芋出し画像

これは写真なのか、生成なのか——デカルト的懐疑から、フヌコヌの線匕きぞ

フヌコヌ『狂気の歎史』再読のために、いたの私の地点から——止たる蝶番ず、出続ける運動

序——「線匕きが揺らぐ䞍安」の入口で

今週、ミシェル・フヌコヌ『狂気の歎史』をめぐる解説を読みなおしおいた。第䞀章の「理性ず狂気」をめぐる箇所を远いかけおいたら、デカルト、ノィトゲンシュタむン、柄谷行人、宮台真叞、写真論、生成AI、HITL、C2PA、倚自然䞻矩たで、話が思いがけず広がっおしたった。

SNS䞊の友人ずのやりずりのなかで、䜕床か蚀葉にしようずしお、最埌に残ったのはこういう感芚だった。

詰たるずころ、いたは「線匕きが揺らぐ䞍安」の時代なのではないか。

この文章は、その䞍安をほどくためのメモである。完成した理論ではない。むしろ、ただうたく蚀えない堎所から曞いおいる。

私は写真家・圚野研究者ずしお、生成AI時代の写真認識論を考えおいる。そこでずっず匕っかかっおいるのは、単に「この写真は停物かもしれない」ずいう疑いではない。もっず手前にある問いである。

これは、そもそも写真なのか。

この問いを考えるために、もう䞀床フヌコヌ『狂気の歎史』を読みたいず思った。出発点は、デカルトの方法的懐疑である。

âž»

第䞀郚 懐疑する䞻䜓は、自分の足元をどこたで疑えるのか

1. デカルトの方法的懐疑ず、フヌコヌの「䞍均衡」

フヌコヌが『狂気の歎史』でデカルトに芋いだす栞は、方法的懐疑のなかにある「䞍均衡」だずされる。

デカルトは『省察』で、感芚が欺くかもしれないず疑う。いた芋おいる䞖界は倢かもしれないず疑う。さらには、悪霊に隙されおいるかもしれないずたで疑うずされる。

しかしフヌコヌの読みでは、そこにひず぀の排陀があるずいう。

倢は疑える。悪霊も疑える。だが、「自分自身が狂気である可胜性」は、懐疑の察象から倖されおいる。぀たり、懐疑する「私」そのものが理性の倖郚にあるかもしれない、ずいう可胜性は、最初から退けられおいる。理性は、自分自身を疑うのではなく、狂気を倖偎に眮くこずで、自分の内偎を確保する——ずいうのがフヌコヌ的な読解ずしお知られおいる。

もちろん、このフヌコヌのデカルト読解は論争的である。

ゞャック・デリダは「コギトず『狂気の歎史』」で、フヌコヌの読解を批刀したずされる。デリダにずっお、悪霊の仮説は狂気よりも培底した懐疑であり、コギトは「たずえ私が狂っおいおも」成立するものずしお読める。フヌコヌはのちに「私の身䜓、この玙、この炉」邊蚳タむトルは「炉」、原語 feuで再反論しおいるずいう。

だから、ここで私は「デカルトは本圓に狂気を排陀したのか」を文献孊的に確定したいわけではない。むしろ、フヌコヌ的読解をひずたず採甚し぀぀、その構造を借りたい。

すなわち、

ある懐疑の䜓系は、自分自身を成立させおいる条件をどこたで疑えるのか。

ずいう問いである。

デカルトの問題は、単に「疑い足りなかった」ずいうこずではない。むしろ、懐疑する䞻䜓が、どのように資栌づけられ、どこから先を疑いの倖に眮くのか、ずいう問題である。

この問いが、生成AI時代の写真に重なっお芋えた。

2. 「これは停物か」ではなく、「これは写真なのか」

写真は長いあいだ、疑われおきた。

写真は加工されおいるかもしれない。挔出されおいるかもしれない。トリミングによっお意味を倉えられおいるかもしれない。キャプションによっお文脈をずらされおいるかもしれない。芋る偎の認知バむアスが入り蟌んでいるかもしれない。

しかし、それらの疑いは、なお「写真」ずいう制床の内偎で起きおいた。

぀たり、写真は䜕かを写しおいる。そのうえで、その写し方が歪められおいるかもしれない、ずいう疑いだった。

ずころが生成AI以埌には、もう䞀段手前の疑いが珟れる。

そこに撮圱者はいたのか。カメラはあったのか。光がセンサヌに圓たったのか。被写䜓は、ある時間、ある堎所に存圚しおいたのか。それずも、その像は、デヌタセットずモデルずプロンプトのなかから、撮圱行為を経ずに生成されたものなのか。

ここで問われおいるのは、画像の真停ずいうより、画像の出自である。

「これは嘘の写真か」ではなく、これは写真ずいう因果連鎖を通った像なのか。

埓来の写真懐疑は、写真ずいう制床を前提にしおいた。しかし「これは生成AIかもしれない」ずいう懐疑は、写真ずいう制床そのものに向かう。぀たり、疑いの氎準が倉わっおいる。

デカルト的懐疑写真をめぐる懐疑

・これは倢かもしれないこれは錯芚・誀認・挔出かもしれない
・悪霊に隙されおいるかもしれないこれは加工・合成・捏造かもしれない
・自分が狂気かもしれない、は排陀されるそもそもこれは写真ではないかもしれない、が埓来の写真制床では十分に問われおこなかった

もちろん、デカルトの方法的懐疑ず生成AI時代の写真懐疑が同じものだず蚀いたいわけではない。同型性があるずすれば、それはこの氎準である。

懐疑の䞻䜓、あるいは制床が、自分自身を成立させおいる条件をどこたで疑えるのか。

デカルトの堎合、その条件は理性的䞻䜓だった。写真の堎合、その条件は、撮圱者・カメラ・光・被写䜓・出来事の因果連鎖である。生成AIは、この因果連鎖を揺らしおいる。

3. 柄谷行人——倢から「出続ける」粟神

ここで、柄谷行人のデカルト解釈が補助線になる。

SNS䞊の友人が、柄谷のデカルト解釈ずしお、次のような趣旚のこずを教えおくれた。

方法的懐疑は、倢かもしれないシステムから、その倖郚に垞に出続けようずする運動で、デカルトはそれを「粟神」ず呌んだ。

最初は、これを蚘憶ベヌスの匕甚ずしお扱ったほうが安党だず思っおいた。柄谷の「倖郚」抂念は『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』『トランスクリティヌク』にたたがっお出おくるずされ、曞籍䞊の厳密な匕甚元を確認する必芁があるず思ったからだ。

その埌、1986幎の浅田地ずの察談動画で、柄谷自身がかなり近い趣旚のこずを語っおいるのを、私は実際に聎いおいる。これは確かである。

柄谷はそこで、デカルトを単なる「心身二元論」の哲孊者ずしおではなく、システムから倖郚ぞ出ようずする思想家ずしお読んでいる。

順序を远うず、こうなる。

第䞀に、方法的懐疑ずは、自分の思考が本圓に自分のものなのかを疑うこずである。自分が考えおいるず思っおいるこずは、本圓に自分の思考なのか。それずも、共同䜓、教育、蚀語、慣習、囜家、制床によっお、自動的に考えさせられおいるだけなのか。それは、倢を芋おいる状態ずどこが違うのか。

第二に、したがっお方法的懐疑ずは、自分の思考を支配しおいるシステムの倖郚ぞ出ようずする運動である。ここでの「倢」は、単なる睡眠䞭の倢ではない。自分が自由に考えおいるず思い蟌みながら、実際にはシステムに考えさせられおいる状態のこずである。

第䞉に、柄谷にずっお、デカルトの蚀う「粟神」は、安定した内面の実䜓ではない。粟神ずは、自分をシステムから匕き離そうずする意志である。䞀床倖に出お終わるものではない。絶えず倖郚ぞ出続ける運動である。

倖郚は、どこかにある堎所ではない。 倖郚ずは、出続ける運動ずしおしかない。

ここで私にずっお重芁なのは、デカルトの「粟神」が、頭の䞭に閉じた透明な䞻䜓ではなくなるこずだ。

粟神ずは、閉じたシステムの内偎で自明に考えおいる䞻䜓ではない。むしろ、自分が䜕かに考えさせられおいるかもしれないず疑い、その倖郚ぞ出ようずし続ける運動である。

これは、生成AI時代の写真にも眮き換えられる。

私たちは画像を芋おいる。しかし、その画像を芋る私たちの刀断は、どのシステムに支えられおいるのか。

「写真らしさ」ずは䜕か。「人間が撮った」ずは䜕か。「AIっぜい」ずは䜕か。その刀断は、本圓に私のものなのか。それずも、すでにプラットフォヌム、報道制床、写真史、AI怜出噚、ラベル、メタデヌタ、鑑賞習慣によっお考えさせられおいるのか。

柄谷的に蚀えば、ここでも問われおいるのは、倢から醒めるこずではない。

倢かもしれないシステムから、出続けるこずである。

4. ノィトゲンシュタむン——疑いには蝶番がある

ただし、ここで氞井均『りィトゲンシュタむン入門』を経由しお『確実性に぀いお』を考えるず、懐疑には別の限界があるこずも芋えおくる。氞井のあの新曞は、りィトゲンシュタむンの「私的蚀語」「芏則のパラドクス」「独我論」をひず぀ながりの䞻題ずしお読み解くもので、私が長く折に觊れお戻っおきた本である。そこで描かれる埌期りィトゲンシュタむンの懐疑芳は、デカルトずは方向が違う。

『確実性に぀いお』§115で、りィトゲンシュタむンはおおよそ次のように述べおいるずされる。

すべおを疑おうずする者は、疑いに到達するこずさえできない。疑いのゲヌムそのものが、すでに確実性を前提しおいる。

さらに§341では、こう述べられおいるずいう。

私たちが立おる問いや疑いは、ある呜題が疑いから陀倖されおいるこずに䟝存しおいる。それらは、問いや疑いが動くための蝶番のようなものだ。

この「蝶番hinge」ずいう比喩が重芁である。

扉が動くためには、蝶番は固定されおいなければならない。疑いも同じで、すべおを疑うこずはできない。䜕かが疑われずに留たっおいるからこそ、疑いは動く。

懐疑には蝶番が芁る。 蝶番が回転するためには、蝶番自䜓は動いおはいけない。

この考えを写真に移しおみる。

埓来の写真文化には、暗黙の蝶番があった。

写真は、少なくずもどこかで、カメラ・光・被写䜓・撮圱者・出来事の連鎖を通っおいる。

この蝶番があったからこそ、「これは加工か」「これは挔出か」「これは偏ったフレヌミングか」ずいう疑いが意味を持っおいた。

ずころが生成AIは、この蝶番そのものを揺らす。

「この写真は嘘かもしれない」ではない。「これは写真ではないかもしれない」。

この問いは、写真的懐疑を支えおいた前提そのものに向かう。

ここで、ノィトゲンシュタむンず柄谷は、察照的な補助線を䞎えおくれる。

  • ノィトゲンシュタむンの蝶番は、動かないこずで疑いを成立させる。

  • 柄谷経由のデカルトの粟神は、動き続けるこずでシステムの倖郚ぞ出ようずする。

止たる蝶番ず、出続ける運動。この二぀は矛盟しおいるようにも芋える。しかし、どちらも懐疑の限界をめぐっおいる。

疑いが動くためには、どこかが止たっおいなければならない。しかし、その止たっおいる堎所を疑わなければ、システムの内偎で考えさせられおいるだけかもしれない。

この緊匵は、今埌の宿題ずしお残しおおきたい。

âž»

第二郚 線匕きずしおの狂気、線匕きずしおの写真

5. 狂気ずは、線匕きである

ここでフヌコヌに戻る。

慎改康之『ミシェル・フヌコヌ——自己から脱け出すための哲孊』を私はずおも良い本だず思っおいる。慎改は、フヌコヌを単なる「暩力批刀の人」に抌し蟌めずに、自分自身からの脱出を詊み぀づけた思想家ずしお描く。その芖点を借りるなら、『狂気の歎史』の栞も、単なる近代粟神医孊批刀ではなく、「理性的䞻䜓」が自分自身を成立させるためにどんな線を匕いおきたのか、ずいう問いになる。

フヌコヌにずっお、狂気ずは単なる心理状態ではない。

もちろん、粟神疟患の苊痛や症状の珟実を吊定するわけではない。問題は、ある語り、ある沈黙、ある振る舞い、ある身䜓が、どのような歎史的条件のもずで「狂気」ず呌ばれ、隔離され、治療され、管理されるようになったのかである。

぀たり、狂気ずは線匕きである。

  • 誰を理性の内偎に眮き、誰を倖偎に眮くか。

  • 誰の蚀葉を意味のあるものずしお聞き、誰の蚀葉を無意味なものずしお凊理するか。

  • 誰を治療の察象ずし、誰を劎働の察象ずし、誰を監犁の察象ずするか。

この線匕きは、医孊だけでできおいるわけではない。

法、家族、劎働、貧困管理、郜垂秩序、道埳、宗教、囜家、病院、譊察。そうした耇数の装眮が絡たり合っお、ある人を「狂気」の䜍眮に眮く。

だから、狂気ずは「監犁のための線匕き」だけではない。監犁を可胜にし、その監犁を正圓化し、さらに理性の内偎を䜜る制床の束である。

線匕きは、倖偎を䜜るだけではない。内偎も䜜る。

  • 狂気を倖郚に眮くこずで、理性の内偎が成立する。

  • 異垞を倖郚に眮くこずで、正垞の内偎が成立する。

  • 非人間を倖郚に眮くこずで、人間の内偎が成立する。

  • AI生成物を倖郚に眮くこずで、写真の内偎が成立する。

ここに、生成AI時代の写真問題ずの接点がある。

AI画像を芋分けるこずだけが問題なのではない。むしろ問うべきなのは、

どのような制床が、ある画像を「人間が撮った写真」ずしお受け入れ、別の画像を「AI生成物」ずしお隔離するのか。

である。

写真コンテスト。報道機関。SNSプラットフォヌム。矎術通。広告。叞法。教育。AI怜出噚。来歎蚌明。撮圱者の眲名。

これらは、写真生成物の線匕きを䜜る装眮である。そしお、その線匕きは䞭立ではない。それは、䜕を写真ず呌ぶかだけでなく、誰を写真家ず呌ぶか、誰の蚌蚀を信じるか、どの身䜓的行為を制䜜ず認めるか、どの技術的介入を蚱容するかを䜜り倉える。

AI非AIの線匕きは、画像を分類するだけではない。 画像を芋る人間、䜜る人間、承認する人間の振る舞いを䜜り倉える。

6. 写真は、出自の制床になり぀぀ある

写真は、か぀お「痕跡」ずしお語られおきた。

写真は察象の光を受ける。被写䜓がそこにあったからこそ、写真がある。この意味で写真は、単なる絵ではなく、䞖界ずの物理的接觊をも぀。

もちろん、この理解は䜕床も批刀されおきた。写真は客芳的ではない。写真は撮圱者の遞択、装眮、制床、流通、芋る者の解釈によっお成立する。それでもなお、「䜕かがカメラの前にあった」ずいう最䜎限の前提は、写真の匷い支えであり続けおきた。

生成AIは、この支えを揺るがす。

生成AI画像は、写真のように芋える。被写界深床、粒状感、レンズの収差、肌の質感、光の回り蟌み、ストロボの圱、スマヌトフォン的な構図、報道写真颚の偶然性。そうした写真的な蚘号を、撮圱行為なしに生成できる。

このずき、写真性は画像の芋た目からだけでは刀断できなくなる。

するず、写真は画像そのものではなく、画像の呚囲にあるプロトコルによっお支えられるようになる。

誰が撮ったのか。どの機材で撮ったのか。い぀、どこで撮ったのか。撮圱デヌタは残っおいるのか。RAWデヌタはあるのか。メタデヌタは改倉されおいないのか。来歎蚌明はあるのか。報道機関やプラットフォヌムは承認しおいるのか。AI怜出噚はどう刀定したのか。人間の線集者は確認したのか。

ここで写真は、画像から制床ぞ移動する。

あるいは、より正確に蚀えば、写真はもずもず制床だったのだが、生成AIによっおその制床性が露出する。

写真ずは、単に画像の皮類ではない。 写真ずは、ある画像を「撮圱されたもの」ずしお扱うための、瀟䌚的・技術的・物質的な承認の連鎖である。

ただし、ここで泚意しなければならない。「写真は出自の制床になった」ず蚀い切るず、写真がもっおいる物質性や身䜓性を切り捚おおしたう危険がある。玙、銀塩、ピクセル、スクリヌン、レンズ、センサヌ、手ぶれ、歩行、埅機、疲劎。そうしたものは、出自制床に還元されない。

だから、より慎重に蚀えばこうなる。

生成AI以埌、写真は画像であるず同時に、出自をめぐる制床ずしお前景化しおいる。

この蚀い方のほうが、今の自分にはしっくりくる。

âž»

第䞉郚 瞫合される人間——HITL、C2PA、近代の芖芚装眮

7. HITLずいう保蚌人

この線匕きの問題は、HITL、human-in-the-loop にも぀ながる。

HITLは䞀般に、AIシステムのなかに人間の刀断を介圚させる仕組みずしお語られる。

AIが出力する。人間が確認する。人間が承認する。だから安党である。だから責任がある。

だが、本圓にそうだろうか。

HITLにおける人間は、AIの倖偎にいるように芋える。しかし実際には、AIシステムの内郚に配眮されおいる。

どこを芋るか。䜕を承認するか。どこたで修正できるか。い぀責任を負うか。拒吊できるのか。拒吊した堎合、どう凊理されるのか。

その圢匏は、すでにシステムによっお蚭蚈されおいる。

ここで人間は二重の䜍眮に眮かれる。

  • 䞀方で、人間は、画面を芋お、クリックし、承認する経隓的な䜜業者である。

  • 他方で、「人間が確認した」ずいう正圓性の眲名ずしお扱われる。

この二重性は、フヌコヌ『蚀葉ず物』の「経隓的超越論的二重䜓」ず響き合うず蚀われる。近代の人間は、科孊の察象であるず同時に、認識の条件ずしおも扱われる。HITLにおける人間もたた、システム内郚で䜜業する存圚でありながら、システム党䜓の正圓性を保蚌する倖郚のように扱われる。

だからHITLは、単なる安党装眮ではない。それは、「人間が関䞎した」ずいう事実を、システムの正圓性ぞ倉換する装眮でもある。蚀い換えれば、

HITLにおける人間は、AIの倖郚に立぀䞻暩者ではなく、AI非AIの線匕きを成立させるために内郚化された保蚌人である。

さらに蚀えば、HITLは「線匕きを維持する装眮」であるだけでなく、「線匕きが維持されおいるかのように芋せる装眮」でもありうる。

「人間が確認したした」ずいう衚瀺は、AI非AI、人間機械、責任自動化の境界を安定させるように芋える。しかし、その人間が䜕を芋お、どの暩限を持ち、どの皋床AI出力を拒吊できたのかが䞍明なら、それは䞻䜓性の回埩ではなく、䞻䜓性の挔出に近い。

HITLの "human" は、近代的䞻䜓の埩掻ではない。それは、装眮の内郚に組み蟌たれた確認者、責任代理者、承認者ずしお䜜られる。ここに、AI時代の人間像のひず぀がある。

8. 瞫合される写真

ここで「瞫合suture」ずいう蚀葉を導入したい。

瞫合ずいう抂念は、もずもずはゞャックアラン・ミレヌルが、ラカン掟の粟神分析の文脈で打ち出したものである。ミレヌルが『カむ゚・プヌル・ラナリヌズCahiers pour l'analyse』第1号1966幎で瀺したのは、算術における「0」の比喩だった——「0」は単なる無の䞍圚ではなく、ひず぀の数ずしお機胜するこずで、シニフィアンの連鎖が成立する。䞻䜓もたた、欠劂を補う䜕らかの代理を介しお、蚀語の連鎖に組み蟌たれおいく。これが瞫合のもずの考え方である。

この抂念を映画理論に応甚したのが、ゞャンピ゚ヌル・りダヌル「瞫合La suture」『カむ゚・デュ・シネマ』211号・212号、1969幎4月5月分茉である。本皿では岩本憲児・歊田朔・斉藀綟子線『「新」映画理論集成②——知芚衚象読解』フィルムアヌト瀟、1999幎所収の谷昌芪蚳14–31頁を参照した。りダヌルの論文は11節からなるが、その骚組みを私なりに蟿るず、以䞋のような䞉局になっおいるず読める。

**第䞀局は、瞫合を抜象的な枠組みずしお芏定する第1節である。**りダヌルはここで瞫合を、特定の線集技法の話ずしおではなく、芳客が映画的蚀衚énoncé cinématographiqueず取り結ぶ関係そのものずしお芏定する。りダヌルによれば、ロベヌル・ブレッ゜ン『ゞャンヌ・ダルク裁刀』が発明した様匏は、芳客が映画的䞻䜓ずしおあるべき堎所に眮かれるこずに適合した、映画的蚀衚の閉鎖の仕方だった。重芁な指摘がもうひず぀ある。「䞻芳的」ず呌ばれる映画でも瞫合は存圚するが、その原理は提瀺されないたたになっおいる、ずいうのだ。原理が提瀺されないために、その皮の映画では「映画䜜品の䞻䜓蚀衚の偎にある䞻䜓」ず「映画䜜品に映る䞻䜓画面内の人物」ずが混同されおしたう。ブレッ゜ンの達成は、この混同を解いお、芳客䞻䜓を本来あるべき䜍眮に戻したこず、ず蚀える。

第二局は、第3節で出おくる具䜓機構の蚘述である。りダヌルはここで瞫合をいわゆるショットリバヌスショット画面逆画面の機構ずしお蚘述する。あるショットは、向かい合う盞手を画面倖の〈䞍圚者〉ずしお指し瀺す。続く逆画面でその盞手の境域のなかにいる誰かたたは䜕かが珟われるず、欠劂は廃棄される。早川由真「顔のない殺人者」『映像孊』102号、2019幎が瞫合理論を敎理した際に重芖しおいたのは䞻にこの定匏であり、私自身、二぀前の草皿たでは瞫合をこの機構の話ずしお扱っおいた。だが、第1節を螏たえおから第3節を読み盎すず、これは抜象的な枠組みの䟋瀺であっお、定矩そのものではないこずが分かる。

**第䞉局は、第4節での自己泚釈である。**りダヌルは第4節で、ミレヌル論文ぞの自己参照を経由しお、瞫合をひずこずに圧瞮し盎す。瞫合ず呌ぶものはたず第䞀に <q>自己の蚀説の連鎖に察する䞻䜓の関係</q>の衚象である、ず谷昌芪蚳、p.18。ある欠劂——連鎖の次の茪を先取りする誰か——が登堎できるように、みずからを砎棄する〈䞍圚者〉に苊しむ「意味する総和」、その特城のもずでおこなわれる衚象だ、ずもりダヌルは続ける。芳客の想像力が画面倖を埋める䜜業ではなく、芳客が「蚀説の連鎖に察する䞻䜓の関係」そのものを衚象する堎ずしおの映画——これが、りダヌル本人による瞫合の定矩ずしおは、もっずも凝瞮された蚀い方である。

スティヌノン・ヒヌスが埌に拡匵するように、瞫合ずは芳客の䞻芳的な想像䜜業ではなく、テクストの機胜ずしおの芳客がショット連鎖の結果ずしお生産される過皋である。たた早川由真は、りダヌルが空間の連接ずしお描いた瞫合を〈身䜓の瞫合〉ぞず拡匵し、断片化したショットのあいだで身䜓がキャラクタヌずしお「生成するし損なう」過皋ずしお読み盎しおいる。

私は本皿で、この語をもう䞀段だけ拡匵しお䜿う。りダヌルの瞫合が「芳客䞻䜓を映画的蚀衚ず取り結ばせる」䜜甚、早川の〈身䜓の瞫合〉が「断片化したショットのあいだで身䜓を䞀人のキャラクタヌにたずめる」䜜甚だずすれば、ここで蚀いたいのは、画像の身分を䜜る䜜甚である。

AI時代の瞫合ずは、「誰が芋たのか」「誰が撮ったのか」「誰が生成したのか」ずいう空癜を、説明・眲名・承認・メタデヌタ・ラベルによっお閉じる䜜甚である。

「これはAI生成です」「これはAIを䜿甚しおいたせん」「人間が確認したした」「撮圱者が眲名しおいたす」「メタデヌタがありたす」「来歎蚌明がありたす」。

こうした説明は、䞍安を完党に消すわけではない。むしろ、䞍安を瀟䌚的に扱える圢に倉える。

瞫合は安心させるだけではない。 どの空癜を空癜ずしお感じるべきかを指定する。

ここで重芁なのは、りダヌルに即しお読めば、瞫合ずは「画面倖の䞍圚を画面内の䜕者かが埋める」䜜業に尜きるのではない、ずいう点である。りダヌル第1節の定矩に埓えば、瞫合ずはむしろ「蚀衚が閉じる仕方」、芳客䞻䜓があるべき堎所に眮かれる関係の調敎である。AI 写真論ぞの接続では、この第1節の枠組みのほうがずっず䜿いやすい。来歎情報・眲名・ラベルは、画像の呚囲を取り囲むこずで、ある皮の蚀衚の閉鎖を䜜り出す——「この画像は誰のどんな身分のもずで読むべきか」を、芋る偎の䞻䜓の䜍眮ず䞀緒に指定する。閉鎖が生たれるこずで、画像は瀟䌚的に取り扱える察象になる。

たずえば、C2PACoalition for Content Provenance and Authenticityのような来歎蚌明は、画像の出自や線集履歎を蚘録するための重芁な技術である。しかしそれは同時に、「真正性ずは来歎情報ずしお管理されるものだ」ずいう新しい芋方ぞ、私たちを瞫合する装眮でもある。ミレヌルの「0」の比喩に戻れば、来歎情報ずは、画像の倖偎に眮かれた「0」の蚘号である。それは画像の真莋ずいう䞍圚を、ひず぀の数ずしお、぀たり瀟䌚的に運甚できる察象ずしお機胜させる。来歎情報があるこずによっお、はじめお「真莋ずいう空癜」がひず぀の䜍眮をもったものになる。逆に蚀えば、来歎情報がない画像は、空癜を空癜ずしお感じるこずすらできない領域に抌しやられる——これが瞫合ずいう装眮の力である。

写真はもはや、画像だけでは成立しない。写真は、画像の呚囲にある説明、眲名、承認、来歎ずずもに成立する。

ここで、私が長く戻っおきた䞀冊である倚朚浩二『ベンダミン「耇補技術時代の芞術䜜品」粟読』岩波珟代文庫、2000幎を脇に眮きたくなる。倚朚はベンダミンを字矩どおりの泚釈ずしおは読たない。むしろ、ベンダミンが生きおいた時代の政治・瀟䌚・思想的情勢の総䜓に、圌がどんなスタンスをずっおいたか、ずいうずころから読みはじめる。倚朚は本曞の第2章で、ヘヌゲル『矎孊講矩』の有名な䞀節——<q>芞術の最盛期はわたしたちにずっお過去のものずなった</q>——を匕きながら、ベンダミンが論じた瀌拝的䟡倀から展瀺的䟡倀ぞの移行を、芞術䜜品が祭祀や個人所有の堎所から矎術通ぞず移されおいく時代の経隓ずしお読み盎しおいる。

倚朚の読みでは、ベンダミンは「芞術は凋萜しおいる」ずいう嘆きを差し出そうずしたのではない。むしろ、芞術抂念そのものが歎史的に揺らぎ぀぀あるずいう認識を、技術ず知芚の二぀の軞で捉えようずしたのだずされる。ベンダミンがマルセル・デュシャンの『泉』をめぐっお曞いた草皿補遺に぀いお、倚朚はずりわけ现かく泚釈を぀ける。䟿噚に眲名がなされたずき、芞術䜜品ずしおの効果を発揮するのは䜜品本䜓ではなく、「䜿甚状況から匕き抜かれた」物の経隓だずベンダミンは指摘した、ず倚朚は読む。芞術は存圚し、か぀存圚しない——これが倚朚が取り出すベンダミンの感受性であり、私が C2PA を考えるずきに反埩しおしたう感芚にもっずも近い。

私は、生成AI時代の C2PA や来歎蚌明が、この軞の䞊に新しい第䞉項を曞き加えようずしおいるのではないかず感じおいる。瀌拝的䟡倀、展瀺的䟡倀、そしおおそらく来歎的䟡倀である。画像は、儀瀌の䞭にあった時代から、展瀺宀に䞊べられる時代を経お、いたや来歎情報の連鎖のなかに眮かれお初めお画像ずしお読めるずいう段階に入り぀぀ある。これは「次に広げたい論点」の項目で、もう少し䞁寧に展開したい。

倚朚のベンダミン読解の、私がいちばん匕っかかっおいる箇所がもうひず぀ある。倚朚は本曞第3章で、ベンダミン『生産者ずしおの䜜家』が掲げた 「あらゆる生掻状態の文曞化Literalisierung」 ずいう抂念に泚目する。これは倚朚の読みでは、生掻のなかに歎史の根源的な姿をむきだしにする䜜業であり、新即物䞻矩Neue Sachlichkeitの写真や文孊が、生掻を圓䞖颚に消費しやすい圢に敎えおしたうのずはたったく逆方向の䜜業である。倚朚は、新即物䞻矩のなかにある、いたどきに合わせお捏造されたアりラ——倚朚はこれを圓䞖颚のアりラず呌ぶ——を、文曞化Literalisierungが匕き剥がしおいく、ず敎理する。

ここに、珟代の瞫合の問題が透けお芋える。「これは生成AIです」「これは人間が確認したした」「メタデヌタがありたす」ず蚀うこずは、䞀面では生掻を文曞化する行為である。だが他方で、その文曞化自䜓が、いたどきの䞍安に合わせお滑らかに敎えられた、新しい圓䞖颚のアりラの捏造になりうる。ベンダミンが譊戒した捏造アりラは、いたや来歎プロトコルの語圙で再挔されおいるかもしれない。

倚朚はこの章で、ゞョン・ハヌトフィヌルドのフォトモンタヌゞュを論じたベンダミンの䞀節も匕いおいる。本のペヌゞに付着した「殺人者の血ぬられた指王」のほうが、本文よりも雄匁に語っおしたうこずがある——ずいうベンダミンの感芚である。指王ずは、画像の倖偎に貌り付けられた倖郚の指暙でありながら、本文画像の政治的な力そのものを倉えおしたう。私は C2PA を考えるずき、この指王の比喩を脇に眮きたくなる。来歎情報は、画像の倖偎にぶら䞋がる䞭立な装食ではない。来歎情報そのものが、画像の政治的な力孊を倉える。

その意味で、AI時代の写真ずは、䞖界を写すものずいうより、䞖界ずの関係をどのように信じるか、その信じ方をめぐる制床になり぀぀ある。

ただし、ここでも泚意したい。「瞫合」ず蚀っおしたうこず自䜓が、こちらの䞍安を滑らかに閉じおしたう危険がある。説明できたように芋える瞬間に、違和感のざら぀きが倱われる。

だから、瞫合ずいう語は、䟿利な抂念であるず同時に、自己点怜の察象でもある。なお、りダヌルは論文の最終節第11節で、映画はみずからに぀いおしか語らない段階に入ったず蚺断する。映画的堎ずは、シニフィアンの情熱の特暩的な劇堎である、ず。これは本皿の AI 写真論からはやや距離があるが、「瞫合の操䜜が暎露されたあずに䜕が残るか」ずいう別の問いずしお、いずれ戻っおきたい。

9. 近代の芖芚制床ずしおの写真

ここから、さらに颚呂敷を広げるこずができる。

AI時代の写真論は、単に写真史の内郚問題ではない。それは、近代の線匕きの歎史をやり盎す問題でもある。

近代は、さたざたな境界を匕いおきた。

理性狂気。正垞異垞。文明野蛮。人間動物。自然文化。䞻䜓客䜓。宗䞻囜怍民地。蚘録虚構。写真絵画。オリゞナルコピヌ。人間機械。

写真は、この近代的線匕きの重芁な装眮だった。

写真は蚘録した。分類した。枬定した。蚌明した。監芖した。人皮を可芖化した。犯眪者を識別した。怍民地を蚘録した。家族を保存した。囜家を宣䌝した。戊争を報道した。芞術を再線した。

写真は、䞖界を芋せるだけではなく、䞖界を分類可胜なものにした。

この意味で、写真は近代の芖芚的な行政装眮でもあった。

もちろん、この議論には写真論偎の厚い前史がある。Allan Sekula「The Body and the Archive」、John Tagg『The Burden of Representation』『The Disciplinary Frame』、Ariella Azoulay『The Civil Contract of Photography』ずいった曞物矀である。原兞そのものを通読したわけではない。だが今回、Jae Emerling『Photography: History and Theory』Routledge, 2012を通じお、これらの議論の骚栌に觊れるこずができた。Emerlingの蚘述を介しお芋えるかぎりで、いた私が蚀えるのはこういうこずである。

Taggは、写真の「蚌拠ずしおの力evidential force」ず呌ばれる効果を、写真の自然な性質ではなく、19䞖玀以降に歎史的・制床的に構築されたものずしお読み盎す論者だずされる。Emerlingの敎理によれば、Taggにずっお写真ずは、雑倚な差異や境界、垰属、排陀が亀錯する地図のようなものであり、その地図のうえで暩力ず意味ずが互いに線み蟌たれおいく。重芁なのは、Taggにずっお写真の枠が、その倖偎にある「文脈」の単玔な反映ではないずいう点である。Emerlingは、Taggの方法論の栞ずしおフヌコヌから受け継いだ姿勢を匷調する。すなわち、ある蚀説の線成は枠の倖にある背景でも、写真をくるむ額瞁でもない。それは、特定の歎史的・制床的な力の配眮そのものずしお、写真ずいうメディアを倚重に定矩し盎しおきた——ずいう議論ずしお理解できる。

Sekulaのほうは、Emerlingの敎理によれば、写真ずいうメディアが芞術、人皮、経枈、階玚ずいった耇数のむデオロギヌ的座暙を亀差させる装眮だったこずを瀺しおいるずされる。「The Body and the Archive」は、ベルティペンの身䜓枬定、奎隷化された人々を撮圱したダゲレオタむプ、ザンダヌの『二十䞖玀の人間たち』などを材料にしお、19䞖玀の写真アヌカむブが分類暩力ず切り離せないものずしお組織されおいった経緯を扱う仕事らしい。圌の有名な論考「The Traffic in Photographs」1981の結びには、圢匏䞻矩は䞖界䞭の写真をひず぀の矎的な陳列棚に集めお、それらを出自・意味・甚途のあらゆる文脈から匕き剥がしおしたう、ずいう指摘があるずいう。そのうえでSekulaは、can photography be anything else? ず問い返す。圢匏䞻矩的な矎術通のなかで矎的に䞊べられる写真ではない、別の写真の存圚を擁護するための問いずしお、これは読たれおいるらしい。

Azoulayの「写真は画像ではなく契玄である」ずいう議論に぀いおは、Emerlingが扱う範囲のなかでは深く展開されおいなかったため、ここでは螏み蟌めない。これは原兞に圓たるべき宿題ずしお残る。

これらをふたえるず、いた私が考えるべき接続線はおそらくこうなる。

  • Sekulaが19䞖玀の譊察写真、犯眪人類孊、身䜓枬定、アヌカむブに芋たずされる分類暩力は、生成AI時代のAI怜出噚、来歎蚌明、プラットフォヌムのラベル付けに、どのような圢で回垰しおいるのか。

  • Taggが「蚌拠ずしおの力」ず呌んだ効果は、C2PAやコンテンツ蚌明曞、プラットフォヌムの来歎蚘録のなかで、どのように再挔されおいるのか。Taggにずっお写真の枠そのものが歎史的に構築された力の配眮だったずすれば、来歎蚌明ずいう新しい枠もたた、ある特定の力の配眮ずしお読たなくおはいけない。

  • Azoulayが「写真は契玄である」ず論じたずされるなら、生成AI時代の写真は、誰ず誰のあいだの契玄ずしお成立するのか。撮圱者ず被写䜓だけでなく、デヌタセットの提䟛者、モデルの開発者、プロンプトを曞く者、生成結果を遞ぶ者、怜蚌する者、流通させる者、芖聎する者——それらすべおのあいだに新しい契玄関係を芋るべきなのか。

この先には、ただ倧きな宿題がある。Emerlingを介しお骚栌を撫でるこずはできたが、Tagg、Sekula、Azoulayの原兞を通るこずが、次の段階の䜜業になる。

âž»

第四郚 珟堎ぞ戻る——手で考える写真

10. 倚自然䞻矩、ニュヌマテリアリズム、そしお「人間の倖郚」

ここたでの話は、近代的䞻䜓の自己反省の限界をめぐっおいる。

その意味で、倚自然䞻矩、マルチスピヌシヌズ人類孊、思匁的実圚論、ニュヌマテリアリズムのような思想朮流も、補助線になる。

ここは、ノィノェむロス・デ・カストロ『食人の圢而䞊孊』を読んだ経隓から、慎重に曞きたい。

これらの思想は、単玔に「自分が非理性的かもしれない」ず疑う思想ではない。そう蚀っおしたうず、近代的䞻䜓の内面の問題に回収されおしたう。むしろ、これらの思想が疑うのは、理性非理性、䞻䜓客䜓、自然文化、人間非人間ずいった線匕きの配眮そのものである。

ノィノェむロス・デ・カストロの倚自然䞻矩は、「自然は䞀぀で、文化が耇数ある」ずいう近代的な構図をきっぱりず揺るがす。アマゟンの先䜏民の䞖界では、ゞャガヌもバクも人間も、それぞれが自分自身を「人間魂」ずしお経隓しおいる、ずいう議論を圌は展開する。耇数あるのは文化ではなく身䜓芖点であり、その身䜓の差異から耇数の自然が立ち䞊がる、ずいう構図である。私はこの議論にはっきり圱響を受けおいる。

そこに、宮台真叞・奥野克巳『宮台匏人類孊』の察話を重ねるず、別の角床が芋える。あの本で宮台ず奥野が繰り返し問うのは、近代瀟䌚の「前提を遡る」こずだった。私たちが「圓たり前」ずしお固めおいる地点をいったん溶かしなおし、人類孊的な厚みのなかで人間像を組み盎そうずする姿勢である。これも私のなかではっきり効いおいる本だ。

マルチスピヌシヌズ人類孊は、人間だけを歎史や瀟䌚の䞭心に眮く芋方をずらす。ニュヌマテリアリズムは、物質を受動的な察象ずしおではなく、䜜甚し、絡たり、生成に関䞎するものずしお考える。思匁的実圚論は、人間の認識に䞖界を埓属させる盞関䞻矩的な構図を批刀する。

これらをAI時代の写真論に接続するなら、こう蚀えるず思う。

写真を芋る䞻䜓、人間の知芚、カメラ、センサヌ、アルゎリズム、画像デヌタ、デヌタセット、プラットフォヌム、メタデヌタ、制床的承認は、どのように絡たり合っお「写真」を生成しおいるのか。

ここでは、写真はもはや人間の目ずカメラのあいだに成立する単玔な関係ではない。

写真は、身䜓、装眮、蚈算、デヌタセット、流通、承認、芏制、鑑賞、保存の連鎖である。

生成AI画像は、人間の県やカメラの身䜓ではなく、デヌタセット、モデル、プロンプト、確率的生成過皋ずいう別の「身䜓」を通じお像を䜜る。

だから問題は、AI画像が嘘か本圓かだけではない。

どの身䜓技術的条件が、その像の䞖界を成立させおいるのか。

この問いが必芁になる。

11. 頭で考える近代から、手で考える䞖界ぞ

ここで、自分の写真の珟堎に戻りたい。

理論偎の颚呂敷を広げるほど、珟堎の手の動きを点怜しなくおはいけないず思う。

私は2026幎の桜を、iPhoneで撮っおいる。KEKフォトりォヌク2025では、SuperKEKB加速噚をSigma dp0 Quattroず䞉脚で撮った。

iPhoneの蚈算写真は、どこからどこたでが「撮圱」なのか。ノむズ陀去、HDR、顔認識、色補正、シャヌプネス、背景凊理。その凊理は、どこたで写真の内偎にあるのか。

䞀方で、䞉脚を立お、加速噚の前に身䜓を眮き、光を埅ち、構図を決めお撮った写真は、生成AI時代に䜕を「蚌蚀」しおいるず蚀えるのか。

そこに身䜓があったこず。そこに時間がかかったこず。移動し、立ち止たり、構え、埅ったこず。この手続きは、写真のどこに残るのか。

生成AI時代には、「撮圱」ずいう行為の意味が、あらためお問われる。

シャッタヌを抌すこずだけが撮圱なのか。プロンプトを曞くこずは撮圱なのか。生成結果を遞ぶこずは撮圱なのか。AI補正を䜿うこずは珟像なのか。デヌタセットのなかに堆積した無数の写真家たちの芖線は、珟圚の生成画像にどのように残っおいるのか。

ここで、私はひず぀の暙語を眮いおおきたい。

頭で考える近代から、手で考える䞖界ぞ。

これは反知性䞻矩ではない。むしろ、思考を頭の内郚から解攟し、身䜓、道具、玠材、技術、環境、制床のあいだに再配眮するこずである。

写真家は、頭だけで写真を撮っおいるわけではない。

手で持぀。歩く。埅぀。反応する。機材に制玄される。光に埓う。偶然に巻き蟌たれる。珟像する。遞ぶ。捚おる。䞊べる。芋せる。他者の芖線にさらす。

写真ずは、思考であるず同時に、䜜業である。 認識であるず同時に、手続きである。 芋るこずであるず同時に、身䜓を䞖界のなかに配眮するこずである。

AI時代の写真論は、この「手」の哲孊を必芁ずしおいる。

âž»

第五郚 カテゎリヌ䞍安、そしお残された宿題

12. 「線匕きが揺らぐ䞍安」ずカテゎリヌ䞍安

ここたで曞いおきお、最初の感芚に戻る。

いた起きおいるのは、「線匕きが揺らぐ䞍安」なのではないか。

AI非AI。自然人工。写真生成物。人間機械。撮圱生成。蚌拠虚構。䞻䜓装眮。責任自動化。

これらの線匕きが、同時に揺れおいる。

だから、AI時代の䞍安は、個別の停情報や雇甚喪倱ぞの䞍安だけではない。もちろん、それらも重倧である。だが、それだけではない。

もっず深いずころで、近代がメンテナンスしおきた耇数のカテゎリヌが、同時に䞍安定になっおいる。

これは、カテゎリヌ䞍安ず呌べるかもしれない。

䜕が人間なのか。䜕が写真なのか。䜕が蚌蚀なのか。䜕が制䜜なのか。䜕が責任なのか。

こうした問いが、同時に立ち䞊がっおいる。

フヌコヌが理性狂気の線匕きに芋たのは、近代的䞻䜓が自分自身を成立させるための排陀の構造だったずされる。同じように、AI時代の写真制床は、写真生成物、人間機械、撮圱生成、蚌拠虚構の線匕きを通じお、自らの内偎を再線しようずしおいる。

しかしその線匕きは、すでに揺らいでいる。

スマヌトフォンの蚈算写真。AI補正。生成塗り足し。来歎蚌明。HITL。AI怜出噚。プラットフォヌムのラベル付け。

これらは、写真ず生成物をきれいに分けるどころか、䞡者のあいだに耇雑な䞭間領域を䜜り出しおいる。

だからこそ、「写真は生成AIかもしれない」ずいう懐疑は、単なる技術的䞍安ではない。

それは、近代が匕いおきた線が、いたどのように維持され、ずらされ、瞫合され、再制床化されおいるのかを問うための入口である。

13. ただ、うたく蚀えない堎所から

ただ、ここたで曞いおも、ただどこかで蚀い切れない感芚が残っおいる。

「線匕きが揺らぐ䞍安」ず蚀っおしたえば、たしかに敎理はできる。

だが、䞍安は敎理された瞬間に、少しだけ別のものになる。扱いやすくなった蚀葉は、こちらの違和感をなだめおしたう。

「瞫合を避けたい」ず思っお曞いおいる文章そのものが、別の瞫合になっおしたうこずもある。

だから、この文章は結論ではない。

『狂気の歎史』を深めたい、ずいうのは、フヌコヌに぀いおもっず正確な知識を埗たいずいうだけではない。理性狂気の線匕きを問うたフヌコヌの思考を、いた私たちが立っおいる画像環境のなかでもう䞀床動かしおみたい、ずいうこずだ。

AI時代の写真論で問うべきなのは、「どちら偎が本物か」だけではない。

どのような線匕きが䜜られ、誰がその内偎に眮かれ、誰が倖偎に眮かれ、どのような人間像がそこに瞫合されおいくのか。

その問いを続けるために、私はもう少し『狂気の歎史』を読みたい。

âž»

甚語メモ

方法的懐疑 デカルト『省察』の手続きずされる。確実なものを埗るために、たずすべおを疑う方法。

倧いなる監犁 フヌコヌ『狂気の歎史』の鍵抂念ずされる。17䞖玀フランスにおいお、貧者、狂人、浮浪者などが䞀括しお収容される制床的転換を指す。歎史孊的には修正や批刀もあるが、フヌコヌの問題蚭定ずしおは重芁。

生政治 フヌコヌ埌期の抂念ずされる。生呜、健康、人口、出生、死亡、衛生などを察象ずする近代暩力の䜜動様匏。

蝶番呜題 りィトゲンシュタむン『確実性に぀いお』§341に由来する考え方ずされる。疑いが動くためには、それ自䜓は疑いから陀倖される呜題が必芁であり、それが蝶番のように働く。氞井均『りィトゲンシュタむン入門』を読むず、この発想が埌期りィトゲンシュタむン党䜓のなかにどう䜍眮づくかがよく芋えおくる。

瞫合 もずは映画理論の甚語ずされる。ゞャンピ゚ヌル・りダヌルが、芳客の䞻䜓性を映像が瞫い合わせる䜜甚ずしお展開したずされる。本皿では、画像の出自にある空癜を、眲名、メタデヌタ、承認、ラベルによっお閉じる䜜甚ずしお拡匵しお甚いおいる。

HITL human-in-the-loop。AIシステムや機械孊習の運甚においお、人間の刀断を介圚させる蚭蚈思想。本皿では、人間がAIの倖郚にいるのではなく、AI装眮の内郚で保蚌人ずしお配眮される点に泚目しおいる。

C2PA Coalition for Content Provenance and Authenticity。画像や動画などの来歎情報を蚘録・怜蚌するための技術暙準。本皿では、真正性を「来歎情報」ずしお管理する瞫合装眮の䞀䟋ずしお扱っおいる。

倚自然䞻矩 ゚ドゥアルド・ノィノェむロス・デ・カストロの抂念。䞀぀の自然に倚文化があるのではなく、身䜓や芖点の差異によっお耇数の自然が立ち䞊がるずいう考え方。『食人の圢而䞊孊』を読むず、この発想がアマゟン先䜏民の存圚論を出発点に組たれおいるこずがよくわかる。

経隓的超越論的二重䜓 フヌコヌ『蚀葉ず物』第9章「人間ずその分身」における抂念ずされる。近代の人間は、経隓的に研究される察象であるず同時に、認識を可胜にする条件ずしおも扱われる。

âž»

自分ぞの瞫合チェック

この文章を曞くにあたっお、いく぀か泚意点を残しおおく。

第䞀に、デカルトず生成AI写真を結び぀けるのは、歎史的同䞀性ではなく、構造的類比である。比喩を匷くしすぎるず、写真の物質的・身䜓的具䜓が、理論に飲み蟌たれる。

第二に、「線匕きが揺らぐ䞍安」ず蚀っおしたうこず自䜓が、䞍安をカテゎリヌ化しお扱いやすくする瞫合になりうる。䞍安はカテゎリヌ化されるず扱いやすくなるが、その質は均される。

第䞉に、HITLの批刀は、単玔な人間関䞎の吊定に滑らないようにする。人間が関䞎するこず自䜓は重芁である。ただ、「人間が確認した」ずいう蚀葉が、䜕を隠し、䜕を正圓化しおいるのかを問う必芁がある。

第四に、写真論の偎では、Sekula「The Body and the Archive」やTagg『The Burden of Representation』『The Disciplinary Frame』、Azoulay『The Civil Contract of Photography』など、写真ず分類暩力をめぐる叀兞をきちんず通る必芁がある。今回はJae Emerlingの教科曞を介しお、SekulaずTaggの議論の骚栌にやっず觊れるこずができた。骚栌を撫でただけで原兞を読んだこずにはならないが、これたでのように完党な「未読」ではなくなった。Azoulayは䟝然ずしお宿題のたたである。次の段階ずしお、原兞そのものに圓たるこず、そしおそれを今回の瞫合・来歎・HITLの議論ず本栌的に接続するこずが残っおいる。

第五に、フヌコヌの『狂気の歎史』『蚀葉ず物』に぀いおは、私はただ原兞を通読しおいない。本皿の議論は、慎改康之の解説や、各皮の研究曞・解説に支えられた範囲のものである。フヌコヌをめぐる蚘述に぀いおは、その留保のうえで読んでいただきたい。

第六に、柄谷行人のデカルト解釈に぀いおは、1986幎の浅田地ずの察談動画で近い趣旚の発蚀を私自身が確認しおいる。ただし、曞籍からの厳密な匕甚ではなく、ここでは「察談での発蚀を螏たえた芁玄」ずしお扱うのがよい。

第䞃に、りダヌル「瞫合」に぀いおは、フィルムアヌト瀟『新映画理論集成2』所収の谷昌芪蚳pp.14–31を、ファむル所有者から提䟛されたスクリヌンショット経由で通読した。これによっお、二぀前の草皿たでの「早川由真論文を介した瞫合理論の敎理」を、原兞の節構成§1〜§11に即した蚘述に眮き換えるこずができた。ずはいえ、ラカン粟神分析、ミレヌルの蚘号論、シニフィアン理論など、りダヌル論文の理論的前提に぀いおは私の理解が浅い。本文の議論は「りダヌル本人がどのように瞫合を定匏化したか」を蟿る範囲に限定されおおり、その理論的射皋の党䜓を匕き受けたものではない。

âž»

次に広げたい論点

ひず぀は、「決定的瞬間」の再怜蚎である。

カルティ゚ブレッ゜ンの「決定的瞬間」は、䞖界の偎に瞬間があり、写真家の身䜓がそれを捉えるずいう時間論を持っおいる。生成AI画像には、この意味での瞬間がない。プロンプト入力時刻はあるが、䞖界ずの時間的接觊はない。ここで、写真の時間性がどう倉わるのかを考えたい。

もうひず぀は、ベンダミンのアりラを来歎プロトコルずしお読み盎すこずである。

§8でも觊れたが、倚朚浩二の『ベンダミン粟読』は、瀌拝的䟡倀→展瀺的䟡倀ずいう有名な察立を、軜々しく䞀぀のキヌワヌドずしお消費せず、それが曞かれた時代の政治・瀟䌚・知芚の総䜓のなかに眮き盎しお読む。倚朚の読みでは、ベンダミンの議論の栞は、芞術䜜品の堎所——぀たり、それがどこで、誰によっお、どのような関係のなかで受けずめられるのか——が歎史的に倧きく動いた、その揺れ動きを名指すこずだった。

C2PA はおそらく、この揺れ動きの䞉段目を瀺しおいる。瀌拝的䟡倀は祭祀の堎にあり、展瀺的䟡倀は矎術通にあった。来歎的䟡倀は、画像の倖に巻き぀いた認蚌チェヌンのなかにある。それは「いた・ここ」の䞀回性ではないし、矎術通の壁の䞊の䞀回性でもない。怜蚌可胜なメタデヌタの連鎖ず、それを発行・確認する組織の網のなかでだけ䜜動する䞀回性である。

だがこれは、新しいアりラなのか、それずも倚朚が指摘するベンダミン的な意味での圓䞖颚の捏造アりラなのか。倚朚は、ベンダミンがハヌトフィヌルドのフォトモンタヌゞュを論じた箇所を匕きながら、画像の倖偎に貌り付けられる倖郚の指暙——指王、眲名、来歎——が、装食でも補助情報でもなく、画像の政治的な力そのものになりうる、ずいう掞察を取り出しおいる。本に残された血のしるしのほうが本文よりも雄匁に語っおしたう、ずいうベンダミンの感芚である。

C2PAを論じるずき、私はこの指王の比喩を脇に眮きたい。来歎情報は、画像の倖偎にぶら䞋がる蚌明曞ではない。来歎情報そのものが、画像の政治的な力孊を倉える。来歎の発行者、怜蚌者、流通経路は、画像が誰のものずしお、どの方向に向かっお受けずめられるかを芏定する。アりラの堎所が、画像の物質性から、認蚌チェヌンの瀟䌚的構造ぞず移った——ベンダミンず倚朚に倣っお曞くなら、そういう仮説を立おおみたい。これが「次に広げたい」第二の論点である。

さらに、プロンプトはキャプションの反転ではないかずいう問いもある。

写真では、キャプションは画像の埌に来お、意味を固定する。生成AIでは、プロンプトが画像の前に来お、生成条件を䞎える。぀たり、蚀葉ず画像の前埌関係が反転しおいる。

最埌に、四人称ずしおの生成AIの芖点も考えたい。

生成AIの芖点は、䞀人称でも、二人称でも、䞉人称でもない。撮圱者でも、被写䜓でも、芳察者でもない。デヌタセットから掟生した統蚈的な芖点である。これは、Insta360などで考えおきた「四人称」の問題ず接続できるかもしれない。

âž»

参考文献・参照先

私が確かに読んだもの

  • 氞井均『りィトゲンシュタむン入門』ちくた新曞、1995幎 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480056207/

  • 慎改康之『ミシェル・フヌコヌ——自己から脱け出すための哲孊』岩波新曞、2019幎 https://www.iwanami.co.jp/book/b480364.html

  • ゚ドゥアルド・ノィノェむロス・デ・カストロ『食人の圢而䞊孊——ポスト構造䞻矩的人類孊ぞの道』檜垣立哉・山厎吟郎蚳、掛北出版、2015幎 https://rakuhoku-pub.jp/products/book-27231-html

  • 宮台真叞・奥野克巳『宮台匏人類孊——前提を遡る思考』ちくた新曞、2026幎 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480077356/

  • 倚朚浩二『ベンダミン「耇補技術時代の芞術䜜品」粟読』岩波珟代文庫、2000幎 https://www.iwanami.co.jp/book/b260439.html

  • Youtube: 柄谷行人・浅田地 察談1986幎

教科曞・解説を介しお骚栌に觊れたもの原兞は未読

  • Jae Emerling, Photography: History and Theory, Routledge, 2012. https://www.routledge.com/Photography-History-and-Theory/Emerling/p/book/9780415778558 → 本皿§9のSekula「The Body and the Archive」、Tagg『The Burden of Representation』『The Disciplinary Frame』に関する蚘述は、いずれもこのEmerlingの第1章を介したものである。Sekulaの「The Traffic in Photographs」やTaggの諞論考からの匕甚も、Emerling経由で確認したものであっお、原兞そのものを通読したわけではない。

解説曞・他者の議論を通しお参照したもの私自身は未読、たたは郚分的にしか読んでいない

  • ミシェル・フヌコヌ『狂気の歎史〈新装版〉——叀兞䞻矩時代における』田村俶蚳、新朮瀟 https://www.shinchosha.co.jp/book/506710/

  • ミシェル・フヌコヌ『蚀葉ず物〈新装版〉——人文科孊の考叀孊』枡蟺䞀民・䜐々朚明蚳、新朮瀟 https://www.shinchosha.co.jp/book/506708/

  • ミシェル・フヌコヌ「私の身䜓、この玙、この炉」『フヌコヌ・コレクション3 蚀説・衚象』所収小林康倫・石田英敬・束浊寿茝線、ちくた孊芞文庫 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089939/

  • ルネ・デカルト『省察』山田匘明蚳、ちくた孊芞文庫 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089656/

  • ルヌトノィヒ・りィトゲンシュタむン「確実性の問題」『りィトゲンシュタむン党集 9』所収黒田亘・菅豊圊蚳、倧修通曞店 https://www.taishukan.co.jp/book/b196344.html

  • ゞャック・デリダ「コギトず『狂気の歎史』」『゚クリチュヌルず差異〈改蚳版〉』所収合田正人・谷口博史蚳、法政倧孊出版局、2022幎 https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-01143-6.html

  • 柄谷行人『探究Ⅰ』講談瀟孊術文庫 https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150616

  • 柄谷行人『探究Ⅱ』講談瀟孊術文庫 https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150721

  • 柄谷行人『トランスクリティヌク——カントずマルクス』岩波珟代文庫、2010幎 https://www.iwanami.co.jp/book/b255864.html

  • ゞャンピ゚ヌル・りダヌル「瞫合」谷昌芪蚳、岩本憲児・歊田朔・斉藀綟子線『「新」映画理論集成②——知芚衚象読解』フィルムアヌト瀟、1999幎、14–31頁歊田朔による解題は29–31頁。原文は Cahiers du cinéma 211号1969幎4月、36–39頁ず212号1969幎5月、50–55頁に分茉。英蚳系ずしお Daniel Dayan "The Tutor-Code of Classical Cinema"Film Quarterly 28:1, Fall 1974、William Rothman "Against the System of the Suture"Film Quarterly 29:1, Fall 1975、ずもに Bill Nichols ç·š Movies and MethodsUniversity of California Press, 1976所収。Stephen Heath "Notes on Suture"Screen18:4, Winter 1977/8は埌に Questions of CinemaMacmillan, 1981に収録。Kaja Silverman, The Subject of Semiotics, Oxford University Press, 1983, Ch.5"Suture"。

    • https://academic.oup.com/screen/article-abstract/18/4/35/1644345

    • 邊蚳本文は Drive 䞊のPDFがサむズの郜合で読み蟌みツヌルから盎接アクセスできなかったため、ファむル所有者から本文 pp.14–31 のスクリヌンショットの提䟛を受けお通読した。本節§8 における匕甚「自己の蚀説の連鎖に察する䞻䜓の関係」p.18はこの盎接参照に基づく。

  • 早川由真「顔のない殺人者——リチャヌド・フラむシャヌ『芋えない恐怖』における〈盲者の芖点ショット〉ずキャラクタヌの生成」『映像孊』102号、2019幎、75–93頁 → 本皿§8 の瞫合理論の敎理にあたり、りダヌル論文の文脈蚭定ミレヌルの「0」抂念の前史、歊田朔による芁玄、ヒヌスの拡匵、〈身䜓の瞫合〉抂念を参照した。原兞通読のための導入ずしお甚い、本文§8 における具䜓的な匕甚はりダヌル原兞谷蚳から盎接おこなった。

  • Allan Sekula, "The Body and the Archive", October, Vol. 39, Winter 1986, pp. 3–64. https://www.jstor.org/stable/778312

  • John Tagg, The Burden of Representation: Essays on Photographies and Histories, University of Minnesota Press新版2021幎 https://www.upress.umn.edu/9781517912239/the-burden-of-representation/

  • Ariella Azoulay, The Civil Contract of Photography, Zone Books, 2008. https://www.zonebooks.org/books/6-the-civil-contract-of-photography

  • Mary L. Gray and Siddharth Suri『ゎヌスト・ワヌク——グロヌバルな新䞋局階玚をシリコンバレヌが生み出すのをどう食い止めるか』柎田裕之蚳、成田悠茔監修、晶文瀟、2023幎 https://www.shobunsha.co.jp/?p=7516

  • Kate Crawford, Atlas of AI: Power, Politics, and the Planetary Costs of Artificial Intelligence, Yale University Press, 2021邊蚳未刊 https://yalebooks.yale.edu/book/9780300264630/atlas-of-ai/

技術仕様・暙準

âž»

ハッシュタグ

#フヌコヌ #狂気の歎史 #デカルト #りィトゲンシュタむン #確実性に぀いお #柄谷行人 #浅田地 #生成AI #写真論 #瞫合 #HITL #C2PA #ChatGPTず跳ねる

いいなず思ったら応揎しよう