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特別な日は存在しない【櫻坂46】

読了時間:約17分



今、広島の自室で、これを書いています。少し時間をかけて思い出してみました。

移動もLIVEもすごく大変だった。でも、なぜか不思議と、心は静かです。嵐の後みたいに。

(こんなに静かなのは、すべてを「ちゃんと受け止めた」からかもしれない。初日と違って)

今回は、そのことを書こうと思います。


1. 灼熱の1日目、じりじりと焼かれながら

国立競技場という「はじめて」の感触

国立競技場に足を踏み入れた瞬間、まず感じたのは「でかい」でも「すごい」でもなく、**「遠い」**だった。

スタンドの最上段から見下ろすと、ステージが、どこか別の世界のように見えた。あそこで人間が踊り、歌い、叫ぶ。その事実が、なんだか信じられなかった。

初日の天気は、容赦がなかった。物販の長蛇の列に並んでいる時間は本当に長く感じた。

広島県在住しているという薄い繋がりで櫻坂46。3期生の向井純葉(むかい いとは)さんの推しメンタオルを購入しました。

日差しが真上から突き刺さる。日傘を持っていなければ、正直、それだけでかなりきつかったと思う。体感温度は40度近い。首の後ろが、じりじりと焼けていく感覚。水分補給をしながらも、じわじわと体力が削られていくのがわかった。

会場に着いてからライブが始まるまでの時間、隣の人と少し話した。そういう雑談は、僕には珍しい。広島に来てから、見知らぬ人と気軽に話すことが、ほとんどなくなっていたから。

(友人は、まだ0人です。1年4ヶ月、広島にいるのに)

でも、あの日は話せた。同じ場所に向かっている、という連帯感が、人を少しだけ緩める。


圧倒されて、飲み込まれた

ライブが始まった瞬間、頭が真っ白になった。

音の圧が、違った。屋外特有の抜け感と、それでも圧倒的な音量の共存。ペンライトの海が、日が落ちるにつれて鮮明になっていく。あのグラデーションは、屋内ではまず見られない景色だった。

でも、正直に言うと。

初日の僕は、そのほとんどを「飲み込まれながら」見ていた。

受け止めきれなかった、というのが正確かもしれない。選抜楽曲もBACKSメンバーによるパフォーマンス【ドライフルーツ】。4期生による【マモリビト】【光源】。2期生の【青空が見えるまで】の熱量も、すべてが「すごい」というシンプルな言葉に圧縮されて、脳内に積み上がっていくばかりだった。

個人的な発見は【Addiction】【青空が見えるまで】【Overture】が想像よりも会場に響いたこと。(僕の頭の中のことだから実際とは異なるかも)

整理できていなかった。ただ、圧倒されていた。

そして、その圧倒の隙間に、ある感情が滑り込んできた。


悔しさ、という感情の重さ

「あの4年間、なぜ離れていたのか」

この感情については、別のnoteにも書いた。書いたから少し整理できた。でも、初日の帰り道、その問いはずっと頭の中を漂っていた。

理由は色々ある。忙しかった。余裕がなかった。遠ざかるのに、大した理由なんていらない。人は気づいたら、大切なものから遠ざかっている。

でも、あの日のパフォーマンスを見てしまったら。

4年間という空白が、急に、後悔に変わった。

観ていなかった時間に、彼女たちは変わり続けていた。僕が知らないまま積み上がった時間があった。その重みを、初日は胃のあたりで感じながら帰った。

コンビニ弁当を一人で食べながら、何も味がしなかった。

これが初日だった。


2. 久しぶりの姿は、猛々しかった

2日目、余裕という名の「解像度」

2日目は、違った。

メインステージの真横、3階スタンド。初日と近い位置から見ていたけれど、心の状態がまったく違っていた。流れを知っている。次に何が来るかを、ある程度把握している。

それだけで、受け取れる情報量が変わる。

余裕、というより**「解像度が上がった」**という感覚が近い。初日に流されるように受け取っていたものを、2日目はちゃんと見ることができた。どこで誰が動いているか。どの場面でどんな表情をしているか。そういう細部が、ようやく目に入ってくるようになった。

セットリストは2曲だけ変更があった。

変更があった瞬間、「あ、変えてきた」と感じた。その驚きが、心地よかった。知っているからこそ生まれる、変化への感度。初日には持てなかった楽しみ方だった。

声も出せた。隣の人とも、自然に仲良くなれた。広島に来て以来、ライブで隣の人とあんなに笑えたのは、久しぶりだったかもしれない。


久しぶりに見た「猛々しさ」

改めて、彼女たちのパフォーマンスを見て思ったのは、猛々しい、という言葉だった。

これは、僕の中では褒め言葉として最上位に近い。

美しい、ではない。完璧、でもない。

猛々しい。いや、雄雄しい?

荒削りじゃない、というのとも少し違う。研ぎ澄まされているのに、その刃が静かにじっとしているんじゃなくて、常に動いている。振り回されている。それでいて、軌道がぶれない。

そういう種類の猛々しさ。雄雄しさ?ちょっと言葉が浮かんでこない。

4年間離れていた分、「久しぶりに見た」という感覚が強かった。知っていた姿から、さらに先に進んでいた。その進化が、単純に眩しかった。


リスペクト。尊敬じゃなくて

「悔しい」「羨ましい」という感情は、2日目も消えたわけじゃない。心の底の方に、ちゃんとある。

でも、その上に重なったのは、**「カッコいい」**という純粋な感情だった。

尊敬、という言葉を使いたくなる瞬間もある。でも、尊敬って、どこか上のものを仰ぎ見る感じがある。そうじゃなくて、僕が感じたのはリスペクトだった。

対等な目線で、ちゃんと向き合った上で感じる、敬意。

一つのことに命を懸けて、全力で走り続けている。それを国立競技場という場所でやりきった。その事実に対する、リスペクト。

大人だ、と思った。

年齢の話じゃない。一つのことをやり続けて、全力疾走できる。その姿が、ただただカッコよかった。社会人として、一人の人間として向き合ったとき、素直にそう思えた。

(4年間離れていたことを、やっぱり少し後悔している。いや、かなり後悔している)

余裕があった分、受け止めることができた。それが、2日目という時間の価値だった。


3. 会いに行ってほしい。特別でない日を。

「特別なイベント」として消費しないために

ライブが終わって、広島に帰る新幹線の中で、ずっと考えていた。

これって、「特別な体験」だったのか。

国立競技場。初の公演。歴史的な一夜。そういう言葉が、SNSには溢れていた。確かにそうかもしれない。でも、僕の中では、少し違う感覚が残った。

これは、彼女たちの「日常の延長」だ。

国立が「特別」なのは、観ている側の文脈であって、やっている側からすれば、積み重ねてきた日常がたまたまこの場所で結実しただけだ、という感覚。彼女たちが毎日積み上げてきた練習、葛藤、選択の末にあの場所に立っている。

「奇跡的な一夜」として切り離してしまうと、その日常の重さが見えなくなる気がした。


日常というより、成長の過程

「日常の一コマ」と言うと、少し違う。

日常の一コマというより、成長の過程というのが正確かもしれない。

彼女たちにとって、国立競技場の公演は、ゴールじゃない。通過点だ。通過点の中でも大きな一つではあるけれど、翌週にはまた別の場所で、別の何かに向かって走っている。そのことは、ファンなら誰でも知っている。

だからこそ、あの日の輝きを「特別な魔法」として消費してしまうのが、もったいないと思った。

特別な魔法なら、終われば解ける。

でも、あれが「積み重ねの結果」なら、そこには学べるものがある。盗めるものがある。自分の日常に、接続できるものがある。


僕が感じた「接続」

新幹線の中で、「お芝居がしたい」という気持ちが浮かんだ。

唐突に思えるかもしれないけれど、自分の中では繋がっていた。

台本のない、即興に近いもの。身体を使って、その場の空気に応答するもの。舞台よりのエチュード。そういう表現に、あのライブを見て突き動かされた。

彼女たちの全力疾走が、「魔法」なら、観客として消費して終わり。でも、あれが「日常の積み重ね」なら、僕にも何か積み重ねられるものがあるはずだ。

みちしるべ、だと思った。

「みちしるべ」というのは、仰ぎ見る存在じゃない。自分が歩く方向を照らすもの。彼女たちは僕の歩く方向を、なにも意図せず、ただ走ることで、照らしてくれた。なんか僕の中では【光源】と同音異義語かも。

背中は遠い。でも、同じ「日常」を生きる人間として、僕も自分の場所で積み重ねていける。そう思えた。


だから、「特別でない日」に会いに行ってほしい

これを読んでいるあなたに、一つだけ伝えたいことがある。

「いつかライブに行きたい」と思っているなら、特別でない日に行ってほしい。

記念すべき公演、節目のツアー、そういうものを待たなくていい。「すごいライブに行かなきゃ」という構えを、一回脱いでほしい。

なぜかというと、彼女たちにとって、特別ではないから。

どの公演も、積み重ねの途中にある。成長の過程にある。だから、今日この瞬間の彼女たちは、今日しかいない。特別なイベントを待っている間に、「今日の彼女たち」はどんどん遠ざかっていく。

(4年間、僕がそうだったように)

観客側は「特別」を求めて待つけれど、舞台側は常に「成長の過程」にいる。

だから、特別でない日に行ってほしい。

どの日でも、「今日という通過点」は存在する。その日の彼女たちだけが持つ、その日の猛々しさがある。それを見るために、会いに行ってほしい。


4. 内省ガイド:「特別」を手放してみる

なぜ僕たちは「特別」を求めてしまうのか

「特別な日」を求める気持ちは、よくわかる。

日常は、基本的に地味だ。繰り返しで、変化が少ない。だから、「特別な体験」を探す。それ自体は悪いことじゃない。

でも、「特別」にしか価値を見出せなくなると、日常のすべてが「次の特別待ち」になってしまう。

それって、もったいない。


「日常の積み重ね」に目を向けるために

具体的に、どう変えるか。

週末のベローチェで、この問いを書き出したことがある。90分間、ノートと向き合う時間。それが、僕の内省の時間です。

STEP 1:「これは特別か日常か」を問わない

まず、体験に「特別かどうか」のラベルを貼るのをやめてみる。ライブでも、食事でも、会話でも。「これは特別な体験だ」と思った瞬間に、脳は消費モードに入る。代わりに「これは今日の積み重ねだ」と思ってみる。

STEP 2:「今日の変化」を一つだけ探す

今日、昨日と何が違ったか。ライブなら、前回と何が変わったか。それを一つだけ探す習慣を持つと、「特別」じゃなくても豊かに見えてくる。

STEP 3:「待つ」をやめて「今行く」に変える

「いつか行こう」を、「今月行く」に変える。これだけでいい。完璧なタイミングを待つ必要はない。今日の彼女たちは、今日しかいない。

STEP 4:感じた感情をすぐ書き出す

ライブでも日常でも、感じたことをその場でメモする。感情は揮発性が高い。

書かないと、「なんか良かった」で終わってしまう。具体的に書くことで、その体験が自分の中に残る。


「みちしるべ」を見つけることについて

最後に、一つだけ。

「カッコいい」と素直に思える存在は、みちしるべになり得る。

それは、仰ぎ見る対象じゃなくていい。背中を追いかけるための存在でもない。ただ、自分の方向を照らす光。それがあるだけで、日常の意味が少し変わる。

(僕の場合は、彼女たちがそれになった。4年遅れで、やっと)

背中は遠い。でも、同じ日常を生きている。

それだけで、十分な気がしている。


まとめ:特別ではない、だから続いていく

2日間を終えて、今感じていることをまとめると。

初日は、飲み込まれた。
熱さと音と圧倒的なパフォーマンスに、ただ飲み込まれた。受け止めきれないまま、悔しさだけが残った。

2日目は、受け止めた。
流れを知っている分、余裕が生まれた。細部が見えた。そして、純粋なリスペクトが生まれた。

全部を通じて思ったのは、「特別な日は存在しない」ということ。

彼女たちにとって、国立競技場は通過点だ。積み重ねた日常が、あの場所で結実した。それは奇跡じゃなくて、必然だ。だから、終わったら翌日からまた走る。

僕も、そうありたいと思った。

「特別な何か」を待つんじゃなくて、今日という日常を積み重ねる。お芝居を始めるなら、「完璧な環境が整ってから」じゃなくて、「今日から」でいい。

みちしるべの背中は、遠い。
それでも、照らされた道は、確かにある。

孤独と、リスペクトと、広島の夜。それが、今日の僕の全部。

(がんばろ、と自分に言いながら、新幹線で広島に帰ってきた。コンビニ弁当の味は、やっぱりよくわからなかった)


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次回は、別のテーマで書きます。

また会いましょう。

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