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波乱万丈なボヘミアンの祈り、A・レーモンド ~突撃!例の建築家の手すり⑳


この9月、なぜか豊田大橋を渡って豊田スタジアムという黒川紀章の怪作ツアーをやる羽目になりまして(行われたはずの試合の記憶はありません)、その際にちょっと地下鉄を途中下車、気になる建築に寄り道してきたのでした。

アントニン・レーモンド設計の、南山大学キャンパスです。



アントニン・レーモンドについて


この方が居なければ、彼の自邸に憧れた吉村順三は建築を志していないし、前川國男のあの質素なスタイルは確立しなかったかもしれないし、いわんやそこに連なる錚々たる面々も。そんな、日本の近代建築のお父さん、お爺さんみたいな存在の彼ですが。

一般的な彼の人物紹介はこの辺りをご覧いただければ。

でも、いろいろ彼のことを調べると、これが一筋縄ではいかない人生を送っていたことが見えてきます。

波乱の船出


1888年、アントニーン・ライマン (Antonín Reimann)としてオーストリア=ハンガリー帝国(現在のチェコ)ボヘミア地方のクラドノに生を受けた彼は、建築の街プラハの工学大学に進むのですが、そこで見たフランク・ロイド・ライトの建築の本を切っ掛けにアメリカへ憧れ、なんと奨学金集めのパーティで、そのお金を盗んでトリエステに向かい、貨物船に乗ってニューヨークに逃亡。国際手配されますが、当時のアメリカはそんな訳ありな移民だらけの国。逮捕されることもなくチェコ人の集まりを探し出し、ドラフトマンとして仕事にありつきます。

なお、日本在住時にその罪を認め、その奪ったお金は後日倍にして返したことで、彼の名誉も回復されたそうです。

でもライトに憧れた彼が満足できる仕事ではなかったのか、1914年には地中海方面に旅立ち、ローマの東の山の中で絵を描いて暮らしたそう。ところがその夏に第一次大戦の勃発に巻き込まれ、またしてもダッシュで最後のアメリカ行きの船に乗り込む羽目に。

そして偶然その船に乗っていたのが、デザイナーでもあったノエミ・ペルネサンという女性。将来のレーモンド夫人です。



アメリカに戻ってからすぐに二人は結婚、ポスターデザインで稼ぐノエミさんの収入を当てにして絵描きをしていた彼ですが、ノエミさんの友人がたまたまミリアム・ノエルという女性を知っていました。のちのフランク・ロイド・ライトの三番目の妻、彼女が彼とライトとの縁を繋ぎます。

1916年に彼とノエミは、憧れのライトのアトリエ、タリアセンに向かいます。ですが当時のタリアセンは、使用人の放火によりライトの二番目の妻、チェニー夫人と子供たちが殺されるという痛ましい事件があったばかり。
彼はその復旧を手掛けつつ、東京から依頼のあった、あのホテルの透視図などを描くことになります。ですが、ライト本人は日本に行ってしまい、アメリカでの仕事もなかったライトの事務所。しばらくはプレーリースタイルの住宅を研究しつつ留守番をしていたものの、夫妻は再びニューヨークに戻ります。

そして1年後の1917年、大戦末期にレーモンドに召集がかかり徴兵。でも彼は4か国語を流暢に話せたことから情報将校の試験に受かり、スイス駐在のスパイとして軍務に就くことになりました。そして1919年、除隊後にニューヨークでアトリエを構えてすぐ、ライトが現れるのです。日本での、あの仕事のスカウトとして。

いざ、日本へ


ライト一行が日本に到着したのが、1919年の大晦日。実はその4日前に、帝国ホテルは別館が火事で焼失したばかり。なのでまずはそこの再建から取り掛かり、10日で図面を引き、5か月後には木造二階49室の別館を再建し、さらにそこに自分の仕事場もそこに組み込みます。ですが、あたらしいホテルの完成予定日はそこから2年もない1921年の11月3日。残念ながら全く間に合いません。当然に予算も足りません

そんな状況の1922年4月、今度は営業を続けていた旧本館が全焼。そしてライトを招いた林愛作支配人が辞任、彼の擁護者がいなくなります。とにかく形をつけることが必要になり、ライトも7月オープンを目指して一部開業にこぎつけますが、南棟の完成を見ることなくライトは離日、二度と日本に来ることはなかったのでした。すべて完成したのが翌年9月の関東大震災当日だったのは、有名なお話。

そんな混乱を極める現場の仕事で、レーモンドも疲弊していきます。日本の暮らしにも慣れ、友人も増え、その中の一人、ヴォーリズ建築事務所のスラックさんと一緒に独立しようという話が出たのが1921年2月。それを知ったライトは激怒し、かつて憧れた建築家との仕事は喧嘩別れに終わります。

師の影響から逃れるために


独立後は、自分の作風がどうしてもライト風になってしまうことに悩みます。チェコ・キュビズムや当時最新の技術だった鉄筋コンクリートにも目をつけ、さらに木に詳しい吉村順三や、ジョージ・ナカシマをはじめとする所員の力も取り入れ、様々なデザインを試行錯誤していきます。その中には、剽窃と受け取られたようなケースもちらほらありますが、建築という仕事は外形だけわかれば建てられるわけではありません。そのゴールにたどり着くまでには、明かされていない部分を埋める試行錯誤が必要になるわけです。そのような仕事が習作となり、その後の仕事のために必要な下地になっていたのでしょうね。

その中でも有名なのは、オーギュスト・ペレの写しである東京女子大学の礼拝堂(1937)、

こちら、まだ現役の建物です

コルビジェの写しである夏の家(1933)、といったところでしょうか。

移築前はなんと、草屋根だったとは!

でも、その前に霊南坂の自邸(1924)で、日本初の打ち放しコンクリートの住宅に挑戦しています。鉄筋コンクリート造の建築としては世界的にも早い、曲面壁や屋上庭園にスチールサッシを組み込んだ、自由で不思議な造形の住まいです。これだけのオリジナルをやれる人が、その後も色々なスタイルを試行しているのですね。

上記3点、画像は
「建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド(丸善)」より引用

また、旧藤澤カントリー倶楽部クラブハウス(1932)のような、一見して彼のものと分からないスパニッシュ洋式の作品もあります。このころのレーモンドには一貫したスタイルはあまりありません。

釉薬瓦が載っていたり、窓上に装飾があったり

レーモンド、それぞれのお客さんの要望するスタイルに自由闊達に応える、柔軟さと器用さがあったのですね。ライトの影響から離れんがために、何でも学んでやってみよう、そんなことを考えていたのかもしれません。

戦争と、軍属としての仕事


多士済々の所員を抱え、仕事も増えた事務所ですが、フォードの工場の仕事が中止になったのをきっかけに日米関係のきな臭さを感じたレーモンドは1937年に日本を離れ、インドや故郷を経由してニューヨークに戻り、その後ニューホープの農場を買い取りアトリエを構えます。
1941年には東京の事務所を閉鎖、一度は呼び寄せた吉村順三も東京行の最後の引揚船で帰っていきます(そして、その船に乗り合わせていたヴァイオリニストの大村多喜子さんと結婚されている不思議)。

アメリカでは、まず欧州に送る兵のための、駐屯地の整備の仕事をしています。面白いのは、屋根材や壁材に多色を使って組みあわせ、上空から見えにくい迷彩兵舎を考えたそうで。そのような仕事を続ける中で経験と軍からの信用を得て、それはよりシビアな、破壊のための仕事に展開します。

1943年、戦時局に呼び出された彼が命じられたのが、日本でも仕事をしていたスタンダード石油と組んで、焼夷弾の効果を測るためのモデル日本家屋をユタの砂漠に大量につくる仕事でした。

プレファブ・ターゲットと呼ばれた、友人や、自分の作品もある日本の都市を燃やすための研究を行うことに、彼は自伝でもその呵責を述べています。でも、「この戦争を最も早く終結させる方法は、ドイツと日本を可能な限り早く、しかも効果的に敗北させることだ」と自らに言い聞かせながら、その仕事を全うしたのでした。

再来日、そして


1947年、日本の友人からダム調査のために来日できるか、という手紙を受け取ったレーモンドは、その許可を得るために占領軍のマッカーサー元帥に手紙を書きます。当時は民間人の来日は難しかったのですが、その実績と目的を汲まれ、翌1948年に羽田に降り立ちます。
そしてそこからの道すがら、いまだ廃墟のようであり、幽鬼のような人が暮らす街を見て、この街の大正モダンを知る彼は、想像をはるかに超えた状況に動転し落涙したそう。その破壊は遡ると、彼の実験あってのもの、ということになります。

ダムの計画支援の仕事のため、共同でパシフィックコンサルタンツという会社を設立しつつ、元の所員を呼び寄せて、進駐軍向けの仕事をベースに日本での建築設計の仕事を再開したレーモンドですが、戦時のことは様々なところで影を落としていたようで、日本の建築家からは時折厳しい指摘を受け続けることになります。

ただ、彼には味方も多かったのです。田中角栄を見出し、ブルーノ・タウトにも支援を惜しまなかった、高崎の井上房一郎や、信仰に篤い彼がミッション系大学にかかわったことで縁を得た、カソリック神父たちとのつながり。そんな関係から、神言修道会のシュライバー神父との知己を得て、名古屋の丘陵地にその大学構想を依頼されることになるのでした。


そんな彼をミュージシャンに例えるなら、やっぱりこの人。

変幻自在のスタイル転向、毀誉褒貶のキャラクター、でも出来た楽曲の多くは唯一無二、ボブディラン。

May you grow up to be righteous   年とともに正義を重ね
May you grow up to be true   年とともに誠意を重ね
May you always know the truth   いつも真理と共にあり
And see the lights surrounding you   照らす光に包まれるよう

May you always be courageous   いつも勇気を失わず
Stand upright and be strong   まっすぐに立ち、強くあるよう
And may you stay  
君に祈る
Forever young  
いつまでも、若くあれ

このキャンパスで育つであろう学生さんに、彼もこんな思いを持ってここをつくられたんじゃないかな。そんな波乱万丈、信仰の人の手すりを見に行きます。


南山大学 名古屋キャンパス(1964:2017~改修)


門はなんとなく和を感じさせます

正門を潜った先に、赤煉瓦色とコンクリートの色が特徴的な建物が見えますね。

こちらの大学、神言修道会というカトリック教会の修道会によって設立された、学校法人南山学園によって運営されております。調べるとこちらの地元の聖園女学院も同法人の運営。そして偶然かどうか、その近くには同じくレーモンドの手による、旧藤澤カントリー倶楽部のクラブハウスが残っていたりします。そんな不思議な縁を感じつつ、緩い坂道を登っていくと。

広い中庭を囲むように、研究室棟、そして左に図書館が見えてくるのでした。

曇天なのが残念ですが

図書館棟は外壁もクリーンナップされているようで、煉瓦色が鮮やかに見えますね。ロビーまでは入れるようなので、お邪魔してみます。

窓前の縦のルーバー、東北東向きなので効果ありそう

今回お邪魔したのは図書館と、階段教室と、その向かいの教室棟。

こちらの図書館、正式名称を南山大学ライネルス中央図書館といいます。公式キャラが南図の三博士。流れ星に誘われて選ばれし学生さんでも見つけに来たのでしょうか、と思いきや。

ジト目の二人目がガチのレーモンドマニアでした

愛されてますなあ、レーモンドさん。

モザイク画の横を通って、お邪魔します。
エントランスの内側のロビー右手に階段がありました。早速手すりチェックです。

丸穴が結構でかい

袖壁には丸穴が開けてあります。これ、コンクリートの重量感を軽減するデザイン。そして折り返した側からも丸く明かりが漏れる仕掛けが、人を自然に上に誘うわけですね。黒い穴と白い穴に見えるのがおしゃれ。

手すりはステンレスのヘアライン仕上げ、これは後付けかもしれませんね。と思いきや、この袖壁の上端も手すりとして使える薄さと、丸みになるように設計されております。ところどころ人の手で磨かれて光っているところを見ると、しっかりと手すりの仕事をしております。

二階側はこんな感じ

この、シュッと薄くなっている壁の側端と上端は、コンクリートの打ち放しでなく、あらかじめこの形を鋳型でつくって(プレキャストコンクリート)後から設置したものです。現場でのコンクリート打ちは状況によっては精度が出なかったりしますが、これなら安定した製造環境でつくられたパーツを組み込んでいくだけなので、精度が安定します。直線の組み合わせなら、その召し合わせ部分に合わせた角度を出して、カットすればいいわけですしね。固定は内側の躯体にアンカーを取っておいて、モルタル充填かな?見える範囲からは残念ながらわかりません。

また、ステンレスの手すりは上端を丁寧に平坦部と折り下げ部に分けて加工してあります。

図書館の内部までは入れないので、研究棟の下をくぐって、ほかの棟へ。

耐震補強も視線を通すように工夫しております
この美しい渡り廊下もレーモンド設計です

そしてこちら、左がG30(階段教室)、右が教室のあるG棟になります。

まずは右のG棟から覗いてみます。こちら、ちょうど右側に敷地が傾斜していて、主な教室はここより下の階にあります。というわけで、道から直角に入った広い廊下が、上下動線を兼ねているのでした。

奥から入ってきて、上階段、下階段、吹抜、下階段

そしてここの白眉はベンチ。広くもったりとして、でも野暮ったくない絶妙のデザイン。こちらレーモンドの奥様、ノエミさまのデザインによるもの。レーモンド事務所、ラウンジアームチェアなどの名作で有名な家具デザイナー、ジョージ・ナカシマもかつて在籍していたように、家具はお得意です。

この辺は握られやすいらしく、色が黒っぽくなってます

そしてここの笠木も、先の図書館と同じ寸法のプレキャスト。ポロリしちゃった部分をくっつけておりました。

壁は横方向の板型枠模様ですね

階段を見てみると、こちらは手すりは木製になってます。ちょっと新しく見えるので、リニューアル時に更新したものかもしれませんね。こちらは木の棒の裏に平鋼材を入れて、強度を保っているはずです。

お向かいのG30(階段教室)にも行ってみます。内装は近年リニューアル済み、こちらの木製の手すりもきっとそのときに更新されていますね。

バリアフリーの流れで減ってきたかもしれない階段教室

でも、袖壁の頂部のデザインは他と同じ。ただし、細かい調整部分で苦労している様子も。平坦部と傾斜部の取り合いは、プレキャスト材でつなげる無理をせず、モルタルで埋めて成型でした。施工の苦労がしのばれます。

お、ここの継ぎ目だけモルタルだ

さて次は、と考えて、キャンパスを巡回しつつ、たどり着いたのがこちら。南山大学のキャンパスの東側に隣接しております。


神言神学院(1966:2012改修)


ちょっと残念な天気ですが、銅鐸のような不思議なシェイプの鐘楼が目印のこちらへ。こちらは神言修道会の司祭さんなどの教育機関となっております。なのでその中心には聖堂が。

鐘楼の周囲は花びら型プランっぽいですね

エントランス周りの手すりはブルーの丸鋼と、部分的にステンレスのものですが。

入り口側に降りていくと

この平行四辺形に見える手すり、どうやって後から埋め込んだのか考えてもわからず。最初からコンクリートに打ち込んで作ったのでしょうかね。こういうデザインと施工のせめぎ合いを見るのが自分の趣味っぽいです。

引き抜けないってことは埋め込めないし

そーっとお邪魔すると、遠くに人影が。お許しを得て聖堂も見せていただきます。

聖堂入口の階段と手すり

エントランス、ここは違う空間になるよ、という大理石の床と目立つ手すりの表現です。100mmくらいある平鋼材をつかった黒い手すり。

さて、堂内は撮影をお控えくださいとのことで画像なし。でも、はっとさせるカラフルな光に溢れた(きっと晴天ならもっと凄かった)、とてもエモーショナルな空間がそこにはありました。

どこかで撮影されている方がいないかしら、と検索したら、以前もお世話になったkawajiri様が、あいちのたてもの博覧会という2年前のイベントの際に取材された記事があったので、引用させていただきます。

もし名古屋で建築見学をされる方、こちらは訪れて間違いなし。お隣に名古屋大学の豊田講堂ComoNeもありますし、足を延ばされてみてはいかがでしょうか。


さて、こちらの聖堂の内部の手すりも、南山大学とほぼ同じ形状だったのですが、一つだけ違いが。それは、あのプレキャスト笠木が直線でなく、なんと曲線だったこと。丸い花びら状の外壁に沿った階段に、それはありました(上記のkawajiriさんの記事をご覧ください)。

質素で効率の良いデザインを追求していた彼が、そこを曲げるコストを良しとする、その扱いの違いをみてもレーモンドにとって、ここが特別な聖堂だったことが感じられます。

外に羽ばたくがために罪を冒し、大戦時には日本を焼き尽くすための兵器開発に手を貸した人生。そんな闇を持つ彼が、誠心誠意、その土地と人と、神に向き合ってつくった建築、手すりからもその実直さが伝わるものでした。


※おまけ


こちら、目立たないところにありますけど、すごい博物館でした。

何がすごいって、お触り自由なんです。

見て!って言われたらねえ
むしろの跡がのこっているのでした

土器マニアの人にはきっと至福の空間かと。触り方もちゃんと掲示してあります。

また、様々な民俗学的な資料のコレクターさんの、没後の行き場となっている面もあり。中にはこんな逸品も。

ミギー!ミギーじゃないか!

重ねて書きますが、お触り自由。
また、大学の先生が集められた、こんなモノたちもありました。

洗濯機やらテレビやら

吹田の国立民族学博物館の1/100くらいの規模かもしれませんが、でも触れるっていうのが凄い。こちらにお越しの際はぜひ、この博物館にも。なお、入場無料です。


※参考図書


彼の自伝の翻訳者でもある、元レーモンド事務所の三沢浩さんによる、レーモンドの仕事を概観できる良書。今読んでも、これもレーモンドだったか!と気づく、その幅広さに驚きます。


画像をいくつか引用させていただいたのがこちら。さすがは丸善、写真が美しい。



フジモリさんと磯崎さんの、日本の建築界の裏話。表立っては出しにくい、当時の建築家の政治的な志向などを知ると、自分の視点も変わるかも。なお、奨学金をくすねる話も、こちらからの知識です。


※ひっそりお礼

一年半で10万ビューいただきました

ご愛読、まことにありがとうございます🙇‍♂️


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てすり屋のひとりごと 橋本 洋一郎(合同会社 湘南改造家) この記事、すごく役に立った!などのとき、頂けたら感謝です。note運営さんへのお礼、そして図書費に充てさせていただきます。