「今じゃないかな」——遠距離恋愛の10年を実話で書く連載小説|宵町観賞録
「うーん、今じゃないかな」
主人公が結婚の話を切り出したとき、理恵はそう答えます。少し考えてから、静かに。
その言葉に、主人公は「そっか」と笑って流します。理恵らしい、と思いながら。でも帰りの電車で、胸の奥に小さな違和感が残っているのに気づく。
物語は、そこから動き始めます。
遠距離恋愛オジサンさんは創作大賞2026・恋愛小説部門に、この連載を応募しています。タイトルは「彼女を失い、愛を失い、それでも結婚した10年の軌跡」。現在第14話まで公開中です。
実話ベースの作品です。冒頭の自己紹介で、著者はそう明かしています。大学時代に出会った後輩・理恵と、遠距離を経て、別れと再会を経て、結婚した10年間の話。今年で結婚10年目に入るのをきっかけに、書き始めたとのことです。
この作品の読みどころ
「壊れる理由がない」関係が、静かに壊れていく過程の描写
SNSで出会った見知らぬ相手への感情が、踏み越えてはいけない一線を越える場面
実話ならではの、自分への正直な記録の感触
「大丈夫だ」と思っていた
第1話の主人公には、不安がありません。
理恵との関係に、大きな問題はない。喧嘩もない、無理もない、居心地もいい。「終わる理由がどこにもなかった」と書かれています。
だからこそ、その「終わる理由のなさ」が、少しだけ重く読める。
会える時間が減り、相手の生活が見えなくなっていく。それでも「大丈夫だ」と繰り返す主人公の言葉に、自分への言い聞かせの色が混じっているように感じました。
「ミナミみたいな人かもな」
第5話で、主人公はSNSで知り合ったミナミに、こう打ち込みます。
「もし理恵と出会っていなかったら、誰を好きになっていたと思う?」という問いへの返答として。
送信した直後、後悔が押し寄せる。「何を言ってるんだ、俺は」。顔も年齢も本名も知らない相手。「たかがSNSの相手なのに」。
それでも、ミナミからの返信を何度も確認してしまう。その夜の描写が、妙にリアルでした。
「一度視線を外したあと、もう一度見てしまう」
第9話は、北海道でのミナミとの初対面です。
改札口で、ひとりの女性が目に入る。「整えすぎていない、自然な髪」。主人公は確信もなく近づいて、名前を呼びます。
「近くで見ると、さらに印象がはっきりしない。綺麗なのか、可愛いのか。うまく言葉にできない」——この一文が、その場の空気ごと伝わってくる気がしました。
「ずるいよ」と「待ってる」
第14話、空港での別れ。
主人公は景子を引き寄せて抱きしめます。「迎えに行く」と言う。自分でも驚くくらい迷いのない言葉として。
「ずるいよ」と景子は言う。「待ってる」と繰り返す。
機内に乗り込み、席に座り、シートベルトを締め、目を閉じる。短い文が続いて、浮かぶのは景子の顔だった、と書かれています。
理恵のことも消えたわけではない。「心はどこにも着地していなかった」——この14話は、まだ何も解決していません。それでも、ここで一度止まって考えたくなる場所でした。
実話ベースの連載というのは、読み方が少し変わってくる気がします。結末を著者本人がすでに知っている。その上で、迷っていた時間をそのまま書いている。そのことが、文章の奥にある誠実さにつながっているように読めました。
毎週水曜・土曜の週2回更新。現在も連載中です。
