🟥認知症になった君に、今日も話しかける|35🍲あの味を、もう一度
会社からの帰り道、
自宅の玄関に着くと、隣の家から夕食のいい匂いがしてきた。
何を作っているんだろう。
妻が認知症になる前は、
こんな匂いを嗅ぐだけで、なんとなく幸福な気持ちになったものだ。
家に帰れば夕食があって、
妻がいて、
家族で食卓を囲む。
それを特別なことだと思ったことなどなかった。
そういえば、
もう何年も、そんな幸福感を味わっていないな。
そう思ったら、急に妻の手料理が食べたくなった。
前職で台湾に赴任していた頃、
妻も一緒に台湾で暮らしていた。
妻は現地の台湾料理スクールに通い、いろいろな料理を覚えた。
だから妻が作る中華料理や台湾料理は、なかなか本格的だった。
私も息子たちも大好きだった。
餃子は皮をこねるところから作る。
肉饅も生地から作る。
豆腐サラダ、水餃子……。
思い出せば、もう一度食べたいものはいくらでも出てくる。
でも、今となっては叶わない。
そんなことを考えながらスーパーへ寄ると、
野菜売り場で冬瓜が目に入った。
さすがに、あのでっかい冬瓜を夫婦二人でどうするんだと思ったが、
その横に小玉冬瓜が並んでいた。
それを見た瞬間、頭に浮かんだ。
「冬瓜鶏湯」。
台湾にいた頃、
「冬瓜蛤蜊湯」と並んでよく食べた、冬瓜を使ったスープだ。
急に食べたくなった。
よし。冬瓜、お買い上げ。
妻が家にいる日に、台所から宣言した。
「今日は冬瓜鶏湯を作るぞ」。
妻は私の顔を見て、大きく目を見開いた。
おっ、わかっているのか?
……たぶん、わかっていない。
レシピを調べる。
冬瓜を切り、鶏肉を入れ、生姜を加える。
胡麻油の香りも加わって、それらしい匂いがしてきた。
おお、これは期待できるんじゃないか。
出来上がったスープを器によそい、
少し冷ましてから妻の口へ運ぶ。
「美味しい?」と聞くと、「美味しい」と言った。
ニコニコしている。
おお! やった!
では私も、と期待を込めてひと口。
「…………ん?」
もうひと口。
「…………ま、まずい!」
なんだ、これは。
妻が作ってくれた冬瓜鶏湯と全然違うではないか。
隣を見ると、妻は相変わらずニコニコしている。
「本当にこれ美味しい?」と聞いてみる。
「美味しい」
……そうか。さっきの「美味しい」は、鸚鵡返しだったか。
夜、妻をベッドに寝かせて布団をかけた。
「今日の冬瓜鶏湯、まずかったなあ」
妻は目を閉じたまま、少し口元を緩めている。
「もう一回、食べたいんだけどな、
あなたの手料理。」
やっぱり返事はない。
仕方ない。
あの味は
――「ま・ぼ・ろ・し〜」。☝️
そう言うと、妻が笑った。
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