台風通勤 〜朝天そばは脳を活性化する〜
これは先日の台風ではなく、数年前の台風の記録です。防災スキルの指南でもなければ、交通マヒを乗り越える通勤術でもありません。ただ、最初から地下鉄に乗ればよかっただけの話です。ご容赦ください。
それは、気象庁が「不要不急の外出は控えてください」と警告を発していた大型台風の日のこと。当時は計画運休やテレワークが一般的ではなく、多くの人々は普通に仕事に出かける平日でした。
ところで、私には揺るぎない絶対的な信仰があります。
京浜急行電鉄、通称・京急。
京急といえば、並み居るJRや他私鉄が、大雨だ、強風だと過保護に運休を決める中、バケツをひっくり返したような暴風雨であっても「お前ら、しっかり捕まっておけよ!」と言わんばかりの爆速で、並走するJRを容赦なくぶち抜いていく、首都圏大動脈の番人です。
沿線住民にとって京急が止まるということは「地球の自転が一時停止した」と同義であり、あってはならない緊急事態なのです。
ところが、スマホに表示されたのは、無情なる「全線運転見合わせ」の文字。
「嘘だろ……あの京急が、死んだ……?」
ラピュタが崩壊したときのムスカ大佐であっても、これほどの絶望感ではなかったでしょう。無敗神話が幕を下ろした。これは同時に、私の通勤ルートが崩壊したことを意味しています。
動揺を隠せない私の前に、一筋の神々しい光が差しました。車出勤の夫です。私はすぐさまGoタクシーのように配車を要求しました。
「横浜駅までお願いします」。
激しい雨風が吹き荒れる中、夫という文字通りの個人タクシーにより、私は朝8時半という絶妙な時間帯に横浜駅へと到着できたのです。
横浜駅は、JRをはじめ鉄道6社が入り乱れるビッグターミナルなので、都内へ向かう何らかの移動手段を得られるはず。ここまでは完璧なプロローグでした。
車を降り、横浜駅のコンコースに足を踏み入れた瞬間、私は己の甘さを痛感しました。そこにあったのは、見慣れた駅とは程遠い風景。「入場制限がかかった日の東京ディズニーランド」、あるいは「謎のウイルスから逃げ惑う暴徒の避難所」とでも言うべきか。
とにかく人が多すぎて床も見えないほどです。構内や周辺をうろうろしましたが、ずぶ濡れのスーツを着たサラリーマンと、髪の毛が落ち武者のようになったOLの皆様が、虚ろな目でスマホを凝視しています。
すさまじい熱気はサウナのようですが、まったく整いそうにありません。
これほどの人数が滞留している理由はシンプルでした。多摩川が渡れないのです。神奈川と東京を隔てる母なる大河は、台風により難攻不落の結界と化し、首都圏各社線のすべてが揃って白旗を上げていたのでした。
これは、戦略を練るべき時だ。
野生の勘が警報を鳴らしました。この人混みの渦に飲み込まれたら、アポの時間までに私のHPはゼロになり、会社に着く頃には半透明か棺状になっているはすです。
まずは戦略を練るための拠点を確保せねばなりません。
周囲を見回しました。カフェに行く?バカげた考えです。スタバもドトールもすでに席を求める難民で溢れかえっており、「最後尾はこちら」のプラカードが立ちそうな勢いです。
そんな中私の目に飛び込んできたのは、煌々と輝く「駅そば」の暖簾でした。 戦場における唯一のオアシス。おじさまたちが高速で麺をすする、昭和の哀愁漂うシェルターです。私は迷わずその暖簾をくぐり、自動券売機へ急行しました。
チョイスしたのは「モーニングサービス・天ぷらそば」。 しかも、画面には神の啓示のごとく「大盛り無料」の文字が。このような極限状態において、無料の二文字を無視できるほど私は冷静な人間ではありません。人差し指が勝手に「大盛り」を連打していました。
注文からおよそ15秒(このスピード感こそが日本の至宝)で現れたのは、湯気の立つ漆黒のお出汁に、巨大なかき揚げが鎮座する、圧倒的ボリュームの天ぷらそば(大盛り)でした。
まず熱々のつゆをすすると、五臓六腑に染み渡るお出汁の風味。続いて、つゆをその身に抱き、お出汁の海へと美しく融解した黄金の衣を口に運びます。
この瞬間、私の脳のニューロンがパチパチと音を立てて覚醒を始めました。炭水化物と塩分が、脳にダイレクトアタックを仕掛けたのです。朝天そばにより脳が活性化された私は、脳内ホワイトボードに向かい、ひとり戦略会議を開始しました。
10時半までに都内の会社に滑り込むための起死回生プランです。
【プラン1:カフェ潜伏・果報は寝て待て作戦】
内容: お洒落なカフェに陣取り、優雅にカプチーノでも飲みながら、運行再開をのんびり待つ。
審議: ベスト。精神衛生上、これ以上の正解はない。
却下理由: 10時半に絶対外せないアポがある。私の社会的な信用が寝たきりになる。よってボツ。
【プラン2:大富豪タクシー強行突破作戦】
内容: タクシーを拾い、横浜から山手線内まで高速道路をぶっ飛ばしてもらう。
審議: 領収書さえ切れば、私の財布は痛まない。
却下理由: タクシー乗り場は劇団四季の当日券売り場かと思うほどの長蛇の列。並んでいる間に台風が温帯低気圧に変わるレベルなのでボツ。
【プラン3:YCAT発・空の旅フェイント作戦】
内容: 横浜駅のYCAT(横浜シティエアターミナル)から羽田空港行きのリムジンバスに乗り、羽田から都内を目指す。
審議: トリッキーかつ斬新な発想でよろしい。
却下理由: そもそも飛行機が欠航している嵐の日に、バスが運行しているわけがない。バスロータリーは案の定シャッター街のような静けさであった。よってボツ。
【プラン4:新幹線ワープ・文明の利器作戦】
内容: 唯一息をしている市営地下鉄で新横浜駅に向かい、東海道新幹線で品川まで一駅ワープ。
審議: 完璧な富裕層の選択。
却下理由: 新幹線もJR東海も早々に運休宣言。動いていない新幹線はただの長い鉄の箱だ。
やや冷めてきた天そばのつゆを飲み干す頃には、プランが4つも乱立していました。しかし悲しいかな、実行可能な案はゼロです。なのにアポの時間は刻一刻と迫ります。
私は画面を凝視し、最新運行状況の画面をリロードし続けました。
その時です。
画面にポップアップした、一条の光。
【運行情報】東海道新幹線、午前9時前後より順次運転再開
「キターーーーーー!ッッシャァァァァァァァ!!」
思わず駅そば屋のカウンターでガッツポーズを決めました。周りのおじさまが一瞬ビクッとしましたが、そんな小さなことは気にしません。新幹線が動くということは、死に体だった「プラン4」が、奇跡の復活を遂げたということです。
私はすぐさまどんぶりを返却口に叩きつけ(嘘です。丁寧に置きました)、地下鉄の改札へと猛ダッシュし、新横浜駅に向かいました。
新幹線のホームではまた別のドラマが始まっていました。運転再開直後でホームはカオス状態。いつ来るか分からない列車を待つ人々でごった返しています。
動かない人の列の中で、ふとキヨスクに目をやると、我が横浜が誇る「シウマイ弁当」とバッチリ目が合いました。「いやいや、私は仕事に行くところだ。しかもさっき天そば(大盛り)を食べたばかりだ」 「でも、新幹線に乗るなら駅弁はマストではないかしら?」と、 心の中の天使と悪魔が戦いましたが、台風という非日常が私の理性をこっぱみじんにし、気づけばシウマイ弁当を握りしめていました。
一駅(11分)しか乗らないというのに。
新幹線に乗るという行為は、いつでも人を旅人に変えてしまうのです。
やがてホームに、胸躍る白い流線型の美しい車体――N700系が滑り込んできました。
車内に一歩足を踏み入れた瞬間、そこは別世界でした。さっきまでの喧騒が嘘のような静寂、心地よい冷房、そしてガラガラの座席。
どんな気象下でも、日本の大動脈を守り抜くというプライドを感じます。技術革新、万歳。日本のものづくり精神、万歳。
私はN700系の圧倒的な包容力に抱かれながら、わずか11分間の超高速快適旅を堪能したのです。
もちろん、購入したシウマイ弁当を広げる時間など一瞬たりともないまま、列車は品川駅に滑り込みました。
時計は10時15分。私は勝ちました。台風に、多摩川に、満員御礼の横浜駅に。見事にアポの15分前に会社に到着したのです。
傘の骨が折れ、靴の中には若干の水たまりが形成されていましたが、それこそが勝利の勲章です。
デスクに座り、ようやく一息ついた時、ふとあることに気づきました。
私はわざわざ車で横浜駅に行き、天そばを食べ、人混みに揉まれ、地下鉄に乗り換え、新横浜まで行きました。 しかし、我が家からの徒歩圏内には、新横浜駅まで直通の地下鉄駅があるではないか。
つまり朝、家を出た瞬間に、「地下鉄駅に行く → 新横浜に出る → 新幹線に乗る」 というルートを選んでいれば、横浜駅でのあのゾンビ映画のようなパニックに巻き込まれることもなく、夫という名のタクシーをコキ使うこともなく、スマートかつ優雅に出社できていたのではないか。
……いや、それは結果論です。 あの時、横浜駅で熱々の天そばを食べたからこそ、脳が覚醒して新幹線再開のニュースに瞬時に反応できたのです。
あの天そばがなければ、私は今頃まだ駅の通路に座り込み、虚ろな目で画面をリロードし続けるゾンビになっていたに違いありません。
すべては熱々の天そば(大盛り)の功績なのです。
ちなみにシウマイ弁当は、昼休みに食べる頃にはすっかり冷めていましたが、もともと冷めているので問題ありません。
美味しかったです。
読んでも何も身につかない話 台風通勤 〜朝天そばは脳を活性化する〜 完
