きみは、午後に似合う 第15話|色をつける前の恋
箱根編「夜空にいちばん近い午後」
夕食のあと、
ホテルの外のベンチに座っていた。
夜の箱根は、
思っていたより静かだった。
東京で聞こえる音とは違う、
少し湿った、
深い沈黙があった。
⸻
隣にいる彼が、
ゆっくりと言った。
⸻
なんか、
不思議なんだよね。
⸻
いつもより、
少しだけ遅い声だった。
⸻
まだ二回しか会ってないのに、
こんなホテルに来て、
旅行まで来てるの、
なんか信じられないんだよ。
⸻
私は、
笑いながら頷いた。
ほんとうに、
そうだと思った。
⸻
二回しか会っていない。
そう言われれば、
たしかにそうだった。
会った回数だけを数えたら、
まだ何も始まっていないみたいに見える。
⸻
けれど、
私の中ではもう、
二回、
という数字では追いつかない場所に、
彼はいた。
⸻
ずっと前から知っていたような気がした。
どこかで一度、
会ったことがあるような。
うまく言えないけれど、
身体より先に、
心の奥のほうが
彼を覚えていたような。
⸻
古くさい言い方をすれば、
昔から知っている人みたいだった。
でも、
そんなことを言葉にしたら、
急に全部が嘘っぽくなってしまう気がした。
⸻
だから私は、
ただ笑った。
⸻
たしかに、
不思議だね。
⸻
そう言うくらいしか、
できなかった。
⸻
彼とのあいだには、
たぶん、透明な何かがあった。
壁と呼ぶには薄くて、
距離と呼ぶには近すぎるもの。
見えないのに、
ふとした瞬間にだけ
指先に触れるようなもの。
⸻
越えたいのか。
越えてはいけないのか。
それもまだ、
わからなかった。
⸻
それでも、
隣に座っていると、
その透明なものの向こう側にいる彼が、
なぜかずっと前から知っている人みたいに思えた。
⸻
彼は、
柔らかい人だった。
マシュマロみたいだ、
と思った。
触れると、
強く押し返してこない。
でも、
ちゃんとそこにある。
冷たくも、
硬くもない。
⸻
私はたぶん、
そういう柔らかさに、
ずっと弱かった。
⸻
一緒にいて、
緊張しないわけじゃない。
でも、
怖くなかった。
⸻
合わない人といると、
私はすぐに身体がこわばる。
笑い方もわからなくなる。
先に嫌なことを言ったり、
わざと壊したくなったりする。
傷つく前に、
自分から傷をつけてしまいたくなる。
⸻
でも、
彼にはそれをしたくなかった。
壊したくない、
と思った。
⸻
それだけで、
もう十分に特別だった。
⸻
彼にとって、
私はどんな存在なのかはわからない。
好きな人なのか。
楽な人なのか。
少し不思議な人なのか。
たまたま旅行に来た相手なのか。
⸻
本当のところは、
彼にしかわからない。
それなのに、
わからないものほど、
人は綺麗なほうへ想像してしまう。
自分に都合のいい光を当てて、
そこに意味を探してしまう。
⸻
私もきっと、
そうしている。
わかっている。
⸻
でも、もし。
彼にとって私が、
そばにいると少し落ち着く人だったなら。
いてくれたらいいな、と
痛い夜にふと思い出す人だったなら。
⸻
それだけで、
私はきっと、
泣いてしまうくらい嬉しい。
⸻
恋かどうかは、
まだわからない。
好き、という色を塗った瞬間に、
今あるものまで変わってしまいそうで怖い。
でも、
好きじゃないと言えば、
自分の中のいちばん柔らかい場所を
裏切ってしまう気がする。
⸻
白でも、
黒でもない。
始まりでも、
終わりでもない。
ただ、
名前のない光みたいなものが、
胸の中で静かに揺れている。
⸻
大丈夫じゃない夜に、
痛いところより先に思い出してしまう人。
ブランケットをかけてくれそうな人。
氷嚢をそっと置いてくれそうな人。
何も聞かずに、
同じ部屋で静かに息をしてくれそうな人。
⸻
それが本当の彼なのか、
私の中で優しくなった彼なのかは、
わからない。
人はきっと、
会えない時間の中で、
相手を少しずつ自分の願いに似せてしまう。
⸻
それでも、
あの夜の彼は、
たしかに優しかった。
少なくとも、
私の言葉にならない場所に、
彼は背を向けなかった。
それだけは、
覚えていていい気がした。
⸻
だから私は、
まだ色をつけない。
恋だった、
とも言わない。
好きだった、
とも決めない。
運命だった、
なんて言葉にも逃げない。
⸻
そんな綺麗な言葉で包んでしまったら、
この不確かな温度まで
嘘になってしまいそうだから。
⸻
ただ、
二回しか会っていないはずの人を、
ずっと前から知っていたような気がした。
その不思議だけを、
今はそっと抱いている。
⸻
色をつける前の恋。
それは、
まだ恋じゃないふりをしている恋だった。
⸻
名前をつけたら壊れてしまいそうで、
でも、
名前をつけないままでも
胸の中で何度も呼んでしまうものだった。
⸻
彼の気持ちはわからない。
あの旅を、
彼がどんなふうに覚えているのかも。
私のことを、
どんな名前で胸の中に置いているのかも。
わからない。
⸻
だから、
勝手に色はつけない。
恋だった、
と言い切るには早すぎて。
思い出だった、
と片づけるには、
まだあたたかすぎる。
⸻
白でも、
黒でもない。
好きでも、
好きじゃないでもない。
でも、
痛い夜に思い出してしまうくらいには、
もう特別だった。
⸻
大丈夫になったら会いたいんじゃなくて、
大丈夫じゃない夜にも、
そばに浮かんでしまう人。
そんな人に出会ってしまったことを、
私はまだ、
奇跡とも恋とも呼ばない。
⸻
ただ、
少しだけ怖いくらい、
あたたかかった。
名前をつけたら壊れてしまいそうなものを、
私は今日も、
両手でそっと包んでいる。
⸻
まだ色をつけないまま。
でも、
もう透明ではいられないくらいに、
彼の輪郭だけが、
胸の中でやさしく滲んでいた。
