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2つの水素

りょう。お前、今日残れ。」

ロッカーのなだれを押し込んだ姿勢のまま、白石は首を傾げる。
「なんでしょう?」
「なんでしょう、じゃないでしょう?」

俺は教室の後ろドアを閉めた。
廊下の音が遠くなり、代わりに電車の音が近くなった。

「……間違えた。なんでしょう、じゃねぇだろ!」
白石は口元をおさえ、肩を振るわせた。
手首の包帯が解けかかっている。
「何を、どう間違ったのですか?」
こっちが聞きたい。
何を、どう間違ったらこんなこと、、、、、になるんだと。

白石は廊下から三列目、前から二番目の自席についた。
俺はその一つ前、佐々木の席を陣取った。
椅子の背もたれを前にして座る。
背もたれの縁に腕を置き、机に並べた紙をそれぞれ一回、指先で叩いた。
音は三回鳴った。

化学、世界史、数学I……

白石は首で音を数えた。
そして肩をすくめ、「皆目見当もつかぬ」とでも言いたげな顔をして、両掌で天井を仰ぐ。

「ああ……もう! じゃあ、とりあえず元素周期。最初っから言ってみて。」
「聴きたいですか?」

痰がらみのない澄んだ咳払いが、がら空きの教室に響く。
締め切られた扉の先、廊下の音は遠い。
「もったいぶってないで、さっさと言え。」
白石は緩く垂らしていたネクタイを、きつく締め直した。
「それでは、僭越ながら……」

──水兵リーベ……僕の船……

そうだ、そうだ白石。
その調子だ。

「あの。」
「あ?」
「水兵リーベ、のリーベの意味、ご存知ですか?」

意味も何も、リーベはリーベだろ。
「リー」はリチウLiム、「ベ」はベリリBeウム……
俺は首を捻った。
寝てもいないのに寝違えそうなほどに。

「ドイツ語で、愛する、という意味だそうです。」

だからなんなんだ。
なんだって言うんだ。
首をさすりつつ、「へえ。」とだけ返した。

やれドイツ語で愛がどうとか言っていた白石は、さっき閉めたネクタイをもうすでに緩め、代わりに包帯を巻き直している。
元素周期の語呂合わせの後半を反復して、けらけら笑っていた。

机に置いた携帯が震え出す。
「あ。」
終話ボタンを押して裏返した。

首を傾げた白石の唇が開きかける。
だから俺は、すかさずそれを塞いだ。
「はい、これ。一問目から解き直して。」
携帯はまた、短く震えた。
「基本だぞ。」
つられて言葉も短くなった。

シャープペンの芯が繰り出されるカチカチ、という音。
理路整然と並び始めた数列。
紙の上で軽快な音を立て爆発したふたつの分子。

しかし、わからない。
計算ができない訳でもない。
周期表だって、覚えている。

「ここの水素……」
「水兵さん、ですね。」
乾いた水を眺め白石は、ふふっと笑った。
「水兵さんは、二人いますね。」

そこまで理解しているのに、どうして。

「じゃあ次……二問目、は合ってるから……五問目。」

ブブ、ブブ、と俺の携帯が机の上を滑る。
白石はさっきとは反対側に首をかたむけた。

──再試の王子様

そんな不名誉な称号をものともせず、悠然と身体を伸ばし、あくびをする。
俺は無性に腹が立ってきた。

「椋。お前、このままだと夏休み、補講で潰れるぞ?」
白石は目を擦り、落ちかけた瞼で俺を見つめたまま黙っている。
「嫌じゃないのか?」
頬杖をつき、今にも溶け消えそうな微笑みを浮かべた。
「俺は嫌だよ。」
二本の電車がすれ違い、ぼんやりしていた白石の瞳孔が輪郭を取り戻し始める。

「君、好きな食べ物は先に食べてしまう方ですか? それとも最後まで残しておく?」
「は?」
「僕は残しておくんです。でも、それが……」
「それが……?」
記憶にくすぐられたらしい。
身を捩り捩り必死に声をおさえている。
「失敬、こちらの話です。どうか、お気になさらず。」
落ち着き払った言葉とは裏腹に、その声はほとんど呼吸に紛れていた。

白石の肌は、まだわずかに赤みを残している。

最終問題に取り掛かった白石は突然書く手を止めた。
包帯の重なりを、指先で辿っている。

「お前さ、何がわからない?」
「何が……といいますと?」
「いや……だから、たとえば……」
「ああ。」
白石の指先は、包帯のほつれを引く。
「強いて言えば……」
伸びた糸が、右手人差し指の第一関節を蒼黒く変えた。
「君の気持ち、です。」
瞳孔の奥を読まれている気がする。
下瞼が引き攣るのがわかる。
どういうわけか、上瞼が降りてくれない。

白石の頬はもう、熱を失っている。

「ところで君、好きなドーナツは……?」
「え?」
「ですから、好きなドーナツ……」

なぜだ。
なぜ、そんなことを聞く……?

どぎまぎして呼吸を忘れた。
──苦しい
咄嗟に息を吸おうとしたが、空気が入っていかなかった。
──苦しい!
そのはずだ。
肺はもう、満たされていたのだから。

「断じてない!違う!」

暴れていた鼓動から、乱れている呼吸、絡まりに絡まった思考。
その全てを吐き出した。

「あれ、また、、間違えましたか……」
白石は消しゴムへ手を伸ばす。
俺は視線を手元に落とした。

「消すな!」

伏せたままの携帯が、再び短く震えた。
「合ってる。」
「そうですか。」

水素は正しく爆発した。
音もなく。

白石の、少しだけ驚いたような瞳を俺は見なかったことにした。


【習作】です。
書きたいことの半分も書けていない。


これは完結済みの、井上と白石シリーズ。


川端康成ィ!


このクソ暑いのに大正時代は冬真っ只中にある。


このクソ暑いのに貝原瑞樹はコートを着込む。、


【エッセイ】
一年くらい前の。


ゆきお様・解説
なぜ化学だったのか。
それを明らかにしてくださっています。

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