【独り言】 - 語り部を自称すること
語り部を自称している。
「自称」という言葉を選んだのは、謙遜から
ではない。
どこかの機関に認められたわけでも、師匠か
ら継承したわけでもないという事実を、ただ
正直に言っておきたかっただけだ。
でも、それだけでもない。
「自称」には、制度の外に立つという意志が、
静かに含まれている。
誰かに名乗りを認めてもらう必要はないし、
誰かに剥奪される筋合いもない。
語り部であると「自分が思う」から、語り部
なのだ。
そういう少し頑固な自律性の宣言として名乗
っている。
逃げ道を断っているわけではない。
公称でないぶん、いつでも降りられる。
そのことは自分でもわかっている。
文学者は退路を断つべきだ、という考え方が
ある。
それはわかる。
言葉に命を賭けるような切迫感が、ある種の
文章を生むことも知っている。
でも、私はそれを自分に課そうとは思ってい
ない。
退路を断った人間の言葉には、確かな重さが
ある。
しかし、その重さはときに、言葉そのものを
押しつぶす。
切迫が文章を支配してしまうと、語り手は語
ることに奉仕するのではなく、切迫に奉仕し
始める。
それは違う気がするのだ。
語り部に必要なのは、切迫よりも持続ではな
いかと思っている。
逃げ道を知りながら、それでもここに留まる、
という選択の積み重ねのほうが、長い時間を
かけて何かを語り続けるには向いているので
はないか。
退路は、保険ではなく自由の余白だ。
それでも、覚悟だけはしているつもりだ。
語った言葉は、放った矢と同じで、手元には
戻らない。
誰かの胸に刺さるかもしれないし、誰かの足
元に静かに落ちるだけかもしれない。
あるいは、思いもよらない場所で、思いもよら
ない誰かを変えてしまうかもしれない。
そのすべてを、語る前に引き受けておく必要
がある。
言葉の責任とは、そういうことだと思ってい
る。
自分をさらけ出すことへの覚悟も、必要だ。
語り部というのは、どこかで自分自身を素材
にする。
経験も
感情も
恥も
それを差し出すことの怖さは、何度やっても
慣れない。
慣れてしまったら、たぶん、もう語り部では
なくなると思う。
そして、語り続けることへの覚悟と、語るの
をやめることへの覚悟も、同時に持っておか
なければならない。
語ることをやめる日が来るかもしれない。
それは敗北ではなく、一つの誠実さかもしれ
ない。
語り続けることだけが美しいわけではない。
「つもりだ」と書いたのは、言い切れないか
らだ。
覚悟している、と強く断言できるほど、自分
を信じてはいない。
覚悟とは、一度決めれば終わりのものではな
く、毎朝少しずつ確かめ直すものだと思って
いるから、「つもりだ」という柔らかい言い
方のほうが、正直に近い。
自称語り部は、今日も、そうやって言葉の前
に立っている。
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