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アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア(刻印された時間)』

タルコフスキーをご存知だろうか。
ソ連、今のロシアの映画監督。
『惑星ソラリス』の監督。

『惑星ソラリス』は、僕の中での人生のベストテンに入るSF映画だ。その監督。彼の映画は、見ていると寝てしまう。何度も寝た事がある。僕はお盆休みや正月休みなどまとまった休みの時に、彼の映画を観る。夜更かししながら彼の映画を観る。知らぬ間に寝ていることは何回も。起きてまた見直す。見終えた後は脱力する。深く深く心に刻まれている。僕は彼の映画を理解しているのか?わからない。でも何か強烈に残る。初めて『惑星ソラリス』を見たのは二十歳くらいだったと思うが、完全に寝落ちして、観直してもまた寝落ちを繰り返して、なんかすごかった、という印象が残っただけだったが、のちに『ストーカー』や『鏡』も観ながら寝てしまった。それらを観た後に、また『惑星ソラリス』を観た時には、全く眠くならず、変な言い方だけど「観やすい映画だな」と思ったくらいだ。『惑星ソラリス』は何回見たかわからない。大好きだから何回も観るのだけど、それよりも「もう一回観たら違った何かがわかるかもしれない」と思うからだ。

彼の映画は何を観ても、観ている間中ずっと何かを考えているか、その映像の中に完全に引き込まれて没入しているかのどちらかだ。没入し過ぎてストーリーとか登場人物のことも忘れてしまうくらい。ハッと気づいてあれ何の映画だったっけ、と思ってまた観直したりする。
「難解だ」ということは、ただの事実であるだけで、「だから面白い。つまらない」は全く関係ない。その難解なものをこちらがどう受け止めるかだけだ。「難しいから面白い」というのも「難しいからつまらない」というのも、どちらもその映画を何にも観ていないということだ。「難しいから」は必要ないのだ。刺さったか刺さらなかったか。それだけでいいのだ。理解できるかどうかはその先の話。僕は彼の映画から、そういう映画の見方があることを学んだ。

今日はそんな彼の本の話を。

彼が書いた『映像のポエジア(刻印された時間)』という本がある。
分厚い本で、積ん読状態で断片的にしか読んでいないのだけど、彼の芸術家としてのとても真っ直ぐな言葉が次々と飛んできて突き刺さる。折に触れ開き、気になったところを読む。

「どの芸術も、売り物として<消費>に向けられることを目的にはしていない。人間は何のために生き、人間の存在の意味はどこにあるのか、自分とまわりのものに説明することが芸術の目的である。この惑星に人間が現れた理由は何なのか、人々に説明することが芸術の目的なのである。たとえ説明できないとしても、少なくとも芸術は、この問題を人々の前に呈示しなければならない。」

一つも難解な箇所もなく、全てに頷く。

「芸術の機能的な使命は、しばしば思われているように、思想を吹き込むことでも理念を信じさせることでも、用例として仕えることでもない。芸術の目的は、人間に死に対する準備をさせることであり、人間の魂を開拓し、柔軟にし、人間が善に目を向けることを可能にすることにあるのである」

ただただ、その言葉の一つ一つを読む。

芸術の可能性や力を信じることは、青臭いことなのだろうか。
10代や20代の人間が自分の人生の全てを芸術に賭ける。
それを年長者がたしなめる。世の中、そんな風にはいかないんだよ、と。
しかしそのたしなめる言葉は、経済の話をしているだけなのだ。
そしてその年長者自身も、経済に自分の人生の全てを賭けて疲れ果て生きる意味を見失う。そんな疲れ果てやつれたありふれた人生もまた素晴らしいものである、と応えてくれるのが芸術なのだろうと思う。

芸術は万能ではない。
芸術は人間という存在の全てや、人生の全てや、宇宙のこと全てを表現できるわけではない。ほんの少ししか表現できない。だからこそ、古今東西、大勢の芸術家が生まれてきた。創作を続けてきた。彼の映画もその一つにすぎない。そしてこれからも世界のどこかで新しい芸術が生まれる。こうしているこの瞬間にも生まれている。人の命の数と同じくらいの芸術がある。その意味をもっと人間は考えるべきだと思う。芸術をすぐに消費に回さず、自分が人間として生きていることの奇妙さをもっと芸術を通して考えるべき。それが自分の人生を引き受けるということだろうと思う。

問題の解決に芸術を使うべきではない。
芸術は問題を解決はしない。ただ問いかけるだけだ。
問題を受け止め生きることで答えを出すのはこちら側だ。
芸術はただ突きつけ、突き刺すだけだ。

この本には紹介したい言葉が山ほどある。
それを抜粋していると、この本一冊全てを書き写すことになってしまう。

ぜひタルコフスキーの映画とこの本で、その映像の世界と彼が世界について語る言葉を味わってほしい。

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