No.275 ナスカをあとにして。人生で一番揺れた夜行バス

ナスカでは、地上絵だけではなく、人の温かさという土産までいただいた。

半日だけ店長を務めたスーベニアショップの親子に別れを告げ、私は次の目的地、クスコへ向かう夜行バスに乗り込んだ。

アンデスへの入口。

インカ帝国の古都。

そして、その先にはマチュピチュが待っている。

胸は期待でいっぱいだった。

……この時は、まだ知らない。

期待で膨らんだ胸が、数時間後には胃袋ごと上下左右にシェイクされる運命だとは。

バックパッカー歴もそこそこ。

「席選びくらい、慣れたものだ。」

そう思った私は、一番後ろの席を確保した。

後ろは静かだし、誰にも気を遣わず眠れる。

我ながら名案である。

ところが、出発間際になって気づいた。

地元の人たちは、なぜか誰一人として後ろへ来ない。

みんな迷うことなく、バスの真ん中あたりへ吸い込まれていく。

「なるほど、前が人気なのか。」

そんな軽い気持ちで見送った。

数時間後。

私は、自分の人生最大級の勘違いを思い知ることになる。

ゴトン。

ガタン。

ドン。

ドドドドド……。

いや、これはもう「揺れる」という表現では足りない。

洗濯機の中に入れられた靴下の気持ちが、人生で初めて理解できた。

身体は上下に跳ね、左右へ振られ、胃袋は「もう勘弁してください」と必死に訴えてくる。

眠るどころではない。

むしろ、眠ったら危険である。

車窓には満天の星。

本来なら旅情を誘う絶景なのだろう。

しかし、その頃の私は星を見る余裕など一ミリもない。

視線の先にあるのは、ただ一つ。

「どうか、吐きませんように。」

それだけだった。

ふと前方を見る。

地元の人たちは、実に穏やかな顔で眠っている。

まるで揺れなど存在しない世界にいるようだ。

そうか。

彼らは知っていたのだ。

道路の癖も。

バスの癖も。

そして、一番揺れない席まで。

旅はガイドブックだけでは完成しない。

本当に価値のある情報は、その土地で暮らす人が、何気なく選んでいる行動の中に隠れている。

レストランもそう。

市場もそう。

そして、夜行バスの座席もそうだった。

「郷に入っては郷に従え。」

このことわざは、日本だけの知恵ではない。

世界中どこへ行っても通用する、旅人の最強の教科書なのだろう。

以来、私は旅先で迷ったら、まず地元の人を見るようになった。

どの店に入るのか。

どの列に並ぶのか。

どこへ座るのか。

彼らの日常には、旅行雑誌一冊分の答えが詰まっている。

そして今でも思う。

ナスカで学んだのは、地上絵の神秘だけではない。

店主からは、人を信じる豊かさを。

夜行バスからは、人に学ぶ謙虚さを。

旅とは、景色を集めることではない。

自分の思い込みを、一つひとつ手放していくことなのだ。

……とはいえ。

もし、もう一度あの夜行バスに乗る機会があるなら、私は迷わず真ん中の席を選ぶ。

人生経験は、お金では買えない。

しかし、バスの座席だけは、最初から地元の人の真似をしたほうが、財布にも胃袋にもずっと優しいのである。

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