ただのろくでなしにも見える。
その「どちらにも見える」という曖昧さが、映画全体を支えている。
そして、ヒッチコックがその恐怖を極限まで高めるのが、有名なミルクの場面だ。
夜。
夫が妻の寝室へ、ミルクを運んでくる。
白いミルクの入ったコップ。
観客は思う。毒が入っているのではないか。
ただそれだけである。
CGも特殊メイクも必要ない。
白い液体と、暗い室内と、ひとつの小さな光。
ヒッチコックはミルクのコップの中に豆電球を仕込み、その白い液体を異様なほど明るく見せた。
その結果、ただのミルクが凶器になる。いや、正確には、観客の想像力そのものが凶器になる。
ミルクには何も起きていない。しかし、こちらの頭の中では、
毒
↓
死
↓
殺人
という連想が勝手に完成している。
ここにヒッチコックのサスペンスの本質がある。
恐怖は画面の中にあるのではない。画面を見ている側の頭の中で完成する。
『断崖』の結末は、ヒッチコック自身が望んだものとは異なるものになったとされる。
実際、映画の結末では、ジョンは殺人者ではなかった。
ビーキーとパリへ行ったのではなく、リバプールで金策に奔走していた。
毒薬について調べていたのも、リナを殺すためではなく、自殺を考えていたためだった。
リナが夫を殺人者だと思い込んでいた物語は、最後にひっくり返される。
そして彼女は夫に生活を改めるよう求め、二人は一緒に暮らす道を選ぶ。
これは、サスペンスとしては少し奇妙な結末でもある。
なぜなら、映画の大半を使って育ててきた恐怖が、「それは誤解でした」で収束してしまうからだ。
だからこそ、ヒッチコックが別の結末を望んでいたという話に興味が湧く。
もし本当にジョンがリナを殺そうとしていたのなら、この映画はもっと冷酷なものになっていただろう。
リナの疑念は妄想ではなかった。彼女の「自己分析」は正しかった。
そして、観客が感じていたミルクの恐怖も、単なる思い込みではなかったことになる。
しかし実際の映画は、そこまで単純にはしない。
ジョンは殺人者ではない。だからといって、リナの恐怖が馬鹿げていたわけでもない。彼女が疑った理由は、映画の中にきちんと存在している。
夫は金にだらしない。
嘘をつく。
友人が死ぬ。
保険を調べる。
毒薬について聞く。
短気になる。
つまり、リナの「妄想」は完全な妄想ではない。
現実の断片から作られた、もっともらしい物語なのだ。
そして、ここにヒッチコックの怖さがある。
人間は現実をそのまま見ているわけではない。
断片を集め、意味を与え、因果関係を作り、「だから、こうなのだ」と納得する。
その瞬間、現実は自分の頭の中で別のものになる。
『断崖』というタイトルも象徴的だ。
最後にリナが見ている断崖は、物理的な崖であると同時に、彼女の心理状態そのものでもある。
夫が殺人者なのか。自分が疑いすぎているだけなのか。逃げるべきなのか。戻るべきなのか。
一歩間違えば、どちら側へ落ちてもおかしくない。
だから『断崖』の本当の恐怖は、「夫に殺されるかもしれない」ことだけではない。
自分の判断を信じられなくなること。そして、自分で自分を分析すればするほど、その判断がさらに分からなくなること。
『アルタード・ステーツ』が「自分の内部に未知がある」ことを描いた映画なら、『断崖』は「自分の認識そのものが未知になる」映画なのかもしれない。
ただ一杯のミルクが運ばれてくる。そして豆電球ひとつの光を見ているうちに、こちらの頭の中で毒薬が完成する。
CGより怖いものは、想像力である。『断崖』は、そのことを証明してみせる。
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