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<Essay>22本の釣り針

 マーク・トウェインの短編集『マーク・トウェイン短編集』(1961年 新潮文庫)には、少し長い「エスキモー娘のロマンス The Esquimau Maiden’s Romance」という1893年の作品がある。1893年といえば、2026年の現在からは133年前の大昔、日本でいえば明治25年になる。この時代に、既にアメリカはアラスカをロシアから購入し、先住民であるエスキモーと交流を始めたことが、作品の背景にある。

 ヨーロッパ系白人の移民によって作られた現在のアメリカには、先住民のインディアンがいたが、ヨーロッパから勝手にやってきた白人たちはインディアンたちとの戦争を繰り返して、次第にインディアンの土地を強奪していった。一方、既に開拓移民の時代を終えたヨーロッパから来た白人は、自分達が作り上げた国に対する自尊心からか、アラスカの先住民であるエスキモーに対してはインディアンのような対応をしなかった。もっと正確に言えば、インディアンに対するような掠奪戦争をする必要がなかったため(広大な氷原は、魅力ある土地ではなかった)、この作品にあるように、主に学術的な関心を持って接したようである。

 そうした背景を踏まえて、この作品では著者であるトウェインが一種の学術調査員として、エスキモーで一番の金持ちの家の娘から、彼女が経験したロマンス、というより許嫁が死んでしまった悲恋を聞きとるという構成になっている。その中で彼女―ラスカという名である―の家が如何に豪華な建築になっていて、また父親が如何に凄い金持ちかということを聞き出していく。しかし、豪華な家と言っても、それは氷の塊で作られており、家具らしいものはほとんどない。また高級な(しかし、エスキモーには価値の低い)毛皮が沢山あることが、アメリカの価値観から見れば豪華な装備品である。こうした単なる原始的な住居でしかないこの家について、トウェインは皮肉とユーモアを交えて聞き取っていく。そしてついに、ラスカの父が一番の金持ちだと見られている貴重な財産を教えてもらうことになった。

 それは、エスキモー古来の骨で作った釣り針ではなく、近代アメリカ文明では廉価なものでしかない鉄製の釣り針を、22本も持っていることだった。これが大金持ちであることを証明する貴重な財産だったのだ。トウェインは、これに対して故意に大げさに驚き(実際、その意外性に驚いたのだが)、今では差別発言と揶揄されるようなエスキモー文化を小馬鹿にしたような賛辞を伝える。これに対してラスカは、実は自分としては父が大金持ちであることは嬉しくないのだと告白する。なぜなら、父の財産目当てで求婚してくる男が多い上に、とても面白いとは思えない父の冗談に、多くの人が無理に笑うなど、財産を持っているが故に、人々が父に対して媚びへつらうのがわかるからだという。

 この文脈では、「たかが鉄製の釣り針22本を持っていることで、人々は金持ちとして尊敬するのか?」という、文明人としての見下した視点があることが読み取れるが、さらにその裏側には、文明社会で金持ちと見なされているもの(例えば貴金属、大邸宅、高級な自動車)も、ここで表現されている「鉄製の釣り針」と実は変わらないもの(どうでもよいガラクタ)かも知れないというメッセージが読み取れる。そして、そうした「鉄製の釣り針」のような「財産」を持っているだけで、アメリカ社会では大金持ちであると認められ、人々が彼ら大金持ちに媚びへつらっているということへの、痛烈な皮肉を伝えているように読める。むしろ、マーク・トウェインの作風や思想から考えれば、こうした近代アメリカ社会への風刺と批判が、この「鉄製の釣り針」に込められていると読み取るのが自然であろう。

 また、この作品を読む我々も、トウェインと同じような感想を抱くことになる。その感想とは、人の幸福とか、金持ちの基準などというのは、ここで描かれた「22本の鉄製の釣り針」のようなものでしかないのだ、ということだ(「いや、それでも貴金属や高級車は、釣り針なんかよりはるかに素晴らしいものだ!」、と反論する人はいるだろうが、そうした人の意見は本稿では無視させていただく)。物の価値とか値段というものは、需要と供給のバランスによって決まるだけで、その物自身には絶対的な価値など存在していない(貴金属で魚は釣れない、高級自動車で氷原は移動できない)。

 冷酷な現実は、人は物に対して、そうしたありもしない価値があると一方的に空想しているだけであり、また価値があると思い込んだ物を持っている人(あるいは自分自身)を、ただ持っているということだけで盲目的に崇拝し、尊敬しているだけだということなのだ。(もちろん、そうした空想の物であっても、それを必死に努力して収集し、大金持ちになった人の苦労を単純に否定するものではない。私が言いたいことは、価値とは絶対的なものではなく、相対的なものでしかないということなのだ。)

 しかし、ここで武者小路実篤のような教訓的なものを強く主張することは、風刺や諧謔を得意とするトウェインの主旨には合わないだろう。トウェインは、「所詮、人間なんて、人間社会なんて、そんないい加減なものなんだよ。」ということを伝え、同時にそれを面白がっているのだと、私は理解している。そう、財産なんて、人間なんて、文明なんて、みな吹けば飛ぶような軽いものでしかないのだ。


<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、短編小説集です。>


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きーやん(木下裕治) しがない年金生活の一方、健康状態の関係から身体を使う仕事は難しいため、趣味と実益を兼ねてnoteに様々な投稿をしています。皆さまからの私の投稿へのご支援をいただけることは、今後さらに多種多様な投稿を継続していくことにつながりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。