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「滅私奉公」は本当に日本の伝統か?— 江戸の奉公を調べてわかったこと

こんなツイートが数日前にバズった。

職場で「こいつは優秀だ」とされる基準、もう完全に書き換わってるぞ。

旧時代の優秀として挙げられているのは、毎日遅くまで残業する、上司の誘いは断らない、会社のために滅私奉公する、といったもの。
新時代の優秀は、定時で圧倒的な成果を出す、無駄な飲み会は秒で断る、会社を利用して市場価値を上げる。

締めくくりはこうだ。

会社への忠誠心なんて1円にもならん。会社を踏み台にするつもりで、自分の年収を上げる人だけがこの時代を生き残るんよ。

言いたいことはわかる。滅私奉公を強いる組織がもう終わりなのは、その通りだと思う。

ただ「滅私奉公」という言葉。これって本当に日本の伝統なんだろうか。昔から日本人はこうやって会社に尽くしてきた、だから古い、という前提で語られている。

なので、ちょっと調べてみた。


江戸の奉公は「契約」だった

江戸時代の奉公がかなり「ドライ」な契約関係だったらしい。

商家に奉公に出る丁稚を例にとると、奉公人と主人の間には「奉公人請状」という契約書が交わされていた。そこには期間、給金、職種が明記され、さらに「請人」と呼ばれる保証人が立てられた。

この請人がポイントで、奉公人が問題を起こしたときの責任を負う一方、主人が不当な扱いをした場合には抗議する役割も担っていた。つまり、双方向の監視機能があった。

そして主人の側には、かなり重い義務があった。

奉公人の衣食住を完全に保障する。読み書き算盤を教える。病気になれば医者を呼んで薬代を負担する。年季が明ければ、独立の支援をする。

この「独立支援」の究極の形が「暖簾分け」だ。長年勤め上げた番頭に、主人が自分の屋号を使う権利を与え、資金を援助し、顧客まで分けて独立させる。

奉公人が「尽くす」ことには、明確な見返りがあった。いつか自分も経営者になれるという、具体的な未来があった。だから尽くす意味があった。

これは一方的な自己犠牲とはまるで違う。
「恩」と「奉公」の交換、つまり双務的な契約だったということだ。


「滅私奉公」はいつ生まれたか

では、あの「私を滅して奉公せよ」という一方的な響きは、どこから来たのか。

調べていくと、明治以降、特に戦時体制の中で意味が書き換えられたことがわかる。

江戸の奉公は「主人にも義務がある」という双務性が前提だった。しかし近代国家は、この双務性のうち「奉公」の側面だけを抽出したのだ。主人が負うべき「御恩」は、精神的で抽象的な「お国のため」に置き換えられ、具体的な保障は消えた。

国民は、対価を求めずに国家へ無限の忠誠を捧げることが美徳だと教え込まれた。これが「滅私奉公」の正体だ。

さらにいえば現代の「日本的経営」——終身雇用や年功序列——も、実は江戸からの伝統ではなく、この戦時体制の中で作られたものだということだ。

1940年前後、戦時生産を維持するために、労働者の転職を制限し、年齢や勤続年数に応じた賃金上昇の仕組みが国策として導入された。いわゆる「1940年体制」である。

これが敗戦後も解体されず、高度経済成長の目的と合致したために、日本社会に深く定着した。

つまり、「日本人は昔からこうだった」という物語自体が、近代の発明品だったということだ。


壊れた契約、残った忠誠心

戦後の日本的経営には、一応の双務性があった。

社員は「無限定のコミットメント」を差し出した。辞令一つでどこへでも異動する。全国転勤を受け入れる。残業も休日出勤も厭わない。

企業はその見返りとして「包括的な保障」を約束した。定年まで雇用する。年功で給料を上げる。退職金を出す。家族手当、住宅手当、社宅まで用意する。

この交換が機能していた時代には、それなりの均衡があった。過酷ではあったが、「尽くせば報われる」という期待が成り立っていた。

しかしバブル崩壊後、この均衡は完全に壊れてしまった。

企業はリストラを断行し、成果主義を導入し、非正規雇用を拡大した。「終身雇用」の約束は反故にされたのだ。

ところが、社員側に求められる「無限定のコミットメント」は、そのまま残ってしまった。

長時間労働。転勤。会社への忠誠。企業が義務を放棄した後も、社員の義務だけが生き続けている。

これが現代の「ブラック企業」問題の構造だ。江戸の奉公にあった「主人の保障義務」は消え、戦時下の「滅私奉公」的な自己犠牲だけが残った状態。

冒頭のツイートが言う「旧時代の優秀」とは、この壊れた契約に従い続けている姿のことだと言えるだろう。


忠誠心は「求めた瞬間に死ぬ」

「滅私奉公を強いる組織は終わり」
これは間違いなく正しい。そんな組織に未来はない。

だが、「会社への忠誠心なんて1円にもならん」という結論には、正直なところ少し違和感が残る。

江戸の奉公が機能していたのは、主人が「尽くせ」と命じたからではない。尽くしたくなる構造があったからだ。暖簾分けという明確な出口。請人による双方向の信頼。主人が自分の人生に責任を持ってくれるという実感。

忠誠心は、求めた瞬間に死ぬ。組織が「忠誠を示せ」と言った時点で、それは強制になり、取引になり、やがて搾取になる。

でも、社員が「勝手に忠誠心を持ってしまう」組織は作れる。

自分の成長を本気で支援してくれる。将来の自立を見据えて育ててくれる。この組織にいることで、一人では到底たどり着けない場所に行ける。そう感じられる場には、自然と愛着が生まれる。

それは「滅私」ではなく、「夢中」だ。自分を消して尽くすのではなく、自分を忘れるほど没頭した結果、気づいたら組織に貢献していた、という状態。

江戸の商家が暖簾分けによって優秀な人材の忠誠を引き出したように、現代のリーダーにも「忠誠心が生まれてしまう構造」を設計する責任がある。

それは今で言えば、社内起業の支援かもしれないし、カーブアウトの後押しかもしれない。あるいは卒業後も繋がり続けるアルムナイネットワークかもしれない。

形は違えど、「この組織にいたから、次のステージに行けた」と思える関係を作ることだ。終身雇用が前提でなくなった今、人は必ずいつか組織を離れる。だからこそ、「いる間」だけでなく「去った後」も続く信頼を設計できるかどうかが、これからの組織の強さを決める。

ドライな効率化の先にあるのは、ただの時短ではない。

余った時間とエネルギーを、損得を超えた熱狂に注ぎ込める組織。そんな場を作れるかどうかが、これからのリーダーの条件なのだと思う。

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ハネイシ ユタカ|経営構造人類学者 ここまで読んでくださってありがとうございます! よろしければ応援お願いします! いただいたご支援は、今後の執筆・リサーチの時間や書籍代など、 アウトプットの質を上げるために大切に使わせていただきます。