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ひとの性格は、「体力と感覚」によって決まるのでは

世の中の人の性格をものすごく乱暴に二つに分けるならば、神経質な人と、そうでない人に分けられるのではないかと思う。

優しい人と優しくない人、という感じで分けてもよいのだけれど、優しさを軸に判断するのは非常に難しい。「優しさ」というのは定義が難しい概念だからだ。厳しくするのも優しさだし、甘くするのも優しさだし、おせっかいを焼くのも優しさだし、ときには見て見ぬふりをするのも優しさだ。何が優しさで、何が優しさじゃないか、は個々の価値観が介入するため、判別が難しい。

一方で、神経質かどうかという話は、どちらかといえば生理的な性質の話なので、分類しやすいような気がする。

神経質な人は、例えば机の上が少し散らかっていたりすると、それが気になって怒ったりする。神経質でない人は、そういったものは気にならない。「不快に思うライン」には、わりと明確に閾値がありそうだ。

なので、神経質な人と神経質ではない人が同じ家で暮らしていると、かなりの頻度で衝突するのではないだろうか。逆に、こういった部分でお互いの感覚が合致していれば、あまりトラブルは起きないと思われる。

「神経質であるかどうか」というのは性格と言えるのだろうか。これ自体は性格ではないけれど、性格を形成する要素のひとつのように思われる。

汚れに対する許容範囲が極端に狭い人は、汚れている状態を受け入れられず、常に怒ることになる。これをなんの事前情報もなく客観的に見ると、ものすごく短気で、すぐに怒る人のように見られることがあるかもしれない。逆に、そういったものがまったく気にならない人は、おおらかな人という感じで見られるような気がする。

そう考えると、性格というものはかなり表面的に顕現したものにすぎず、その奥底には、もっと身体的なものが潜んでいるのではないだろうか。

例えば、体力がものすごくあってフットワークが軽い人は、多少お金を損しても、「まあ、また稼げばいいし」と深く捉えないことがあるかもしれない。

あるいは、食事に対する関心が薄く、毎日カロリーメイトだけでよいという人にとっては、多少収入が減ったところで、「それほど生活に支障はないから、別にいいかな」と思ったりすることがあるかもしれない。

極端な話、人間の十倍くらいの腕力を持った人であれば、どんなことが起きても「最悪の場合、腕力でひねり潰せるしな」と思えるので、ものすごく余裕が生まれ、泰然とした人物になるかもしれない。

そんな感じで、人間の身体的な状態が性格に与える影響は、かなり大きいのではないだろうか。性格というのは表面上のもので、その奥に何があるかを観察するのが大切なのでは、と思う。

近年は「丁寧な生活」ということがよく言われたりするけれど、時間や体力にはある程度余裕のある生活が送りたいもの。そのためには、普段から運動して体を鍛えたり、体力をつけておく、といったことが実は本当に重要だったりするのだろうな。

病気をしたら人が変わったようになってしまうというのも、ネガティブな変化としてはありうるのだろう。自分の性格を悪くしないためにも、健康には留意したいものである。




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