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蛍光灯を遮る背中|Between the Lines 08

火曜日、昼の13時半。
返却カウンターが一度だけ混んで、その波がすっと引いていった頃。

同僚が私に軽く目配せをした。

「ここ、私が引き継ぎますね。 透子さん、配架お願いしてもいいですか?」

「はい、行ってきます」

カウンターから離れて書架に向かうと、空気がひとつ柔らかくなる。 利用者の小さな話し声が途切れ、ページをめくる音だけが続いている。

返却された本を数冊抱え、ブックワゴンに積んでいく。 書架の並ぶ通路に足を踏み入れると、ふっと、視線を感じた。

正面の閲覧席。 長い脚を折りたたむようにして座った彼が、長い首を伸ばして顔だけこちらに向けている。

目が合うと、ほんの少しだけ姿勢が浮いた。 来てもいいのか確かめるみたいに、視線だけがこちらを追ってくる。

私は抱えた本の位置をそっと持ち替え、歩くスピードをほんの少しだけ緩める。 ブックワゴンのタイヤが床を滑る音が静かに変わる。

数秒もしないうちに、後ろから足音が近づいてきた。 半歩うしろで止まりかけて、それでも結局、私の隣にすっと並んだ。

ちょうど書架の影が二人を半分包む。 昼時の図書館なのに、この通路だけはひんやりと落ち着ついていた。

「……とうこさん」

音を確認しながら、慎重に名前を呼ぶ声が降ってくる。 その声のあと、胸の前の文庫本がゆっくり持ち上げられた。

「ここ……ひとつ。  わからないところ、あって」

ページは、昨日よりさらに柔らかく馴染んでいた。 紙の端に折れもメモもないまっさらな見開き。

書架の向こう側で、誰かが静かに椅子を引いた音がした。 水の底で聞くみたいに遠い。

「……ここです」

彼が胸の前で抱えていた文庫本を、そっと開いて差し出してくる。 ページの端を押さえる爪が、少し白くなっている。

私は返却本をワゴンに置き、彼の差し出す文庫に自然と視線を落とした。

開かれていたのは、例の場面。 この前、彼が「ぐちゃぐちゃになる」と言いながら指でなぞっていたページ。

……だけど。

「あれ……?」

思わず、小さく声が漏れた。 紙の余白が、妙に白い。

昨日はびっしりあったハングルの小さなメモが——一つも、ない。

ページの角が、まだ乾いたみたいに尖っている。 読み込まれた本の丸みが、どこにもなかった。

「これ、新しい?」
「……あー、……」

彼が一度だけ視線を逸らす。

「話したところ…… もう一回、自分で読みたくて……」

語尾が少しだけ曖昧に落ちる。

「単語の意味は、もうだいたいわかりました。 だから、メモはいらないです」

口元だけがほんのわずかに上がっていた。 褒められると思っていなかった人みたいな、隠しきれない顔。

「……とうこさんと読むなら、こっちのほうがいいと思って メモあると、そこばっかり……気になるし。」

——“そこばっかり”。 昨日のページが、ふっと思い浮かぶ。

余白いっぱいに散らばっていた、小さなハングルのメモ。

指でなぞっていたしるし。 息を止めていた気配。 迷いの見える震えた下線。

それらが、もうどこにもない。 私は視線を落としたまま、そっと息をついた。

「……なるほど。  集中したかったんですね」

その瞬間、ページを押さえる指先が、ほんの少し強くなった。

「……はい」

と、少しだけ力の抜けた声で返した。

顔を見上げると、彼はほんの少しだけ天井を向いていた。 顎の線だけが、書架の影から白く浮いて見える。

「じゃあ……この部分ですね。」

——ここが、彼の“つまずいたところ”。

メモも下線もない、まっさらな余白。

白いページを見ているうちに、 そこへ言葉を書き込む代わりに、 二人の視線だけが静かに集まっていく気がした。

私は指先で文庫の一行をそっとなぞった。 彼はその動きを逃すまいと、また少し身を寄せる。

「ここは……怒っているように見えるけど、 本当は“わからない”ってことのほうが大きいんです」

「……わからない、から?」

「ええ。人って、うまくできないときに限って 怒ったみたいな顔になったりするでしょう?」

ほんの軽い説明のつもりで言った。
けれど隣で、肩がぴく、と小さく揺れた気がした。

「この前の……待ってたときの君みたいに」

そう続けると、彼は一瞬だけ呼吸を止めた。

「……ぼく、怒って……ないです」

小さな声でそう言ったあと、彼はページの白に視線を落としたまま、口元だけを少し固くした。 否定するみたいに、親指がページの端を一度だけ強く押さえる。

「うん。知ってます。 でも“思ったようにできない”と……少し、むずかしくなるんです。 人も、物語の中の人も」

彼はページの一行をじっと見つめたまま、何かを飲み込むように小さく喉を鳴らした。

「……なるほど、ですね」

声に力が戻ったのを確認して、 私はそっと文庫を彼に返す。

「じゃあ、私は仕事に戻りますね。  続き、読みたいところがあればまた声かけてください」

そう言って、配架する本の束を両腕に抱え直した。 仕事に戻るリズムが、自然に体に戻ってくる。

書架の奥へ歩き出すと—— なぜか彼も同じように動き出す。 彼が蛍光灯の光を遮るせいで、ずっと手元に光が届かない。 背表紙のラベルをいつもよりよく見ながら、配架していく。 私が止まると少し後ろで彼の気配も止まり、ページを捲る音が聞こえてくる。

最後の一冊を本の隙間に差し込んで、ワゴンのある方に振り向く。

「……ここ、もうひとつ」

気づくと、差し出されたページが目の前にあった。

確認するように一行を指でなぞると、 彼は少し身を寄せてページを覗き込んだ。 キャップのつばが、コツンと私のつむじに軽く触れる。

言葉を探すように眉を寄せたまま、 彼は指先で自分の胸のシャツをそっとつまんだ。

「ここ……こう……」

次の瞬間、声が変わった。 日本語の柔らかい音の続きに、急にひとつだけ輪郭の鋭い音が落ちる。

「……꽉…… 되는 느낌」

短くて、空気を押し込むような音。 日本語では聞かない、閉じるような響き。

静かな書架のあいだで、その音だけが妙にはっきり聞こえた。

「胸が——苦しくなる、みたいな?」

そう尋ねると、彼は胸元をぎゅっとつまんだ指をそのままに、こちらを見て小さくうなずいた。

胸元をつまんだ指先が、その“苦しさ”を離したがらないみたいだった。

「ああ、ここは……そう感じる人、多いと思います」

彼が顔を上げる。 まるで“答え合わせ”を待つみたいな目をして。

「この人は、怒ってるんじゃなくて……  
わかってほしくて、でも伝え方を知らなくて。  
だから、読んでる側が“痛い”って思うのかもしれないですね」

そこまで言ってから、なんだか自分で可笑しくなってしまった。 物語のことを話しているはずなのに、別の輪郭までそこに重なっていく。

「……むずかしいです。でも……読めたら、もっと……わかる気します」 「はい。きっと、わかりますよ」

そう言うと、彼はほんの少しだけ、目を細めて笑った。 初めて見る笑い方で、ついじっと顔を見てしまった。

ふとそんなことを思いながら、私はワゴンに手を伸ばした。 次の棚に向かおうとワゴンを押すと、後ろでページを閉じる音がして、また気配がついてくる。

……え、来るの?

思わず振り返ると、彼は当然のように文庫を胸に抱えて立っていた。

「……つづき、読むところ……あります」

その声が小さくて、なんだかおかしくて、私は笑いをこらえながら再び歩き出した。 ワゴンの静かな車輪音に彼の足音がそっと重なる。

書架の奥へ入るたび、昼の光が少しずつ遠ざかっていった。


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