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朝ドラ『風、薫る』——帝都医大病院で出会った人々② 個性あふれる患者たち

この記事は、YouTubeチャンネルで公開中の動画「『風、薫る』帝都医大病院で出会う人たち・患者編」の文字起こし・加筆版です。
動画で見たい方はこちら▼
https://youtu.be/9TeoM1gUzoE

前編では、りんや直美たちが病院実習で出会った医師・看病婦たちをご紹介しました。今回の後編では、個性的な患者たちの実像に迫ります。

「ただの患者キャラ」に見えた人物が、史実では大関和の人生に深く関わっていた——そんな驚きが随所に詰まっています。

 長田 銈太郎(おさだ けいたろう)

 1849年(嘉永2年)〜1889年(明治22年)

 ドラマの「園部弥一郎」のモデル

ドラマでは左足の肉腫を患う元警察署長として登場し、勝海舟の後輩として描かれていました。台詞も出番も少なく、「面倒くさい患者」という印象を持った視聴者も多かったかもしれません。

しかし史実の長田銈太郎は、幕府のフランス語通訳として活躍し、内務省参事官なども務めた実力派の官僚でした。

大関和との「縁」

史実では、事故による怪我を負った長田のもとへ、大関が派遣看護として自宅に赴き看護を担当しました。なお、大関と患者として出会ったとき、長田はまだ30代後半——ドラマで描かれたほどの高齢ではありませんでした。

当初の長田は病身ながら養生せず、大関を困らせていたといいます。しかしある日、和が黒羽藩家老・大関弾右衛門の娘であると知ると、態度が一変しました。長田はかつて弾右衛門のフランス語通訳を務めたことがあり、その縁を懐かしんだのです。

看護服で葬列に——日本初の慣習

怪我は完治することなく、長田はこの世を去りました。

その葬儀の際、大関が看護服姿で参列したことが、のちに葬列に看護婦が制服で付き添う慣習の始まりとされています。

台詞が少なかったドラマの「園部弥一郎」ですが、史実の長田銈太郎は大関の看護師人生に、ひっそりと重要な足跡を残した人物でした。


 相馬 愛蔵(そうま あいぞう)

  1870年(明治3年)〜1954年(昭和29年)

ドラマの「丸山忠蔵」のモデル

信濃国(現・長野県)安曇郡の豪農の家に生まれた相馬愛蔵は、東京専門学校(現・早稲田大学)と札幌農学校(現・北海道大学)で学んだ人物です。

大関和との出会い——わずか1週間の入院

苔癬(ひふ病)で帝大病院に入院した相馬は、大関の献身的な看護を受けてわずか1週間で完治したといいます。この出会いをきっかけに、2人の交流は大関が亡くなるまで続きました。

中村屋の創業者として

相馬愛蔵の名を現代に伝えるのは、なんといっても新宿中村屋の創業です。

1901年(明治34年)、妻・黒光とともに上京した相馬は、東京大学の赤門前にあったパン屋を買い取り、その後新宿へ移転。日本三大菓子パンの一つとされるクリームパンを開発し、実業家として大きな成功を収めました。

中村屋は単なるパン屋にとどまらず、「中村屋サロン」として若い文化人・芸術家・社会活動家たちを支える交流の場となりました。インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースをかくまったことでも知られています。

大関和の再婚を阻止した盟友

相馬が大関の人生に深く関わったもう一つのエピソードが、大関和の再婚阻止です。

再婚相手の候補となったのは木下尚江という人物でした(木下については別の機会に詳しく解説します)木下は相馬の同郷の後輩で、良好な関係を保っていましたが、相馬は木下が廃娼運動に参加しながら自ら女郎を囲っていたこと、複数の女性との関係があったことを知ると態度を一変させました。

大関の盟友・鈴木雅とともに、木下と大関の両者に結婚を思いとどまるよう説得したのです。

晩年まで続いた友情

大関が脳梗塞で倒れ半身が不随になった後も、相馬は見舞いを欠かしませんでした。そして帰り際には、大関の枕元に必ず30円から50円の現金を置いていったといいます。

金銭的な支援を、決して押しつけがましくなく、静かに続けた相馬愛蔵——大関和にとって、生涯を通じた真の友人でした。


 三宮 八重野(さんのみや やえの)/本名: アリシア・レイノア

 1846年 ~1919年

ドラマで仲間由紀恵さんが演じた「和泉千佳子」のモデル

和泉千佳子のモデルは、実はイギリス人女性でした。本名はアリシア・レイノア。夫・三宮義胤は幕末から明治を生きた尊王攘夷派の志士で、のちに外務官僚・宮内官僚となった人物です。

義胤がイギリス滞在中に出会い、1874年(明治7年)に結婚。この結婚は日本における国際結婚の5例目とされています。

【余談】 日本における国際結婚のパイオニア的存在である、『ばけばけ』の小泉八雲とセツの国際結婚は同時期の話ですが、八雲とセツは191例目とされており、当時すでに国際結婚が一定数あったことが分かります。

帝大病院への入院と、大関和との出会い

1888年(明治21年)、八重野は乳がんの手術を受けるため帝国大学医科大学第一医院(現・東京大学医学部附属病院)に入院しました。

このとき担当看護婦に選ばれたのが、当時まだ看護実習生だった大関和が抜擢されました。これは大関の父が黒羽藩の筆頭家老であり、家柄を考慮されたものだと考えられます。

ドラマでは手術を拒否したり、りんに冷たくあたる場面が描かれていましたが、史実の八重野は他の患者を気遣うなど心温かい人物として伝わっています。そして八重野は、後述する花紫との交流を通じて、大関・鈴木が後に取り組む廃娼運動への重要なきっかけを作ることになります。


 花紫(生没年不詳)/本名:山本キク

  ドラマの「夕凪」のモデル

ドラマでは、客の男に毒を盛られて病院に運ばれてくる女郎・夕凪として登場しました。

『風、薫る』の原案となった田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和物語』には、「花紫」という名の女郎が登場します。本名・山本キクというこの女性が、夕凪のモデルと考えられています。

心中未遂と、帝大病院への搬送

花紫は帝大の学生と心中未遂事件を起こし、大関や鈴木らが看護実習をしていた帝大病院に搬送されてきました。ドラマと同様、相手の学生は命を落とし、花紫だけが生き残りました。

当時、遊郭での心中事件は客の身勝手による無理心中が多かったといいます。この現実を目の当たりにした大関と鈴木雅は深く心を動かされ——「遊郭を出た人たちが安心して暮らせる場所と、自立できる職業が必要だ」という思いを強くしました。これが、2人が後に廃娼運動へと動き出すきっかけの一つとなりました。

三宮八重野との、病棟を越えた縁

この話を聞きつけた三宮八重野は、花紫のもとへお菓子・花・聖書を差し入れました。華族の婦人が遊女に歩み寄るという、当時としては異例の行為でした。

心身の傷が癒えた花紫は退院の際、八重野の病室を訪れて礼を述べ、「堅気の暮らしをする」と約束したと伝わっています。


まとめ——「患者」として登場した人々の、その後

ドラマで「ただの患者」に見えた人物たちが、史実では大関ちかの人生を大きく動かしていました。こうした背景を知った上でドラマを見返すと、一つひとつのシーンがまた違って見えてくるはずです。

動画でも詳しく解説しています。あわせてご覧ください▼
https://www.youtube.com/@asadorahukabori

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