組織における「公私混同」を再定義する
『冒険する組織のつくりかた』を世に送り出してから、早いもので1年が経ちました。
本書の提案は、主に経営学的・心理学的な視点に基づいた「人間的・精神的な整合性」の回復を主眼に置いてきました。
軍隊型のマネジメントにおいては、人は戦略達成のための「ネジや歯車」として道具化されてしまいます。これに対し、人間が本来持っている「好奇心」や「野生」を尊重し、いかにして企業の「社会的ミッション」と共鳴させるか。
この「内的動機」と「外的価値」の整合性をデザインすることこそが、冒険する組織づくりの核心であると説いてきました。


しかし最近、この「内と外」を、社会学的な「公(おおやけ)と私(わたくし)」という二項対立で捉え直すと、この議論の解像度が上がり、別の洞察が得られるのではないかと感じています。
個人の内側から湧き上がる「これがやりたい」という衝動を、単なるモチベーションの問題ではなく、「私的な領域」として捉える。
そして、組織から求められる価値を「公的な領域」として捉える。この「公」と「私」の対立を歴史の文脈から紐解くと、私たちが囚われている「呪い」の正体が見えてきます。
昭和企業を支配した「滅私奉公」の亡霊
日本における「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」の概念は非常に古く、8世紀の律令国家の時代にはすでに使い分けられていたといいます。日本における「公」とは、西洋の「Public(開かれた広場・公共)」の意味合いではなく、自分たちを包み込む「大きな器」や「権威(お上)」としての性格が強い言葉です。
「公」と「私」は、基本的にははっきりと区別して、一緒くたにすべきではないとされます。この「公私の別」という考え方は、現代においてもビジネス倫理やマナーの根底に流れる、強力な指針となっています。国家公務員倫理法にも「常に公私の別を明らかに」すべきことが明記されています。
「公私混同をしない」という言葉は、本来は「会社の資金を私的な目的に使わない」とか「組織の意思決定や評価に私情を挟まない」といった、組織運営におけるフェアネスを担保するための真っ当な倫理観です。しかし、この美徳の裏側には、見過ごせないもう一つの言葉が潜んでいます。
それが、「滅私奉公(めっしほうこう)」です。
1940年代の戦時体制下で国民のスローガンとして定着したこの精神は、戦後、企業の文脈へと巧妙に読み替えられました。私的な生活や感情を殺し、会社という「公」に全てを捧げる。昭和の成功物語は、こうした長時間労働と自己犠牲を前提とした「企業戦士」を礼賛する価値観の上に成り立っていました。
僕が批判してきた「人間をネジ・歯車として扱う軍事的世界観」の正体は、まさにこの「私の領域の徹底的な排除」に他なりません。
仕事において「私的な欲望」は非倫理的かつ非合理的なノイズであり、組織では排除しなければいけない。あくまで人は「公的な貢献」のために己の資源を捧げなければならない。その「公への偏重」が、以下の記事でも指摘した「立身出世の解体」のきっかけでもありました。
生成AI時代に求められる「適切な公私混同」
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