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もうそろそろ「さす九」論争終わってほしい

以下にまとめるので、それで終わりにしませんか。

要約

・「さす九」が指していた問題意識(男尊女卑文化の存在と批判)には賛同します。
・一方で、それを口実にした「地域差別」や「女性蔑視(洗脳扱い/自己責任論)」には反対します。
・「さす九」という言葉自体がネットの不必要な煽りや攻撃の手段に変化しており、過度なラベル貼りはやめるべきです。
・これは一地域の問題ではなく、日本全体で向き合うべき課題です。

結論

・「さす九」を自分たちの倫理観と論理力を試すコンテンツにしないでください。
・当事者の声を独断で繋げて、自分たちの望む単純なストーリー(哀れな当事者 vs 悪い地域)に収めないでください。
・当事者であっても感情の揺らぎや矛盾は生じます。完璧な論理や理想像を押し付けないでください。
・二元論で単純化せず、極端な言葉を使って責任から逃げないでください。
・小さなアップデートは行われています。一度でも「さす九」に意見した以上、最後まで議論を諦めないでください。

辞書形式でまとめたので、気になるところから読んで下さい。
※各項目は独立しているので、内容は重複する場合があります

①「さす九」そのものについて

・「さす九」は存在する/しない

男尊女卑、女子の進学抑制、男性優先の家父長制など、Xで報告される「さす九」(以下、本件)のエピソードのような状況は、2026年時点でも実在します。熊本市中心部出身の筆者も先日のお盆で久々に経験しました。
ただし、それは九州特有の因習ではなく、日本全体にある男尊女卑的習慣と地続きのものであり、グラデーションの濃淡に過ぎません。
したがって、「さすが"九州"」ではないです。強いて言うなら「さすが"日本"」です。

・九州出身だけどそんなの知らない、存在しない/田舎にしかない

それは、貴方が単に触れる機会がなかったという経験と、貴方の親御さんや周囲の人々が貴方を一人の人間として扱う立派な人であるという幸せな事実です。
その事実と「九州で前時代的な男尊女卑が続いている事実」は両立します
貴方は知らなくても、筆者や姉や友人の苦しみや、それを乗り越えるための努力は消えません。存在します。

・「さす九」は昔の話、今の40代くらいの話だ

2026年現在もあります。そして20代でも経験しています。
世代間でいうと減少傾向にあるとは思います。筆者の周囲の人は男女問わず進学しましたし、就職における男女の差(女子は事務員のみ等)は地元の友人から聞いていません。
しかし、「ネオ・男尊女卑」と言える状況があります。
たとえば、筆者の家庭では教育に対する過度な期待と重なって、娘には「大学で県外出るなら九大以上しかダメ、滑り止めは九州の国公立のみ、落ちたら就職」と厳しい条件を突きつける一方、息子には「大卒資格さえあれば大学はどこでもいい、私立でもいいしなんなら浪人留年してもいい」とゆとりのある選択肢を与えるという格差が起きました。
他にも、カップル内で女性が働くことを認めながら、女性の収入の方が低いのに固定費の折半を求める。台所に立ちっぱなしということはなくなったが、食事中に男性の話を遮ることはできない(女性が話すと無視される)。などなど......
一見、外から見ると「従来の男尊女卑」は減ったように見えますが、姿形を変えて「個別化、複雑化して一筋縄ではいかなくなった問題」として残る場合があります。
そして再度申しますが、これは日本全体にある男尊女卑の一つです。九州には未だ男尊女卑が残りますし、それは全国的にも見られます。「さす九」とラベリングする必要はありません

・男尊女卑は九州だけにしかない/九州は遅れている

関東圏などの都市部において、制度や表面的なマナーの面でアップデートが進んでいる側面はあります。
しかし、男女間の不平等やジェンダーギャップは特定地域固有の現象ではなく、日本社会全体に共通して存在する構造的な課題です(ジェンダーギャップについては後述)。これを「九州限定の異様な因習」と捉え、関東を「問題のない無菌地帯」とする認識は明確に事実に反します。
賃金格差、都道府県別の管理職女性比率、政治参加率などの客観的指標を見ても、関東圏を含め日本全国でジェンダーギャップが存在しています。筆者や上京した友人は、現在勤める関東の会社や日常生活などでも、ワンオペ育児の常態化やキャリアの天井、親密な関係における発言権や力関係の偏りといった潜在化した不平等を実感しています。表立った発言を避けているだけで、男尊女卑は東京でも存在するのです。
その上で、本件では、「自分たちは先進的だ」という錯覚から、足元にある差別や抑圧を九州という他者に押し付け、目を逸らす構造が生まれています。
特定地域にラベルを貼って叩く行為は、自分たちの足元にもある課題から目を逸らす思考停止であり、問題解決を阻害します。

・全国どこにでもある/昭和の価値観というだけ

先程、筆者は「九州の男尊女卑は日本全体にある男尊女卑と地続きだ」と申しました。これは、九州の男尊女卑を認めた上で、他地域でも姿形を変えた男尊女卑があることを示すことで、九州だけがおかしいのではない、全国でおかしいのだ、日本社会として解決すべきだと問題提起することを目指しています。
一方、「さす九」論争の文脈で語られる「全国どこでもあることだ」は、他地域や過去の悪例を引き合いに出し、相対化することで、今まさに目の前にある特定の歪みや課題の不問・放置を正当化しようとする思考停止です。数の力を自己保身のために利用しないでください。


② 「さす九」に対する批判について

・九州で男尊女卑、男女差別が激しいのは事実

「地域の傾向を語っているだけで個人を攻撃していない」「データで数値が低いのだから事実の指摘だ」という主張は、データ解釈の歪曲と、言葉が及ぼすハラスメント性の隠蔽による二重のすり替えです。
第一に、ジェンダーギャップ指数が示す客観的事実は「九州の問題」ではなく「日本全体の遅れ」です。
そもそも、本件でよく取り上げられるジェンダーギャップ指数(都道府県版)は、「政治」「行政」「教育」「経済」という複合的な分野を総合して分析するものです。ここで九州に着目すると、確かに順位は低いですが、「順位の低さ=その地域の文化が劣っている」という意味ではなく、複合的な社会構造の反映です。
一方、先のポストでは政治分野のみ引用されており(図1)、それだけで「九州は下位に位置するので男女格差が大きい」と結論付けています。
つまり、特定の単一指標の順位だけを意図的に取り出し、「ほら見ろ、九州全体が男尊女卑だ」と地域全体の文化や人間性にまで拡大解釈するのは、客観的なデータ利用ではなく不当な印象操作です。

図1 2026年 ジェンダーギャップ指数【政治】

さらに、再度図1を見ると、1位の東京都ですら指数は0.4未満にとどまっており、全国的に非常に低い水準にあります
全体が低い中での僅かな順位差をとらえて「九州だけが著しく異常だ」と切り離すのは、日本社会全体が抱える構造的課題を特定の地域に押し付け、自分事を他者化する不当なデータ解釈です。
第二に、「さす九」は分析のための概念ではなく、嘲笑のための蔑称(スラング)です。 「ナイジェリアの治安データ」といった治安指標の議論と、人を嘲笑・冷笑するために作られた攻撃的な言葉を同列に扱うのは乱暴です。データや分析の形をとっていても、蔑称を用いてネット上でばら撒けば、それはその地域やルーツを持つ人々全体に対するスティグマ(烙印)にしかなりません
第三に、「個人を直接叩いていないからセーフ」という免責は成立しません。 「九州人全員を差別主義者と言っているわけではない」と言い逃れをしても、「そのような異常な文化の地域」と一括りに見下す行為自体が、そこに生きる個人の尊厳を踏みにじっています。
全国共通の構造問題を「特定の地域の奇習」として他者化し、わずかなデータの差を盾に蔑称で冷笑・攻撃する行為そのものが、差別的ハラスメントに他なりません。

この方の記事でも、ジェンダーギャップ指数やその他の統計を取り扱っています。とても簡潔でわかりやすいので、こちらもご参照ください。

・「さす九」は気持ち悪い

「男尊女卑や家父長制の不条理さが九州だけに特有の奇習であり、異様で気持ち悪い」と捉える見解は、ジェンダー問題を特定地域だけに押し込める誤った他者化です。
確かに、本件で挙げられるエピソードはショッキングなものが多く、当事者の主権や尊厳を不当に奪う過程が時に陰湿で、不快感を覚えることには同意します。筆者も「女は男を立てるべき」という考え方や、必要以上に女性が謙る様子に、子どもながら辟易することが多かったです。
しかし、大前提、本件の問題の本質は全国どこにでも存在し得る構造的課題です。
「外では男を立てる」「女性にだけ特定の負荷や制約がかかる」といった不対等な構造や家父長制的な価値観は、程度や表出しやすさの差こそあれ、日本全国どの地域や家庭・組織にも残存している共通の問題です。
これを「現代日本(=都市部や自らの周囲)では絶対に起こり得ない九州限定の現象」と切り離す視点自体が実態を掴んでいるとは言えません
また、特定地域のローカルな課題として切り離す事は、問題が放置され固定化する危険性を伴います。 「あそこは遅れているから異様だ」と冷笑・隔離することで、自らが足元で向き合うべきジェンダー規範の是正やアップデートの責任から目を逸らす免罪符として使われてしまっています。
「さす九」と蔑称をつけて特定地域を排除・嘲笑するのではなく、社会全体に根深く残る不対等なジェンダー規範そのものを直視し、解消していく姿勢が必要です。

ただし、「さす九気持ち悪い」という言葉についても、内容によって意味合いが異なります。
蔑称(さす九)を用いて特定地域を冷笑・差別する攻撃的な態度に対する不快感であれば、筆者も同感します。
一方で、男尊女卑的な出来事(エピソード)そのものを指して「さす九=気持ち悪い」と地域名で一括りに捉えることには同意しかねます。我々が真に問題視し、憤るべきなのは地域そのものではなく、そこにある男尊女卑や不対等な構造そのものだからです。

・「九州の男」が厄介なのではなく、「九州の女に育てられた男」が厄介

これは、構造的な問題の責任を母親という女性個人に転嫁するすり替えです。
本来、子育てや家庭内の教育は母親だけで行うものではなく、父親の関わりや地域社会全体の慣習が組み合わさった「環境全体」の産物です。家庭や地域の構造的影響を無視し、責任のすべてを「母親の育て方」に帰結させるのは論理的な偏りです。
加えて、この論理は「家父長的な規範が強い環境で、女性が生存戦略としてその規範に順応・再生産せざるを得なかった構造」を無視しています。適応せざるを得なかった当事者を批判の的にすることは、問題の根幹にある社会構造から目を逸らさせる結果にしかなりません。
向き合うべきは個人の子育て論ではなく、男女ともに規範を再生産させてしまう社会全体のジェンダーギャップです。責任を母親個人へ転嫁して叩くことは、構造の解体をかえって阻害します。

・ただの家庭の問題/個人の話だ

多数の報告がある男尊女卑の経験を「個人の運の悪さ」に帰着させ、それを形成・維持させている地域の文化や構造的性差別から目を逸らしています
そうした側面があることは事実です。確かに、筆者の家庭は市内でありながら今回の問題点全部盛りな家でしたが、同じマンションの上階に住んでいた友人は2026年でも通じる男女平等精神の家庭でした。「なんでウチだけ」と何度も泣きましたし、家庭の問題だと思っていたので実家を出れば解決すると信じていました。
しかし、上京後、自治体や大学、企業が公式に男女平等を掲げ、具体的な対策を投じることで構造的解決を図る姿を目の当たりにしました。東京は社会が一致団結して男尊女卑をやめようとしていたのです。地元にも男女平等を掲げる場所は無くはないのですが、社会全体の空気として醸成されていませんでした。
つまり、本来は全国的にあった男尊女卑が、東京では社会で解決に取り組んでおり、地元の社会では放置されていたのです。その点でも、これは「個別の話でもあり、社会の構造的な話でもある、重層的な課題である」と考えます。

・男尊女卑を正当化するのは九州だけ

外野の雑なレッテル貼り(さす九叩き)に対して当事者女性が「生活の実態はそこまで一方的な被害ではない」「女性側の裁量や強さもある」と反論すると、それを「差別の正当化」と決めつけるのは歪んだ解釈です。
当事者たちが語っているのは、差別への肯定ではなく「一方的な弱者・被害者・洗脳された存在として外野から哀れまれ、見下されることへの不快感」「過度な一括りに対する自衛反応」です。
家庭や地域内での複雑な力の均衡や主体性を「正当化」という一言で片付け、当事者の語りをすべて「誤った意識」として退ける姿勢こそが、当事者の主体性を剥奪しています。

・九州の女性が他の女性に同調圧力をかけて従わせようとするのが諸悪の根源

世代間ギャップや職場で古い規範を押し付けられる鬱屈が存在すること自体は事実ですが、その責任を「九州の女性(特に年配女性)」という特定の属性にすべて帰結させるのは、構造的な問題の責任転嫁です。
年配の女性たちがそうした立ち振る舞いをする背景には、既存の家父長制や性差別的な組織・地域社会の中で生き残り、自身の地位や安全を確保するための「適応戦略(ミソジニーの内包化)」があります。
本当に解体すべきは、そうした行動をとらざるを得なくさせてきた「社会の側・組織の側の規範や構造」であり、その構造の中で適応してきた末端の女性同士を叩き合わせる構図に陥っては、問題の本質的な解決には繋がりません。

・「さす九」を使う女は自分の人生が上手くいかないことを九州のせいにしたいだけ

筆者自身、上京直後に地元の話を大学の友人に話したらドン引きされ、自分の過去が恥ずかしくなり、「もし関東に生まれていれば」と落ち込む時期がありました。
そのため、自身の選択や環境に対する不満を地域性に投影してしまう側面(個人の受け止め方の問題)があることは否定できません。
しかし、それを単なる「責任転嫁」や「自己正当化」として切り捨て、当事者を嘲笑・排除することは誠実な姿勢でしょうか。
当事者の訴えを「本人の実力不足」や「単なる愚痴」へ安易に帰着させると、その背景にある地域社会の規範や環境的不平等といった「構造的な問題」から目を逸らすことになります。
また、精神的・経済的な依存や規範の刷り込みの中にいると、どこからが「自分の責任」でどこからが「構造の問題」かを冷静に切り分けること自体が困難です
その葛藤の吐露を「馬鹿扱い」して冷笑することは、当事者から言語化の手段や回復の機会を奪う二重の抑圧になります。
個人の問題に思える側面があったとしても、それを安易な自己責任論や当事者への攻撃に回収せず、なぜそうした言葉が使われるに至ったのかという「背景や構造」に目を向ける姿勢が必要です。

・九州に残る女は強い/九州を出た女は弱い

残ったか外へ出たかという「移動の有無」を、人間の精神的な強さや優劣の基準にするのは個人の複雑な背景を無視した過度な単純化です。
地域にとどまるか離れるかを決める要因には、教育や就職の機会、実家の経済状況、家族の介護など多様な環境的制約が絡んでおり、それを「強さ・弱さ」という精神論へ帰着させることはできません。
また、既存の地域コミュニティで折り合いをつけながら生活を営むことにも、新たな土地へ身を置いて一から生活を切り拓くことにも、それぞれ異なる質の強さや順応力が必要です。
「留まる者=強い」「去る者=弱い」という二分法は当事者同士の分断を煽るだけであり、それぞれの主体的な選択と歩みを不当に貶めるものと言えます。

・「さす九」は幸福度に現れている

幸福度調査は個人の主観(満足感)を測るものであり、客観的な不平等や社会構造の課題を補足、免罪する根拠にはなりません。
幸福度には気候や人間関係、住環境など多様な要素が影響するため、特定の単一指標のみを根拠に「問題が存在する/しない証拠」とするのは、課題の多角的な側面を無視した飛躍です。
また、「幸福度が高いなら問題ない」としてしまうと、構造的な差別や不平等の改善そのものが不要であるという論理に陥ってしまいます。

・九州出身女は洗脳されている/奴隷だ

外野の雑な叩きに異議を唱えた当事者に対し、「洗脳済みだから反論する」「奴隷状態に慣れ切っている」と決めつけ、発言権や知性を再び奪い取る二重の抑圧構造を生んでいます。
「洗脳」「奴隷」と断定して蔑むことは、その地域で暮らす人々の意志や選択、人権といった尊厳を根底から否定する著しく優越的な視点(パターナリズム:父権主義)です。つまり、「身動きが取れなくて可哀想だから教えてあげよう」と、当事者を救うべき対象としてすら扱わず、「意志を持たない被支配者」としてラベルを貼る行為です。それは、支援や連帯ではなく明確な蔑視・加害に他なりません。
苦しんでいれば「男尊女卑のせい」、納得して暮らしていれば「洗脳や奴隷化のせい」と決めつける論理は、どのような反証も聞き入れない「反証不可能な歪んだ構造」を作り出します。これでは当事者の存在や生活を自分たちの正義感の消費体として利用しているだけであり、到底まともな対話と言うことはできません。

・ 嫌なら逃げればいい

「嫌なら逃げる」という選択肢は一見手軽な解決策に見えますが、すべての人にその費用や自由が保障されているわけではなく、環境的制約を無視した安易な自己責任論です。
地域を離れるには多額の費用や経済的自立、あるいは家族の理解が必要であり、家庭環境やケア労働の負担などから「逃げたくても逃げられない」状況に置かれている当事者は少なくありません。さらに、住み慣れた土地を離れることは、既存の人間関係や家族の支援といったセーフティネットを失い、生活コストの増加や孤立という新たなリスクを背負うことでもあります。
問題のある環境や不合理な規範の側を是正せず「嫌な側が去れ」とする論理は、構造的な課題を放置したまま、被害を受けた側にのみ過度なコストとリスクを強いる不当な姿勢です。

・進学の格差は単純にお金の問題じゃない?

進学に多額の費用がかかり、家計の状況が選択肢を左右すること自体は事実です。
しかし、この問題の本質は単なる資金不足そのものではなく、「限られた家計というリソースを、きょうだいの中で誰に優先して投資するか」という配分の非対称性にあります。
もし純粋な「お金の問題」でしかないとすれば、経済的な制約は性別を問わず等しく課されるはずです。しかし現実には、同じ家庭でありながら娘には厳しい条件を課す一方で、息子には余すことなく支援するといった、性別に基づく優先順位の差が実存しています
「お金がないから」という説明は一見客観的で不可抗力な理由に見えるため、その背後にある「男性のキャリアを優先し、女性の教育を二次的なものとみなすジェンダー規範」を覆い隠す言い訳として機能してしまいがちです。
したがって、これは単なる家計の限界という数字の話ではなく、「限られた家計の中で誰の将来をより価値あるものとして選択するか」という明確な構造的差別の問題と言えます。

・ 家父長制にも良い面、合理性がある

「家父長制にも良い面や合理性があった」という主張は、それが特定の歴史的条件(農業社会や家督継承システム)において機能した過去のシステムに過ぎず、現代社会の倫理や人権規範とは相容れないという点を見落とした論理です。
まず、過去に一定の効率性や秩序維持の役割(家族の保護や財産の分散防止など)を果たしていた側面があったとしても、それは「一人の家長に権力を集中させ、女性や長男以外の家族から権利や自己決定権を奪うこと」前提で成り立っていたシステムです。一部の合理性の裏で、多くの人々の自由や人権が犠牲にされていた構造を「良い面があった」と肯定することはできません。
また、現代社会においては、個人の尊重(憲法第13条)や両性の本質的平等(憲法第24条)が基本原則であり、個人の選択の自由や多様な生き方が前提となっています。家長への従属を強制する構造は、個人の能力発揮や多様性を阻害し、現代の社会・経済活動においても不合理かつ非効率な制度でしかありません。
「歴史的な背景において役割を果たした時期があった」ことと、「現代において肯定すべき合理的な制度である」ことは全く別問題です。過去の不平等な支配構造の恩恵や側面だけを切り取って評価することは、人権の進展という歴史的経緯を無視した不当な正当化と言えます。

・「さす九」を批判する人は子どもの視点(子ども時代の視点で話を進める)

被害を訴える当事者を「子どもの視点」とラベル貼りして未熟扱いし、自分たちを「大人の分別を持った客観派」の位置に置いて高みの見物を決め込んでいます。
問題を告発する当事者を「未熟な子ども」扱いすることは、告発内容の正当性に向き合わず、発言者自身の知性や属性を貶めることで論点をすり替える手法(アード・ホミネム:対人論証)です。
構造的な不公正や性役割の強要に異議を唱えることは客観的な課題提起であり、「子どものワガママ」に矮小化すべきではありません。

・批判に更なる否定や反論をするということ自体が「さす九」の証拠だ

「一括りにされた主語に対する異議唱え」や「実態と異なる過度なラベル貼りへの反論」を行うと、すぐさま「それこそが洗脳の証拠」「否定することが男尊女卑の証明だ」と決めつける論理は、どのような反証も聞き入れない真の思考停止です。
地域にある構造的課題の存在を認めることと、特定地域全体やそこで暮らす人々を不当に一括りにして叩く言葉(さす九)を拒絶することは全く別の議論です。
主語を肥大化させた過剰な攻撃に対して声を上げる当事者を「洗脳されている」と処理してしまう姿勢こそが、当事者の主体的な対話や言語化の機会を奪う加害性を持っています。

・他地域に話を広げるのは、構造的な女性差別や父権構造を隠蔽、庇護する行為だ

日本全国に共通するジェンダーギャップや不平等という「構造的な問題」を直視しようと伝えることは、決して九州の男性支配や父権構造を免罪・擁護するためではありません。
むしろ問題を「九州固有の異常なカルチャー」として他者化してしまうことこそが、日本社会全体にある構造的課題(ワンオペ育児、賃金格差、無意識の偏見など)の追及から目を逸らさせ、特定地域の攻撃だけに終始させる「問題の隠蔽」に他なりません。
課題の本質を日本全体で解決するためには、主語を正しく設定することが不可欠です。

・関東が男尊女卑に染まったのは、明治維新で薩摩藩が来たせいだ

明確なデマです。
江戸時代(徳川幕府)における武家社会の浸透や『女大学』に代表される儒教的規範、さらに明治民法による全国一律の『家制度』の導入によって、近代日本の家父長制や性別役割分担は全国的に形成されたのが歴史学の通説です。
明治民法(家制度)も、薩摩藩固有の風習ではなく、徳川幕府の武家慣習や西洋の家族法等を統合して全国一律に制定されたものです。特定地域(薩摩等)からの持ち込みとする説は歴史的事実に反します。
また、鎌倉時代の北条政子(武家社会初期の特殊な実権者)と、明治以降の近代ジェンダー観を同列に扱い、「昔の関東女は強かったが薩摩のせいで弱くなった」とするのは歴史的文脈を無視した無理のある俗説です。
都合のいい例を拡大解釈し、現代の構造的課題を特定地域(薩摩・九州)の責任に帰結させるのは、歴史的根拠のない不当な転嫁です。

・九州民は本州に来るな

出身地やルーツを理由に移動や居住の排除を迫る言説は、議論ではなく明確な地域差別(ヘイトスピーチ)です。
日本国内でどこに住み移動するかは基本的人権(憲法第22条)であり、出身地を理由に排除する権利は誰にもありません。
それに重ねて「〇〇出身だから」と個人の人柄や選択を無視し、地域属性だけで一括りに排除しようとする思考は排外主義そのものです。
地域のジェンダー課題に向き合うことと、そこに生きる個人の移動を制限・攻撃することは全く別問題です。「来るな」という排除行為は、何一つ問題を解決しない不当な人権侵害です。


③ 「さす九」の話の進め方について

・「さす九」は差別じゃない/差別用語じゃない

「さす九」を問題提起の手段として擁護する主張は、この言葉が及ぼしているハラスメント性と差別構造から目を逸らしています。
確かに、当初はあくまで自虐に留まっており、当事者間の語りの場として機能していた側面があります。しかし、端的に言えば一線を超えたのです。
まず、特定の地域名と属性を一括りにして揶揄する表現は、目的が何であれ構造的な地域差別(レッテル貼り)です。「性差別の批判」という大義名分があっても、地域全体や住む人々を「遅れている」「異常だ」と見下す言葉遣いそのものが差別的属性を帯びています。
次に、この表現は「当事者女性への二次加害・尊厳の否定」として機能しています。「洗脳されている」「奴隷だ」と決めつける行為は、当事者の主体性や知性を奪い取る優越的な視点(パターナリズム)であり、支援ではなく明確な侮辱です。
さらに、この蔑称は全国共通のジェンダー問題を「特定地域の奇習」として他者化・消費する煙幕になっています。嘲笑の道具と化すことで、現地で課題に向き合う人々の足を引っ張る結果にしかなりません。
意図がどうあれ、特定属性を標的にして冷笑・排除する語彙は差別用語そのものです。必要なのは蔑称によるラベル貼りではなく、対等な視点での問題提起です。

・「さす九」という言葉のお陰で九州の男尊女卑に問題提起ができた/「さす九」を差別用語とするのは口封じだ

不当な不平等や被害に対して声を上げること(問題提起)そのものは重要であり、当事者の痛みが可視化される意義自体を否定するものではありません。
しかし、「問題提起のための手段」として特定地域全体を蔑むラベル貼りを用いることの正当化や、その言葉への批判を「口封じ」とすり替える論理には明確な問題点があります。
地域差別的なスラングを使わなければ問題提起ができないわけではありません。特定の地域や住民を一括りにし、侮蔑的なニュアンスを含む言葉を用いることは、建設的な議論を呼び起こすどころか、無関係な地域住民への攻撃や偏見の助長という「新たな加害」を生み出してしまいます。
目的がどれほど正当であっても、その手段として差別的なラベル貼りを選んで良い理由にはなりません。
そして、「『さす九』という言葉の差別性を批判すること」と「男尊女卑という課題自体の存在を指摘すること」は全く別の問題です。言葉の使用を拒絶している人々は、問題そのものを不問に付そう(口封じしよう)としているのではなく、むしろ「特定地域叩きや冷笑にすり替わってしまった悪意ある手法」を拒んでいるに過ぎません。
本当に解体すべきは「構造的なジェンダーギャップや男尊女卑」という課題そのものであり、特定地域を見下して叩くためのラベルではありません。差別的なスラングへの批判を「口封じ」とすり替えて言葉を正当化し続ける姿勢こそが、問題提起を単なる地域対立へと矮小化させ、誠実な問題解決から遠ざけています

・当事者が「さす九」に賛同している

当事者の一部が肯定していることを理由に、蔑称や地域差別を正当化することはできません。
男尊女卑の是正という正しい目的のためであっても、特定地域を冷笑・攻撃する言葉(さす九)を容認していい理由にはなりません。差別を是正するために別の差別や蔑称を認めるのは本末転倒です。
重ねて、「言われるのが嫌なら意識改革しろ」という主張は、外野のハラスメント行為を棚に上げ、攻撃される側にのみ変化の責任を負わせる典型的な加害者論理です。
「自分は不快でない」という一部の声で、地域ごと戯画化され傷ついている別の当事者の声をかき消してはなりません。一部の賛同を免罪符に蔑称の消費を正当化することは不当です。

・他地域では男尊女卑批判に共感していたのに、九州は「さす九」に反論するからおかしい

「他地域はおとなしく反省したのに、反論する九州はおかしい」という比較は、問題の本質である「蔑称・地域スラングによる攻撃」を無視した不当な論理です。
まず、ここで反論が起きている最大の原因は、ジェンダー課題の指摘そのものを拒絶しているからではなく、「さす九」という蔑称を用いて地域全体を一括りに冷笑・攻撃する手法そのものに対する批判です。正当な課題提起ではなくスラングを用いた攻撃に対して抗議することを「反省がない」「性格が悪い」とすり替えるのは筋違いと言えます。
また、「〇〇地方の人は大人しく受け入れたから性格が良い」といった対比は、地域性に対する新たな偏見やステレオタイプを煽っているに過ぎません。冷笑や蔑称に対して不快感を示し、抗議の声を上げることは当然の権利であり、攻撃を大人しく受け入れることだけが正解とされるべきではありません。
「地域差別や蔑称消費はやめてほしい」という正当な抗議までを「男尊女卑を正当化している」「逆ギレしている」と決めつけるのは、相手の言い分を封じ込めて叩きやすくするための不当なラベル貼りに過ぎません。声が上がっている本質は「九州が課題を認めたくないから」ではなく、「蔑称を用いた地域叩きという手法」そのものが不当だからです。

・外部からの指摘(外圧)がなければ地域は変わらない

地域の課題をアップデートしていく上で、外部からの視点や客観的な指摘が有効に働くこと自体は否定しません。
しかし、現在SNS上で行われている「さす九」という蔑称を用いた叩きは、建設的な「外圧」ではなく、単なる地域差別や当事者への冷笑・他者化に成り下がっています。
他地域の人が批判する場合は、九州の地域性への揶揄を含んだ「さす九」ではなく、九州で"も"観測される「男尊女卑」自体に対して外圧をかけるべき
なのです。
他者を侮蔑的なラベルで踏みつけ、見下すような言葉遣いで課題を叩いたところで、そこに生じるのは反発と分断だけであり、現地で課題に向き合い変革を起こそうとする人々の足引っ張りでしかありません。
真のアップデートに必要なのは、ラベル貼りによる嘲笑ではなく、対等な視点での客観的な問題提起と実態の直視です。

・わざわざ長文で言い返す/ブチ切れるのは九州女の中でも面倒臭い、異常

実態と異なる過度な一括りや侮蔑的なラベル貼りに対して「それは事実と違う」「主語が大きすぎる」と論理的に声を上げるのは、当事者としてごく自然で当然の自衛反応です。
投げかけた攻撃的なラベルに対する当事者の異議唱えすらも「不気味」「怖い」「面倒くさい人」と処理して異常化する風潮は、対話を遮断し、当事者の反論権そのものを奪う過度な抑圧です。
感情的な爆発ではなく、構造的な問題を正確に指摘しようとする真摯な言語化に対して「長文だから」「ブチ切れているから」と態度(トーン)を理由に論点をすり替える(トーンポリシングを行う)姿勢こそが、誠実な議論を拒絶していると言えます。

・「さす九」は話が通じない

こちらの主張は、蔑称による冷笑への正当な反論を「コミュニケーション能力の欠如」にすり替える典型的なレッテル貼りです。
まず、蔑称や地域スラングを用いた不当な一括りに対して抗議する行為は、当然の権利であり論理的な反論です。それに対し「抗議してくること自体が話の通じなさの証明だ」とするロジックは、相手がどのように反論しても「ほら話が通じない」と結論付ける言論の封殺であり、二者択一の罠(循環論法)にすぎません。
また、「普通に話ができる九州人は嫌われていない」と前置きして特定の集団を免責する姿勢も、個人の属性を都合よく切り分けて蔑称消費を正当化する二重基準です。蔑称を用いて地域全体を冷笑する加害側が、自分たちの言葉の不当さを省みず、反論してくる相手の「態度」や「言い分」に欠陥があるかのようにすり替える姿勢こそが、対等で誠実な対話を拒絶しています。

・話が長い

長文画像で丁寧かつロジカルに主張を組み立てても、「最初と最後の一文だけかいつまんで批判(嘲笑)する」という、極めて誠実さを欠いた層が一定数います。
彼らは「思考や理解」をしに来ているのではなく、「短く切り取って煽るネタ」を探しに来ているだけです。
内容の妥当性ではなく、単に自分の認知コストを下げるために「読まない」を選択しているだけなので、まともに取り合う価値もありません。

・いやネタじゃん、なに本気にしてんの

当事者の痛みや構造的な課題を「ネタ」という言葉で矮小化し、批判を受けた途端に「冗談なのに本気にする側がおかしい」と責任を回避する姿勢が現れています。
貴方や周囲の人が汗水垂らして稼いだお金を使って端末代や電気代を払い、限られた時間と鍛え上げられた自身の論理力を使って丁寧に積み上げた内容を、責任が取れないとわかった途端にひっくり返すなら、ネタとしては最初から貴方の手に余るものだったのです。
他者の尊厳や痛みを消費した結果、残るのが加害性だけであれば、それはユーモアではなく単なる不配慮です。他者の不利益や差別を「ネタ」として扱うこと自体が、その構造を維持・強化する加害行為になり得るという認識を持つべきです。

・ここは呟きの場だからいろいろ聞けていいじゃん/ここは学会ではない(論理や客観性を求めるな)

SNSが自由な発言や個人の感情を吐き出す場であること自体は否定しませんし、学術論文のような厳密さを常に全員に求めているわけでもありません。
しかし、「主語を肥大化させて特定地域や属性を不当に叩く言葉」を撒き散らした上で、その論理的破綻や偏見を指摘された途端に「ただの呟きだから」「固いことを言うな」と逃げ込むのは、自身の発言が持つ影響力や加害性から目を逸らす不誠実な論点のすり替えです。
公の場(オープンなSNS)で他者や特定地域を傷つけ得る強い言説を発信している以上、それが客観的データや倫理的観点から批判を受けるのは当然の帰結です。
自分の感情論やラベル貼りは自由に主張する一方で、それに対する論理的な反論や客観的指弾だけを「野暮」「学会ではない」と拒絶するのは、反論権を奪ったまま殴り続けたいという二重基準に他なりません。

・賢い人が問題意識を持っているだけ/学問的手法を求めるのはアカデミアの傲慢さ

私は本件に関わる一部の意見に対し、文化人類学や比較文化論、ジェンダー論などの学問的手法を用いてデータや文献など客観的事実に基づく論証が必要な段階に踏み込んだと考えています。
もちろん、当事者のリアルな被害体験や告発(エピソード)は重く受け止められるべきであり、それを軽視する意図はありません。
しかし、個人の被害体験を「特定地域全体の不可避な属性」へと飛躍させて叩く段落においては、感情論だけでなく客観的なデータや正しい比較基準(学術的・論理的視点)を求めることが不可欠です。
客観性を欠いたまま主語を全体に広げて攻撃することは、問題の本質を曖昧にし、地域間対立や不必要な攻撃性を生む原因になります。
論理や客観的データを求めるのは告発を抑圧するためではなく、特定の地域叩きにすり替わってしまった議論を「構造の解決」という本来の目的へと戻すための当然の手続きです。

・ 定量的データを出せ

数値や客観的データを求める姿勢は一見ニュートラルに映りますが、可視化されにくい当事者の痛みを「根拠がない」として打ち消す論点のすり替えです。
第一、「日常の空気感や性役割の当然視」といった構造的な違和感は、統計や「台所に立つ時間」のような単純な数値には表れません。数値化できないからといって問題が存在しないことにはならず、むしろ可視化しにくい文化的規範こそが当事者を縛る本質です。
数値やデータの比較を持ち出して問題を不問に付すのではなく、当事者が実際に直面している規範の歪みとその現実に目を向ける必要があります。
さらには、データを出して他地域と比較したところで、「全国平均と大差ないから問題ない」「九州だけが特別異常なわけではない」といった相対化(論点のすり替え)に使われて終わりがちです。性差別やジェンダーギャップは全国どこにでも存在する課題であり、重要なのは「数値で他地域と勝敗を競うこと」ではなく、目の前の当事者が感じてきた構造的な歪みそのものです。
統計や数字を出せないことを盾にして問題そのものを無効化しようとする姿勢は、居直りによる実態の隠蔽です。

※この方はデータの有無や大小が問題の本質ではないことを示唆しています。

・誰も言ってない極端な主張を勝手に生み出している

「さす九経験者は田舎者」「さす九該地域は文明が遅れているので指摘する必要がある」「九州男児とは人付き合いしてはいけない」という論調はSNS上で実際に散見される論理です。
これに対し、「誰もそんな極端なことは言っていない」と非難する声がありますが、これは言葉の表面だけを掬った見当違いの反論です。
ここでいう主張とは、明示的な言葉ではなく「メッセージの実態(インプライ)」を言語化したものです。 「さす九」という蔑称を用いて特定地域を一括りで冷笑・嘲笑する振る舞いが、結果として読者にどのようなメッセージ(九州は遅れている、関わるべきではないという他者化)として伝わっているか、その「帰結」を言語化しています。表現が露骨か否かではなく、その蔑称が巻き散らかしている差別の実態に対して指摘しています。
また、 「自分たちはそこまで酷い言葉は使っていない(ただのネタ・事実批判だ)」と主張したところで、特定属性を標的にして蔑む本質は変わりません。微細な言葉表現の違いを楯にして、自らの属性攻撃の加害性から目を逸らす態度こそ問われるべきです。
「言い回しが極端だ」と論点をすり替えるのではなく、蔑称を用いて特定地域の人々を属性で括り、見下す構造そのものが持つ害に向き合うべきです。

・他の差別を持ち出すのは違う

「さす九」を事実批判として肯定し、他の差別と区別する主張は、言葉の及ぼす客観的なハラスメント性から目を逸らしています。
「事実があるから」は属性攻撃(地域差別)の免責になりません。 地域に課題が存在する事実があっても、それを理由に地域全体を一括りに冷笑する蔑称を正当化することはできません。
加えて、差別の「重さ比較」や「不可抗力の有無」による免責も不当です。 他の歴史的差別と異なるからといって暴力性が消えるわけではありません。また、生まれた土地や地域の規範の影響も本人の意思では選べない初期条件であり、「脱出できるから差別ではない」という論理は破綻しています。
さらに、「当事者の自分が平気」という主観は客観的な害の否定になりません。 個人の感情と属性一括りの攻撃性は別の問題です。「自分は平気だから怒るな」と他者の告発を封じる姿勢こそが、被害を不可視化させます。
そして何より、本件は「性差別批判」を盾にした当事者への二次加害・消費になっています。当事者女性を「無知・洗脳」と蔑み、全国共通の課題を「特定地域の奇習」として他者化・冷笑する煙幕にしかなりません。
「事実だから」「他の差別より軽いから」というすり替えを許さず、特定属性を標的にした冷笑・排除の不当性を問うべきです。

・九州を出る女性の多さが「さす九」の証明だ

当事者の「離脱(進学や就職による上京)」という行動を、すべて「男尊女卑からの逃避」として単一化し、蔑称の正当化に利用する論理は、個人の多様な選択に対する著しい決めつけです。
出身地から拠点を移したことがある人ならよく分かると思いますが、上京や移動の背景には多様で複合的な理由が存在します。 「目指す大学が県外にあった」「希望する業界や仕事が都市部に集中していた」といったキャリアや学業上の目的は大きな要因です。
理由の過半や一端に地域規範への不満が含まれていたとしても、それだけを勝手に抽出し「ほら見ろ、さす九の証拠だ」とラベル貼りに利用することは、個人の人生の主体性を無視した消費行為です。
さらに問題なのは、「九州を出た人たち」を一括りにする強引なストーリー化です。 離脱したすべての人々が同じ理由や葛藤を抱えているわけではありません。一人ひとりに固有の経緯があるにもかかわらず、「九州を出た=さす九の証拠」と一括りにすることは、個々のリアリティを無視して「哀れな被害者 vs 悪い地域」という自分たちの望む単純な図式に回収しているに過ぎません。
そして、個人の離脱行動と「地域全体への蔑称・攻撃」の正当性は全く無関係です。 仮に進学や就職の過程で地域のジェンダー感に嫌気がさした側面があったとしても、それが「外野が『さす九』という蔑称で地域や当事者を冷笑していい理由」には絶対になりません。
個人の人生における複雑な選択や葛藤を、自分たちの主張を補強するための「都合のいい証拠」として扱わないでください。

・もう身内だけで解決してください

「もう身内だけで完結してくれ」「当事者同士でやってくれ」という突き放しは、構造的なジェンダー問題や地域差別という社会全体で捉えるべき課題を、特定の当事者だけの「局所的な揉め事」へと矮小化する逃避の論理です。
まず、「さす九」という蔑称や地域スラングを用いた冷笑は、SNS等の公共の場(パブリック空間)で外野が特定地域や属性をコンテンツとして消費・叩くことで拡散したものです。自分たちが外部から蔑称を投げかけておきながら、反論や抗議が起きると「当事者(身内)だけで処理しろ」と突き放すのは、加害や冷笑の責任を棚上げにした勝手な自己都合に過ぎません。
また、ジェンダー規範や男尊女卑の是正、あるいは特定地域へのハラスメントや偏見の解消は、日本社会全体で向き合うべき構造的・人権的な課題です。それを「他地域の自分には無関係なローカル問題」「一部の身内の争い」として切り離す行為は、自らの足元にあるジェンダー観の是正や差別の加担から目を逸らし、責任を放棄するための「無関心の決め込み」と言えます。

・結局、九州出身者には関わらないのが一番

「結局九州出身者に関わらないのが一番」という主張は、特定の地域やルーツを持つ人々全体を一括りで排除する、明白な集団差別(属性による排外主義)であり、決して容認されません。
まず、個人それぞれの価値観や人格、思考を完全に無視し、単に出身地という「個人の努力では変えられない属性」のみで一律に差別・排除することは、人権や個人の尊厳を踏みにじる行為です。「関わらない」という個人的な好き嫌いの体裁を取りながら、公の場で特定の地域出身者を不可触化・忌避の対象として扱う言説は、悪質な差別意識の肯定に他なりません。
また、社会に存在するジェンダー課題や意識の偏りは、個人の属性や地域の壁を超えた構造的な問題です。それを「特定の地域出身者を排除すれば解決する・自分には関係ない」と解釈するのは、自らが抱える偏見や社会課題から目を逸らし、安易な排外主義に逃避しているに過ぎません。
属性による一括りの排除は、課題解決のための議論を放棄し、不当な偏見と分断を固定化させるだけの非人道的な姿勢です。


まとめ

・「さす九」を終わりにしよう

特定地域を蔑称で冷笑したり属性で排除したりしても、ジェンダーの課題は何一つ解決しません。必要なのは誰かを叩くコンテンツ消費ではなく、自分たちの足元から構造を更新していくための具体的な行動です。

「そんな大事じゃない」「大袈裟だ」と感じる方は、たまたま今回その冷笑の渦中にいなかっただけかもしれません。
しかし当事者にとって、本件は不必要な傷を増やし続け、もはや見過ごせないほど深刻なものになっています。た。

こうした地域への冷笑に限らず、あらゆる差別や偏見を無くしていくために、私たちが今日から取り組めるアクションを3つのステップでまとめました。

1. 【初級】日常の言葉・行動の点検(今すぐできること)

・属性による「一括り」をやめる
主語の大きい偏見やネットの蔑称(スラング「を使わず、目の前の「個人」を見る。
・自分の周りのジェンダー観を振り返る
他者を冷笑する前に、自分の家庭や職場に不対等な役割分担や偏見がないかを点検する。
・無責任な冷笑/ ハラスメント拡散に「加担しない」
特定の地域や属性を冷笑/ 排斥する投稿を見かけても、いいねや拡散をせず消費のサイクルを止める。

2. 【中級】対話と文化のアップデート(身近な人と深める)

・違和感をスルーせず、誠実に伝える
性差別的な言動に対して感情的に叩くのではなく、「自分はこう思う」という誠実な対話(Iメッセージ)を試みる。
・身近な不平等な慣習を見直す
家事の担い方や職場の雑務の固定化など、当たり前とされてきたルールを具体的に変えていく。
・当事者の多様な「生の声」に触れる
ネットの極端な対立構造だけで判断せず、当事者が抱える葛藤や現実のグラデーションを描いた手記やルポを読む。

3. 【上級】構造的アプローチと社会参加(本格的な取り組み)

・歴史/ 社会構造からジェンダーを学ぶ
「地域の問題」ではなく「日本全体の構造的課題(家父長制や歴史的背景)」として学術的に理解を深める。
・アップデートを続ける企業/ 取り組みを応援する
多様性の尊重(DE&I)や課題解決を掲げる事業者やNPOを、購買や寄付などで支援する。
・政策やパブリックコメントへ参加する
自治体の男女共同参画プランなどの意見募集に参加し、行政や制度の変更へ声を届ける。

「変わるべきはあの地域だ」と分断を煽る言葉に逃げるのではなく、一人ひとりが自分の持ち場で小さなアップデートを重ねていくこと。それこそが、不対等な構造を解消していく唯一の道筋です。


おわりに

・九州の人は渦中にいる

私は九州が大好きで、大っ嫌いで、また帰りたくて、二度と戻りたくない。
親にはとても迷惑をかけたし、かけられたし、何かあったら助けたいけど、やられたことは一生許さない。
それ以上でもそれ以下でもない。

地元にはなんだかんだ盆と正月に欠かさず帰省している

人生は筋の通った綺麗な一本道じゃない。
高尚なものでもないし、不当に侮辱される対象でもない。
みんな同じ、ただ寝て起きて、勉強とか仕事とか趣味を頑張って、傷ついたり喜んだりしながら、明日を迎えるだけ。
そして、もしその人生がより良くできるなら、それぞれの得意分野を寄せ集めて、前向きな方向で考えていきたい。

でもどうやら、「今すぐ」「同じくらい」「許可した方法で」「綺麗に」ならないと「許されない」らしい。

うーん、早く終わって静かになってほしい。

本件に関して、要らないノイズが止んで、またいろんな人の様々な苦しみが、ぽつりぽつりと、安心して語れるような状態に戻ればと思う。
その時は、生まれた土地も、生きてきた過去も、消えない傷も、もう少し暖かく受け入れられて、建設的な方向にアップデートが進んでいってほしい。

九州に限らず、女性に限らず、全ての人が自分のアイデンティティに向き合える時が訪れて、傷を持ちながらでも、完璧じゃなくても、一人の人間として生きていけますように。

・おまけ

熊本は日本経済を支える重要拠点が複数存在します。
ぜひ義援金などで応援頂けますと幸いです(この流れで「支援したい」という気持ちになれるかは不明ですが......)。

加えて、熊本地震に対する復興支援として九州応援割が開始されます。せっかくの機会ですので、ネットの意見に留めず、ご自身の目で九州の姿をご覧下さい。

参考

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