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愛なんて探しはしない… リチャード・ブルックス監督『ミスター・グッドバーを探して』

初めて観た時から、なぜか心に残り続けている映画があります。

ストーリーそのものよりも、そこに流れていた空気や、
言葉にならない感情だけが、長いあいだ胸の奥に沈み続けている…
そんな作品です。私にとって、その一本が
『ミスター・グッドバーを探して』(1977年)でした。

《スタッフ》
◎監督・脚本:リチャード・ブルックス
◎製作:フレディ・フィールズ
◎原作:ジュディス・ロスナー
◎撮影:ウィリアム・A・フレイカー
◎編集:ジョージ・グレンヴィル
◎音楽:アーティ・ケーン

《キャスト》
◎ダイアン・キートン
◎アラン・フェインスタイン
◎リチャード・カイリー
◎チューズデイ・ウェルド
◎トム・ベレンジャー
◎ウィリアム・アザートン
◎リチャード・ギア

この作品は、1970年代のニューヨークを舞台に、孤独と不安を抱えながら
生きる一人の女性の姿を描いた作品です。

主人公テレサを演じるのはダイアン・キートン。
聾唖学校で働く真面目な教師でありながら、夜になると酒場を渡り歩き、
行きずりの男たちと関係を重ねていく女性です。

一見すると、彼女は“自由”を手に入れた女性に見えます。
けれど、この映画を観ていると、その自由がどこか危うく、
空虚で、壊れやすいものに見えてくるのです。

テレサは子ども時代、ポリオによって長い闘病生活を送った
過去を持っています。

いつまた身体が壊れてしまうかわからない…
そんな不安が、彼女の人生の底にずっと沈んでいる。

だからこそ彼女は、“今この瞬間だけでも生きている実感が欲しい”と
願うように、夜の街へ向かっていたのかもしれません。

この映画が恐ろしいのは、テレサを特別な存在として
描いていないところです。

彼女は壊れた人間ではありません。
むしろ、1970年代という時代の空気を、
ごく普通に吸い込んで生きている女性として描かれている。

仕事を持ち、独立し、男に縛られず、自由に生きる。
当時の“新しい女性像”を体現しているようにも見えるのです。

しかし、その自由の裏側には、どうしようもない孤独がある。

誰かと肌を重ねても、心の空白は埋まらない。
快楽に溺れているように見えながら、彼女はずっと何かに怯えている。

この映画を単純に「愚かな女の転落劇」と片付けてしまうことは簡単です。
実際、そういう感想も少なくありません。

けれど私は、この作品はもっと痛切な映画だと思っています。
これは、“自由になったはずの時代”の中で、
それでも孤独から逃れられなかった人間の物語なのです。

ダイアン・キートンの演技がまた素晴らしい。
熱演というより、あまりにも自然。
笑顔も、倦怠も、投げやりな仕草も、どこか現実の匂いがする。

だからこそ観ていて苦しい。
彼女は決して破滅を望んでいるわけではない。
むしろ幸せになりたいと願っている。

ただ、その幸せへ向かう方法が、わからなくなってしまっているのです。

リチャード・ブルックス監督の演出も見事でした。
過剰に煽ることなく、感情を静かに積み重ねていく。
派手な演出ではなく、人間の内側に潜む不安や孤独を、
じわじわと滲ませていくんですね。

だからラストが恐ろしい。
ショックを与えるための結末ではなく、
あの時代が抱えていた歪みや危うさが、
最後に一気に噴き出してしまったように感じるのです。

『ミスター・グッドバーを探して』は、単なる性愛映画でも、
転落ドラマでもありません。

それは、“自由”を手にしたはずの人間の孤独を描いた映画です。

あの時代、人々は古い価値観から解き放たれたのかもしれません。
けれど同時に、誰にも埋められない空白まで抱え込んでしまった。

そして今観ると、その孤独は、むしろ現代のほうが
身近になってしまった気がするのです。

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