テレサ・テンの「邯鄲の夢」〜1000年前の詩人が作った『但願人長久』に込められた祈り〜6月の二度目の満月の夜に記す

アジアの歌姫として今なお世界中で愛され続ける、テレサ・テン。
日本における彼女は『つぐない』や『時の流れに身をまかせ』といった演歌・歌謡曲のヒットメーカーとして記憶されていることが多いかもしれません。しかし、彼女が中国語圏で残した足跡、そして激動の歴史の中で見せた一人の女性としての生き様を知ると、彼女の歌声はまったく違った響きを持って胸に迫ってきます。
テレサ・テンにとっての「邯鄲(かんたん)の夢」、彼女の運命変遷、開かなかった故郷への扉。
放置された歴史の傷跡と、彼女が最後にたどり着いた名曲『但願人長久(ただ願わくは人の長久なるを)』。
このキーワードを結ぶ、彼女の情熱と苦悩の軌跡を紐解きます。
血脈に流れる「邯鄲の夢」
「邯鄲の夢(かんたんのゆめ)」という故事成語があります。 若者が不思議な枕で一晩の夢を見、その中で富貴栄華を極めるものの、目が覚めれば宿の主人が炊いていた粟(あわ)すらまだ煮えていなかった――という、人の世の栄枯盛衰や、栄華の儚さを説いた物語です。
実は、台湾で生まれたテレサ・テンの父親は、中国大陸の河北省邯鄲(かんたん)市の出身でした。彼女は、戦後に大陸から台湾へ渡ってきた「外省人」の娘だったのです。
アジア全域で爆発的な人気を誇り、富も名声もすべてを手に入れたかのように見えたテレサ・テン。しかし、どれほどスポットライトを浴び、数千万の人々に愛されても、国家の壁に阻まれ、父親の故郷である大陸の土を自らの足で踏むことはついに叶いませんでした。
彼女が抱いた夢や手にした栄華は、常に政治や国家の思惑に翻弄され続けるものでした。自らのルーツである「邯鄲」の名を冠したこの故事のように、彼女はどこかで自らの華々しい人生を「儚い夢」のように感じていたのかもしれません。
父の故郷である邯鄲へ、そして自分を待ってくれている大陸のファンたちへ、歌声だけでも届けたい。その切実な願いも虚しく、実現しないまま不幸な最後を遂げてしまいました。
テレサのために作られた祈りの曲『但願人長久』
波乱の人生を通して、彼女が魂を込めて歌い続けた中国語の楽曲があります。それが、アルバム『淡淡幽情』に収録されている『但願人長久(ただ願わくは人の長久なるを)』です。
日本ではあまり広く知られていませんが、中国語圏では今なお誰もが知る最高峰の名曲として歌い継がれています。
この曲は、北宋時代の文人・蘇軾(そしょく)が詠んだ高潔な漢詩に、台湾の著名な作曲家がテレサ・テンのために美しいメロディを書き下ろして作った、まさに「彼女のためだけの曲」でした。
蘇軾が生きていたのは11世紀。日本で言えば平安時代。NHKの大河ドラマ『光る君へ』の中でも宋人が多く日本の越前に来ていた場面がありましたね。そんな昔の詩をそのままに歌にしたものです。
タイトルの『但願人長久』には、このような意味が込められています。
「ただ願わくは、愛する人々が(離れていても)無事で、健やかに、その命が長く続くように。たとえ千里の道を隔てて遠く離れていようとも、私たちは同じ美しい月を見上げているのだから」
個人の無力さを突きつけられたテレサ・テンが、最後にたどり着いた心の叫び。それこそが、この「ただ人々の安寧と幸せを願う」という、シンプルで、だからこそ切実な祈りだったのではないでしょうか。
この記事を書く途中で、中国でテレサ・テンを主人公としたドラマが作られていたこことを知りました。そして偶然にもそのドラマのタイトルが『但願人長久』だったのです。数ある曲の中で、制作者がこの曲をタイトルに選んだのは、そこに彼女の人生が凝縮されていたのを感じたのでしょう。
蘇軾の人生もまた、紆余曲折があり、中央政府から地方都市に左遷され、弟とも別れ別れになってしまった状況の中で、この詩は書かれました。テレサ点の人生とも重なる部分があるのかもしれません。
テレサ・テンがその血に宿し、生涯をかけて追いかけた「邯鄲の夢」は、激動の歴史の中で、一度は儚く消え去ったかのように見えました。
しかし、彼女のために作られ、彼女が未来へと遺した『但願人長久』の祈りは、彼女がこの世を去った今もなお、国境を越え、時代を超えて、歌声とともに人々の心に生き続けています。
いつの時代を生きていても、どんな場所にいても、みんな同じ満月を眺められる。それは時代を超えた普遍的なメッセージのような気がします。
きらびやかな歌姫としての姿の裏側にある、一人の女性が命を削って大陸の故郷へ捧げた「祈りの歌」に、私たちは今一度、耳を傾ける必要があるのかもしれません。
古いCD+DVDですが、以下のCD+DVDには主に中国語(北京語が多いですが、台湾語や広東語の曲、日本語の曲も何曲か入っています)で89曲が入っています。この記事で取り上げた『但願人長久』ももちろん入っています。
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