酔夢未譚──Somniorum vulneribus ebrius fari nequeo.Finale(全九回)
第九章──「静寂……玄冬の輪郭」
十二月の第二週は、十一月の気配をそのまま引き取って、ゆっくりと暮れていった。
石田和真の中で、未智佳が「戻ってきた」という確信は、十一月の終わりから揺るがず続いている。続いているからこそ、続けるための力を、彼はどこかで費やしている、そんな気もする。
気も……そう、ふとそう感じただけで、その何かを彼は名付けない。名付けてしまえば、名付けたそれとして処理をせねばならなくなる。
十一月から十二月へかけての夜は、名付けねばこそ、その確かさを保ってきた。
金曜日。
二人は、駅から少し離れた小さなレストランで食事をした。年末の忘年会というほどのものではなく、ただの二人きりの夕食。和真が選んだ店で、未智佳は彼の趣味を微笑んで受け入れた。
料理は、ゆっくりと運ばれた。
ゆっくり、というのは、店の混み具合のせいばかりではなかった。二人は急いでいなかった。急ぐ理由を、互いに、持ち合わせてはいなかった。
会話は、控え目だった。
業務の周辺の話、年末の予定、年明けの仕事。普段と何ら変わらぬ話題。けれども未智佳の応答に、和真は何度か、ほんの僅かな、遅れのようなものを感じていた。
言葉が返るまでの小さな沈黙。その過程で、彼女が何かを浮上させかけては、しかし浮上もしきれぬまま……やっと言葉が生まれくる。応接自体は、いつもの彼女のそれではあった。けれども応答までの呼吸が、いつもより仄かに長い気がする。
長い、ということを、和真は気づきかけて流した。気づいてしまえば、何かが明かされてしまう。
「年末年始は、どうするの」
和真が訊いた。
「……どうするかは……まだ決めてなくて」
未智佳は答えた。答えてからしばらく措いて繋げる。
「……年内は、忙しくなりそうだから」
「忙しいもんね」
「うん……ちょっと」
ちょっと、で終わった。
いつもの未智佳であれば、もう少し具体的な業務の話を添えたかもしれない。
「下期の調整が」とか「年明けに向けて、整理しておきたいことがあって」──そういう、状況を整える言葉を、彼女はいつも担保してきた、大抵は。最近は聊か異なるし、今夜もまた、常とは異なり担保となる明快さを欠いていた。
何か変だな、と和真は感じた。感じて、すぐに打ち消した。
食事を終えて、二人は和真の部屋へ戻った。
部屋に入ると、未智佳はいつものようにコートを脱ぎ、いつものように彼の傍へ寄った。そのさまも……「真っ直ぐに飛び込む」直截さはなく、もう少し柔らかな、もう少し落ち着いた身の寄せ方であった。
落ち着いてきたのかな、とそう和真は微かに思った。
戻ってきた未智佳が、十一月の『戻ってきた』直後よりも、猶一層と落ち着いてきた──そう感じるのがポジティヴであり人情でもある。またそう感じるほどに安堵をもたらすであろう。だから安堵を、和真は信じた。
そう思えば一層、信じることに根拠は要らない。
「……和真くん」
「うん」
「……今夜はずっと、一緒だよ」
「うん、そうだね」
「……ずっとだよ、ずっと」
「ずっと……約束する」
ずっと、を、未智佳は重ねて繰り返した。
十一月下旬の夜にも、未智佳は「ずっと」を繰り返していた。和真はその反復を、彼女の安心の深まりとして読んだ。
ベッドで、彼は未智佳を抱いた。
彼女は応じた。応じる身体に、何ら変わりはなかった、いつもの夜と。湿るのが早く、応えるのが深く、震えるのが柔らかい。和真の手は、急がない呼吸で、彼女を辿っていく。未智佳はその呼吸の中で、ゆっくりと整っていく。
整っていく移ろいを、和真は感じた。
未智佳はしばらく前まで、折節……整えきれないでいた。和真はそうと識別しないまま、応え続けた。
けれども今夜は、整っていた──そう思う。
いずれにせよ整っている、そう和真は確かに感じた。感じて、なぜ今夜は整っているのかは問わない。問えば、何かが分岐する。
「……和真」
彼女が、短く呼んだ。
くんを添えなかった。
未智佳はかつて、一度「くん」を外して呼んだ。和真は、その呼び声を聴き取ったかどうか、判然としないまま流した。今夜の「和真」は、彼の耳により明瞭にも届いた。届いて、けれども彼は何も問わなかった。問えば、彼女がいつから変わったのかを、あられもなく問うことになる。ならば判らないままでいる方が、今夜は安心をもたらすはず、間違いなく。

未智佳は彼の名を、何度か呼んだ。
時に「和真くん」と呼び、時に「和真」と呼んだ。呼び方の揺れが、彼女の中で意識されているのか、いないのか、和真には判らなかった。判らないまま、彼の手は彼女を支え続けた。
「……和真くん……ねえ」
「うん」
「……離れちゃ、いや」
「離れない」
離れない、と和真が言うたびに、彼女の身体が微かに震えた。それまでの夜と同じ震え。けれども今夜の震えには、かつての夜にはなかった『何か』が、おそらく混じっているのではという気がした。とはいえ、それは気がしただけで、彼はその「何か」を認識しない。
その方が、彼女をそのまま愛せるし、抱き続けられもする。
果てた未智佳は、彼の腕の中で、長く動かなかった。
動かない時間が、いつにも増して一層と長かった。
和真は、その時間を、ただ抱いて過ごした。彼女の呼吸が、規則正しい寝息へと変わっていく。彼女の寝息は、子供のそれのようでもあった。和真には、その質を識別はできない。
識別できないまま、彼は彼女の背中をゆっくりとなでた。その手の下で、彼女の身体は、いつになく柔らかかった。整える主体としての彼女が、整えることをほとんど手放しているような、そんな柔らかさ。柔らかさを、和真は安らぎとして読んだ。
そんな読み方が正しいかどうか、彼には判らない。
判らぬまま、彼の手は、彼女を支え続けた。
夜半、未智佳は一度、覚醒めた。
覚醒めてから、しばらく、和真の腕の中で動かなかった。
和真も起きていた。起きていることを、互いに知っていた。それでも声をかけ合わなかった。
声を発すれば、何かが始まってしまう。
何かが始まれば、そこには行き着く終わりがある。終わりは、今は要らない。だからであろうか、二人は黙って、互いの呼吸だけを聴いていた。やがて──。
「……和真くん」
長い沈黙の後、彼女が小さく言った。
「うん」
「……クリスマスに……会いたい」
「……うん、会おう」
「……約束だよ」
「約束する」
約束、という言葉が、部屋の暗がりへと静かにも谺していく。最初の夜、未智佳が「じゃあ、約束ね」と言った時のような、未来のかたちを据える約束。けれども今夜の約束は、最初の夜のそれよりも、僅かに重い。
重さを、和真は感じた。
感じたが、それを名付けない。
名付けるべきではない。
「……二月二十二日も……忘れないでね」
未智佳は、そう続けた。
「忘れないよ」
和真は答えた。
「来年も、その次も、ずっと」
「ずっと、ね」
「うん、ずっと」
ずっと、が、また二度繰り返された。
未智佳は、それで満足したように眸を閉じた。
閉じた瞼の下で、何かがゆっくりと沈んでいくような、そんな気配があった。気配を、和真は感じた。感じて、その気配を、彼は星の動きか何かのように、ただ受け止めた。それ以外にはない。占い師ではないのであるから、読まない、否、読めない。
受け止めるだけしか、できなかった。
翌朝、未智佳は、和真の腕の中で眼を醒ました。
覚醒めてから、彼の頬に軽く唇を寄せた。寄せ触れる唇が、いつもより僅かに長く留まる。長さを、和真は感じた。感じて、しかし、その長さの意味を問わない。
「……おはよう」
「おはよう」
短い遣り取りの後、彼女は身を起こした。起こす動作が、いつもよりどことなく緩慢だった。緩慢、という事実を、和真は識別しないまま流した。
未智佳は洗面台へ向かう。向かう背中が、いつもの彼女の背中であった。和真は、その背中を見送りながら、確かに思う。
戻ってきた、と。
未智佳は確かに戻ってきている、と。
思いながら、和真の裡である種の違和が再び湧いた。湧いた違和を、彼はまた、名付けない。名付ければ、彼女のそれを疑うことになる。疑いたくない。彼は、彼女が戻ってきたことを、信じたい。
信じることに、根拠は要らなかった。何度もそう、自分に言い聞かせた。
別れ際、玄関で未智佳が振り返った。
振り返って、彼女は和真を看た。看る時間が──いつもより僅かに長かった。
長さの中で、彼女は何かを言いかけて、しかし言わなかった。言わない代わりに少しだけ微笑んで、ドアを閉めた。
ドアの閉まる音が、和真の中で、奇妙に長く響いた。
響き続けた音を、彼は聴いていた。聴いている事実を、自分でも気づかぬまま、しばらく玄関に立ち尽くすだけであった。
翌週、和真は短いメッセージを送った。
「クリスマスの前
会えそうですか」
返信は、その日のうちには来なかった。
翌日にも、来なかった。
翌々日にも、来なかった。
業務が立て込んでいるのであろう、和真はそう受け流した。
年末進行の最中でもある、彼女が忙しいのも、何ら不自然ではない。十二月も半ばともなれば、誰しもが等し並に忙しい。返信の遅延を不思議とする根拠は、何一つとしてない。
そう、何一つとして。
そう思えば思うほどに、和真の裡にちょっとした不安が、静かに膨らみ始める。膨らみは明確ではない。不安と呼ぶには、輪郭が薄すぎる。けれども何か、彼の日常の呼吸を、些細ではあれ乱す『何か』が存在する。
乱されることを、彼は意識しないようにした。
意識すれば不安が確定する。
そうならないよう、意識そのものを確定しない。彼なりの定見やもしれない。いずれにせよ考えない、そう……考えない。
考えるという意味を巡り、和真は考えないという選択肢を留保した。
四日目。
和真は改めて、短いメッセージを送った。
「お疲れさまです
返信……無理しないでくださいね」
返信は来なかった。
来ないまま、その夜、彼は未智佳を思い出した。思い出すというよりは、彼女との直近の夜が、彼の中で勝手に再生され始めたのである。
寝室の暗がり。彼女の腕が首へと回された瞬間。彼女の唇が額や頬へ長く留まった朝。そして、夜半の約束──。
「二月二十二日も、忘れないでね」
「ずっと」
「ずっと」──。
ずっと、の執拗な繰り返し。
あの繰り返しは、何だったのであろう。
和真の衷で、その問いが初めて形を持った。形を持ちながら、しかし答えは導かれないし到達する先を知らない。
彼女が「ずっと」を繰り返した理由は判らない、だから、判断なんて下せやしない。
むしろ知らない、知るよしもないと初めて気づいた。
気づいて……不安が俄に濃くなっていった。
そう思うにつれ──。
和真は未智佳の寝息を思い返すばかりであった。
その寝息は、子供の寝息のようでもあり、一方ですべてを手放した者の寝息のようでもあった。
彼女の寝息を、彼は安らぎとして読んだ。
その読み方は、果たして正しかったのであろうか──占い師ではない自らを、和真はようやく悔いた。
今、思い出すと……あの寝息には、別の質になるそれも混じっていた気がする。気がする、というだけで、何が混じっていたのか、彼には判らない。判らないまま、彼の中で、最後に重ねた夜の身体がゆっくりと再生され続けた。
再生される身体は、現在の不安を内側から照らした。
照らされた不安は、しかし、依然として輪郭を結ばない。否、結べない。結べないからこそ、占い師にはなれない自身を悔やむよりない。
クリスマスも終えようとしている。
彼女からの返信は来ない。
短いメッセージを、彼はもう一度送った。
「メリー・クリスマス」とだけ。返信は結局のところ、来なかった。

年末最後の出勤日。
和真は、フロアから立ち去る刹那、ふと彼女の『島』へと眼を向けた。そうしただけで、実際には確かめなかった。そうしてしまえば、彼女がいないという事実を確認せざるを得ない。そうしてしまえば、年末年始の休暇は、異なる意味を与えられてしまうかもしれない。
だから彼は──そうしなかった。
眼にせぬまま、ささやかな納会の後に、彼は会社を出た。
駅まで歩む帰るさ、年末の街の灯りが、いつもより冷たく映った。
冷たさは、気温のせいだけではないような気がする。けれども、何のせいなのかを、彼は問わない。問うてしまえば、別の何かになってしまうような気がして──。
二日を経て、和真は実家へ帰省した。
帰省先で、彼は未智佳を思った。思いながらも、メッセージは送らなかった。年末は少なくとも、誰もが遠慮し連絡を憚る時期だと、そう言い訊かせるように。
返信が来ない事実も、休暇中であればそれほど不自然ではない。年明けになれば、きっと会えるだろう。会えば、すべてが判る。
判らないままの状態を、彼は年末年始の数日、抱えたまま過ごした。ハッピー・ニューイヤーの挨拶さえ、逡巡して挙句ではあれ控えた。
そんな懊悩を抱えながら、最後に重ねた夜の彼女の寝息が、何度も彼の中で再生されていく。再生されるたびに、寝息の質が僅かに変わって聞こえる気がする。安らぎの寝息、子供の寝息、手放した者の寝息、そして──告別の夜の寝息。
告別、別れ……そんな言葉が、和真の裡に初めて浮かんだ。
浮かんですぐに、彼はそれを打ち消した。
打ち消しはすれど、言葉は消えずに彼の意識の周辺に留まった。留まり続けた語句が、年明けの初出勤の朝まで、彼の心衷で静かに席を温めていた。
年明け初出勤の朝。和真は、いつもより少し早く会社へ着いた。早く着いた理由を、彼は自分に問わなかった。問えば、答えが未智佳の座しているデスクへと結び着く。結び着けてしまえば、確かめに行かねばならなくなる。
彼は問わぬまま自席へと座った。座って、業務のメールを確認した。
メールの中に、年末年始の社内人事に関する一斉送信があった。
文面は、短かった。
部署横断の異動者、海外拠点への赴任者の一覧。
一覧の中に、彼女の名前があった。
『水無瀬未智佳。
欧州統括本部ベルリン支社東部圏域企画Gプラハ事務所附。
年末発令。』
和真はその文面を、二度繰り返して読んだ。
二度読んでも、同じ文面だった。三度目を試みても──やはり変わりはない。
彼の中で、文面の意味が徐々に重みを帯びていく。それでも判らない。ベルリン支社、プラハ事務所、そして『G』と『附』の文字……その重みは、即座に到達しない。文字としては読める。けれども、その文字が『彼女の不在』を確定するものとして、彼自身の得心へと降りてくるまでに、厄介なときを費やさねばならなかった。
時間の狭間──間で、彼は黙していた。
黙しながら、何も考えなかった。考えれば、文面の意味を追い、確定しなければならない。そうなればきっと、戻れない。戻れない位置へと、彼はまだ、行きたくはなかった──。
とはいえ文面は変わらない。
変わらない文面の前で、彼は徐々に戻れない位置へ進んでいく。
未智佳が、いない。
未智佳は、海外へ去った。
いつ。
いつから。
なぜ。
問いが、彼の裡で発生した。
発生した問いに、答えはない。答えがないまま、問いは増えていく。年末発令ということは、彼女は年末の最終日まで、会社にいたのか。それとも、もっと前から準備していたのか。
最後の夜。十二月第二週のあの夜──の時点で、彼女はもう、これを知っていたのか。
知っていた、とすれば──。
あの夜の「ずっと」の二度の繰り返しは。
あの夜の「二月二十二日も、忘れないでね」は。
あの夜の唇の長さは。
あの夜の寝息の質は。
あの夜の振り返りの間に間に、言いかけて語らなかった何かは一体。
すべてが、別れの徴候だったのか。
彼が読み損ねていた、別れの言葉だったのか。
和真の脳裡で、最後の夜が再生された。
再生されながら、再生される夜の意味がゆっくりと、別の中にへと書き換わっていった。
安らぎの寝息は、辞去──別れの寝息へ。
彼女の長い沈黙は、終の沈黙へ。
「ずっと」──そんな繰り返しは、未来を持たない者が未来を装う繰り返しへ。
書き換わりは、しかし完結しなかった。
彼は、書き換えを完結させない。完結させれば、未智佳がすべてを知った上で、彼に何も告げずに去った事実を認めねばならない。認めたくはなかった。認めれば、彼が育み結んできた未智佳の像が、根本から崩れてしまう。
『崩したくない』
崩したくない、という一語を、彼は自らに訊い聞かせた。けれども、重ねてそうしても、像はもう『半ば崩れている』
数日後、業務の過程で、彼は未智佳の異動──その詳細を巡り、間接的に知った。
社内システムの確認作業を進めるうちに、人事関連の記録であるとか、業務上の必要項目へと触れる機会があった。彼女の異動は、プラハ事務所への赴任。期間は、当面未定。後任は、既に決まっていた。
記録は、極めて事務的であった。
事務的な記録の中に、彼女の動機を示す情報は、何もなかった。なぜ彼女が異動するのか、いつから決まっていたのか、誰が決めたのか──これらの問いに、記録は答えない。記録は、ただ事実だけを示す。事実は、彼女が不在であることを確定する。確定された不在の縁辺で、彼の問いは依然として空転する。
空転は、続いた。
業務の合間に、休憩の時間に、帰宅後の部屋で、和真は何度も同じ問いを反芻した。なぜ。いつから。どうして──問いに、答えはない。発見できない。答えがないまま、彼は未智佳の像を、半ば崩したまま抱え続けた。
未智佳の、かつて座していた場所へと、和真は何度か眼を遣ってみた。
そうしただけで、近づきはしなかった。そうしたところで、未智佳はいない。彼女がいない現実を確認するために眼を遣るのは、彼の中の何かをより脆くも崩す行為になる。だから和真は……行かなかった。
そうしなければ、僥倖か否かは措いても、彼は別れをそれとして認識せずに済む。
遅延と停滞の只中で、彼は仕事を続けた。続ける以外に、できることなどなかった。
一月の半ば、和真は未智佳の部屋へ訪れた。
訪れる理由を、彼は自分でも規定できずにいた。彼女のマンションの前まで赴き、エントランスのインターホンを押そうとして──結局のところ押さなかった。
彼はエントランスの前で、しばらく立っていた、佇立していた。
佇立しながら、何も考えなかった。考えれば、彼女の不在がより深く確定する。
彼は押さずに、踵を返した。
帰り道、街の灯りが、年末の夜よりも更に冷たく映る。冷たさを、彼は受け止めた。受け止めるしか、できないから──。
二月を過ぎていた。
二月二十二日が、近づいていた。
和真はその日の到来を、何度か考えた、否、考え倦ねた。考えるたびに、最初の夜の未智佳の声が、彼の裡へと鮮明にも蘇るから。
「……じゃあ、約束ね」と言った、あの声。
そして、最後の夜の声。
「二月二十二日も、忘れないでね」
「来年も、その次も、ずっと」
「ずっと、ね」
「うん、ずっと」──。
ずっと、の繰り返し。
あれは、未来の約束であったのか。
それとも──。
未智佳が「ずっと」を繰り返した何度かの瞬間、彼女はもう、未来を持たないと想像していたのではないか。なればこそ、彼に「忘れないで」と告げたのではないか。忘れないでいて欲しい、という願いは、未来をともに送る者の願いではない。
『未来から退場する者』が、残る者に託す願いだ。
託された、ということを、和真は今、初めて理解した。
理解しながら、しかし、その理解を完結させない。完結させてしまえば、認めてしまえば──。
未智佳が──。
確かにベッドの上にいた。
否、そうではない、そうではない……けれども、和真の裡で、彼女がいつしか立ち上がる。立ち上がりつつ、気づけば輪郭をゆっくりと取り戻す。
かつての彼女のさまざまが、彼の意識をゆっくりと侵していく。
シーツの白さの上に、未智佳の柔らかな線が広がっている。十一月の夜よりも、猶も柔らかい。
整える主体としての彼女が、もう半ば手放されている。手放されただけ、彼女の柔肌は、無防備にも開かれている。
和真の指が、未智佳の鎖骨の窪みへと触れる。触れた指の下で、彼女の喉が小さく鳴る。
鳴る音が、子供の甘え声に似ている。
彼の唇が、その鎖骨へと降りていく。
降りた唇の下で、彼女の身体が微かに反った──。
補正の布は、もう外されている。
外されて残る、未智佳自身のなだらかな丘──。
秘め隠してきた小ささを、彼女はいつものように恥じない。恥じる代わりに、和真の掌へ宛行うように、自分の身体を委ねていく。委ねられた丘の頂が、彼の指先に応じる。応じる先で、未智佳のそれは尖り固くなり……短く息を漏らす。
「和真くん」
漏れた声が、甘く湿っていた。
湿った声を、和真は唇で受け止める。
受け止めた唇が、彼女の唇と重なる。
重なった唇の間で、彼女の舌が、彼を求めるように動く。動く舌が、いつもより艶めかしく、深くコミットを求め蠢く。深く侵入し絡み着き、彼女は全てを請け合うように彼を引き寄せる。引き寄せた腕の力に、未智佳のすべてが籠もっていた。
「……離れちゃ、いや」
囁きが、彼の耳底へと響く。
落ちた囁きを、和真は名付けない。名付ければ、何かが分岐する。分岐させない代わりに、彼は未智佳の身体をもう一段、深く辿っていく。
彼の指が、彼女の腰の線をなぞる。なぞった指が、内腿の間隙へと滑る。滑った先で、彼女の秘められた渓は、もう熟れていた。じっとりと湿り、長く待っていたように、彼の指を受け入れる。受け入れた内奥──肉襞が、彼の指の動きへと合わせるようにゆっくりと、しかし艶めかしく蠢き、収縮する。
未智佳は震える。
震えながら、彼の名を求めるようになぞる。
「……和真くん……ねえ……」
「うん」
「……もっと……」
もっと、の続きを未智佳は言わない。言わない代わりに、彼の指を、自分の内側へと、より深く誘う。
誘う先で、雌蕊の芯が、彼の指の腹に擦れる。
擦れる感触に、未智佳の腰が跳ねる。
跳ねた腰を、和真は片手で押さえる。押さえた手の下で、彼女の身体は逃れられないし、逃げる気さえない。
和真自身が、未智佳の内奥──内側を冒していく。
訪う先で、雄蕊が、彼女の渓の間を開いていく。
開かれた内壁が、和真のそれを包む。
包んだ温度の高さが、彼の意識を白く満たしていく。
白く満たされた意識の中で、彼女が呼ぶ。
「……和真」
くん、を添えない。
添えない呼びが、彼の鼓膜を震わせる。
震わせながら、彼は未智佳の形状に合わせて、ゆっくりと動く。
動くたびに、彼女そのものが応える。応える先で、彼女の声が細く長く、ベッドに響き流れていく。
「……ずっと」
「ずっと」
「……ずっとだよ」
「ずっと」
ずっと、が何度も繰り返される。繰り返した未智佳の睫毛が、ゆっくりと閉じる。閉じた瞼の下で、何かが沈んでいく。沈みながら、彼女は和真を、より強く抱きしめる。抱きしめた腕の力には、未来を知らない者の、何かを探るような熱が籠もっている。
未智佳は果てる。

果てた瞬間の未智佳──その表情は子供のようでもあり、すべてを手放した者のようでもある。両者の質が、彼女の貌の上で、併存して立ち上がる。立ち上がる前に、和真もまた、彼女の中で果てる。
果てた二人は、長く動かない。
動かない時間が、ベッドの上で、永遠のように引き延ばされる──。
和真の脳裡を侵すように映し出されるそれは、飽くまで幻想であった。
幻想は、ふっと退く。
退いた跡に、二月二十二日の独りの部屋が、また満ちてくる。
そう、二月二十二日だった──。
その日、和真は独りだった──。
未智佳からの連絡はない。彼から彼女へ送る連絡先も、もうない。プラハ事務所へのメールアドレスは、業務上は知り得るかもしれない。けれども、業務外で連絡するという一線を、彼は引けない。引いても、返信が来る保証はない。来ないかもしれない、という予感が、彼を逡巡させ、踏み越えてはならぬそれとして規定させる。
彼は自分の部屋で、独りの夜を過ごした。
夜の中で、初めて知る彼女の声と、最後の夜の彼女の声が──交互に蘇った。蘇りながら、二つの声が、ゆっくりと一つに重なっていく。重なった声は、彼の裡で、ある一つの言葉を形象った。
約束。
二月二十二日を、一緒に祝うという約束。
約束は、確かに交わされた。
最初に一つとなった、あの夜に。そして最後の夜に。しかし約束を交わした二人のうちの、一人は『もういない』
いない者と交わした約束を、和真は今、独りで抱えている。
抱えながら、彼の中で、ある独白が、ゆっくりと立ち上がった。
一緒に誕生日……二月二十二日を祝おうという約束は──。
その先の言葉を、和真は持たなかった。
持たないまま、独白は止まった。止まった独白──その沈黙の最中で、未智佳の不在が着実に、しかも『しんと』満ちていた。満ちる不在を彼は受け止めた。受け止めるしか、最早できない──。
窓の外を眺めた。
二月の夜空に、冬の星が冷たく瞬いていた。光は、何も語らない。語らない光の下で、彼は独りで立っていた。立っている彼の脳裡や心衷に、玄冬の輪郭が静かに刻まれていった。
輪郭は、青春のそれとは違っていた。
青春の輪郭は、未来へ向けて伸びていく線だった。玄冬の輪郭は、未来から後退する線である。後退しながら、線は、過去のすべてを内側に閉じ込めていく。閉じ込められた過去の中に、未智佳がいた。
彼女は、そこにしかいなかった。
いない場所で『和真は未智佳を』抱え続けた。
抱え続けることが、彼の生に、新しい形を与えていくのやもしれない。形は、まだ確定しない。けれども、形が始まった事実だけは──彼の裡衷に、確実にも刻まれている。
そんな確かさだけが、その夜の和真を──静かに満たしていく。
エピローグ
栗花落を告げる雨が、土曜日の夜の街を、やさしく濡らしていた。
強い雨ではない。風もない。ただ静かに、絶え間なく降り続ける雨。窓の外から覗く街路樹の葉が、雨に濡れて、店の灯りに僅かながら光っている。葉から葉へと、雨の雫がゆっくりと伝っていくのが、僕の眼の端に映る。
僕はビストロの窓際の席で、独り待っていた。
家庭的で、規模もそれほど大きくはない。フロアを一手に任されているのは、オーナーシェフの夫人らしい。穏やかな給仕で、僕の前にミネラルのグラスが置かれた。グラスの表面が、店内の明かりを受けて、仄かに揺れている。
僕は、内ポケットに手を触れた。
触れた指の下で、小さなケースの輪郭が確かに感じられる。ケースを観るまではしない。観てしまえば、収められるものの輪郭まで意識せねばならなくなる。今はまだ、ケースの存在を確かめるだけで充分であった。
彼女が遅れているのは、雨のせいかもしれない。
あるいは、何か支度に時間がかかっているのかもしれない。僕は、それを問わない。問わないままに、ただ待つ。
雨を眺めていると、ふと、別の雨の記憶が──いつしか、僕の意識を過ぎる。
あれは十二年前──未智佳との関係が始まったばかりの頃の、ある雨の日であった。風があり、雨は強く、彼女の毛先が雫で濡れていた。あの日の雨は、今夜のような穏やかな雨ではなかった。
僕は、その記憶を深くは追わない。追えば、別の記憶へと連なるし、そうともなれば、長くなる。それでは──今夜の場が、別の空気と質を帯びてしまう。
僕は雨の記憶を、そっと自分の意識の裡へと戻した。
二年──。
あの日から二年が経ったのか、と僕は思う。
彼女は新卒研修の補助対象者として、僕の前に現れた、あの日──僕の何かが動いた。動いた何かを、僕は当初、規定はしなかった。飽くまで人事係長でもあれば、そんな立場と整合しなくなるから、と。
尤も、動いた何かを名付けずに置くことが出来たのは、せいぜい数ヵ月のことであった。
フォロー面談から幾度かを経た頃合い、社内の廊下で擦れ違う彼女の仕草に、僕は折々眼を留めるようになっていた。あの最初の面談で、彼女が小さく息を吸ってから「大丈夫です」と応じた、その息の整え方──それと似たような気配が、彼女の日常の仕草の隅々にあった。
資料を渡す折の指先、エレベータの前で順を譲る折の間、そういうものの裡に何かを崩さずに保とうとする気配が、確かに伏在していた。
その気配へと眼を留めてしまう自分を、僕は最初のうち、教育担当としての職業癖だと訊い聞かせていた。けれども──そう訊い聞かせる声そのものが、あるいは既に、一つの徴だったのかもしれない。
僕は慎重であった。
慎重であったからか、彼女が先に動いた。
組織であればこその、ある種の自然な距離の縮まりとして、僕ら二人の関係は始まった。上長や同僚たちが、それとなく察知していたかもしれない。察知した上で、何も言わなかった。あるいは、ある人は僕の背中を、そっと押してくれたかもしれない。
少なくとも、一年前には、僕たちは互いの部屋を行き来する関係を築いていた。
フロアを取り仕切るオーナーシェフ夫人から、大切な日のようですので、とシャンパーニュのグラスをサーヴィスする旨を伝えられた。僕は一旦、取り留めもない思考から離れて熟考した。熟考を重ねて「ささやかな日ですから」と鄭重に申し出を謝絶し、しかし改めてワイン・リストを所望した。
ともあれ──。
僕は二年間……よく考えた。
考えながら折節、未智佳のことを思い出した。思い出したというより、何かの拍子に、彼女が僕の意識に立ち上がった。雨の日、日中のオフィスや夜の街路、駅。ふと耳に入った誰かの笑い声、これらが引き金となって、彼女が僕の裡へと蘇る。

いつであったか──。
退勤後の駅前で、傘を畳むよくは知らぬ女性の所作が、僅かながら、十二年前の彼女と重なったことがあった。雨で濡れた毛先を、手で軽く整える、ただそれだけの所作だった。重なったのはほんの数秒であり、すぐに知らぬ女性は知らぬ女性として、人混みの渦中へと紛れていった。けれども僕は、その後しばらく、駅の階段へと降ろす足が、普段よりも微かに重くなるのを感じた。
蘇る彼女を受け止めながら、そういえば未智佳の現在を知ろうと思いかけたこともあったな、とも。
組織の人事記録の中で、僕が辿れる範囲は限られていた。十年前の異動。
「欧州統括本部ベルリン支社東部圏域企画Gプラハ事務所附」──長い職位名の中の、あの「G」を、当時の僕は略号として読み流していた。今ならばそれが「グループ」を意味すると判る。
あの頃の僕は、ただ「彼女が遠くへ行く」という事実だけを受け止めていたのである。組織の人事の文脈の中で、その「G」が示す位置の意味も、当時は察しようがなかった。
十二年を経て、人事係長としての歳月を重ねた今、ようやく僕は、その職位名を構造として読めるようになった。判った上で、僕は彼女の異動が附属的な配属であったことを、遅れて把握した。
彼女は、ほんの数ヵ月で帰国していた。
帰国後、組織を離れていた。
その先は、記録に書かれていない。
書かれていない先を、僕は調べようとも思った。
けれども、調べなかった。
調べるのはよそう、そう自身で決めた。その折を巡り、僕は今、よく憶えていない。明確な瞬間があったのではなく、徐々に『調べない』という位置へと自分が落ち着いていった。
知ることが、何をもたらすか──僕は、それを考えた。考えた末に、知らないままでいることを選んだ。
彼女の不在を不在のまま、自らに記銘してよい。それが僕に下せる、最も誠実な結論であった。
とはいえ──。
調べないと決めたにせよ、彼女を巡り意識へと立ち上がる頻度が、それで急に減ったのでもなかった。
むしろ、調べないという位置に自分を棚上げしたがために、立ち上がるたびに、僕はその記憶を抱え直さねばならなかった。抱え直しながら、いつしか僕はそれに慣れていった。
慣れたと言ってしまうのは、おそらくのところ聊か違うのかもしれない。けれども、抱え方の『スタイル──流儀』のようなものが、二年の間に、僕の裡で少しずつ形を成していった。
僕は人事係長として、十二年目を同じ企業で迎えていた。
教育担当からは離れ、今は労務管理であるとか。制度設計に関わるそれらの主務を担っている。地味な業務であった。派手な成果は出ない。
労働時間の集計、評価制度の調整、就業規則の見直し──そういうものへと、丁寧に手を入れていく日々である。けれども上長は、僕を評価してくれていた。先日の人事考課の面談でも、その類の言葉を、少しだけ照れたような口調で告げてくれたものである。
優秀な同期と比べ、課長への昇進は遅れるかもしれない。けれども、いずれは到達するであろうと、僕自身「漠然と思っていた」
慌てる必要はなかった。
僕はいつでも、慌てない男であった。
雨が相変わらず、やさしく降っている。
窓の外から覗く街路樹の葉が、雨に濡れて店の灯りを微かに受けている。葉から葉へと、雨の雫がゆっくりと伝っていく。
僕はもう一度、内ポケットに手を触れた。
ケースの輪郭が、確かにそこにある。
ドアの開く気配があった。オーナーシェフの夫人の、穏やかな声がした。
おそらく「いらっしゃいませ」と言ったのであろう。僕は眼を上げた。
夫人が誰かを案内しながら歩み寄って来る。
その後ろから、彼女が来る。
雨に少しだけ濡れた肩。傘を畳んで夫人に預けた仕草。歩み寄って来る、ほんの数歩の間が、僕には少しだけ長く感じられた。

「お待たせしちゃってごめんなさい、これからずっと一緒にいましょうね、約束……約束だよ、和真さん」
彼女の声が、僕の耳の奥へ、やわらかく降りていった。
彼女の笑顔が、僕の視界を掠めていった。
