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「我是岩石」 I am a rock

サイモンとガーファンクルの曲の中国語題名が面白い

今ではそれをもらった時の詳しい状況も覚えていないくらいずっと昔、当時親しかった友人がサイモンとガーファンクルのレコードをくれた。その友人が仕事で「香港」に出張していて、土産としてくれたものだった。最近になって押し入れの中の昔のレコードを整理していて、なんとなくそのことを思い出したのだが、残念ながら現在そのレコードは手元にない。私はこのレコードで「アイアム・ア・ロック=I am a rock 」をよく聞いていた。この曲は、いうまでもなくサイモンとガーファンクルのヒットソングの一つだが、友人からもらったのは台湾のレコードだった。台湾であろうと、アメリカのモノであろうと音楽の中身は別に変らないのだが、唯一違うのがレコードのジャケットだった。
すでにこのレコードのジャケット・デザインのことはほとんど覚えていなくて、ジャケットにサイモンとガーファンクルの写真が載っていたのかどうかさえも覚えていない。しかし「我是岩石(私は岩石)」という中国語のタイトルのことはよく覚えている。このレコードをくれた友人が、たぶん台湾製の海賊版だろうと言っていたので、きっと台湾製だったのだろう。ずっと昔のことだが、そこまで思い返してみると、いくつかよく分からないことが出てきた。一つはレコード・アルバムのことだ。レコード・アルバムのタイトルが「アイアム・ア・ロック=I am a rock 」というのはないので、おそらくレコードには別のタイトルがあったはずだ。例えば「ベスト・オブ・サイモンとガーファンクル」といったようなことだが、それについての記憶はない。また、台湾のレコードなら中国語の繁体字(昔から中国で使われていた画数が多い複雑な文字)のはずだが、アルバムで私が見たと記憶している漢字の曲名は「我是岩石」だった。これが繁体字なのか、あるいは現在の中国で使われている文字を省略して画数を少なくした簡体字なのか、そのこともどうだったが覚えていない。だから今では「我是岩石」という中国語自体が正しい記憶だったのかどうかもが保証できない。ただ、レコードのジャケットで「我是岩石」の文字が目に入って、そのことに結構感動した記憶があるので、たぶんそのタイトルの記憶が正しかったような気はする。

「マック・ザ・ナイフ」の表題は「匕首マック」

「アイアム・ア・ロック=I am a rock 」となれば、確かに私にも中国語で「我是岩石」という漢字が当てはまるのが分かる。ところで私がこのレコードのジャケットを見て面白く感じたのは、「アイアム・ア・ロック」という快適なリズムと歌詞の組み合わせと「我是岩石」という一瞬、漢詩の一節のように感じられる言葉の物々しさのミスマッチ感覚だった。
こうした海外の音楽が入ってきた場合のタイトルの面白さについては、日本でもよくあることだ。例えば「Mack the Knife=マック・ザ・ナイフ」は、一九二八年のヘルベルト・ブレヒト作詞、クルト・ヴァイル作曲の「三文オペラ」の劇中歌であった「メッキー・メッサーのモリタート」という曲をベースにしたもので、不思議なことに有名なジャズのスタンダード・ナンバーになっている。とりわけルイ・アームストロングやボビー・ダーリンのバージョンが大ヒットした。彼らの他にも、パティ・ペイジ、エラ‣フィッツジェラルドも歌っていたが、意外なのは、日本では美空ひばりがこの曲をカバーしていたことだ。
この曲の当時の邦題は、「匕首(あいくち)マック」「匕首マッキー」「ドスのメ吉」といったびっくりするようなタイトルなのだが、これは「三文オペラ」が、殺人鬼メッキー・メッサーを主人公にした、血生臭い内容だったので、歌のタイトルにもおどろおどろした刺激的なセンスが必要だったのだろう。

オリジナルの題名重視がこれから傾向か!

国際化もいよいよ佳境という段階にきているが、音楽や小説、映画などの世界で、タイトルの翻訳の現場がどうなっていくのかにも興味が湧く。欧米モノが日本に入ってくるケースをチェックしてみれば、明治、大正時代は英語や外国語を日本語にそのまま直訳するパターンが多い。その後、つまり昭和も戦後になれば海外の作品を日本のアーティストがカバーするというスタイルが多くなってくる。音楽とテレビドラマでは少し条件が違うが、たとえばテレビドラマなどでは、そのまま日本語のセリフに吹き替えるパターンが多かった。しかし中には、輸入したドラマを日本の生活や情緒に合わせてローカライズし、それを日本の俳優やタレントが演じるというスタイルもあった。またポップスなどでは、日本の歌手が日本語の歌詞で歌うということが基本になっていたような気がする。
これが六〇年、七〇年と続くのだが、最近では、さらに国際化が進展してまた状況は変化してきたように思う。基本的にはその文化が発生した国と日本の間の文化の交流はさらに進んで、よりマニアックな分野になると、マニアとマニアのやり取りになるのでますます翻訳という必要が希薄になってくる。互いに自分たちの言語どうしのコミュニケーションで事足りるようになっていくように思う。この仮説が正しければ、映画や歌詞の翻訳はほとんどなくなって、文化上のコミュニケーションは、一種の多様文化並行交流となっていくのではないかと考えられる。そうなると、「我是岩石」や、「匕首マック」、あるいは海外ポップㇲの日本語版は、今国際的に一定の存在感を発揮している「シティポップス」ではないが、きっと歴史的文化財としてまた何年後には再脚光を浴びる可能性があると感じるのだ。








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