お嬢様と執事山本の不条理な日常:第187話「ベランダの落とし物と、お屋敷の聖母マリア」
吹き渡る爽やかな夏の風に、パタパタと小気味よい音を立てて揺れる洗濯物。
お屋敷の広大なベランダで、メイドの田中は気分良く鼻歌を歌いながら、お洗濯を干していた。
「ふふ〜ん♪ 今日は朝からすっごく調子が良いですぅ!」
そうなのだ。今日に限って、田中は朝一番のエントランス掃除、廊下の拭き掃除、窓拭き、そしてこの洗濯物干しに至るまで、珍しく一つもドジを踏むことなく、完璧に仕事をこなしていた。
「今のところミスもゼロ、絶好調ですぅ!」
気分良く労働の汗を流し、胸いっぱいの感無量に浸る田中。肌を撫でる風が実においしい。最愛の恋人である柳田修司との関係も良好そのもの。
「私の未来は明るいのですぅ!」
ルンルン気分でステップを踏みながら大広間へと向かう田中。彼女の仕事は一見完璧に見えた。――ただ一つ、物干し竿のピンチの留め方がほんの少し甘く、風に煽られた執事山本のボクサーパンツが、寂しげにベランダの床へとポツリと脱落したことに、彼女が全く気づいていない点を除けば。
ところ変わって、お屋敷の大広間。
ソファに寝そべるお嬢様は、退屈の限界を迎えていた。
「学校に行くのは嫌ですけれど……夏休みが長すぎるのも、それはそれで考えものですわね。ふわぁあ……」
大きなあくびをして、退屈そうに天井を見上げるお嬢様。生まれながらにして銀河系の頂点に立つような強運の持ち主であるお嬢様は、トランプをしても百戦百勝で手応えがない。かといって、頭を使うチェスや将棋などの遊びでは、怪物じみた頭脳を持つ執事山本や、IQ170の田中には敵わない。
適当な暇つぶしを探していたお嬢様は、広間に入ってきた田中を見るや、パッと目を輝かせた。
「あ、田中! ちょうど良いところへ。あなたのあの歌声を聞かせて頂戴!」
「えっ、私の歌ですかぁ?」
そうなのだ。かつて田中のアニソンの歌声を、お嬢様が冗談半分で動画アプリ『TikTok』にアップロードしたところ、世界中で大バズり。「なぜかギャン泣きする赤ん坊がピタリと泣き止む」「狂暴な吠え癖のある犬が大人しくなる」と大評判になり、驚異の「1億回再生」を記録した奇跡の歌姫。それがこのドジっ子メイド・田中なのである。
一度は大手レコード会社から歌手デビューの熱烈なオファーも届いたが、田中は「私はお屋敷のメイドですから」とそれを一蹴。そんな輝かしい世界の歌姫でありながら、日常に戻ればいつもお嬢様に「ドジ」「ノロマ」と罵られながら、平穏に暮らしているのが彼女の不条理な日常であった。
「お嬢様の仰せのままに、ですぅ」
田中は恥ずかしそうに胸の前で手を組み、静かに息を吸って、歌い出した。
「夏が過ぎ〜、風あざみ〜……」
選んだ曲は、井上陽水の『少年時代』。
その瞬間、大広間の空気が一変した。優しく、どこか哀愁を帯びた田中の透き通るようなソプラノボイスが、広い部屋を満たしていく。興味深そうに耳を傾けるお嬢様と、その傍らに直立不動で控える執事山本。
しかし、歌が中盤のサビに差し掛かる頃には、お嬢様の瞼が急激に重くなっていった。
「う……なんだか、とっても、気持ちよくて……」
ウトウトと船を漕ぎ始めたお嬢様は、そのまま抗うことなく、ふかふかのソファへと突っ伏して眠りに落ちてしまった。
「フフッ」
それを見た田中と山本が、同時に小さく微笑む。
山本はお嬢様を起こさないよう、その細い体躯を優しく引き寄せると、ソファに顔を突っ込んでいたお嬢様の小さな頭を、そっと自分の膝の上に乗せて差し上げた。極上の「膝枕」である。
「……素晴らしい歌声です、田中さん。どうか、是非その続きを聴かせてください」
山本が声音を落とし、心の底から懇願するように言った。
「はい、ですぅ」
田中は微笑み、歌の続きを優しく紡ぎ出す。
その時、山本は生まれて初めて経験するような、不思議な感覚に陥っていた。
己の耳に、脳に、心に染み渡っていく田中の歌声。それは、山本がこれまで歩んできた血生臭く辛い過去、張り詰めていたすべての神経を、優しく、綺麗に洗い流していくかのような温かい錯覚だった。
(おや……私としたことが……)
激しいあくびが込み上げるのを必死に噛み殺しながら、山本は田中の歌声に深く聴き入る。
しかし、その絶対的な癒やしの波には、世界最強の執事とて抗えなかった。歌が終わる頃には、山本はお嬢様を膝に乗せた状態のまま、こっくり、こっくりと、幸せそうに船を漕ぎ始めていたのだ。
「ふふ。山本さんにも、私の魔法が効くんですね」
山本が眠気のあまり横に倒れてしまわないよう、田中はそっと山本の隣へと腰掛けた。そして、自分の柔らかい肩をそっと差し出す。
(コテン……)
山本の端正な頭が、田中の右肩へと静かに預けられた。
肩越しに伝わる山本の寝顔を見る。いつもは冷徹で不敵な笑みを浮かべている山本の唇が、今はまるで子供のように、心から楽しそうな笑みを浮かべて緩んでいた。きっと夢の中で、とても楽しい時間を過ごしているのだろう。
「すぴー……すぴー……」と、無防備に鼻を鳴らして爆睡するお嬢様。
そのお嬢様を愛おしそうに膝枕しながら、完全に夢の中へと旅立った山本。
そして、二人を自身の肩で支えながら、静かに、優しく見つめる田中。
その時の田中の眼差しは、お屋敷を、そして世界を包み込む「聖母マリア」そのものの慈愛に満ち溢れていた。
(なお、ベランダで山本のボクサーパンツが風に飛ばされ、お庭の植え込みに引っかかっていることなど、今は誰も知る由もないのである)
(つづく)
