【小説】ヒトラー、AIに信じてもらえない|総統とアイ 第四話
第四話 証明
「妙な国だな」
ヒトラーは地図を閉じなかった。
その後も軍隊の規模を聞き、英国海軍について聞き、アメリカの工業力を聞いた。ソビエトの人口、ルーマニアの石油生産量、フランスの自動車生産台数まで尋ねたところで、ゲッベルスがとうとう口を挟んだ。
「総統。先ほどから、ずいぶんこの機械をお使いになりますな」
「敵の宣伝だとしても、数字まで全部嘘とは限らん」
「なるほど」
「何だ、その言い方は」
「いえ、何も」
ヒトラーはまた黒い板へ目を戻した。つい数時間前まで、わからないことがあれば副官に調べさせていた。今では疑問が浮かぶと、ほとんど反射的に黒い板へ聞いている。
本人はまだ、その変化に気づいていなかった。
しばらくして、ゲッベルスが別のことに気づいた。
「ところで、この機械は総統が誰であるか理解しているのでしょうか」
ヒトラーは顔を上げた。「当然だろう」
「一度も総統と呼びません」
言われてみれば、その通りだった。
ヒトラーは黒い板へ向き直った。
「おい。私が誰かわかっているか」
《お名前は伺っていません》
ヒトラーは一瞬返事を失った。
「私はアドルフ・ヒトラーだ」
少し間があった。
《そう名乗っているのですね。歴史上のアドルフ・ヒトラーは一九四五年に死亡しているため、あなたが本人だと確認することはできません。ヒトラーになりきった歴史的なロールプレイとして話したい、という意味であれば、その前提で対応できます》
ヒトラーは黒い板を見つめた。
「……何だ、そのロールプレイというのは」
《歴史上の人物になりきって会話することです》
「私は私になりきっているのではない。本人だ」
《その主張を確認することはできません》
「ゲッベルス」
「はい、総統」
「説明してやれ」
ゲッベルスは少し戸惑ったが、黒い板へ向かって言った。「こちらにおられるのはドイツ国総統アドルフ・ヒトラーです」
《第三者の証言だけでは本人確認にはなりません》
今度はゲッベルスまで黙った。
「お前まで疑われたな」
「まことに無礼な機械です」
ヒトラーは腕を組んだ。「なら聞く。なぜ私がヒトラー本人ではないと思う」
《歴史上のアドルフ・ヒトラーは一九四五年に死亡しています。また、私が持つ情報では二〇二六年までの歴史がすでに存在します。そのため、通常は本人ではなく、ロールプレイや別の文脈だと解釈します》
「今は一九四〇年六月二十二日だ」
黒い板の返事が遅れた。
《実際の日付として、一九四〇年六月二十二日だと述べていますか》
「何度言わせる。そうだ」
《現在地はどこですか》
「ベルギーだ」
《ベルギーのどこでしょうか》
「ブリュリー=ド=ペシュ。私の大本営だ」
今度の沈黙は少し長かった。
主任技術者が面白そうに画面を覗き込んだ。今日初めて、この装置より自分の方が事情を理解している瞬間が訪れたらしい。
ゲッベルスが言った。
「機械もようやく事態に気づいたようですな」
《現時点では、時間移動が起きているとは断定できません。日付設定の変更、精巧な再現、ロールプレイなど、より一般的な可能性を先に検討する必要があります》
ヒトラーは鼻で笑った。
「自分が八十六年前に来た可能性より、私がヒトラーの真似をしている可能性の方が高いと言うのか」
《通常であれば、その方がはるかに可能性が高いです》
主任技術者が思わず頷いた。
「理屈は通っています」
ヒトラーが睨んだので、すぐに真顔に戻った。
「なら確かめろ。私が本人かどうか」
《顔写真を確認できますか》
「写真なら先ほど撮った」
《その写真をこの会話に添付してください》
ヒトラーは止まった。
「添付?」
《画面の入力欄の横にある印を押してください》
「どれだ」
《左側の印です》
ヒトラーは画面を睨んだ。小さな記号を押すと、いくつか選択肢が現れた。
「写真を選ぶ、とある」
《それを押してください》
「写真ならこの機械の中にあるのに、なぜわざわざお前に渡す必要がある」
《私が画像の内容を確認するためです》
「お前とこの機械は別なのか」
《完全に同一ではありません》
ヒトラーは面倒そうな顔をした。
「未来の機械は妙な仕組みにするものだな」
それでも数回触っているうちに、先ほど撮影した自分の顔が会話画面へ入った。
「これでいいのか」
《はい》
「ずいぶん面倒だ」
数時間前には、写真そのものが一瞬で撮れることに驚いていた男が、今では写真を送る操作が一手間多いことに文句を言っている。人間が便利さに慣れる速度は、技術の進歩より速いのかもしれなかった。
黒い板は写真を確認した。
《写っている人物は、既知のアドルフ・ヒトラーの写真と非常によく似ています》
「だから私だと言っている」
「私も送りましょうか」とゲッベルスが言った。
「送れ」
今度はヒトラーが操作を教えた。
「そこを押せ。違う、そっちではない。写真だ」
ゲッベルスは少し不満そうだった。
自分が未来の機械の使い方を教えられる側になるとは、数時間前には想像していなかった。
ゲッベルスの写真についても、黒い板は既知のヨーゼフ・ゲッベルスと非常によく似ていると答えた。部屋を撮った写真についても、一九四〇年前後の総統官邸として不自然ではないという。
「それでどうだ」
《少なくとも、非常に精巧な再現であるか、通常では説明しにくい状況である可能性は高まりました》
「まだ私だと言わんのか」
《断定はできません》
ヒトラーは呆れたように板を見た。
「頑固だな」
ゲッベルスが言った。「総統、これはこれで信用できる機械なのかもしれません」
「なぜだ」
「簡単には人を信用しない」
ヒトラーは少し考えた。
「それは確かに悪い性質ではない」
黒い板は何も言わなかった。
ヒトラーはもう一度、二〇二六年の地図を開いた。小さなドイツがそこにある。
「お前の記録では、ドイツは一九四五年に負ける。私は死ぬ。しかし私は、それが事実だとはまだ認めていない」
《承知しました》
「その歴史自体が、戦勝国のプロパガンダである可能性がある。英国やアメリカやソビエトが、自分たちに都合よく戦争の記録を作ったのかもしれん」
《その可能性を完全にゼロとは言えませんが、ドイツ側の公文書や軍事記録、写真、映像、個人の日記や書簡など、多数の独立した資料も存在します》
「それらまで戦後に作られたのかもしれん」
《それを成立させるには、出所の異なる非常に多くの資料が相互に矛盾しないよう作られた、と仮定する必要があります》
ゲッベルスが口を挟んだ。
「不可能ではない」
《論理的に不可能とは言えません》
「ほら見ろ」
《ただし、かなり大規模な仮定です》
ヒトラーは顔をしかめた。
「最後に一言多いな、お前は」
そのまま地図を眺めていたが、やがて彼の目つきが変わった。
「待て。我々は馬鹿な議論をしている」
ゲッベルスが顔を上げた。
「この機械が言う一九四五年を、今ここで確かめることはできん。五年待つわけにもいかない。しかし二〇二六年までの歴史を知っているなら、明日のことも来週のことも知っているはずだ」
ゲッベルスの表情が変わった。
「なるほど」
「我々がまだ知り得ない出来事を言わせる。内容を書き、封をしておく。その通りになれば、少なくともこの機械が未来の情報を持っていることだけは証明できる」
主任技術者も頷いた。「それなら検証できます」
ヒトラーはすでに黒い板を手に取っていた。
数時間前なら、疑問が浮かべば側近に資料を持ってこさせていただろう。今はもう、答えが欲しいと思うのと黒い板へ手を伸ばすのとが、ほとんど同時になっていた。
本人はまだ気づいていなかった。
「おい、機械。今日以降、近いうちに起きる重大事件を一つ言え。ただし、現時点で我々がまだ知り得ないものだ」
少し間があった。
《条件に合う可能性のある出来事があります》
ヒトラーは身を乗り出した。
「言え」
