第12章 読者への挑戦の意義とフェアプレイ性について(執筆中)

※申し訳ありませんが、本章は未完成の暫定版を公開しています。今後、内容を若干修正する予定です。(2025年12月8日)

本章では、「読者への挑戦」とはどういう意味を持っているのかについて法月先生による「初期クイーン論」をベースにして、筆者のオリジナルな考え方も付け加えて説明します。また、「読者への挑戦」に付随して法月先生が論じているフェアプレイ性についても説明をいたします。
※内容を大幅に改定しました。2025年11月4日


1.そもそも「読者への挑戦方式」とはどういう方式なのか(初期クイーン論で示されている「読者への挑戦」の役割)

 法月先生の説によれば、「読者への挑戦方式」は、「フェアプレイ性」を確定する目的で導入された方式です。
>要するに、クイーンにとって<フェアプレイの原則>が意味するものは、「作者」の恣意性の禁止に他ならない。
>「作者」の恣意性(中略)を禁止することによって、「本格推理小説」というゲーム空間=閉じた形式体系が成立する。
(文献2-1、188頁)

 当然のことながら、この方法は、単に、「読者への挑戦」というページを書籍の適切な位置に配置すればそれで完成というものではありません。初期クイーン論によれば、「読者への挑戦」の示す意図とて、以下1)~3) を示しています。

1) 解決編で探偵がひとりよがりのご都合主義的な推理をしない
2) (「読者への挑戦」の頁以降では)「作者」が恣意的に物語の帰趨を操作し、予測不可能な犯人を指名するような新たなデータを追加しない
(以上、引用文献2-1、188頁)
※法月先生は、これらを「作者の恣意性の禁止」であるとし、クイーン氏にとっての「フェアプレイの原則」とは、「作者」の恣意性の禁止に他ならないと論じています。いわば、作者が自主的にルール(禁止事項、縛り)を設け、そのルールを守ることを作者が読者に宣言したと言えます。

3) 読者が「作者―探偵」を恣意的に追い越すこと(「あて推量」)の禁止 
(同191頁)
※これは読者に課せられた禁止事項であると法月先生は論じています。これは、作者から読者への要請(ルール、禁止事項、縛り)といえます。
 以上のように、「読者への挑戦」の役割には、作者に課せられたルール(禁止事項)と、読者に課せられたルール(禁止事項、縛り)があることがわかります。そして、前者はいわば、作者が決めた自主ルールです。一方、後者は作者から読者への要請ともいえます。

 すなわち、「読者への挑戦」とは、
・「作者は、自主的にいくつかのルール(禁止事項、縛り)を定め、それを遵守することでフェアな謎解き作品を構成します。」という作者の宣言と、
・「なので読者は、そのルールが守られている範囲でフェアであることをご理解ください、そのルールの範囲外のことを持ち出して、フェアでないと主張するのは自粛ください。」という作者から読者への要請(縛り)
であるとみなせます。
・読者への挑戦とは、上記を作者と読者で合意したものとみなすことができます。

 以上1)~3) が法月先生が「初期クイーン論」で明示した「読者への挑戦」の意図であり、法月先生は、作者と読者の間の相互に禁止事項を設けることで、フェアで閉じた謎解き空間が完成した(ように見える)、と論じています。

なお、「初期クイーン論」で法月先生は、「読者への挑戦」には、
4) 「図―地反転」のような不均衡(決定不可能性)を封じ込める役割があるとしています。(206~207頁)
 これは、読者への挑戦をルールとみなした場合、ルールそのものというよりも、ルールの応用であると考えられます。これは、次節であらためて取り上げます。

 「初期クイーン論」で説明されている項目は1)~4)のみですが、筆者は「読者の挑戦」には、1)~4)以外にも重要な役割があると考えております。
 それを次節以降で示します。

2.「読者への挑戦」の事例に立ち返っての法月先生論の検証

前節では、「読者への挑戦方式」に関して、法月先生が「初期クイーン論」内で論じている内容抜粋しました。
この法月先生の論を疑うわけではなきにしもあらずですが、念のため、「読者への挑戦」の事例に立ち返って、法月先生の整理の仕方に抜けや過剰がないかを確認したいと思います。
事例としては、エラリー・クイーン氏の以下の6作品をとりあげました。
本章末尾の脚注に抜粋いたしました。

(注1)「エジプト十字架の謎」(文献25)
(注2)「ギリシャ棺の謎」(文献21)
(注3)「チャイナオレンジの謎」(文献26)
(注4)「ローマ帽子の謎」(文献27)、
(注5)「中途の家」(文献28)、
(注6)「オランダ靴の謎」(文献2-1より転載)、

これらの中から「ルール的な部分」について書かれた内容を抜き出すと、以下になると思います。
1.解決に必要な事実をすべて提示している。
2.提示されていない事実は用いない(=与えられた材料を用いる)
3.唯一の解答が導ける
4.あてずっぽうではなく、論理的に推定する

以上の4項目について、次節でもう少し深掘りしてみます。

3.読者への挑戦の再検討

3-1.「1.解決に必要な事実をすべて提示している」

この節では、
[1] 解決に必要な事実をすべて提示している
について検討します。
これらが記載されている箇所を「読者への挑戦」から抜き出してみると、たとえば以下が該当します。

>読者が犯罪の正しい解決に必要な事実を知らされた場所で、読者諸君の智慧に挑戦する

1つだけ例として抜き出しましたが、(注1)~(注6)で抜粋したすべての「読者への挑戦」に、なんらかの同様な内容が必ず記載されています。
 そしてこれは、内容的には特に難しいものではなく、フェアな謎解き競争を行うための当然の内容に思えます。

逆に、必要な情報が提示されていないというのはどういうことか。
それは、問題編では証拠が十分に提示されておらず、したがって、その時点で犯人が決定できない状況となるでしょう。
それではそもそもフェアな謎解きは成立しません。
 なので、これを避けるため、問題編で証拠の不足はないことを作者が読者に保証することが必要です。すなわちこれは「1.証拠の充足性の保証」と表現できると思います

ここで、「証拠の充足性」というのは、主に作者に課せられた縛りとみなされます。作者が自主的にそのように作品を構成することで成し遂げられます。読者はそれを受け入れるということになります。

3-2.「2.提示されていない事実は用いない」

次に、
2.提示されていない情報は用いない
について検討しますが、この内容は、読者への挑戦にはっきりと記載はされておりません。関連する記載部分を抜き出すと、以下になります。

>正しい解決に必要な事実を知らされた場所で、読者諸君の智慧に挑戦する
>妥当な解答には、”もしも”とか”しかし”とかが介入する余地のない
>必要な事実をすべて手にしている
>必要ないっさいの事実を入手した
>必要な一切の事実を入手されている
>「あらゆる適切な事実」を入手されている

おおむね、「[1] 解決に必要な事実をすべて提示している」と同じ個所であり、厳密に申し上げれば、「必要な事実はすべて入手した」とは書かれていますが、「入手されていない事実を用いずに」とは書かれておりません。唯一それに該当しそうな記述が「妥当な解答には、”もしも”とか”しかし”とかが介入する余地のない」とはなります。

ただ、直接そのまま書かれてはいないものの、「必要な事実はすべて提示した」の意味するところは「提示されていない事実を用いずに」を含んでいると解釈するのが妥当であると考えます。なぜなら、提示された事実以外を使うのであれば、それは、「必要な事実がすべてある」という縛りを破ることになるからです。

なので、「1.解決に必要な事実をすべて提示している」と「2.提示されていない事実は用いない」はセットであると考えてよいと思います。

ところで、「2.提示されていない事実は用いない」という縛りはなぜ必要なのか。それは、問題編では証拠は十分に提示されており、それらの証拠で犯人は合理的に推測できる状況であったとしても、解決編で新たな情報が追加されることで、別の(予測不能な)犯人が指名されることが起こりうるからです。
しかし、ここで、「そんなことありうるのか」と疑問いう疑問が生じます。
すなわち、「すでに証拠が十分に提示され足りているのであれば、それで犯人は確定するはずなのに、なぜ、新たな証拠が追加されると、別の犯人が指名されることがありうるのか?」という疑問です。

 この疑問に対する回答は、以下となります。
 一般に本格ミステリーの多くの作品では、問題編では、確かに、証拠は十分足りていたかもしれませんが、「解釈」が完全には確定していない証拠が1つないし複数存在している状況なのです。しかし、解釈が完全に確定されていない証拠であっても、問題編の時点で、あるなんらかの解釈が正しい解釈であると選択されています。要は、「暫定的な、みなし真実」が解釈として選定されているわけです。そしてその「みなし真実」に基づいて、犯人は唯一に特定できるのです。
 ここで、解決編で新しい証拠や情報が提示されたとして、その情報によって、ある証拠の正しい解釈が変わってしまったとします(厳密には、その証拠の「みなし真実」とされた解釈が実は真実ではなく、別の解釈が真相であると確定されます)。その結果、新たな解釈を採用して真相を解明すると、問題編時点での情報(みなし真実を含む情報)で特定された犯人とは別の登場人物が真犯人とされる、という状況が発生しうるのです。

そして、このような状況とは、「後期クイーン的問題」(ここでは、探偵が推理に用いる証拠の解釈の正誤(証拠の真偽)の決定不可能性)に関連した問題です。本格ミステリーでは、原則、この「証拠の解釈の正誤(証拠の真偽)の決定不可能性」が避けられません。作中に現れる全部の証拠の解釈(または証拠の真偽)が正しく確定されると保証がされません(どうしても一部の証拠は解釈が確定できないままです)。その場合であっても、本格ミステリーでは、問題編において「暫定的な仮の解釈」が正しい解釈(みなし真実)として採用されているわけです。

なので、ほとんどの本格ミステリー作品では、もしも解答編で新たな情報が追加されると、暫定的に決まっていた証拠の解釈が覆されてしまう危険性があります(たとえば、真の証拠と思われていた証拠が犯人の偽装であったというような「覆し」が起こり得ます)。
ほとんどの作品でそのような「余地」が存在するのです。
その結果、問題編の証拠だけを用いたならAが犯人と指名されますが、あらた情報の追加によって実はBが犯人だという変化が起こりうるわけです。それが本格ミステリーの特質であり脆弱性なのです。

このような状況を避けるために、読者への挑戦方式が用いられているといえます。すなわち、「読者への挑戦方式」では、もうこれ以上情報はない、と宣言することで、証拠の解釈の正誤の決定不可能性(もしくは証拠の真偽の決定不可能性)に決着をつけているわけです。すなわち、この宣言によって、問題編の最後の段階で暫定的に決定されている証拠の解釈(みなし真実)を実際の真実と確定し、これ以上変えないという宣言をするとともに、それを読者に受け入れてもらうよう要請するものです。

これを、「証拠の完全性(=これ以上ない、これですべて)」と表現することとします。

前節で、「証拠の充足性」は作者に課せられた縛りであると説明しました。
一方、「証拠の完全性」というのは、作者だけの縛りではありません。こちらは、問題編で提示された証拠以外には推理に情報を使いませんという意味ですが、それは、「読者は、問題編に書かれていない情報を使った推理をしないでほしい(問題編に書かれていない情報を用いた解決を真相であると主張しないでほしい)」という、作者から読者への要請ともなります。
そのように、「証拠の充足性」と「証拠の完全性」は、向け先が異なるという違いが存在しています。

3-3.「3.唯一の解答が導ける」とはどういう状況か

唯一の解答が導けるというのは、どういうことか。
一見、単純かつあたりまえのことでありながら、このまま厳密に定義づけするには非常にとらえどころのない内容だともいえます。
ですが、実はやはり単純なのです。
これは、逆の見方をして、「解決が一意に決まらないとはどういう場合なのか」を考えれば簡単に見えてくることだと思います。

解決が一意に決まらないというのは、一番単純には、犯人がAかBか決まらないということですから(もちろん、他のケースもいろいろありますが)、情報(証拠、事実)が不足していることにほかなりません

ということは、第3-1節で説明した「証拠の充足性」とほとんど同じ意味となります。
解決が一意に決まることが成立す条件は、問題編で提示される「証拠のセット」が不足せずにそろっているということです。

また、もうひとつ、解決の一意性を保証するには、ある証拠はAを犯人と指し示し、ある証拠はBを犯人であると指し示すような、互いに矛盾する証拠が存在することもNGでしょう。もし、そのような矛盾があれば、「解決」が存在しなくなってしまいます。
 なので、解決の一意性には、証拠の無矛盾性も含まれているといえます。問題編で提示される「証拠のセット」が互いに矛盾していないようにそろっているということになります。
※「無矛盾性の保証」は、厳密には解決の一意性の保証というよりも、「解が存在することの保証」と言えるかもしれません。

以上から、解決の一意性というのは、証拠のそろえ方の問題(証拠の充足性と無矛盾性)に帰着できることが明確になりました。
そしてこれらは、どちらも、(作者から読者への要請ではなく)作者に課せられた縛りであると言えます。

そもそもが、証拠の一意性というのは、現実の世界では起こり得ません。あくまで、証拠の解釈が正しくなされていれば、という前提はありますが、そういう状況のもとで、ある証拠がAを犯人として指し示し、ある証拠がBを犯人と指し示すという現象はリアルの世界では物理的にありえないことです。もしあったとしたら、証拠の解釈に誤りがあるということです。
これが、フィクションであるミステリー作品ならあり得てしまいます。しかし、ミステリー作品の世界でも、リアルの世界にならって、矛盾する証拠を配置しないことを作者が縛りとして実施すればよいということになります。
これは、作品構成上特に問題となる縛りでもありませんし、リアルの世界にあわせるだけなので、さほど重要な縛りではありません。なので、証拠の充足性の一部に含めてよいと考えます。

3-4.「4.あてずっぽうではなく、論理的に推定する」

「読者への挑戦」には、あてずっぽうを用いず、論理的に推理する要請が記載されています。ただし、どのような推理が論理的であって、どのような推理は論理的でないのかという詳細な説明はありません。

これはすなわち、「本格ミステリーにおける論理性」に関しては、すでに作者と読者の間で暗黙の了解ができているという前提があるものと解釈されます。なので、論理の内容自体(すなわち、本格ミステリーで用いる「論理」自体)は、「読者への挑戦」の範囲外の自明のこととみなしてよいと考えられます(というか、そう考えるしかありません)。

※ちなみに本格ミステリーで探偵が使用する論理は、別稿「本格ミステリーで探偵が推理に用いるロジック「確率法」(仮称)とは?」にて、詳しく紹介しましたので、ここでは割愛します。ご興味あれば、以下を参考にしてください。
https://note.com/yuchan321/n/n0a75ecd29dd3

では、本格ミステリーにおける論理性自体が自明であるとするなら、なぜここであえて「ひとりよがりの推理」および「あて推量」を禁止しているのでしょうか。どういう意図でこれを加えているのでしょうか。

それは、ひとつには、読者に対して「論理的であることを念押しした」と考えられます。なので、これは読者への要請となります。

もう一つの意図は、作者(すなわち探偵)が推理の際に「論理の飛躍」を用いていないことを保証したものと考えられます。これは作者に課せられた縛りです。

 では「論理の飛躍(あて推量)」とは何か。
 「論理の飛躍」の非常に単純な例として、「容疑者がAとBの2人いるにもかかわらず、根拠なく容疑者Aを犯人と断定した」というケースが想定されます。
 これらがなぜ論理の飛躍になるのかというと、Bが真犯人である可能性をすっ飛ばしているから「飛躍」ということになります。
 そして内容的には、Bが犯人でないこと、または、犯人がAである根拠が示されていないという状況になります。これは、仮に作者の準備した真相が、Aが犯人であったとしても、これは論理の飛躍になります。

 では、「犯人がAである根拠が示されていない」というのはどういう状況で起こるか。主には以下の2つのケースに集約されます。
1) 問題編で提示された証拠が不足していた。
2) 問題編で提示された証拠は足りていたが、提示された証拠の一部を解決編では用いなかった。
※論理の飛躍が、作者の構成ミスで生じることもありますが、これは個別作品における作者の技量の問題であって、本格ミステリー「謎ー解明」の構成の問題とはまったく別次元の問題なので、ここでは取り上げません。

1) は証拠が不足していたということですから、すでに説明したように、「証拠の充足性」に帰着できると考えられます。証拠が不足が原因で、その結果、論理の飛躍が起こったと考えられるのです。

証拠が不足しているにもかかわらず、探偵が解決編で犯人をAであると断定したなら、探偵は以下の処理のいずれかを行ったと考えられます。
・解決編で新たな証拠(情報)を提示しそれを用いる
・証拠以外の曖昧な情報を用いてAを犯人と断定する
・確固たる証拠なしにAを犯人と断定する。
 ただし、2番目、3番目も、探偵の脳内では自分がちゃんとした情報を用いて推理していると考えているわけですので、どちらも広い意味で1番目に含まれるとしてよいと考えます。
 よって、探偵の論理の飛躍とは、解決編で新たな証拠(もしくは情報)を付け加えることに帰着できます。これは、結果としては証拠の完全性の保証のルールからの逸脱であり、原因としては、証拠の不足のために起こることです。原因が「証拠の完全性の不備」と結果的に「証拠の完全性からの逸脱」となります。なので、作者側の縛りとしては、原因となる「証拠の充足性」が問題であると帰着できます。
※なお、本章では詳しく説明しませんが、探偵が本格ミステリーで推理(証拠の解釈や論証)に用いるロジックには、「一般常識や一般的科学知識、起こりうる事象の可能性」などを根拠とすること、すなわち、「作者と読者の間での常識の共有」が暗黙の了解とされています。なので、「論理の飛躍」には、「作者と読者の間での常識の共有」を超えた情報が用いられているケースも含まれます。すなわち、「常識からの逸脱」が、原因となって「論理の飛躍」が起こる場合があります。このケースは、「証拠の不足」とは微妙に異なる状況とも言えます。
 ただし、これは、「読者への挑戦方式」で省略された「ロジック」の問題となりますので(もしくは、広い意味では「証拠不足、情報不足」とも考えられますので)、ここでは踏み込みません。
「常識からの逸脱」については、別稿(確率法)にて詳しく説明しております。

2) は、証拠が提示されているにもかかわらず、その証拠を無視して用いず、別の証拠を用いて推理するものです。問題編で提示されていない情報を用いるということですから、これは、「証拠の完全性からの逸脱」となると思います。
探偵がこれをすることは(絶対ないとはいえませんが)あまり起こり得ないことだと思います。もしあったならそれは作品の不備となってしまいます。なので、これは読者が行いがちなことと言えます。

何等かの根拠が後付けで使用されているか、客観性のない根拠が使用されているということになるでしょう。

 (探偵の)論理の飛躍の排除は、作者への縛りとなります。本格ミステリー作品は、ミステリーに用いられている論理を用いて、探偵のひとりよがりの推理にならずに真相が導かれるための十分な証拠を問題編までにそろえていること(すなわち、証拠の充足性)が作者に課せられた縛りなのです。

 「読者はあて推量をしない」というのは、作者から読者への要請といえます。「作者は、論理的に矛盾なく解決が導けるように証拠を不足なく準備しました。なので、読者はその証拠を無視してあて推量を行うのではなく、提示された証拠を用いて(論理的に)解決を導いてください」という要請といえます。これを言い換えれば、作者から読者への「証拠の完全性の順守(受け入れ)要請」ということになります。

以上のように、簡単な検討ではありますが、「探偵のひとりよがりの推理の禁止」は、作者側の問題として「証拠の充足性」の問題に帰着できること、また、「読者のあて推量の禁止」は、作者から読者への「証拠の完全性の受け入れ要請」であることが明確になりました。

3-5.読者への挑戦方式のまとめ

ここまでの検討により、読者への挑戦方式とは、「作者の義務(作者から読者への保証)」と「作者から読者への要請」の2種類で成り立っていることが明確になりました。そしてそれぞれの内容は以下となります。
1.作者の義務
 「証拠の充足性、無矛盾性、および、完全性」の保証
※特に、充足性、無矛盾性が重要項目です。
すなわち、作者は読者へ以下を保証しています。
・証拠は唯一の真相を導出するのに不足なく提示されている
・提示された証拠は互いに矛盾しない内容となっている
・よって提示された証拠で論理的に真相が一意に決まる
・真相の導出(探偵の推理)には提示されていない証拠は用いていない

2.作者から読者への要請
 「証拠の充足性、無矛盾性、および、完全性」の受け入れ要請
※特に、完全性が重要項目です。
すなわち、作者は読者へ以下を要請しています
 ・証拠は問題編に記載された内容がすべてであり、それ以上の情報は存在しない(問題編に書かれている情報を用い、書かれていない情報を用いた解決を真相としない)ことを受け入れること。

「読者への挑戦」とは、まずは作者が、証拠をどのようにそろえたか(=充足性、無矛盾性を満たすようにそろえているという内容)を読者に「保証」するものです。さらに探偵は真相解明にあたり、提示されていない証拠を用いないこと(=完全性)を保証しています。少なくとも、普通に読めば、そのように書かれていますし、それでよいように思います。

その一方で、作者は読者に対して、「証拠の完全性、充足性、および無矛盾性」の順守(受け入れ)を要請しています。特に、あて推量をしないこと、すなわち、完全性から逸脱しないことを要請しています。

。ので、「読者への挑戦方式」で作者にとって一番重要なのは、「証拠の完全性の受け入れ要請」すなわち、「読者は、推理するにあたり、問題編に書かれていない事実を使わないでほしいという要請」ではないでしょうか
これを読者に認めてもらうことが、作者にとっての「読者への挑戦方式」のキーポイントになると筆者は考えます。
以上を簡単に表にまとめると以下になります。

3-6.法月先生の見解との対応

前節までに筆者がまとめた内容と、法月先生の論をあらためて以下に記載します。
【筆者による整理】
[1] 作者から読者への保証(作者の義務)
 証拠の充足性、無矛盾性、完全性の保証
[2] 作者から読者への要請
 証拠の充足性、無矛盾性、完全性の受け入れ要請

【法月先生による整理】
1) 探偵がひとりよがりの推理をしない
2) 作者が恣意的に新たなデータを追加しない
3) 読者のあて推量の禁止 

両者を対応させてみると、以下になります。
※筆者による整理は、重要項目を太字にて記載しました。

簡単に説明いたします。
まず、(筆者の整理による)「証拠の充足性と無矛盾性の保証」は、法月先生の整理の仕方では、
1) 探偵がひとりよがりの推理をしない
2) 作者が解決編で恣意的に新たなデータを追加しない
という表現に落とし込まれています。これも表現は異なります(というか、着眼点がことなりますが)おおむね同じ意味あいではあります。原因で整理したか、結果で整理したかの違いとなります。

ただし、筆者は、いくつかの違和感を覚えます。

 「作者が解決編で恣意的に新たなデータを追加しない」という法月先生の整理の仕方は、「問題編で必要なすべての証拠がそろっていて、これ以上の情報は使わない」という内容を簡略化した裏返しの表現であるといえます。しかし、そのように簡略化したため、かえってわかりにくくしてしまったと筆者は考えます。ここは、「読者への挑戦」の事例どおり、「問題編で必要なすべての証拠がそろっていて(充足性)、これ以上の情報は使わない(使ってはいけない=完全性)」という表現を尊重すべきだったと考えます。また、「恣意性の禁止」という表現よりも「充足性の保証」という表現のほうがより適切かと思います。

 特に、「恣意的」という表現は曖昧なので適切でないと感じます。
この点については、別稿にて改めて検討したいと思います。

(筆者の整理による)「証拠の充足性と無矛盾性の受け入れ要請」は、法月先生の説明では、「3) 読者のあて推量の禁止」に落とし込まれており、両者はほぼ一致していると考えます。なぜなら両者は因果関係にあるからです。筆者の整理は原因のほうでまとめてあり、法月先生の整理は結果のほうでまとめてあるといえます。

 ここまでは内容というよりも表現の問題です。しかし、以下は内容的な問題となります。


 (筆者の整理による)「証拠の完全性の要請」は、法月先生の「読者への挑戦」の説明から欠落しています。しいて言えば、「3) 読者のあて推量の禁止」が対応項目ですが、この表現で証拠の完全性の要請」が十分に説明できているとは考えにくい部分があり、実質的には欠落といえます。

前節で説明しましたように、この要請は、「読者への挑戦」で最も重要なキーポイントであると筆者は考えます。それが欠落しているのは、法月先生が気が付かなかったのか、それとも、「あえて」「わざと」書かなかったのかはわかりませんが、非常に重要な欠落であると考えます。

「あえて(わざと)書かなかった」というのがどういうことかと申しますと、法月先生は「初期クイーン論」で主張するように、「偽の証拠」などを原因とする「無限階段」が生じると「作者の恣意性が避けられなくなる」と主張しております。それが後に「後期クイーン的問題」と呼ばれるようになりました。
そして、この論を主張するには、「読者への挑戦」の役割の中に「証拠の完全性の要請」を入れてしまうと、不都合が生じるからです。そのため、あえて「証拠の完全性の要請」を「読者への挑戦」の役割の中に含めなかったのではないかと筆者は想像します。もしも、あえて書かなかったのであれば、それが理由になります。
もしくは、あえて書かなかったのではなく、単に見落としていただけかもしれません。

ちなみに、無限階段を断ち切るために用いる作者の恣意性とは、筆者の整理では「証拠の充足性」に相当します。「証拠の充足性」がえられていないために「作者の恣意性」が発動するわけです。
しかし、普通に考えて、「無限階段」が生じたとしても、「証拠の充足性」が避けられないとは考えにくいです。作者の裁量で普通に達成可能であるとも思えます。達成できなくなるとは思えません。
仮に、法月先生の無限階段を断ち切るために発動する「作者の恣意性」が「証拠の充足性からの逸脱」であるなら、それは少々論が強引であると筆者は考えますが、このあたりは、本章ではこれ以上踏み込まず、別稿にて改めて検討することとします。

3.フェアプレイ性は誰が判断し、誰にとって問題になるのか

 もう少しだけ論を進めます。
 読者への挑戦は、本格ミステリーでのフェアプレイ性を明示し担保するための方式であると法月先生は論じています。
 また、筆者は、前章までで、「偽の証拠など」を扱うミステリーではフェアプレイ性が保たれないことが問題になるという説明をいたしました。

 ところで、フェアプレイ性(ある作品がフェアかどうか)はいったい誰がどうやって判断するのか。また、フェアであるかどうかは誰にとって問題となるのか。

 まず、どうやって判断するか、ですが、筆者も第7-5章(未公開)にて、フェアプレーについて若干の考察を行い、フェアかどうかの判定方法のひとつを提案しております。
 しかし、これはあくまでひとつの案であり、私見の域を出ません。誰でもが納得するようなフェアプレー性を判断する基準や方式は、現時点では存在しないと思います。

 ただし、誰が決めるかというのは明らかです。それは読者が決めるものです。作者でもなければ出版社でもありません。読者がフェアと感じたならフェアだし、アンフェアと感じたならアンフェアです。読者の中でも意見が分かれて決着がつかないことは往々にしてありますし、多数決で決めるものではありませんが、決めるのが読者であることは間違いないと思います。

 では、読者がある作品をアンフェアだと判断したときに、それは問題だと感じるのは誰でしょうか。それはいうまでもなく、「作者」です。
 自分の意図としてフェアな本格ミステリーを作り上げたはずなのに、いざ出版してみたら読者にフェアでないと判定されたとなったら、作者として面白いはずがありません。そういう状況は避けなければなりません。

 もちろん、いろいろなケースがあって、自分の作品がアンフェアだとされて論争になって炎上し、作品がバカ売れした、ということであれば、結果オーライで喜ぶ作家もいるかもしれません。最初からそれを狙っている作家もいるかもしれません。そのあたりは様々です。

 しかし、作家がフェアな本格ミステリー作品を意図して制作したつもりなら、読者にフェアであると受け止めてもらうのが第一義的には理想となるはずです。

 といったとき、「読者への挑戦方式」さえ守っていればフェアプレイ性には問題ないはずだと考えて前衛的な作品にチャレンジしてみたら、実はフェアプレイ性が怪しくなってきた、という現象が生じたのであれば、それは、作家として問題となるのではないでしょうか。

 という中で法月先生の主張が正しいのであれば、「偽の証拠」などをテーマとした作品(無限階段が生じるメタ・ミステリーのような作品)では、「読者への挑戦方式」を守っていても、読者がフェアでないと感じてしまう危険性を孕んでいるわけです。となると、作家にとってそこに問題であるとならざるを得ません。

少々話が拡散してしまいました。
この節にて筆者が申し上げたかったことは、
・フェアプレイかどうかを決めるのは読者
・しかし、フェアプレイでないことが問題となるのは作者
・なので、作者は(フェアプレイ性を保つのであれば)読者がフェアプレイでないと判断しないような作品を構成しなければならない
・読者にフェアプレイであるとみなしてもらえるルールが「読者への挑戦方式」といえる。
・なので、その「読者への挑戦方式」が有効でなくなるのは、「作者」にとって問題となる。(さしあたって、読者にとって問題となるものではない)

4.フェアでないことはそんなに問題なのか

 本格ミステリー作家にとって、自分の作品がフェアでないと判断されることがそんなに問題なのか?というツッコミはあるかもしれません。そこはミステリー作家でない筆者には何とも判断つきません。
 しかしそれは、論評文「初期クイーン論」での法月先生による「仮定」もしくは「設定」と考えればよいと思います。あくまで、もしも本気でフェアな本格ミステリーを創作しようとするのであれば、とくに本格ミステリーの限界を攻める作品にチャレンジするのであれば、そういう問題が起こりますよ、という問題提起です。

 とはいいつつも、おそらく、法月先生は、この問題が大問題であるとはまったく思ってなかったはずです。筆者はそう考えます。

5.まとめ

本章第12章では、
・「読者への挑戦方式」の役割について、および、
・フェアプレイ性は誰が判断し誰にとって問題となるのか
についての説明をいたしました。

「読者への挑戦方式」は、作者の義務(すなわち、作者が読者に保証すること)と、作者から読者への要請の2種類によって成り立っています。
そして、その2種類の具体的内容は以下となります。

1.作者の義務(宣言)
 「証拠の充足性(解決の一意性)」および「証拠の無矛盾性」の保証

すなわち、作者は読者へ以下を保証しています。
・証拠は真相を導出するのに不足なく提示されている
・提示された証拠は互いに矛盾しない内容となっている
・よって提示された証拠で論理的に真相が一意に決まる

2.作者から読者への要請
 「証拠の充足性、無矛盾性、および、完全性」の受け入れ要請

すなわち、作者は読者へ以下を要請しています。
 ・証拠は問題編に記載された内容がすべてであり、それ以上の情報は存在しない(問題編に書かれている情報を用い、書かれていない情報を用いた解決を真相としない)ことを受け入れること。
※特に完全性の受け入れ要請(証拠はこれ以上ないことを読者に了解してもらうこと)が「読者への挑戦方式」での作者にとっての一番のキーポイントになると考えられます。

【引用文献】
文献2-1 法月綸太郎「複雑な殺人芸術」(講談社、2007年)「初期クイーン論」(初出1995年)
文献7 小森健太郎「探偵小説の論理学」(南雲堂、2007年)
文献10 飯城勇三「エラリー・クイーン論」(論創社、2010年9月30日初版) 


【脚注】クイーン氏6作品の「読者への挑戦」の抜粋

注1 「エジプト十字架の謎」(文献25)の「読者への挑戦」(全文)
>読者への挑戦
>犯人は誰でしょうか?
>わたしの小説では、読者が犯罪の正しい解決に必要な事実を知らされた場所で、読者諸君の智慧に挑戦するのが、これまでの習わしでした。『エジプト十字架の秘密』もまた、例外ではありません。与えられた材料から厳密な論理と演繹法とを駆使することによって、諸君はいま、単なる当て推量ではなく、犯人がだれであるかを”立証”することができるのです。
>この唯一の妥当な解答には、”もしも”とか”しかし”とかが介入する余地のないことが、以下の解決の章を読んでいただければ、おわかりになるでしょう。
>ではーー論理には運の助けは不必要なものではありますがーー諸君が巧みに推理し、うまくお当てになることを祈ります。
>エラリー・クイーン

注2 「ギリシア棺の謎」(文献21)の「読者への挑戦」(抜粋)
>読者への挑戦状 
>『ギリシア棺の謎』の物語におけるこの時点で恒例の、読者諸氏の叡智に対する挑戦状をはさみこむことができるのは、私にとって筆舌につくしがたい喜びである。(中略)
>容赦なき読者諸氏よ、すでにあなたがたはこの三位一体の謎ーーすなわち、アルバート・グリムショーを考察し、ギルバート・スローンを射殺し、ジェイムス・ノックスの絵画を盗んだのは、何者なのかという謎のーー唯一の正解にいたるための必要な事実をすべて手にしている

注3 「チャイナオレンジの謎」(文献26)の「読者への挑戦」(抜粋)
>読者への挑戦 (中略)
>私は皆さんに提出します・・・<挑戦>を。(中略)あなた方が「中国切手殺人事件」をここまで読んでくれば、事件を明快に解決するために必要不可欠な手がかりは全部手に入ったものと、私は確信します。あなた方は、今、ここで、この先を、つまり、ドナルド・カークの控室で、名なしの小男が殺された事件の謎を解くことができるはずです。材料は全部そろっています。重要な手がかりや事実はひとつも欠けていません。それらを全部まとめあげて(中略)論理的推理を働かせながら、唯一の可能な解決点に達することが、あなた方にはできるでしょうか。

注4 「ローマ帽子の謎」(文献27)の「読者への挑戦」(抜粋)
>幕あい では謹んで読者の注意を喚起すること (中略)
>《だれがモンティー・フィールドを殺したか》《いかにして殺人が行われたか》・・・敏感な、謎解き物語の研究者は、必要ないっさいの事実を入手した今、本小説のこの段階で、提出された質問に対し、すでに決定的な結論に到達しているはずだ(中略)。解答ーーあるいは、誤りなく犯人を指摘するにたりるだけの解答ーーは、一連の論理的推理と心理的観察とによって到達しうるはずである。

注5 「中途の家」(文献28)の「読者への挑戦」(抜粋)
>ここでいつものとおり読者に挑戦する (中略)
>作者はそれぞれゲームの規則をきめるにあたっては、当人自らがホイルであり、この基本的事実については、われわれはすべて、どうやら見解を同じくしている。しかし、どんな推理小説でも、登場人物の数がかぎられているので、あてずっぽうでも当たるチャンスがあり、それは不公平である。
>何年にもわたって、私は(中略)読者にたいし、その当てずっぽう癖を雄々しくも抑制して、ゲームを科学的に進めることを嘆願してきた。(中略)
>物語のこの段階で、諸君は、この犯罪の完全な解決を構成するに必要な一切の事実を入手されている。諸君の仕事は最重要な手がかりを抜きだして、それを合理的に総合し、そこから唯一可能な犯人を推定するにある。それはなしうることであり、諸君がやがて知らされるようにすでに成し遂げられたのである。

注6 「オランダ靴の謎」の「読者への挑戦」(文献2-1、187頁より抜粋)
>読者はいまや、ドールンとジャニー殺しの正しい解決にとってかんじんな、「あらゆる適切な事実」を入手されていることを、完全な誠実性をもって保証する
>与えられたデータについて、厳密な論理と反駁の余地のない推理とを駆使することによって、物語もここまでくると、エービゲール・ドールンとフランシス・ジャーニー博士を殺した犯人を指名するのは、読者にとっては、簡単なはずである。
>本事件の推理はきわめて自然であるが、鋭い、たゆむことを知らぬ思考を必要とする。


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