溶けた夜
溶けそうな暑さが忍び寄る中、週に2,3日やってくる「今日は絶対ざるそばを食べたい」の日が来た。しかし、こんな日にかぎって出張。定時も過ぎている。
直帰ついでに普段行かないスーパーに寄ることにした。荷物を減らすためにビジネスバッグは車内に放置。疲れているのだ。
せっかく身軽になって入ったというのに、店内は閑散としている。閉店間際らしい。
見慣れない店舗をウロウロしていると、ざるそば900gという偏差値の低い商品を発見した。最高だ。私は迷わずカゴに入れた。海苔とそばつゆはあったはずだから、あとはネギだけだ。
いつもはパックのカットネギを買うところだが、ちょうどいいものを見つけた。
大容量冷凍ネギ。
これだ。
土嚢みたいな重みと質感の袋は、持った瞬間にネギの青々しい香りと味が漂っている気がした。キンキンに凍った手触りも、夏らしくて心地よい。寝苦しい夜に枕にしたいくらいだ。
帰ってから使う分だけ解凍しよう。そのままレジに向かう。
レジ打ちの店員さんは、若い男性だった。流行りの黒髪短髪と、「研修中」の名札が眩しい。
「いらっしゃいませぇ」
覇気はないけれど、疲れた身体にはこれくらいのテンションが心地よい。ピッピと慣れた手つきでバーコードを読み終えた彼は「6番の精算機でお願いします」と私に告げた。読み取りは店員さん、会計はセルフ。最近よく見る形態だ。
「iD」のボタンを押し、スマホでタッチする。ところが普段なら1秒で鳴るはずの完了音が聴こえない。不思議に思っていると「ピーッ!」というエラー音とともに、画面に「使用不能な決済です」と表示された。
押し間違えたかな?ともう一度丁寧に操作してみる。iD、うん、間違いない。押す。スマホをタッチ。
ピーッ!「使用不能な決済です」
「すみませぇん」
弱弱しい声で、先ほどの店員さんに声をかけて状況を説明する。幸いお客さんはいなかったため、焦らずに済んだ。しかし彼は研修中の身。なんだか申し訳ない気になってくる。
「一度操作していただいてもいいですか?」と言われ、彼の目の前で3度目のiD決済。当然出る表示は同じだ。
「あれ…なんでかな…すみません、少々お待ちください」
彼は売り場に駆け出し、すぐに戻ってきた。覇気がないなどと言って申し訳ないほどのダッシュだ。
彼の脇には、高齢の女性店員がいた。茶髪で濡れ髪のパーマと紫に近い艶かしいルージュが、遠目からでも目を引く。
私は胸をなで下ろした。
正直に言って横の彼とは、明らかに面構えが違う。幾度となく死線をくぐってきたオーラが漂っている。この戦いに彼は置いていく。そんな顔をしている。
私は、女性店員さんに再度状況を説明した。
「あ~、それだとこのボタンを押していただいて」
ほら見ろ。これぞベテラン。一撃である。
「ありがとうございます!」
御礼を言いながらボタンを押してスマホをタッチした。
ピーッ!「使用不能な決済です」
「あれぇ~?」
女性店員が猫のような高い声を出している。なんと、歴戦の雄ですら解決できないというのか。
「なんかすみません…」
私は思わず謝った。閉店間際、おそらく人員に余裕がない中、二人がかりで私一人の対応をしてくれている。パーソナルジムなら最上級のコースである。
いえいえと優しく返してくれた女性は、「あ、これ、5番に飛ばして!」と若い店員に指示を出した。
なるほど、6番の精算機の調子が悪いなら他のところに回ればいい。シンプルだが真っ当な作戦だ。
指示を受けた研修中の彼は「はい!」と勢いよく返事しレジをポチポチ操作する。あの気怠さは、もう彼にはない。よかった、もう安心だ。
「すみません、これどうやるんですか?」
彼には方法がわからなかったらしい。
「やるわ」
安請け合いした若手にも、ベテランは怒らない。これが令和の教育だ。彼女はレジのボタンを素早く押していく。
「え、これどうやんのかな?」
わからなかったらしい。
二人が同時にこちらを見た。私はゆっくり横に首を振る。申し訳ないが、私にもわからない。
「○○さん呼んできます!」と彼は再び走り出した。おそらく社員さんだろう。
残された女性店員が「すみませんねぇ」と言う。「全然大丈夫です!」と両方の手のひらを向けながら返す私。はたから見れば、完全に銃を向けられた時のジェスチャーである。
ちらっとカゴを見ると、冷凍ネギと目が合った。こいつが一番不安そうな顔をしている。表面にはうっすらと水滴が浮きはじめていた。
すぐに社員さんがやってきた。優しそうな男性だ。ただしその目には、二人よりわずかに深い疲労の色が滲んでいる。閉店間際、この人が最後の砦なのだろう。
私は状況を説明した。もう慣れたものである。
「一応なんですけど…このボタンを押してからiD決済していただけますか?」
2度試した方法だが、それは言わず、言われたとおりにした。
ピーッ!「使用不能な決済です」
「ですよね…」
社員さんは苦笑いした。
「それでね!5番に飛ばそうって!」と女性店員が息巻いて説明するのを聞き終えるまでもなく、彼はカゴを手元に引き寄せた。どうやら、5番の精算機に飛ばすためにもう一度バーコードを読みなおさなければいけないらしい。
私は静かに見守った。回収されたネギと蕎麦が、再放送のようにレジを通っていく。
「お待たせしました。5番でお願いします!」
その言葉を受け、私は小さくうなずいた。そしてiDのボタンを押し、スマホを置いた。
ピーッ!「使用不能な決済です」
「あれれぇ~???」
私は笑った。申し訳なさもあるが、大容量のネギと大容量の蕎麦のために、大人4人が全員頭上に「?」をつけている図があまりにも不可解で滑稽だったからだ。
社員さんは、一段トーンを下げて言った。
「あの、お客様…
4番の精算機でもよろしいでしょうか…」
返事するまでもなかった。ここまで来たら一蓮托生だ。6、5ときたら4に決まっている。天国への精算機カウントダウン、とっくに腹はくくった。
ピッ…ピッ…
社員さんがレジを通す音と、店内の妙に明るいチープなBGMだけが聴こえる。固唾を飲んで見守る私たち。
「では…お願いします…」
ゴクリ。
ピーッ!「使用不能な決済です」
「3、いきますか?」私は半笑いで聞く。
「いえ、3と2はもう締めておりまして…
あとは…
1しか…」
そう言いながら彼は最奥に目をやる。そこに鎮座するレジは、「1」の光を煌々と掲げながら、まるで雪山の奥で佇む明かりのついた小屋のようにこちらを待ち受けていた。
「本当に…申し訳ありません…」と消えそうな声で言われる。
私は再び両方の手のひらを向けながら返した。
「いやいや!こちらこそ本当に申し訳ないです。手持ちがなくて…」
そう。お気づきだろうか。
この店には、支払い方法の指定なんてない。現金でもカードでも、スマホの代わりに財布を出して払えば、それで終わる話なのだ。
それなのに、なぜこんなことになっているのか。
財布は車の中にある。正確に言えば、車に積んだビジネスバッグの中。
「財布、車に取りに行ってきます!」
そういえばいいだけの話なのである。
出張帰りだからと身軽な装いで店に入ったこと。
蕎麦とネギを買うだけだからと油断したこと。
自身の落ち度を頭に浮かべながら、私にはそのセリフがどうしても言えなかった。
閉店間際のこんな時間に、三人が総出で手を尽くしてくれている。その状況で、今さら「財布はすぐ取りに行けるところにあります」とは、どうしても口にできなかったのだ。
結果、「どうしてもiDで払いたい強烈なこだわりを持った男」として振る舞うしかなかったのである。
もし財布の件が明るみに出たら。
彼らにかけた苦労と迷惑を思うと、カウントダウンする間もなく即射殺されてもおかしくない。
私は、「ゆっくりで!本当大丈夫です!」と何度も口にしていた。両方の手のひらは、ずっと彼らに向いていた。
何度目かわからないレジ打ちが始まった。先ほどバーコードを読んだ商品を何度も何度も読み直す作業。もはや、賽の河原である。地獄のような状況だが、財布の件は地獄まで持っていかねばならない。
「では…」
社員さんの口数ももはやゼロに等しい。思いを受け止めた私は、小さく息を吐きながらボタンを押し、決済をした。
ガガーーーー
レシートが出てきた。
「おおおおお!!!!!!!」
同時に4人の歓声があがった。
「よかった~!!!」と声に出す研修中の彼。
無言でニヤニヤして拍手する女性店員。
「本当にお手数おかけしました」と謝る社員さん。
「すみませんでした!」とさらに謝る私。
このままざるそばパーティでもしませんか?そう言いたかった。蕎麦とネギならたっぷりありますと、そう言いたかった。
けれど、私が袋詰めをしている間に皆の姿はなくなっていた。皆、あるべき場所に戻っていったのだ。
店を出る時、私は振り返り、店内に一礼して車に乗り込んだ。
両方の手のひらでハンドルを握りながら、財布の在り処にもう一度目をやった。ビジネスバッグは、助手席で待ちくたびれた顔をしている。
国道は空いていた。ラジオもつけず、ただ夜の街に街灯だけが溶けていく。
予定よりずいぶん帰宅が遅くなった。ネギはすっかり柔らかくなっている。けれど、ゆがいた蕎麦にやさしく馴染んでいた。
