足るを知って、好奇心を抱く
「足るを知る」の精神を持って生きることは、とても大切だと考えています。
現状に満足せず、アレもコレもと追い求めていては、いつまで経っても、自分の人生に満足することはできないでしょう。健康で文化的な最低限度の生活を送ることができていないなら、それは改善すべきだとは思いますが。
ただ、衣食住を確保できており、心身ともに健康に生活できているなら、その状況に感謝すべきかもしれません。
それ以上の贅沢を求めるならば、当然より多くのお金が必要になります。そのためには、身を粉にして働かなくてはいけません。それを続けていれば、現状に満足できないばかりか、心身の健康を損なう可能性すらあります。
そうは言っても、現代社会で「足るを知る」を実践するのは、難しいでしょう。私自身も、まだまだ「足るを知る」の境地には達していません。
大学時代の同級生が大企業で働いている姿を見ると、鬱で休職している自分と比べてしまい、羨ましく感じることがあります。
鬱を患ってからというものの、「足るを知る」という考え方を曲解していたように思います。
鬱を発症した直後は希死念慮に苛まれていました。そのうち、希死念慮は収まりつつありましたが、同時に湧き起ったのは「人生でやり残したことは無いかもしれない」という気持ちでした。
ASD傾向もあり、学生時代は人間関係に苦労しました。自分は一生独身かもしれないと思っていたものです。そのような将来予想は外れ、私は結婚しました。仲の良い友人もいます。
私は子供を欲しいとは思っていません。その選択自体は良いのですが、子供が居ないとなると、もはやこの先の人生でやり残したことが無いかもしれない、と思うようになりました。
思考がここで止まっていれば、「足るを知る」の精神を実践できていたかもしれません。しかし、私はここで「いつ死んでもよいかも」と、変な方向に思考を進めてしまいました。
字面だけ見れば、「足るを知る」精神から「いつ死んでもよい」と考えることは、それほどおかしな流れではありません。しかし、「足るを知る」精神から生じる「いつ死んでもよい」という感情は、あくまで「自分が予想しない形で死ぬことになっても、人生に後悔しない」というニュアンスかと思います(あくまで自分の解釈)。
私が抱いた「いつ死んでもよいかもしれない」という感情は、上記のニュアンスよりかは、「生きるのって面倒くさい」という感情の裏返しに近いものだったように思います。希死念慮とまではいかなくとも、それの入り口のような感情に近いかもしれません。
これでは、「足るを知る」の精神からは逸れてしまいます。「足るを知る」の精神は、人生を諦めるためではなく、人生を充実させるための思想ですから。
この世界は生きるに値しない、クソみたいな世界だと思っています。差別は無くならないし、戦争は起きているし。
同時に、この世界は面白いものに溢れているとも思っています。funnyではなくintrestingの意味での、面白いものです。
私がこれまで生きてきた中で、見聞きして、知って、経験したことは、この世界の中では、本当に極わずかなものです。
「人生でやり残したことはない」なんて言っていないで、好奇心を抱いて、自分がまだ出逢っていない、面白いものを探すべきでは?そちらの方が、よっぽど健全なメンタルだと思います。
「足るを知る」の精神と、好奇心を持って、人生を面白くすること。これが、今私が目指すべき状態だと思います。
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