台風が過ぎた後の敗者
外は、白けた青空だった。
男は窓の養生テープを剥がした。
ベリベリという音だけが、静かな部屋に響く。
昨夜、テレビは「命を守る行動を」と繰り返していた。
気象予報士は真顔だった。
SNSでは終末論が開催されていた。
川があふれる。
電車が止まる。
停電が起きる。
人類はいつの時代も世界の終わりが好きである。
しかも、かなり具体的な形で。
男もまた、その狂乱の一部だった。
クリームパンを三つ買い、
浴槽に水を張り、
モバイルバッテリーを充電し、
スマートフォンを百パーセントにして、
文明崩壊を迎撃する準備を整えた。
しかし文明は崩壊しなかった。
夜は来た。
そして朝になった。
それだけだった。
スマートフォンを開く。
SNSにはすでに怒号があふれていた。
「また外れた」
「大げさだった」
「休みにした意味がない」
不思議なものである。
災害が来れば、
「なぜ警告しなかった」
と怒る。
災害が来なければ、
「なぜ警告した」
と怒る。
どうも人間は被災することよりも、
怒る権利を失うことの方を恐れているらしい。
もし予報が百発百中になったら、
文句を言う相手がいなくなる。
それは案外、耐え難い未来なのかもしれない。
男はテーブルの上を見た。
クリームパンが三つある。
昨夜は文明崩壊に備えた戦略物資だったが、
今となっては賞味期限の近い炭水化物である。
男は一つ食べた。
残り二つも食べた。
世界は救われたが、
クリームパンは救われなかったからだ。
被害総額を計算してみる。
クリームパン三個。
三百九十八円。
男は少し考えた。
防災費としては安い。
そう結論した。
しかし夕方になると、
ひどい胸焼けに襲われた。
この騒動で実際に傷ついたのは、
男の胃袋だけだった。
ベランダでは、野良猫が眠っている。
予報円も見ない。
実況スレッドも見ない。
世界が終わると言われても寝るし、
終わらなかったと言われても寝る。
人類が長い進化の末に獲得した知性の大部分は、
どうやら猫には必要なかったらしい。
私たちは次の台風でも同じことをするだろう。
パンを買い、
水を溜め、
充電を満タンにし、
SNSで騒ぎ、
そして何も起きなければ文句を言う。
それでいい。
本当に困るのは、
何も起きなかったことではない。
何も起きなかった経験を理由に、
次も何も起きないと思い込むことだ。
だから次の警報も、
たぶん真面目に聞いた方がいい。
もっとも、
そんなことを考えているのは人間だけである。
猫は今日も眠っている。
そして次の台風の日も、
きっと眠っている。
今のところ、
敗者がどちらなのかは、あまり考えないことにしている。
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チップのお返しは・・・なにができるのか?思案橋です