【水と聖典#4-1】『新約聖書』 ‐サマリアの女と生ける水
この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む物は決して渇かない…

Annibale Carracci
サマリアの女
昼の光が、じりじりと地面を焼いている。
サマリアの空気は重く、熱は逃げ場を失ったように、ゆっくりと漂っていた。
このサマリアという土地は、ユダヤ人とサマリア人の深い対立と、憎しみ合いの歴史を背負っている。
この地に、イエスが足を踏み入れたのは五月上旬のことだ。
サマリアの、晩春から初夏にかけての暑気は、地から這い上り粘りついて空中にいつまでも居座ると言ったふうの暑気である。
その日も、暑さは頂点に達していた。
時刻は正午を少し過ぎたころ。普通なら、人々は朝や夕方に水を汲む。
けれど、その時間に、一人の女性が井戸へ向かう。
狂人でもないのに、よりによってその時刻に重い水瓶を頭上に一箇、片手に一箇、たずさえてやって来た。
なぜ、そんな時間に来るのか。
それは彼女が、その時刻にならおしゃべり好きの町の女たちが井戸の附近にいないことを確を以て知るからであった。
つまり彼女は、人目を避けて生きていた。
口さがない人々の眼につくのを避けねばならぬ生き方をしている女であったのである。
乾いた土地。重たい水瓶。誰にも会いたくない午後。
その井戸のそばに、ひとりの旅人が座っていた。
イエスである。
女性は一瞬たじろぐ。ユダヤ人だ、とすぐにわかったからだ。
敵地の人間。引き返すべきか。
いや、どうせ通りすがりの旅人だ。自分のことなど知らないはずだ。
そう思い直し、彼女は井戸に近づく。そして、水を汲もうとしたそのとき。
イエスが声をかける。
「すみませんが、水を一杯下さい」
この言葉から「生ける水」の物語は始まった…

Guercino
生ける水
女性は、びっくりして言った。
「まあ、あなたはユダヤ人ではありませんか。サマリヤ人の私に、どうして水をくれなどと頼むのですか。」
当時、ユダヤ人はサマリヤ人を見下し、口をきこうとさえしなかった。
それにも関わらず、ユダヤ人であるイエスの方から話しかけたのだ。
そしてイエスはこう続けた…
「もし、神があなたにどんなにすばらしい贈り物を用意しておられるか、また、わたしがだれなのかを知っていれば、あなたのほうから、いのちの水を下さいと願ったでしょう。」
女性は戸惑ってこう返した
「あなたは、私たちの先祖ヤコブ様よりも偉いと言うのですか。ヤコブ様はこの井戸を私たちにくれました。」
この井戸は、ただの水場ではない。祖先から受け継がれた、誇りの場所だった。
けれどイエスは、やわらかく、しかし確かに言う。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む物は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
外から汲む水ではなく、内側から湧き出る水。
それは、静かに、でも確かに、人の奥深くを潤していく水だった。
本来は流れる水の意味であるが、人を生かすものの象徴として使われている。
だからこそ、水はやがて、
『神そのもの』『生命の源泉』を指して使われることにもなった。

Rembrandt
隣人愛
ユダヤ人とサマリア人は互いに蔑視し合い、憎悪を抱いて対立していた。
さらに、イエスが語った「よきサマリア人」のたとえ(ルカ福音書10:25-37)も、この憎悪関係を前提としている。
つまり、隣人愛とは何かという問いに対して、イエスは「敵とされている相手をも愛すること」を示したのである。
イエスにとって、ほんとうの隣人愛とは、憎しみを乗り越えるものでなければならなかった。
そのため、サマリア人に理解を示したイエスは、同じユダヤ人から
「悪霊に憑かれたサマリア人」とまで言われることもあった
(ヨハネ福音書8:48)。
福音書にはサマリア人が重要な役割を果たす場面が繰り返し描かれる。
たとえば、らい病を癒された十人のうち、神を賛美するために戻ってきたのはサマリア人だけだった(ルカ福音書17:11-19)。
こうした背景を踏まえると、ヨハネ福音書4章のサマリアの女性との出会いは、敵対関係にあった人々のあいだに、新しい関係が生まれていく象徴的な場面でもある。
そしてサマリアの物語は、井戸のそばだけで終わらない。
祭りの日、イエスは人々に向かって呼びかける。
「だれでも、渇いているなら、わたしのところへ来て飲みなさい。
わたしを信じれば、心の奥底からいのちの水の川が流れ出る…」
泉は、やがて川になる。内側に生まれた水は、あふれて流れ、誰かへと届いていく。

Rembrandt
イエス
ここで、この言葉を語ったイエスという人物について、少しだけ触れておきたい。
ナザレのイエスは、敬虔な家庭に育ち、幼いころから聖書に親しんでいた。エルサレム出身ではなかったが、その神殿を愛し、律法を重んじていた。
しかし彼は、単に律法の文字を守ることにとどまらなかった。
「経典としての聖書の文字にとらわれないでその精神を生かすことを民にすすめた。」
その姿勢は、ときに宗教指導者たちとの対立を生む。
けれどイエスの関心は、常に人間そのものに向けられていた。
「隣人愛は法を持たぬ異邦人や律法を守りえぬ貧しい弱い人々に向けられた。」
その象徴的な場面がある。
姦淫の罪で裁かれようとしていた女性に対して、イエスはこう言う。
「あなた方の中で罪のないものがまず彼女に石を投げよ」
誰も石を投げることはできなかった。そしてイエスは言う。
「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。これからはまちがいはしないように」
ここにあるのは、裁きよりも、回復である。
だからこそ、サマリアの女性に対しても、イエスは拒絶ではなく、水を差し出した。

Rembrandt
命の水の川
そして聖書の最後、ヨハネの黙示録にも、水は現れる。
それから天使は、いのちの水の川を見せてくれました。それは水晶のように透き通り、神と小羊との王座から流れ出て、川の両岸には、十二種の実をつける、いのちの木が生えていました。」
この川は、すべてを潤し、癒す命の象徴である。
わたしはアルファ。
わたしはオメガ。
わたしはすべてを新たにする。
ことは成就した。
渇く者よ、無償で生命の水を飲め
そして最後に、もう一度呼びかけが響く。
「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」
水は、命だった。水は、救いだった。
そして、人を内側から生かすものだった。
二千年前の井戸のほとりで語られた「命の水」という言葉は、今も響いてくる。
そしてこの「魂を潤す水」というイメージは、聖書の中だけに閉じていない。
時代を越えて、フランス文学のある物語の中にも、流れ込んでいるように思える。砂漠で井戸を探す、小さな王子の物語に…
引用・参考文献
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