見出し画像

ハンナ・アーレント苦手だったのに、なぜか無意識に参照しまくっていた理由について考えた──スタートアップ精神とその敵≒“凡庸な悪”

最近、自分の文章を読み返していて気づいた。
またアーレントを参照している。

しかも、あまり得意ではなかったはずの彼女を。

正直に言えば、私はもともとアーレントの領域に強い関心を持っていなかった。

社会、政治、共同体――そういった「人と人のあいだ」を扱う思考に、
どこか距離を感じていたからだ。

私が惹かれてきたのは、
むしろ「個々の人が世界をどう捉え、意味づけているのか」という仕組みの方だった。

感情や信念、価値観の“回路”を観察すること。
人が現実をどう構成しているのか、その知覚の構造を覗き込むこと。

だからこそ、アーレントの「政治的思考」や「公共性」をめぐる議論は、
ずっと自分の関心とは異なる次元の話だと思っていた。

それなのに――
気づけば私は、彼女の言葉を繰り返し参照していた。

なぜだろう。



思考しない“善良さ”に出会ったとき

きっかけは、恐らく、起業して組織をつくり、
人を採用するようになってからだと思う。
その中で「思考しない善良さ」に何度も出会ったのだろう。

誰も悪意はない。
むしろ真面目で、誠実で、指示にはきちんと従う。
だが――考えない

自分の言葉で意味づけをせず、誰かが決めた「正しさ」に寄りかかる。
私はそのたびに、説明しきれない焦燥を感じていた。

仕事のミスや能力不足よりも、
「なぜ考えないのか」という無音の壁の方が、よほど手強い。
なぜ人は、自分で判断することを放棄してしまうのか。


そして再び現れたのが、アーレントだった

「悲しい真実は、ほとんどの悪は、善人にも悪人にもなろうと決心しない人々によって行われるということである。」

この一節を思い出したのは、その焦燥のただ中だった。
悪は、善人にも悪人にもなろうと決心しない=判断を停止している状態
つまり思考しない人間によって遂行される。

彼女が見たのは、戦争や暴力ではなく、従順さそのものの構造だった。
ナチスの官僚・アイヒマンは、狂信者ではなかった。
命令に忠実に従う、ただの“よく働く人”だった。

「自分は命令に従っただけ」と語る彼の姿に、アーレントは戦慄する。
それは、特別な悪意ではなく、思考の欠如という平凡さだったからだ。

そして私は、その“凡庸な悪”を、
政治ではなく職場という小さな社会の中で目撃していた。



“凡庸な悪”は、反スタートアップ的精神だった

スタートアップの本質は、“始めること”だ。
前例を疑い、世界の前提を自ら書き換える。
つまり、アーレントの言う「行為(action)」の領域に近い。

人間の自由とは、新しい始まりを生み出す能力である。

創業初期のチームには、その自由があった。
誰もが考え、迷い、議論し、世界を自分の手で形づくろうとしていた。

しかし、少しずつ時間が経つにつれて、
そこに“思考の空白”が忍び込む。

「決まっているから」「上がそう言ったから」
――この言葉が広がるたびに、創造性は急速に鈍化していく。

その構造は、アーレントが描いた全体主義の萌芽と驚くほど似ている。
つまり、“凡庸な悪”とは、反スタートアップ的精神と≒だったのだ。
思考の放棄こそが、創造の死を意味する。


旧約聖書に見る「信仰なき人々」との共通構造

私はこの「思考しない構造」を、
旧約聖書の物語にも何度も見てきた。

神の声を聞きながら従わない民、
偶像を拝み、「自分の判断ではなく、誰かの権威」に依存する人々。

彼らは信仰を拒んだのではなく、
考えることを放棄したのだ。

旧約における「非信仰」とは、
神を疑うことではなく、自分の頭で意味を定義する勇気を失うこと

それは、組織で起こる「思考の外注」とまったく同じ構造をしている。
アーレントの“悪の凡庸さ”と旧約の“信仰の欠如”は、
いずれも「意味の委譲」によって世界を失う人間の姿を描いている。


苦手だったのは、アーレントではなく、“思考しない現実”だった

今になって思う。
私はアーレントを苦手だと思っていたのではない。

単に、彼女の課題意識にピンときていなかったのだ。

まわりには、考えることを当然とする人たちが多かった。
誰もが自分の頭で考え、議論し、世界を意味づけていた。
だから私は、「思考しない」という状態そのものを、実感として理解していなかった。

つまり、思考の欠如を“現実の問題”として感じたことがなかった。

だからアーレントの「思考の欠如」が社会を麻痺させるとの考えも、
どこか他人事のようにしか響かなかったのだ。

しかし、起業して人を雇い、
“思考を当然としない人たち”を中心に組織を動かさねばならない現実に出会ったとき、その言葉に立ち戻った。

悪意ではなく、思考の停止によって生まれる鈍い破壊。
それは、アーレントが見た“凡庸な悪”とまったく同じ構造をしていることに気づいた。

アーレントも同じだったのではないか。
彼女もまた、「思考することが当然でない現実」に直面して、
初めてその問題を語らざるを得なかったのではないか――。

そう考えると、
私が無意識にアーレントを参照し続けていた理由が、少しだけわかった気がする。


思考とは、最も静かな行為であり、最も革命的な行為である

アーレントは、思考を行為の源泉とした。
行動よりも前に、意味を問うこと。
それが人間を人間たらしめる、と。

起業してから、私は「自律的なメンバー」とは何かを考え続けてきた。
結局のところ、それはスキルでも姿勢でもなく、
“自分の頭で世界を捉える人”のことなのだと思う。

考えること。
それは、最も静かで、最も革命的な行為である。

だから私は今、
苦手だったはずのアーレントを、繰り返し参照しているのだ。
彼女の言葉を通して、
自分の中の“思考の空白”と向き合うために。



「読書する老女」 ヘラルト・ドウ 画
レンブラントの弟子として学んだヘラルト・ドウが、独立初期に描いた静謐な室内画。老女は1585年版の木版聖書を読み、『ルカによる福音書』19章――「善き行いを望む者は、所有を貧者に分かつべし」――の一節を開いている。その箇所と彼女の豪奢な衣服との対照は、信仰を「従順な善」ではなく「考える倫理」として捉え直す視点を提示する。画面左上の光が顔と書物だけを照らし、背景を沈黙へ沈める構図は、思索の孤独と内的自由の象徴である。ドウは師レンブラントの明暗法を継ぎつつ、思考の瞬間そのものを“可視化された行為”として描いたのではないだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!

小幡 洋一 いただいたチップは記事作成ためのリサーチに活用させていただきます!