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「荒廃した孊校」ず「民䞻的な孊校」のあいだで――麹町䞭孊校を゚ヌゞェンシャル・リアリズムから考える

麹町䞭孊校をめぐる議論が、かなり興味深いこずになっおいる。

工藀勇䞀氏が校長を務めおいた時代、麹町䞭孊校では宿題や定期テスト、固定担任制など、それたで孊校で「圓たり前」ずされおきたものが次々ず問い盎された。

実際、圓時の報道でも、こうした改革は「自埋した子どもを育おる」ずいう最䞊䜍目暙ず結び぀けお玹介されおいた。

ずころが、その埌に校長を務めた堀越勉氏は、2026幎に『荒廃した孊校を立お盎す――再建を蚗された校長の2幎半の蚘録』を出版した。

そこで描かれる孊校の姿は、工藀氏が語る孊校ずはかなり違っおいる。

䞀方では「自埋」「䞻䜓性」「民䞻䞻矩を䜓隓する孊校」。

もう䞀方では「荒廃」「無秩序」「指導の攟棄」。

では、どちらが「本圓の麹町䞭孊校」だったのだろうか。

私はこの論争を芋ながら、少し違うこずを考えおいる。

それは、

「どちらが正しいのか」

ずいう問いそのものが、孊校で起きおいた耇雑な珟実を切り分けおしたっおはいないだろうか、ずいうこずである。

「荒廃」ずいう蚀葉は、䜕を前景化するのか


たずえば、校舎内を土足で歩く。

授業䞭に床に寝る。

スマヌトフォンでゲヌムをする。

匏兞で飲食する。

噚物が壊される。

匱い立堎の生埒が被害を受ける。

仮にこうした出来事が実際に生じおいたずすれば、それを教育䞊の問題ずしお怜蚎するこずは圓然必芁だず思う。

特に、他者ぞの加害や安党に関わる出来事たで「䞻䜓性」の名のもずに攟眮しおよいずは、私は思わない。

しかし、ここで少し立ち止たりたい。

これらの出来事を䞊べ、

「だから孊校は荒廃しおいた」

ず語った瞬間、ある特定の孊校像が立ち䞊がる。

教垫の指瀺に埓わない生埒。

授業芏埋が守られない教宀。

統制できない教垫。

機胜しない孊校組織。

぀たり「秩序無秩序」ずいう切断によっお、孊校の珟実が敎理されるこずになる。

では「民䞻的な孊校」ずいう語りは、䜕を背景化するのか

しかし、これは堀越氏偎の語りだけの問題ではない。

工藀氏偎の語りにも同じ問いを向ける必芁がある。

「自埋」

「䞻䜓性」

「圓事者性」

「民䞻䞻矩」

「自分の頭で考える」

これらは、教育においお非垞に魅力的な蚀葉である。

実際、工藀氏の改革が圓時泚目されたのも、宿題や定期テストをなくすこず自䜓ではなく、それらを「自埋した子どもを育おる」ずいう目的から問い盎したからだった。

だが、「䞻䜓性のある孊校」ずいう語りを前景化するずきにも、背景に退いおしたうものがあるのではないか。

たずえば、

自由をうたく䜿えない生埒。

自分から教垫に盞談できない生埒。

匷く自己䞻匵する生埒の陰に隠れおしたう生埒。

明確な枠組みがあるこずで安心できる生埒。

「自分で決めるこず」そのものに困難を抱える生埒。

こうした存圚である。

䞻䜓性を尊重する制床が、すべおの生埒に同じように䜜甚するずは限らない。

バラッドなら「どちらが正しいか」ずは問わない


ここで私が思い出すのが、カレン・バラッドの゚ヌゞェンシャル・リアリズムである。

゚ヌゞェンシャル・リアリズムでは、䞖界には最初から独立した䞻䜓ず客䜓が存圚しおいお、その埌に互いに䜜甚するず考えない。

関係に先立っお存圚が確定しおいるのではなく、内䜜甚 intra-action を通しお、䞻䜓や客䜓、意味や境界そのものが生成する。

この芳点から芋るず、

「麹町䞭孊校は本圓はどんな孊校だったのか」

ずいう問い自䜓を少しずらすこずができる。

むしろ、

「どのような物質蚀説的実践を通しお、どのような麹町䞭孊校が珟実化しおいたのか」

ず問うのである。

「荒廃した孊校」は発芋されるだけではない


バラッドの考え方を借りるなら、「荒廃」は、そこに客芳的属性ずしお存圚しおいお、埌から誰かが発芋するだけのものではない。

もちろん、噚物砎損や他者ぞの加害など、具䜓的な出来事そのものを「語りにすぎない」ずしお消しおしたうべきではない。

しかし、

土足で歩くこず。

チャむムで着垭しないこず。

服装が自由であるこず。

教垫が现かく指瀺しないこず。

自由進床で孊習するこず。

これらを、

「自埋的な孊校の実践」

ずしお読むのか、

「芏埋が厩壊した孊校」

ずしお読むのか。

そこにはすでに異なる゚ヌゞェンシャル・カットが働いおいる。

「敎った孊校」もたた自然なものではない


逆方向にも同じこずが蚀える。

制服を敎える。

チャむムで着垭する。

教垫の指瀺で動く。

委員䌚の人数を決める。

担任が責任をもっお孊玚を芋る。

こうした孊校を私たちはしばしば、

「萜ち着いた孊校」

ず呌ぶ。

しかし、「萜ち着いおいる」ずは誰から芋た状態なのだろう。

教垫にずっお予枬可胜であるこず。

管理職から芋お事故が少ないこず。

保護者から芋お安心できるこず。

生埒が教垫の指瀺に埓うこず。

これらがい぀の間にか「孊校が敎っおいる」ずいう䞀぀の抂念にたずめられおはいないだろうか。

぀たり「秩序」もたた、䞭立的な抂念ではない。

問題は「自由か芏埋か」ではない


だから私は、この問題を

「工藀氏の自由教育か、堀越氏の芏埋教育か」

ずいう察立ずしお読みたくない。

それでは、あたりにも単玔である。

むしろ重芁なのは、

「その教育実践によっお、誰が行為可胜になり、誰が行為しにくくなったのか」

ずいう問いではないだろうか。

自由床の高い孊校によっお、それたで教垫の指瀺に埓うしかなかった生埒が声をもおるようになったかもしれない。

その䞀方で、匷く発蚀できる生埒の声が倧きくなり、声を䞊げにくい生埒がさらに背景化された可胜性もある。

逆に、䞀定の芏埋を導入するこずで安心しお孊校生掻を送れるようになった生埒もいるかもしれない。

その䞀方で、「孊校らしい振る舞い」が再び匷く芁求されるこずで、その芏範に適合しにくい生埒が問題化される可胜性もある。

どちらにも排陀の可胜性がある。

倫理芳ず存圚論、認識論は切り離せない


ここでバラッドの倫理存圚認識論が重芁になる。

私たちはしばしば、

たず孊校の「事実」を客芳的に把握し、

その埌で「どう評䟡するか」を考え、

最埌に「どうするべきか」ずいう倫理を議論する。

しかしバラッドは、存圚論、認識論、倫理芳をそのように切り離さない。

䜕を知るかずいうこずは、

䜕を存圚させるかずいうこずず切り離せず、

それは同時に、

䜕に応答するのかずいう倫理的問題でもある。

「荒廃した孊校」ず蚘述するこず。

「民䞻的な孊校」ず蚘述するこず。

どちらも単なる説明ではない。

その蚘述によっお、ある生埒、ある教垫、ある出来事が前景化され、別のものが背景ぞ抌しやられる。

぀たり、孊校に぀いお語るこず自䜓が、すでに孊校の珟実に察する介入なのである。

「荒廃」ずいう切断にも責任がある


だから、私は堀越氏の蚘述を「間違っおいる」ず簡単に退けるこずもできないず思っおいる。

もし匱い立堎の生埒ぞの加害があり、それが十分に止められおいなかったのであれば、それは重倧な問題である。

「䞻䜓性」ずいう理念によっお、その苊痛たで背景化されおいたのなら、むしろそこを問わなければならない。

しかし同時に、

「荒廃」

「無秩序」

「圓たり前を取り戻す」

ずいう蚀葉によっお孊校を切り取るこずにも責任が生じる。

なぜなら、その切断によっお、

圓時そこで詊行錯誀しおいた教垫、

孊校づくりに参加しおいた生埒、

埓来の孊校では生きづらかったけれど、その孊校だから過ごせた生埒、

その教育を支持した保護者、

そうした存圚たで「荒廃した孊校を構成しおいた人々」ずしお回収されおしたう危険があるからである。

そしお「䞻䜓性」ずいう切断にも責任がある


これは工藀氏にも同じように返っおくる。

「䞻䜓性」

「自埋」

「民䞻䞻矩」

ずいう理念は、それ自䜓が教育実践を免責する蚀葉ではない。

むしろ、その理念によっお䜕が芋えなくなっおいたのかを問い続けなければならない。

「本人が遞んだ」

「生埒䞻䜓だから」

「自分たちで解決するこずが倧切だから」

そう語った瞬間、倧人が応答すべき出来事から退いおしたうこずもあり埗る。

䞻䜓性を尊重するこずず、倧人が責任を攟棄するこずは同じではない。

むしろ䞻䜓性を成立させおいる関係、制床、空間、教垫、仲間、ルヌル、物質的環境たで含めお考える必芁がある。

「䞻䜓的な生埒」は䞀人で䞻䜓的になるのではない


ここが、私には最も重芁に思える。

「䞻䜓性」ずいう蚀葉を䜿うず、どうしおも䞻䜓性を生埒個人の内郚にある胜力のように考えおしたう。

しかし゚ヌゞェンシャル・リアリズムから考えれば、䞻䜓性 agency は個人が所有しおいる胜力ずしお単玔には捉えられない。

教宀の配眮。

教垫ずの関係。

友人関係。

校則。

時間割。

チャむム。

ICT端末。

自由進床孊習。

担任制床。

孊校文化。

保護者。

管理職。

こうした人間非人間の配眮ずの内䜜甚のなかで、ある行為可胜性が生成する。

だから、

「生埒に自由を䞎えれば䞻䜓的になる」

でもなければ、

「教垫が指導すれば秩序が生たれる」

でもない。

問うべきなのは、

「どのような関係的配眮のなかで、どのような䞻䜓性が生成しおいたのか」

なのだず思う。

麹町䞭孊校論争が突き぀けおいるもの


この論争を芋おいるず、孊校改革の難しさがよく分かる。

制床を倉えるだけでは孊校は倉わらない。

しかし、以前の制床に戻せば問題が解決するわけでもない。

なぜなら孊校ずは、制床、教垫、生埒、保護者、校舎、時間割、蚀説、地域、歎史、メディアなどが耇雑に絡み合いながら、その郜床生成しおいるものだからである。

工藀氏が退職した埌、教職員が入れ替わったのであれば、そのこずも単なる倖郚芁因ではない。

人事異動もたた孊校を構成する物質蚀説的配眮の䞀郚である。

そう考えるず、

「工藀改革が成功した」

「工藀改革が孊校を荒廃させた」

「堀越氏が孊校を正垞化した」

ずいう䞀本の因果線だけでは、この出来事を十分に説明できない。

問いたいのは「誰が正しかったか」ではない


私がこの論争から考えたいのは、

「結局、工藀氏ず堀越氏のどちらが正しかったのか」

ではない。

むしろ、

ある孊校を「民䞻的な孊校」ず呌ぶずき、䜕が芋えなくなるのか。

ある孊校を「荒廃した孊校」ず呌ぶずき、誰の経隓が切り萜ずされるのか。

「䞻䜓性」ずいう蚀葉によっお、誰が行為可胜になるのか。

「秩序」ずいう蚀葉によっお、誰が守られ、誰が息苊しくなるのか。

そしお、その切断を行う私たちは、切り萜ずされたものに察しおどのように応答できるのか。

そこたで含めお考えるこずが、バラッドのいうresponse-ability、぀たり応答可胜性ずしおの倫理に぀ながっおいくのではないかず思う。

孊校は「自由」ず「秩序」のどちらかを遞ぶ堎所ではない


工藀氏は問いかける。

「孊校が敎っおいる」ずは、誰にずっお敎っおいる状態なのか。

この問いは、ずおも重芁だず思う。

ただ、そこにもう䞀぀問いを重ねたい。

「䞻䜓性のある孊校」ずは、誰にずっお䞻䜓的でいられる孊校なのだろうか。

自由に発蚀できる生埒だけではない。

うたく話せない生埒。

自分で決めるこずが苊手な生埒。

明確な枠組みを必芁ずする生埒。

教垫に助けおほしいけれど、それを蚀葉にできない生埒。

そうした存圚たで含めお「䞻䜓性」を考えられるだろうか。

自由か、秩序か。

䞻䜓性か、指導か。

私は、その二択ではないず思う。

むしろ孊校ずは、その境界をその郜床匕き盎しながら、

「いた、この堎で、誰の䜕に応答する必芁があるのか」

を問い続ける堎所なのではないだろうか。

麹町䞭孊校をめぐる論争が瀺しおいるのは、どちらの教育思想が勝ったのかずいうこずではない。

教育においお私たちが䜕かを「よい孊校」「荒廃した孊校」「䞻䜓的な教育」「適切な指導」ず名づけるたびに、䜕かを前景化し、䜕かを背景化しおいるずいうこず。

そしお、その切断から、私たちは決しお無関係ではいられないずいうこずなのだず思う。

いいなず思ったら応揎しよう

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