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日本最初のコンピュータRPGは何か④完結<JRPGの萌芽>

日本のコンピュータRPGは、アメリカに遅れること7年、1982年にようやく誕生し、83年の後半になってようやくジャンルとして定着し始めた。この後はそれが現在欧米で”JRPG”と呼ばれるものに、どうつながっていったのかを考察していきたい。


1984年以後の米国のコンピュータRPG

コンピュータRPGの黄金期へ

もう一度米国の話に戻す。

何度も繰り返すが、米国で誕生したコンピュータRPGは、D&Dに代表されるTRPGをコンピュータに持ち込もうとする試みだった。だが、当時のコンピュータの性能では、TRPGの本質であるインタラクティブ性やオープンエンドな世界観はとても再現できるものではなく、結果それっぽいものしか作ることは出来なかったが、それでも”Wizardry”や”Ultima”といった初期のRPGは、ユーザーには大いに受け入れられたのである。

しかし、ディスクドライブや大規模メモリの標準搭載、CPUの高速化、ディスプレイの高解像度化などによるハードウェアの進化により、その初期の妥協を徐々に払拭できるようになっていく。米国では、ブロガーのマット・バートン氏が主張し、英語版Wikipediaにも記載されているRPGの黄金期が1985年に訪れる。それはコンピュータRPGが本来求めていた、TRPGのデジタル上での再現により近づくことであった。

RPG黄金期のはじまり

1985年を境に、米国ではより進化したRPGが次々と出現する。インタープレイ社のThe Bard's Tale、SSI社のPhantasie、ニューワールド社の Might and Magicなどは、日本の雑誌でも紹介され国内ハードに移植もされたが、これらはオープンエンドな世界設定、自由なキャラクターにより自らストーリーを紡いでいく、TRPGの本来の面白さを目指したものであった。それは”Ultima”や”Wizardry”の新作でも同様で、NPCと疑似的な会話ができるなど、今まで再現できなかった様々な要素が取り入れられていく。

The Birds Tale / Phantasie / might and Magic 英語版Wikipediaより

TRPGを目指すコンピュータRPG

最も米国のコンピュータRPGに影響を与えたのは、1988年に発売を開始した、SSI社の"Goldbox"ゲームシリーズである。SSIは、TSRからAD&Dのコンピュータゲーム化の独占権を得て1988年からシリーズを開始した。このゲームでは、キャラクタ作成、ゲームシステム、シナリオを各々分離し、キャラクターは自由に他のシナリオに引き継ぐことができ、シナリオはSSI以外が開発することすら可能だった。システムはUltima同様のトップビュー型で、戦闘はタクティカルコンバット画面に移行する。戦闘システムはオーソドックスだったが、攻撃や魔法はAD&Dに準拠していたためTRPGのプレイヤーであればスムーズにプレイすることが出来た。まさにTRPGのコンピュータ化という命題に対する一つの回答であった。

日本と同様に、ファンタジーから離れてSF世界を冒険するRPGもこの頃出現した。データソフト社の1985年のAlternate Realityシリースなどがその典型だが、最も後年に影響を与えたのは、インタープレイ社のWastelandだろう。核戦争後の荒廃した地球を部隊に、多様なキャラメイクでよりRPGらしいスキルセットが可能であり、NPCすら例外ではなくさらにより人らしくアンコントローラブルである。世界は常に流動しその結果が保存され続けるため、単純な経験値・資金稼ぎなどは出来ない。そのあまりに広範な世界設定のため、初期のバージョンでは場面設定の説明をパラグラフブックで置き換える必要すらあった。そしてこのゲームの最も歴史的に重要な点は、現在まで続くFalloutシリーズの原点となるゲームだということである。

Wastelandパッケージ

黄金期のRPGの日本への影響

これら、米国のRPG黄金期のゲームは、一部は日本のPC(PC-9801シリーズなど)にも移植され、SFCなどコンシューマ機で展開されたものすらあった。だが、これらが日本のコンピュータRPGに与えた影響は残念ながら限定的であった。それは、日本では日本独自に発展したRPG(ドラクエライクRPGとアクションRPG)が余りに強固だったからだと、欧米の研究者からは言われている。日米のRPGが、本格的に相互に影響を与え始めるのは、PC互換機(日本の当時の言葉でいえばDOS/V機)によりプラットフォームが統一された1995年以後である。

日本におけるコンピュータRPGの発展

再掲:国産RPGの誕生

日本の話に戻す。
前回の記事で記載した通り、コンピュータRPGは1982年に、TRPGとほぼ同時に上陸し、1983年に一定のジャンル認知を得た。それは…

「アメリカにはロールプレイングゲームという新ジャンルのゲームが流行しており、その原型はボードゲームで(TRPGという言葉はまだ存在しない)それも米国では(まだ日本ではほとんど知られていないが)絶大な人気を誇っている」

という知識である。これらアメリカのゲーム(コンピュータRPGもTRPGも)をプレイするには、言語の壁と入手難易度の高さ、コストの問題でユーザーのほとんどが簡単に手を出せるものではなく、日本語で安易に安価で遊べるものが渇望されていた。

国産RPGの本格的普及

そして1984年、コンピュータRPGはザ・ブラックオニキス(BPS)を皮切りに、夢幻の心臓(クリスタルソフト)、パラレルワールド(エニックス)など、上半期だけで次々とRPGが発売されていく。テレンガード(木屋通商=アバロンヒル)などの米国ゲームの移植もこの頃より見られるようになった(”Ultima”、”Wizardry”の移植は85年以後)。

84年代後半になると、アーケードゲームのドルアーガの塔(ナムコ)を嚆矢として、PCでのドラゴンスレイヤー(日本ファルコム)、ハイドライド(T&E)などのアクションRPGが誕生する。その元祖は、米国の ”Advanced Dungeons & Dragons: Cloudy Mountain”(1982年マテル)であるものの、ジャンルの確立は日本でのものだった。

そして、米国由来のターン制RPGと、アクションRPGを二本柱として、日本のRPGは独自に、先鋭的に進化を遂げていく。その前者の到達点は(売上と影響力と言う点においては)「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」であり、後者の到達点が「ザナドゥ」、「イース」、「ゼルダ(リンクの冒険以後)」などである。

夢幻の心臓/ハイドライド/ブラックオニキス/ドラゴンスレイヤー 各雑誌広告

日米のコンピュータRPGの決定的な差異

ここまで長々と、日本のTRPGの普及から初めて話を続けてきた。
それは、日米のコンピュータRPGの違いが、TRPGの影響の有無によって決定づけられたことを確認したかったからである。

米国のコンピュータRPGは、TRPGを元として、コンピュータ上でいかに再現するかに注力し発展してきた。ハードの性能で最初はTRPGのごく一部の要素しか実現できなかったが、ハード性能の向上によりそれは徐々に克服されていった。

日本の場合は全く異なる。
日本にコンピュータRPGが上陸した時、TRPGは存在していなかった。それらはほぼ同時に上陸したものの、TRPGはまだ安易にプレイできる環境ではなかった。従って、日本で、国内ハードウェアで動作するRPGを作ろうとした時、それはあくまで、”Ultima”や”Wizardry”を模倣するか、断片的に伝わる情報を参考にするしかなかった。

ドラクエ=RPGという誤解

そして86年の「ドラゴンクエスト」は、これら米国のRPGと、国内揺籃期のRPGを元にして開発された。チープなファミリーコンピュータ(NES)で動作させるためドット単位、ビット単位でそぎ落とされたプログラムは、それでも何とかRPGの体裁を保ってはいたが、より自由でオープンエンドな方向へと進化していた米国のRPGと比較するとはるかに後退したものであった(これは、RPGを知らず、またTRPGの経験も知識も持ち合わせていない当時の小中学生に理解させるためでもあった)。

だが、そのRPGとしては中途半端だったドラクエが150万本もの売り上げを記録したことで、ドラクエのようなゲーム=RPGだという印象が、日本人に根付いてしまったことは、多くの識者が指摘するところである。

TRPGを目指した国産RPG

その後日本でも、RPGをTRPGに近づける動きがなかったわけではない。安田均氏がシナリオを描いたラプラスの魔を皮切りに、ロードス島PC(ハミングバード)や、ソードワールドPC(T&E)などが国内で作られたし、上記のGOLDBOXシリーズも、一部はポニーキャニオンが国内ハードに移植し発売している。だが、同時代にその方向性が主流になることは残念ながらなかった。それは、ドラクエとそのフォロワーとなるゲーム群(ファイナルファンタジーもその一つである)と、アクションRPGがあまりに市場を席巻していたためである。

ロードス島戦記 灰色の魔女の画面スクショ(プロジェクトeggより)

まとめ:JRPGの萌芽

"JRPG"という言葉は、当初欧米のプレイヤーからの”蔑称”として誕生した。だが、現在は多くの識者が述べる通り、それは進化を諦めた、古き時代のRPGが化石のように生き残っていたのでなく、独自のスタイルで進化を遂げた別ジャンルのRPGである。2010年以後、それらの再評価は進み、日本以外で作られたJRPGも増えジャンルとして定着したと語られている。

そしてその原因は、何度もいうが1982年にある。当時の日本が目指したのはTRPGではなく、アメリカのコンピュータRPG、それも日本に辛うじて紹介されていた”Ultima”や”Wizardry”だった。これらは当時のPCの性能のせいで多くの要素をオミットしたものだったが、当時の日本のゲームデザイナーはそれを模倣し目標としたのであった。本当のTRPGではなく

この原点における差異が、現在のJRPGを生み出した萌芽となったのではと、私は思っている。

Questron (1984 SSI)。ドラゴンクエストが最も影響を受けたと言われるRPG
発売はBirds TaleやPhantasieよりも古いがデザインはより黄金期のものに近い

補足

「ドルアーガの塔」のデザイナーである遠藤雅伸氏は、2008年の立命館大学の講演において、同作の発想の原点としてボードゲームとしての”D&D”およびPCゲームとしてのAppleII版”Wizardry”、及び上記でも紹介したアクションRPGの ”Advanced Dungeons & Dragons: Cloudy Mountain”を参考にしたと語っている。ただしD&Dの影響はは大まかな着想や背景設定、及びラスボスの設定などのみで、システム面やアクションなどゲームの根幹にあたる部分はデジタルゲームからの影響が多くを占める。

また、ハイドライドのデザイナーである内藤時浩氏は、2015年のYoutuberのインタビューにおいて、同作はドルアーガとブラックオニキスのみから着想を得たと語っている。

さらに、ドラゴンクエストのデザイナーである堀井雄二は、評論誌Planetsにおいて、D&Dは知っていたがほとんどプレイしたことがなく、米国視察の際にアップルのフォーラムで見たコンピュータRPGに強いインスピーレーションを受けたのが開発の動機だと語っている。
また彼は、米SSI社のRPG”Questron”が、同作に最も影響を与えたと語っているが、このゲームの作者であるCharles Dougherty氏は、TRPGを一切プレイしたことがなく、ただUltimaをプレイしその魅力に取りつかれ、それを超えるゲームを作りたかったという点のみで開発したという。であるので、このゲームはオープンエンドではなく、明確なエンディングシーンを持った最初期のRPGとなった。

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