40年前、じいちゃんに川を教わった。今もまだ、続きをやっている。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
キャンプ場から20分ほど歩いた。
道志の奥地。
舗装が途切れ、獣道に変わる。
霧が森に溶け込んで、緑のトンネルが続いている。

仲間と2人、ザックを背負って歩く。
「今日はテンカラで行くか」
「水温低いからどうだろうな」
正解は誰も知らない。
でも、答えを探しに来ている。
それだけで、十分だ。
急な斜面を慎重に降りると、谷の空気が薄く冷えていた。
水音が思ったより近かった。
5月の道志は、緑が濃い。
白い砂底が透けて見えるほど水は澄んでいて、
新緑の広葉樹が水面に映り込んでいる。
苔むした岩が渓谷の両壁を埋め、
上を見上げると光がこぼれる世界がある。

ジブリの世界観、と言ってしまうのは安易かもしれないが、
それ以外の言葉が思い浮かばない場所だ。
でも僕の目は、その美しさをよそに、水の気配を読んでいた。
気温が昨日から10度下がっていた。
手を入れると、冷たい。
水温が低い。
岩魚たちはきっと岩陰にピッタリくっついている。
活性は低く、表層への反応は鈍いはずだ。
仲間ひとりはテンカラで、もうひとりは二刀流。
僕はこのコンディションを見て、ルアー一本で釣り切ることを決めた。
同じ川で、違う作戦。
それぞれの読みが交錯する日になった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
場所を変え、ルアーを変え、レンジを変えた。
表層、中層、ボトム。
上から通す、横から、下から。
あらゆる角度から攻める。
偏光サングラス越しに、岩陰をのぞく。
チェイスはある。魚は来ている。
岩陰からスッと出てきて、でも食わずに戻っていく。
悔しい。
と同時に、ワクワクする。

これが渓流釣りの、やめられない部分だ。
「食わない」は「いる」ということだ。
問題は、何が足りないかだ。
スピード?カラー?レンジ?
外れるたびに仮説を立て直す。
答えが出ないまま、また投げる。
ルアーを3種類替えた。
白泡の切れ目。
岩盤際のえぐれ。
水が立体的に動く場所。
「ここだ」と思った根拠は、理屈というより感覚に近い。
川を長く読んできた人間の、体に染み込んだ判断だ。
ひったくるようなアタリ。
来た。
細く柔らかい渓流用のロッドに、生命感が伝わってきた瞬間、
アドレナリンが爆発する。
慎重に、慎重に巻き上げる。
右手でロッドを立て、左手で腰のネットを素早く取る。
慌てるな。
決して慌てるな。
何度も過去に、慌てて大物を逃してきた。
魚がロッドを叩く感触がある。まだ元気だ。
アドレナリンが暴走しそうになるのを、ギリギリのところで抑える。
そして、すくった。
ネットの中で、綺麗な魚体の岩魚が躍動していた。

ルアーで読み切った1匹。
コンディションを見て、判断して、正解を引いた。
その事実が、釣果と同じくらいうれしかった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
渓流の美しさは、綺麗なだけじゃない。




岩の苔は雨上がりに輝き、
枝先から水滴が落ちて、
光がさす世界が広がる。
でも足元にはヒルが大量発生している(笑)。
美しさと、生々しさが同居している場所だ。
整備されていない、手つかずの自然。
だからこそ、ここに来る。
昼は苔むした岩の上で、川の音を聞きながらランチをとった。

濡れたウェーダーのまま岩に腰を下ろして食べる飯は、なぜかうまい。
場所と文脈が、味を作る。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
夜は、タープの下で宴会が始まった。
ランクル70の横に張ったタープ。
ランタンの灯りの下、日本酒を開ける。
イカ焼き、カレー飯。
川の音をBGMに、夜がふけていく。

反省会、と言っても内容は単純だ。
あの1匹はどこで出たか。
どうアプローチしたか。
どう食わせたか。
最高だった。
明日の朝はこう攻めよう、テンカラとルアーどっちが出るか。
話は尽きない。
日本酒が回ってくると、同じ話を繰り返し始める。
そのうち、針穴に糸が通らない話になった。
お互いの老眼の進み具合。
45歳を超えると、夜の渓流サイドでの仕掛け交換が修行になる(笑)。
おじさんたちの釣り談義は、気づけばただの老化報告会になっていた。
雨はずっと降り続いていた。
タープを叩く雨音を聞きながら、たわいもない話が続いた。
いつの間にか、なぜこの趣味を始めたのか、
原点はなんだったか、という話になっていた。
そこでふと、じいちゃんのことを思い出した。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
幼稚園に上がるか上がらないか、そのくらいの頃だった。
じいちゃんは厳しく寡黙で、逞しい山の男だった。
でも初孫だった僕には、とても優しかった。
ある夏の朝、「ついてこい」と言われて、
裏山を少し入った沢に連れて行ってもらった。
長靴で歩いた砂利道。
水の音が近づいてきたとき、なぜか胸が高鳴ったのを覚えている。
じいちゃんが延べ竿にミミズをつけて、川に垂らした。
しばらくして、竿先がピクッと動いた。
「引っ張れ」と言われて、両手で竿を持って引いた。
水の中から飛び出してきた小さな岩魚の、
あの躍動感を、今でも覚えている。
釣った魚は、庭先で炭火で焼いた。
じいちゃんが魚を串に刺して、炭の上に並べる。
ひとつひとつ、丁寧に。
「火は危ないから後ろで見ときなさい」と言われて、
言われた通り動かずに眺めていた。
夏の午後の庭先。
石垣と、緑の草と、白いランニングシャツのじいちゃんの背中。
魚から落ちる油が炭に落ちて、香ばしい匂いがした。
その匂いを、40年近く経った今でも覚えている。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
写真が1枚残っている。

串刺しの魚を炭火の前に並べるじいちゃんの隣で、
キャップをかぶった小さな僕がしゃがんで、
じっと魚を見つめている。
夏の午後。庭の石垣と、緑の草。
この1枚に、全部入っている気がした。
渓流に来るたびに感じるあの高揚感。
川を読んで、仮説を立てて、外して、また試す感覚。

ルアーかテンカラか、コンディションを見て判断を下すあの瞬間。
アドレナリンが爆発しそうになるのをギリギリ抑えながら
ランディングする時間。

夜、仲間と日本酒を飲みながら今日の1匹を語り合うこと。
全部、あの庭先から始まっていた。
じいちゃんは僕に、釣りを教えたわけじゃない。
川に連れて行ってくれただけだ。
でもそれで十分だった。
あの躍動感と、あの匂いが、僕の体に刷り込まれた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
翌朝も雨だった。
それでも川に入った。
雨上がりの渓流は、光がこぼれて別の顔を見せる。
苔が輝いて、水滴が枝から落ちて、森が息をしている。
仲間のテンカラで体高の高い山女が出た。
ネットの中で銀色に光る美しい魚体。
やっぱり美人だよねー、と思った。

2日間で岩魚も山女も、いい魚に遊んでもらった。
最後に2人で、霧の森を歩いて戻った。
「最高の2日間。また梅雨明けに」
それだけで十分だった。
じいちゃんがくれたものを、僕はまだ受け取り続けている。
川は、ずっとそこにあった。
──道志、5月。渓流ざんまいの2日間。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
最後まで読んでくれてありがとうございます。
スキ・フォローしていただけると、次の釣行記を書く燃料になります(笑)
「釣り行ったことある」「行ってみたい」など、気軽にコメントください。
