第1章-3「CIA工作員の変死」
外山がデイン・ミラー(51歳)を知らないのは無理もなかった。ミラーは中国担当の工作員であることも理由の1つだが、日本では同盟国の工作員は監視の対象にはなっていない。そのため何かの話題で名前が出ない限り情報担当者でも名前を知る機会はなかった。
「何でアレスと呼ばれていたか知っているか?」
白石はなぜ別の名で呼ばれているかを尋ねた。
「いいえ」
「ギリシア神話から引用されているらしいんだが、アレスは戦いに勝つためには何でもする破壊の神を意味するそうだ。北朝鮮の担当ではなかなか出てこない名前だが、本当に殺害されたとするとちょっと面倒な話になるな」
「変死事案ですから検視をしているはずです。ちょっと調べてみます」
外山はそう言うとすぐに検視室に電話で問い合わせた。
「その件ですか…。外事第2課も聞いてきましたけど、浴槽内での心臓麻痺が原因で事件性はないですよ。失礼ですが、公安は刑事の判断を疑っているのですか?」
「そんなことはありませんよ。ちょっと検視の結果を知りたかっただけです」
検視の担当者は不満気味な対応だったが、外山の質問にはすべて応じてくれた。
検視担当者の話では急激な温度差で起きるヒートショックによる心臓麻痺が原因で、第三者が介在した痕跡もないという。検視報告書によると発見者である妻はその日友人と観劇を観賞していて不在で、帰宅したところ浴槽に浮かぶ夫を発見した。そして薬物が注射された痕跡もなく、遺体に薬物反応は見られなかった。
また外事第2課とは中国を担当している部署で、外山はすでに外事第2課が動いていることを知り、情報入手の早さ、そして対応の早さに驚いた。
「2課も知っているなら教えてくれても良いのに…」
「教えるわけがないだろう。だが、すでに情報を摑んでいたとはさすがだな」
同じ組織内でも情報を共有したりはしない。そこが情報機関の問題点でもあった。しかし情報は内容も重要だがそれ以上に重要なのは出所で、情報を聞けば出所が特定できるものもある。したがって不用意に情報を共有すれば、情報提供者に危険が及ぶため安易な情報共有は避けられた。
白石は外山の報告を聞きながら表情1つ変えなかった。暗殺か否かも気になるが、気になったのは後任人事がどう動くかだった。白石は席を外して携帯電話を手にするとある人物に電話を掛けた。
「今、大丈夫ですか? アレスはご存じですよね」
「死んだんだってね。その話は聞いているよ。担当者は忙しそうだけど、私は担当じゃないから詳しい情報は知らないですよ」
電話の相手は内閣情報調査室・調査官の赤坂光男(55歳)だった。赤坂は朝鮮半島情勢を長らく担当している人物で、韓国・釜山にある在韓国日本領事館では文化広報担当をしていた。白石は腕時計を確認するとあと30分もすれは終業時間だったので今夜会えないか尋ねた。
「実はアレスの件で周りが騒いでいるので、今日の夜、その話を聞く約束を入れてしまったんですよ。明日の昼はどうですか? あっ、昼は先約があるから…、3時頃はどうだろう?」
「分かりました。では、いつもの場所でどうでしょうか?」
情報屋であれば担当地域ではなくても、CIAの頭文字が付けば関心を持つのは自然なことだった。よって白石は思わぬ形でアレスの情報が聞ける機会を得た。
2人が出会ったのは10年ほど前で、国際政治学の大学教授を介して知り合った。当時白石はまだ若く相手にされなかったが、白石の熱意に押されて組織を超えた情報交換が始まった。
日本には内閣情報会議と合同情報会議という情報機関の連携を図るための会議が2つある。内閣情報会議は関係省庁の次官級の会議で年に2回開催され、合同情報会議はインテリジェンスの実務担当者のトップが集まる会議ということで局長級が出席する。
しかしこれらの会議は省庁間の横断的な情報交換と共有が目的であって、現場の実務担当者が交流を図る会議はない。しかもどちらの会議も形式的な情報交換に終始し、真に実りのある情報交換は行われない。その弊害を打開するために国家情報局が設置される運びとなったが、生の情報を握る担当者同士の交流の場になるのか注目されている。
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