見出し画像

差別という名の“安心”―映画『福田村事件』が映す人間の相転移

2023公開。上映時間:137分
監督:森達也
企画:荒井晴彦
脚本:佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦
出演:井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大、コムアイ  ほか

1923年の関東大震災の混乱の中、流言飛語をきっかけに9名(10名)の行商人が虐殺された――この史実をもとに、人間の恐怖と群集心理、そして“差別”という名の暴力を静かに描き出す。

本作は第28回釜山国際映画祭で最優秀新人監督賞(ニューカレンツ賞)を受賞し、日本アカデミー賞でも作品賞・監督賞・脚本賞の優秀賞を受賞している。




演出のあり方についての是非


森監督はドキュメンタリー出身者らしく、感情移入を誘う主人公を置かず、観客に委ねる余白を作ろうとしたようだ。一方で脚本の荒井晴彦氏は、劇映画としての完成度やメッセージ性を打ち出すスタイルであり、両者の間で衝突もあったという。
その結果、荒井氏の脚本スタイルが多く反映されたのか、直接的なセリフや感情を煽る演出がやや目立つ気もする。個人的には、もし監督主体のドキュメンタリー的手法で作られていたなら、より深い余韻と恐ろしさが残ったかもしれないと思ったりもした。
それでも、さまざまな立場の人々の視点(特に加害者となる村民の日常)を丁寧に描くことで、問題の複雑さと深さを浮かび上がらせた点は大きな成果だろう。


群衆の中で変質する“善良な市民”


監督はインタビューで「人間は集団になると、水が氷へと性質を変えるような“相転移”を起こす」と語っている。
ごく普通の村人たちが、“国を守る”“村を守る”という大義を掲げ、恐怖と不安に突き動かされ、他者を排除し始める。

無実の行商人たちが殺される場面で浮かび上がるのは、「差別という感情」が恐れや思い込みを巻き込み、いかにして狂気へと変質していくかという構造だ。
その過程を見つめることは、今を生きる私たちの「人間であり続けるための最後の線」を問い直すことでもあると思う。

根拠のない流言飛語――恐怖が生むデマは、誰もが“悪”を設定することで安心しようとする衝動を象徴している。
瑛太演じる沼田新助は被差別部落の出身であり、貧者やハンセン病患者に“気休めの薬”を売り付ける一方で、朝鮮人から飴を買い、食料を与える。
その矛盾した姿こそ、人間という存在の本質的な複雑さを映している。


「私は差別をしない」ではなく、「私も差別してしまうかもしれない」


登場人物たちは決して完全なる“悪人”ではない。
震災後の戒厳令下で緊張が高まる中、集団の同調圧力が広がり、個々の理性は麻痺していく。
村人、自警団、行商人、それを傍観する者――誰もが差別者にも被差別者にもなり得るという現実的な人間像が描かれている。
映画の中で在郷軍人会の分会長の長谷川は「デモクラシーに見捨てられた」と叫び、日本人である行商人を斬りつけ、村長は何も出来ずに「これからも村で生きていかなくては」と項垂れ、何もできずに沈黙する。

「私は差別なんてしていない」と言うことは簡単だ。
しかし、そう思い込んでしまう慢心こそが大きな落とし穴となる。
本当に必要なのは、「私も差別をしてしまう可能性がある」と自覚すること。それこそが、人としての誠実さであり、真の対話の出発点ではないかとも思う。

ふと思い出したが、以前観た映画『異端の鳥』でも、戦後の混乱の中で一般の村民がユダヤ孤児に対して残酷な暴力を加えるシーンがひたすら描かれる。あの作品も、同じ“群衆心理の暗部”を突く構造を持っていた。

善悪二元論という“思考の短絡”


私たちはすぐに世界を「善か悪か」で測ろうとする。
だが、実際の人間の心には光と影があり、立場や環境、価値観や心のコンディションによって、優しくも冷酷にもなり得る。
その複雑さを理解せず、単純な正義を声高に叫ぶことこそが危ういと問われているように感じる。
群衆の空気に呑まれ、理性が消えていく瞬間――それは100年前も、今も、形を変えて繰り返されている。
SNSやデモの現場でも、声が大きく単純なスローガンほど拡散される。
「差別する側 vs 差別される側」という構図は共感を得やすいが、それは現実を単純化し、思考を停止させる“安堵”でもあるのではないか。

感情が理性を飲み込むとき


これは昨今の移民問題にも通じる。
不法移民を排除すべきだと訴える者は排外主義者とされ、反差別主義と激しく対立する。
だがこれは、単純な二元論で語るべきではないとも考えられる。
とくに人種差別については、アメリカの黒人差別のような歴史的背景とは異なり、現代の日本ではその意識や構造が社会に深く根付いているとは言いがたい。
感情の面で見れば、もちろん人種が違うことで格差が生まれるべきではないと思う。
しかしその問題と、国家としての移民受け入れ政策とは切り離して考える必要があるのではないか。

差別は“感情”の問題であり、移民政策や制度設計は“構造”の問題であるからだ。

この二つを混同して語ると、理性が感情に押しつぶされ、議論はただの怒号に変わってしまう。
今の社会は、論理よりも「感情で連帯する」方が簡単で心地よいため、多くの人がそこに流れていく。
けれども、それこそが本当の危険ではなかろうかと思うのだ。


<補足> 
福田村事件を語る上で欠かせないのが、同じ1923年9月に起きた「亀戸事件」と「甘粕事件」である。
亀戸事件では、社会運動家であり、生活協同組合や労働金庫の設立を提言した本作にも登場する平澤計七を含む10名の労働者・活動家が、震災直後に軍や警察によって不当に拘束・殺害された。
甘粕事件では、憲兵大尉・甘粕正彦が社会主義的アナキスト大杉栄・伊藤野枝・甥(当時6歳)橘宗一を殺害し、自由思想そのものが弾圧の対象となった。
これらの事件は、震災という非常事態のもとで「異端」「不穏」「危険思想」というレッテルが簡単に人命を奪う装置として機能してしまったことを示している。
福田村事件もまた、その連鎖の中で民衆が“国家の正義”を内面化してしまった一つの現象といえる。


"朝鮮人ではない証明"を試みる行商人達と懐疑的な村民達
(C)「福田村事件」プロジェクト 2023


人間であり続けるために


映画のラストでは、虐殺された人々の数と、加害者が天皇代替わりの恩赦で全員が釈放されたという事実が静かに映し出される。(震災に乗じて虐殺された朝鮮人、中国人、社会主義者は6,000人を超え、福田村事件の被害者は9名とされるが、実際は数百人〜最大数を表記し、本事件の被害者の1人は孕っていたため10人と劇中でも話しているし、そう言った数表記の甘さが見られたのは残念)

それは“国家”という巨大な装置の前で、人間の命がいかに軽んじられてきたかの証でもある。
国を守るための殺人が戦争では称賛され、死刑は司法の名のもとに正義とされる。その曖昧な線引きの中で、私たちは何をもって“人間であり続ける”と言えるのだろうか。

差別とは、他者を排除する行為であると同時に、思考を放棄する行為でもあると思う。人間の歴史が過ちを繰り返すのは、善悪を単純に切り分け、そこに安住してしまうからだ。
本作は、100年前の出来事を通して、今を生きる私たちに「あなたは何を恐れ、何を信じるのか」と問いかけている。

殺戮の直前に沼田新助が叫ぶ「鮮人なら殺してもええんか!」と言う言葉と
行商人たちが最後に口にする「人の世に熱あれ、人間に光あれ」は、1922年に結成された全国水平社の宣言の一節であり、日本初の人権宣言として知られる。
これらの言葉が、映画の中で最も強く心を揺さぶる。


最後に


これは冒頭でも書いた通り、史実を元にしたフィクションである。
実際の事件は、もっと静かで、もっと残酷で、ただ差別意識が昂った集団心理の中で商人たちが「朝鮮人だ」と決めつけられ殺された。
流言飛語――「井戸に毒を入れた」「武器を持って襲ってくる」というデマを、人々は信じた。
その“事実”が本当に皆無だったのかは、今となっては分からない。

森監督は言う。
「これは時代劇じゃない。現在進行形の映画だと思ってほしい」。
反日映画と批判される可能性を承知で、加害の歴史を描いた勇気。
そして井浦新、瑛太、東出昌大ら俳優たちの決意に支えられた本作は、
“差別とは何か”“集団心理における相転移とは何か”を改めて考えさせる、
日本映画史において極めて意義深く、多くの人に観て知ってもらいたい作品となった。


すべての時代を通して、恐れと安心の狭間に生きる私たちがいる。
善悪のどちらにも寄らずに、ただ「問い続け」「考え続ける」こと。
それこそが、人間であり続けるための最後の灯なのだと思う。




<関連記事>


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集