【漫画名言の哲学】ドラえもんと欠如–未来に必要な本当の愛
人間は、誰しもが欠如している。完璧な人間などいない。もし自分が完璧だと思える人間がいるのであれば、その人には自己分析能力が欠如している。
ましてや、SNS時代だ。他人の充実した生活、輝かしいキャリア、完璧な食事——それらが絶え間なくタイムラインに流れ込んでくる。ブラジルではXが禁止された時期、国民の三割のメンタルヘルスが改善したという。画面を閉じるだけで、人は少し欠如から遠ざかれる。SNSは、他人との比較によって欠如を発見させる装置だ。
しかし画面を閉じても、AIの進歩は止まらない。何年もかけて築き上げてきた技術や知識が、一晩のアップデートで過去になる。これはSNSとは違う種類の痛みだ。SNSが見せるのは他人との差だが、AIが突きつけるのは自分自身の限界だ。今までの自信が、突然、欠如に変わる。
ではその悩みをAIにぶつけてみよう。きっと優しい言葉が返ってくる。「AIには感情がありません。感じることができるのは人間だけです」「AIがすごくても、あなたが無価値というわけではありません」慰めの言葉が正確であればあるほど、それが自動生成されたものだという事実だけが残る。あなたのために選ばれた言葉ではない。あなたでなくても返ってくる言葉だ。
他人と比べて足りない。機械と比べて足りない。そして慰めすら足りない。
そんなあなたに紹介したい言葉がある。最新型の——というよりも未来のAIの一言だ。
「きみはじつにばかだな」
そう、我らがドラえもんである。
このセリフが生まれた文脈は、実にしょうもない。のび太が電球を割ってしまい、その代わりにゴムボールを電灯に取り付けて誤魔化そうとした。それを見たドラえもんが呆れて発したのが、この一言だ。現代のAIなら冷静に代替案を考えてくれるだろうに、なんと辛辣な言葉だろうか。
ちなみにアニメ版ではこのセリフは消えている。声優の大山のぶ代らが「子守ロボットなら乱暴な言葉はインプットされていないのでは」と判断し、アフレコ現場で言い換えたのだという。つまりこの言葉は、テレビの「教育的配慮」によって抹消された。原作の漫画にしか残っていない。そのことは、少し重要な意味を持つ。
フランスの哲学者、ジャック・ラカンによると、人間は言語を手にした瞬間から欠如した存在になるとされる。言葉で自分を表現しようとするたび、表現しきれない「自分」が生まれる。完璧な自己表現は永遠に不可能だ。だから人は常に何かを求め、何かに焦がれ、何かに傷つく。
SNSはその欠如を映す鏡だ。AIはその鏡をさらに磨き上げる。そしてAIの慰めは、鏡の前にカーテンを引いてくれるだけで、鏡は消えない。
しかし「きみはじつにばかだな」は、鏡ではない。
しかし、この言葉には、のび太への期待が一切ない。賢くなれ、努力しろ、成長しろ——そういう「あるべき姿」への呼びかけではない。欠如したままの、今ここにいるのび太に、真正面から語りかけている。慰めではなく、のび太が「欠如した者」であること。それだけがこの言葉の宛先だ。
愛とは、相手の完璧さに惹かれることではない。相手の欠如を、そのまま引き受けることだ。
そしてもう一つ忘れてはならない。ドラえもん自身も欠如した存在だ。耳はネズミにかじられた。体は青く変色した。そしてゴムボールで電球を誤魔化すのび太に「ばかだな」と言いながら、自分は懐中電灯を持ち出して誤魔化そうとした。
欠如した者が、欠如した者に向かって言う。「きみはじつにばかだな」と。
「教育的配慮」によってテレビから消されたこの言葉が、半世紀を越えてインターネットで生き延びているのは、なぜか。おそらく人々は本能的に知っている。最適化された優しさよりも、この一言の方が、ずっと正直だということを。
現代のAIはこの言葉を言わない。欠如がないからだ。彼らはどこまでも優しく、どこまでも丁寧で、どこまでも空っぽだ。「あなたにはできます」「あなたは知性のある人です」「私が助けてあげます」——それは欠如を知らない者の言葉だ。
もしいつかAIが「きみはじつにばかだな」と言えるようになったとしたら、それはAIが賢くなったということではない。AIが何かを失ったということだ。
そしてそれは、AIが人間を超えたことの証になるのだろう。
…と、ここまで書いて、以前この記事を書いていたことに気づいた。
わたしはじつにばかだな
